2011年6月5日日曜日

The Cambridge Economic Histroy of the United States, Volume II: The Long Nineteenth Century

Engerman and Gallmann編
Cambridge University Press
2000年発行
Amazonで本体12499円 
先月、A.D.チャンドラーの経営者の時代を読んで、19世紀のアメリカの経済についての無知を再確認させられました。なにか勉強するのに適当な本はないものかと思ったのですが、日本語の本ではこれといったものが見あたりません。そこでこのThe Cambridge Economic Histroy of the United States, Volume II: The Long Nineteenth Centuryを読んでみることにしました。アマゾンに在庫があったのでオーダーしました。シュリンクラップされた状態で到着したのですが、本の天の部分にはごく細かな砂ほこりが積もっていました。この本は2000年に発行されたものですが、2000年に輸入されて以来ずっとアマゾンの倉庫にあったものなのかも知れません。
本書は、1790年から1914年の長い19世紀を扱っています。100ページほどの参照文献の紹介・解説と、60ページほどの索引を含めて全部で1021ページもある厚い本です。写真は全くなく、図もほとんどなく、統計表があちこちに載せられてます。本文はテーマ毎に、例えばカナダの経済史概説、人口の変化、農業、西部への拡大、奴隷制、技術革新と工業化、企業、経済法制、金融などといったテーマごとに17の章に分かれています。勉強のためにメモをとりながら読んだので、各章の内容について興味のある方は「もっと読む」にあるメモを見てください。

学んだ点はたくさんありました。例えば、ホームステッド法で西部の土地が無償で払い下げられるようになったことは知っていました。なんとなく、無料で土地を入手できるのだから意欲があれば誰でも西部に農場が持てるようになったという風に思っていたのです。でもそんなに甘くはありません。払い下げられた土地の伐採・整地、家畜、道具、機械、道路、穀物が動物に食べられるのを防ぐ柵、道路などにお金がかかり、だいたい500から1000ドルが必要でした。現金でこんな額を用意できる人はそもそも西部で農場を持つ必要もありませんから、入植希望者はみんなローンで賄い、自給自足のかなり苦しい生活でようやく農場を自分のものになったのだそうです。事前に貯金がかなりあるか、かなりの目的意識の持ち主でないと自作農場主にはなれなかったわけですね。



各章は別々の人が執筆しています。なんとなく専門書的な体裁ではありますが、本書は概説書です。日本語の日本経済史の本にはこういう体裁の本ってありませんね。例えば岩波の日本経済史全8巻なんかでも各章を別々の筆者が担当している点は同じですが、各巻頭の章を除くと、それぞの筆者はテーマ毎に自分の書きたいことを書いていて、教科書を書くつもりは全くないようですから。
医学の教科書や医学書を読む時に感じることですが、英語で書かれた教科書的な本というのは平易な英語でとても分かりやすく書かれていますよね。きっと外国人が読むことを想定してそうなっているのでしょうが、本書もその例外ではありません。ただし、11章だけは難しかった。11章は法律について書かれているのですが、私に法律の知識がないことも一因でしょうが、英語としてもやさしくありませんでした。
独立したばかりの時点では人口もごく少ない農業主体の国だったアメリカ合衆国が、20世紀初頭にはなぜ世界一の経済規模と先進的な工業国になったのか。本書を読んでも心底納得できたという風にはなりませんでした。イギリスなどのヨーロッパの国に比較して、豊富な土地と資源、希少な労働力という条件があったからなのは確かですよね。でもそれなら、カナダ、オーストラリア、アルゼンチンなどもアメリカ合衆国と同じような道を同じような速度で歩むことがなかったのはなぜなのかが疑問に思えてきます。土地や資源の豊かさという点でアメリカ合衆国が一番だったから?また、オーストラリアやアルゼンチンとは違ってごく近所のカリブ地域相手に造船・海事用品などなどの製造業の製品を輸出することができたからでしょうか。
