2011年1月29日土曜日

大運河発展史

星斌夫著 平凡社東洋文庫410
1982年6月発行 本体1900円
元史・明史・清史稿の中で、税として収められた米が江南や江北から大運河を通して北京に輸送される漕運の様子を記した部分を日本語に訳して紹介した本です。正史の訳にはたくさん註がついているので、私でも何とか要旨は理解できました。またそれに加えて、大運河の始まりの頃から、清末に運河を利用した漕運が廃止されるところまでを、巻末にまとめて解説してくれています。
大運河は隋が完成させたと学校では習い、唐以降さかんに利用され続けていたものとばかり思っていましたが、そう単純ではなかったようです。隋・唐・北宋の首都は黄河沿岸の長安・洛陽・開封にありましたが、元や永楽帝以降の明や清の首都は、黄河からさらに北側の北京でした。黄河流域から北京への運河の建設には難渋したそうで、元代にはもと海賊を登用するなどしてもっぱら海運が利用されました。しかし、海運には倭寇の患があり海難事故も頻発したので、黄河と北京につながる御河をつなぐ会通河という運河を開通させて、明代は運河による輸送が行われ、清代にもそれが続きました。清代には毎年400万石(一石が日本の六斗くらい)の米が輸送されたそうです。その後、黄河の氾濫による大運河機能の低下、清初以来の海上交通の発達、河運を担う組織の弛緩などどもあって、1852年から永続的に海運が利用されるようになったのだそうです。
500石積みの船が使われ、船員が10名乗り込み、片道に長くて5ヶ月近くかかったそうです。大運河はすべての部分が水平な水路というわけではなく、途中には閘門で高低差を乗りこえる部分や、黄河などの川の運んだ堆積物で運河が浅くなり刳船という小舟に乗せ替えて通過しなければならない部分もあったと書かれています。また、河川・運河でも大風による遭難、死者の出ることもありました。これらを考えると、陸上輸送よりもましだとはいえ、水運だからといって非常にコストが低かったというわけではないようです。
正史の記述ですが、賄賂の強要や事故を装って荷物の米をだまし取ったり、正規の荷物の他に商人からの依頼の荷物を運んで利益を期待したりなどの不正があったことが多々書かれています。大官が心を尽くして不正を正そうとしても永年の積弊で困難で、ひいては制度の崩壊につながったとも書かれていました。これは、現代にも通じるのかな。
この本は売り切れで、Amazoneさんから入手しました。

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