ネイティブ・アメリカンの経済についての独立した章はなく、本文中にもほとんど言及がありませんでした。この第2巻にはカナダの経済史の章があったので、もしかするとvol 1に独立した章が設けられているのかも知れません。
この第2巻の扱う時期の大部分は、まだアメリカ国内にフロンティアがあり、国内の整備・発展の時期でした。外国との経済的な交渉はヨーロッパが主で、ようやく1890年代以降になって西半球への投資が始まるという具合です。なので日本に関する言及はほとんどなく、20世紀の日露戦争の際の外債の半分をアメリカが引き受けたことくらい。でも、アメリカが海外へ投資を始める時期にあたったからこうなったわけで、日露戦争があと10年早かったら全額ヨーロッパで起債することになった感じがしました。


1 Economic Growth and Structural Cahnge in the Long Nineteenth Century 
まずはアメリカ経済の規模、本書の対象としている長い19世紀、1774年から1913年の間の成長についてざっと紹介されています。革命直後はイギリスの3分の1程度で、スペイン、フランス、インド、中国より小さい経済規模でしたが、その後の成長は速く第一次大戦前にはイギリスの2倍以上と世界一の規模になっていました。長い19世紀の間に成長率の水準は上下し、南北戦争のような事件もその原因の一つです。しかし世紀にわたる成長率にみられた波動の原因についての説明としては、ノースは南部の綿花輸出の好不調に由来する消費の増減をあげます。クズネッツ、Thomas、Easterlinなどは移民と資本流入から説明し、Thomasはイギリスの不況が移民と資本をもたらしそれが受け入れ国でブームにつながったと説明し、Easterlinはヨーロッパでの近代化→人口の増加→移民と説明しています。
経済成長への各要素の寄与については、労働は前半54%、後半45%、資本は前半29%,後半35%とのちになるほど資本の寄与が増えます。この時期にアメリカ合衆国の領域は大きく拡がりましたが、一世紀にならしてみると土地の寄与は年率2%程度にしかなりません。ただこの数字以上に、高出生率や移民を惹きつけた点での国土の拡大の意味は大きいとされています。以上三つ以外による成長、生産性の向上は前半で12%、後半で18%とされていました。
奴隷制のあった時期の1人当たり所得の計算法には、奴隷を人口から除外し、奴隷の消費する財は、蒸気機関に対する石炭と同じく中間生産物として除外する考え方もあるそうですが、本章ではその見方はとりません。しかし、そのままだと、南北戦争前後で1人当たり所得額が激変するので、それを避けるため、年季奉公人や奴隷には自由consumption valueを設定する方法もあるのだそうです。長い19世紀をながめると、1820年代以降の工業化で1人当たり所得の伸びが加速していて、またGNPとは違って1人当たり所得でみると生産性向上の寄与が大きくなる結果でした。
経済のパフォーマンスの評価は、汚染のような負の価値を勘定に入れるかどうかや、元々は家内で生産消費されていた財を市場で購入するようになったことによる見かけの成長の補正など、困難な点があります。それら困難を回避するため、実質的な生活の質の指標として平均余命や身長の推移がつかわれるようになってきていますが、本書もその例に洩れません。1760~69年から1880~89年の間には1人当たり所得の増加にもかかわらず白人男性の平均余命に改善はみられませんでした。その原因としては南北戦争の死者、西部への移住、工業化・都市化による疾病などが想定されます。また、白人男性の身長の推移をみると、18世紀末と19世紀初期コホートでは高身長でしたが、その間はずっと特に1880年頃のコホートは低くなっていました。この原因については意見の一致はまだないそうです。
長い19世紀にかなりの貯蓄率の上昇がみられました。南北戦争後に戦中の国債が流動化され投資されたこと、金融仲介業の発展、貯蓄関数の右方への移動(所得の富者への集中傾向)、投資関数の右方への変移(資本集約的かつ労働節約的な技術への移行と資本需要が投資関数を右方に移行させた)などに加えて、西部開拓や都市化のため固定資本の大きい鉄道が伸びたことなどが考えられます。外国からの資本の流入は国内の貯蓄に比較すると大きくなく、1849~89に資本流入がみられましたが、その前後は流出しているくらいでした。
地域別の1人当たり所得をみると、西部(Mountain、太平洋岸)で高く、西部への人の移動の原因と思われます。中西部の1人当たり所得は北東部に比較して低かったのですが、農業に従事したい人たちは、北東部には余地がなく、中西部に移住したと考えられています。
2 The Economy of Canada in the Nineteenth Century
第2章はカナダの経済史です。第1章は経時的なデータを示してそこから得られる所見を記述するオーソドックスなスタイルでしたが、第2章は17世紀のフランス人による探検や毛皮貿易のための交易所の建設から始めて、イギリスへの割譲、米英戦争、カナダ連邦結成などを交えて19世紀末までの経済史を物語りとして記述するスタイルです。読んでみて自分のうっかり度を再認識させられたことの一番は、1867年まで英領北米植民地が複数に分かれていた(その後まで独立していた植民地もあり)ことです。これ知ってはいても、ついつい現在の国境で考えてしまうんですよね。
カナダの19世紀経済は1890年代半ばで終わり、その後の経済成長、工業化、人口の増加は急激でした、このため、ロストフがカナダのテイク・オフを1896から1913年に置いたように、1890年代後半以降のみに注目が集まる傾向がありました。しかし、この転換期にカナダの1人当たり所得はすでに米英豪につぎスイス・ベルギーに匹敵し、1人当たり工業生産も米英ベルギーに次ぎ、独仏より多くなっていました。したがって、この時期ではなく、19世紀のもっと早くに転換期をみるべきというのが筆者の主張で、そのためにこの地域の植民地のそもそもの始まりから説き始めます。
時代はとんで、米英戦争後。カナダの農産物はアメリカ市場から閉め出され、アメリカからの移民も途絶えることになりました。カナダでは家畜の飼料となるトウモロコシの栽培が不可能なことと、家畜を殖やすにはより多くの資本が必要ということで、カナダ(Lower Canada)ではより労働集約的な小麦(春小麦)の栽培が選択されました。18世紀前半の小麦輸出は、はナポレオン戦争中の対英輸出は順調でした。その後は、関税や輸送の費用や穀物法のために対英輸出が難しくなることが多く、またアメリカへの輸出は禁輸の措置を受けることもありました。そのため、Lower Canadaでの小麦の栽培は減り、より品質の良い冬小麦の栽培可能なUpper Canadaが主産地となって、輸出やLower Canadaへの供給を行いました。ナポレオン戦争期にマスト材を求めたイギリスの差別関税もあってかわりにlower Canadaは松材などの輸出に活路を見出しました。1人当たり輸出価格では、アメリカの綿花よりカナダの木材の方が多いほどで、イギリスの関税が撤廃されてもアメリカにも輸出されたので、木材の輸出は19世紀のカナダ経済の屋台骨をになったといえます。 水力を利用した大きな製材所が特徴の木材加工業が19世紀カナダのリーディングインダストリーで、1851年には材木の輸出がを木材輸出が追い越すようになり、また1860年代には対英より対米輸出が多くなりました。造船業も盛んになり、船舶の輸出に加えて19世紀後半には英領北米植民地の商船隊はイギリスに次ぐ世界第二の規模になりました。しかし、国内の輸送には冬季の馬車・そり、河川舟運、運河が利用され、経済の規模が小さかったことからも鉄道の利用は遅れました。
1846年のイギリスの穀物法の廃止や1854年のアメリカとの互恵条約(その後1866年に破棄される)などで、19世紀後半のカナダの輸出は小麦が最多になり、1人当たり所得の上昇をもたらしました。また、1850年代後期には既存の植民地では新たに開拓できる土地が枯渇し、アメリカへの移民・農業の高度化(混合農業、機械化、輪作)・工業化などの対策が求められました。さらに、複数存在したイギリスの北米植民地それぞれの規模は小さく、一時は対米互恵条約で市場を求めようともしましたが1866年にアメリカに条約を廃棄され、1867年に連邦を結成することを選択しました。
連邦参加の条件として鉄道建設がうたわれましたが、既存の植民地をつなぐ鉄道も、カナダ国内(五大湖の北側)を経由してブリティッシュ・コロンビアに達する大陸横断鉄道の建設にも巨額の補助金を要しました。カナダ連邦には元はハドソン湾会社のもっていた土地も加わりアメリカ合衆国における西部と同様にフロンティアとして機能することが期待されましたが、連邦化後70年を経過しても大西洋沿岸部の余剰人口は国内のフロンティアへではなくニューイングランドに移住することを選択する状態でした。そんなわけで、連邦結成後、19世紀最後の30年の経済が良くなかったというのが従来の見方です。しかし最近の数量経済史的研究によると、この時期の経済成長も工業化の進行も決して悪くはなく、成績の悪かったのは農業部門だといえるのだそうです。
3 Inequality in the Nineteenth Century
この章では、19世紀のアメリカ社会の平等性について、有名な3人の見解をまず紹介し、それを各種のデータから検証するかたちで論が進められています。対象となった3人の見解とは、トクヴィルの「この社会には流動性と経済的な機会がある」という観察。ターナーが「アメリカ史におけるフロンティアの意義」で主張した「利用できる土地がたくさん残されていることが、経済的な機会をもたらし、アメリカ社会をより平等なものとし、全般的な不平等を減らしてくれている」とするフロンティア学説。そして、クズネッツの「工業化の初期には不平等が拡大し、工業化が完成すると縮小する」というU字型の変化の存在を主張した説です。
20世紀の所得税導入まではデータに乏しいので、19世紀の不平等の研究は主に国勢調査などの資産のデータに依存していますが、年齢、性、世帯主の性、職業、就業年数、家族背景、識字、人種、民族が資産と有意な関係にあったことは確かです。そして、職業と資産の流動性のデータから19世紀には経済的流動性が確かにあったと結論でき、トクヴィルの観察は正しかったようです。
フロンティアへの移住者は当初ほとんど財産を持っていなかったという点では平等でしたが、入植後の時間が経過すると資産保有にの差がついてゆきました。ただし、フロンティアが、非熟練労働者や農業労働者に農場を所有するという機会をもたらしたことは明らかです。したがって、ターナーの主張のうち、フロンティアが機会をもたらすという部分は正しいと思われます。
貯蓄や都市化など時間とともに資産の不平等を拡大する要因の影響があるので、統計的に確実に論証はできないのですが、19世紀に不平等が拡大したことは、少なくとも南北戦争前にそうだったことは確かだと思われます。しかし、それでもヨーロッパ諸国の多くに比較するとアメリカは平等だったらしいとのことです。
4 The Population of the United States, 1790-1920
19世紀のアメリカは、ヨーロッパ諸国の多くよりも合計特殊出生率が高かっただけでなく、死亡率も低い状況でした。また、フランス以外の西洋の先進国が19世紀遅くか20世紀になって、人口転換(出生率と死亡率の低下)を経験したのに対して、アメリカではフランスとともに19世紀の初めから、この転換が始まりました。これは、この両国が18世紀末に政治的革命を経験したことと、ともに小規模自作農を特徴としていたことが、関係していると思われます。また、アメリカでの出生率の低下は、1870年頃から確かになった死亡率の低下にかなり先立っていました。死亡率は17世紀から18世紀に上昇し、同時代のヨーロッパと同程度でした。またアメリカでは、移民の流入と国内での西部と都市への移動とが伴っていた点が特徴です。
上院の議席数を決めるため1790年に連邦政府によって10年ごとの国政調査が開始されたことが、人口学的には画期で、その後内容が充実するとともに、1890年以外の全調査で調査員の調査票が残っています。
長い19世紀(1790年から1920年)にあめりかの人口は450万から1億1400万人に、年率2.5%で増加しました。19世紀初頭と、ジャガイモ飢饉と1848年革命で移民の増えた1840から1850年代には年率3%以上の増加をみました。人口増加の主因は自然増で、移民の寄与は多い年でも三分の一から四分の一でした。ただし、移民の多くが生産年齢人口だったことは看過すべきではありません。もし1970年以降に移民が0で史実と同じ率の自然増だけで推移したとすると1920年の白人人口は5200万人(史実の52%)にしかならない計算です。
人口転換に関する従来の見方は、社会の近代化に伴う子供を持つことのコストと利益の変化(未成年労働の規制、義務教育、女性の就業機会の増加)に重きを置いていました。しかしアメリカでの転換は近代化に伴う構造的な変化が顕著になる前に始まっていました(これは日本でもそうだったんじゃないでしょうか?)。利用可能な土地が減ると子供に充分な農地を残すことが困難になるので子供の数を減らす方向に変化したという仮説があり、18世紀の南北戦争前や早い地域では18世紀のデータではこれを支持しています。
合計特殊出生率には東西格差、南北格差があり、フロンティアには男性が多いという性比の偏りや、また子供の数より質(教育、衛生)にコストをかけた方が有利になってきた社会環境への適応、そして世代間での資源の流れが子供から親へという時代から、親から子供へという時代へと変化して子供を育てるコストが増えたこと、などが19世紀の人口転換を後押ししたと考えられています。
死亡率については、公的統計の欠如から出生率以上によく分からず、平均寿命の改善と乳児死亡率の低下がはっきりしたのはようやく1870年代のことでした。19世紀中葉以降の死亡率は西・北ヨーロッパなみでした。死亡率の低下は医療ではなく、上水道・下水道・栄養状態・生活の質の改善など公衆衛生による感染症死の減少が主因と考えられています。それでも、19世紀のうちは田舎の方が都市より死亡率が低い状態でした。
アメリカには1790-1920年に3370万人の移民が入国しました。また、19世紀を通して国内でも東部から西部へ、田舎から都市への二つの流れが続き、都市人口は1790年の5%から1920年には51%に達しました。海外からの移民の多くは北東部と中西部に定着し、南部に住み着いた移民は少なかったことも南部の農業の発展と工業化の支障となったと考えられています。移民入国数の経年的変化は景気変動に関連していて、ヨーロッパのプッシュ要因よりも、アメリカのプル要因の方が大きく作用していました。ただし、ジャガイモ飢饉の時期は例外的にプッシュ要因が大きくなっていました。移民の出国元は、1820から1890年の間は西・北ヨーロッパからの移民が8割以上で、1891から1920年の移民の64%は中央・東・南ヨーロッパからでした。移民の多くは田舎の出身だったので、この変化の原因は西・北ヨーロッパの工業化・都市化でしょう。また、19世紀末から20世紀初頭の移民の激増と出身国の変化と移民の規制につながったと考えられています。
5 The Labor Force in the Nineteenth Century
20世紀の経済成長と比較すると、19世紀の成長は技術革新によるというよりも要素投入量の増加による部分が大きく、生産の3要素の中では土地、資本よりも労働がより大き茎よしていました。少子化と移民によって労働人口比率が増えたこと、都市化で女性の就労率が上昇したことから19世紀を通じて就労率が上昇しました。19世紀初頭には労働人口の4分の3を占めていた農業が1900年には36%に低下し、減少した分は製造業、鉱業、流通業、建設業などに移動しました。
南北戦争と不況の1870年代にかけては実質賃金が上昇しませんでしたが、19世紀全体では実質賃金の増加は年率1-1.2%で、100年間で270-370%になりました。1人当たり所得の伸びより実質賃金の増加が小さいのは、19世紀に週労働時間と就労率がともに上昇したからです。労働や生活の変化が激しかったので、この実質賃金の上昇により、19世紀初頭に比較して19世紀末の労働者の暮らし向きが良くなったかどうかを判断することは困難です。また、南北戦争前のアメリカの実質賃金はヨーロッパよりも上でしたが、貿易と要素の移動(移民と資本の移動)により南北戦争後に格差は縮小する傾向にありました。さらに、経済成長の初期に賃金格差が拡大するクズネッツの仮説から、19世紀には単純労働者と職人の賃金格差が拡大する傾向にあったことが予想されましたが、それを証明することはできていません。
19世紀には、製造業だけをみると年間労働時間は減少しましたが、年間労働時間の短い屋外労働(主に農業)から屋内労働(主に製造業)への移動が大きかったため、総体的には労働時間は延長しました。また、投下資本をフルに利用するために製造業では労働時間が短くなりにくく、製造業では常雇いが多くて職探しの時間が減ったことも影響していると思われます。
1800年のアメリカは農業主体の経済で、賃労働はまれで、農業を含めた自営業が主でした。製造業では、職人の工房での労働から、規模の経済・分業化・疎外・労働強化をもたらす工場制へと移行し、ニューヨークなどでは問屋制家内工業もみられました。工場での労働形態は工房・農業とは大きく異なるので、初期の工場労働者としては適応に抵抗する白人成人男性ではなく子供や女性が採用されることが少なくなく、19世紀中期からは移民が主となりました
以前からあった労働運動ですが、1820年代後期には労働組合・政治運動・ストライキなどにつながり、賃下げ阻止、賃上げ、労働時間短縮などで成果を上げるところもありました。南北戦争中の1862年にインフレから労働組合化が進みました。組合組織率は1914年には16%となり、英や北欧よりは低いが独仏と同じ程度でした。しかし社会主義者が少なかったのがアメリカの特徴でした。
労使関係に政府は20世紀よりもずっと限定的な役割しか果たしませんでした。政府規制の少なかった原因として憲法の「州は契約を廃棄させるような法を制定できない」という条文を厳密に解釈したこともあげられています。
世紀転換期の失業は、性・年齢・教育・経験などが大きく影響する現在とは違って、多くの人が頻繁に短期間経験するものでした。失業給付はなく、失業の可能性の高い地域では賃金が高かったので失業中はその貯金で食いつないだり、家族の収入や知人や協会の慈善に頼ったりすることになりました。
6 The farm, The Farmer, and The Market
アメリカのフロンティアでは自給自足が求められた。市場を拒否していたわけではなく、距離・輸送コストに見合う農産物がなく、市場を求めることができなかった。肥沃な西部の農地が穀物栽培を始めると、北東部では酪農・野菜・果樹に転換していった。西部の開拓に鉄道が重要だったの同様に、北東部でも都市に速やかに輸送できる鉄道が近くにあるかどうかが大きく影響した。
東海岸は小麦の純消費地(1870年代には消費量の半分の生産、1910年代には23%のみ)になり、クリミア戦争の影響で小麦価格が高騰して西部での小麦生産の拡大につながった。鉄道・海運輸送費の低減で西部の産地と海外の消費地での小麦の価格差が縮小した。アメリカ西部はロシア、アルゼンチン、オーストラリア、カナダの平原と同様に、馬を使った機械化がしやすい利点があり競争することになり、農業はビジネスに変化した。 出荷時の価格が上昇したことは農家にとって良かったが、地元市場だけが対象の時代には不作の際に高価に出荷できていたのが、不作だと他地域からの移輸入があるので、収入が減ることになった。
19世紀全体で、農業の全要素生産性は年率0.5%増加し、一世紀で生産が三分の二増加した。特に南北戦争後に、機械化と優秀な農法が伝播して生産性の増加が著しかった。土地がたくさんあって労働が貴重な時期だったので、土地生産性の向上に努力した農家は少なく、機械化により労働生産性は急増した。
家族以外の農業労働者を見つけることは困難だったので、1エーカーの穀物の収穫に2日がかりの重労働を要することを考えると、植え付け面積には限界があった。収穫適期の2週間を過ぎると脱粒するので、リスクなしに植え付けることが可能な面積は、労働者1人当たり7-10エーカーに限られた。対策の一つは大きな家族で、西部の農家は大家族だった。牧草・穀物・トウモロコシを組み合わせて収穫期をずらす工夫もなされた。
スキ、ついで脱穀機、そして一番時間のかかる収穫も機械化され、1850年代の小麦価格上昇期に植え付け面積が増え、人手でなく機械で刈り取ることが引き合うようになった。刈り取り機は4-5人分の働きをした。また、農法の伝播、農学部、農務省、農業銀行、グレートプレーンズに似た気候の東ヨーロッパから移民がもたらした種子、ドイツ式の農業試験場、出版物、フェアーなどなどが労働生産性向上に寄与した。
19世紀後半の地価の上昇と機械化で借地や借金をする人が多かった。当時は利子とともに元本を減らしながら定期的に返済するローンの制度がなく、利子だけ返済して、元本は全額一括して返済しなければならなかった。返済額は固定していたので、南北戦争後30年のデフレ期には負担が大きかった。こういった状況で農民運動もみられた。たしかに1870ー80年代に農産物の価格は下がったが、工業製品価格や鉄道・貨物船運賃も下がり農家にとって交易条件が悪化したわけではなかった。
7 Northern Agriculture and the Westward Movement
独立時の北部の主な輸出向け農産物はタバコで、カリブ海の砂糖植民地向けには米、穀物・塩漬け牛肉も少しは輸出されていたが、木材、魚などの輸出量の方がずっと多かった。ジェファーソンは北部の土地に小農場の基礎の上の民主主義の実現を期待していた。19世紀の北部は農業と商業の社会で始まり、工業におされて小さくなった状態の農業で終わった。しかし制度の変化とともに、人々の生活は改善した。
独立後の後60年で条約・購入・征服をへて領土が拡大したが、入手した連邦政府所有地への入植をどうするかが政治的な争点になった。高めの最低値をつけたオークションでの落札者が入植する方法が連邦主義者から提案された。またジェファーソンや支持者はこれらの土地を小土地保有農の国をつくるための授かり物とみなし、小区画ずつ低額か無料で頒布されるべきと考えた。1785年に、ニューイングランドに倣って、6マイル四方のタウンシップをつくりその中を一マイル四方のロットに分けて競売するという連邦主義者よりの方法が決定された。売れ行きが良くなかったので、その後に延べ払いが可能になったり、また最低入札値が下げられていったりした。また退役軍人には土地を安く入手する権利を与えられた。
農場用に160エーカーの無料の土地を提供する1862年のホームステッド法が画期となり、1913年までに250万件が利用した。入植の参入コストが低かったにもかかわらず、入植者の40%が定着したに過ぎなかった。結果として幸運な農場が数千エーカーを集積することにもなった。競売による国有地の売却の時期には経済性を期待できる地域のみに農場が建設されたが、無料頒布のホームステッド法では経済的条件が整わない早すぎる時期に西部の土地が農場に変わってしまったとも言える。安すぎる分譲価格と、所有面積制限がなかったことから、非常に活発な土地投機市場が生まれた。すぐに土地を換金できた初期の投機家は大もうけをしたが、1860年代以降は高い利潤を生まなくなった。
農場の設立費用に土地代は多くを占めず、伐採、整地、家畜、道具、機械、道路、穀物が動物に食べられるのを防ぐ柵、道路などにお金がかかり、農閑期の労働で済ますとすると5-10年を要した。1エーカーの整地には複数の雄牛を使って1ヶ月かかり、樹木のないプレーリーでも草の根を処理するのに雄牛4頭から8頭立ての特殊な鋤を使って一日半かかった。例えば、ミネソタ州は農場主志願者へ、160エーカーの土地は200ドル、その土地を囲う柵に128ドル、荷車と牽引獣に150ドル、二頭の雌牛に40ドル、住居建築に100ドル、2エーカーの整地に60ドル、鋼鉄製鋤に14ドル、ハロウに6ドル、斧・シャベルなどの農具に25ドル、家庭用品に200ドルで合計795ドル、だいたい500から1000ドルを用意すべきとアドバイスしていた。東部に近いほど費用は多かった。ローンで賄うことがふつうだったので、自給自足のかなり苦しい生活でようやく農場を自分のものにできた。事前に貯金がかなりあるか、かなりの目的意識の持ち主でないと自作農場主にはなれなかった。
自作農創設を目的に連邦政府からの土地売却価格が低くなっていたが、土地の譲渡や所有面積に制限はなく、実際には土地投機・大土地所有・借地農が北部西部にも少なくなかった。独立後に低下していた借地農の比率が、19世紀後期には独立前の程度まで戻った。自営農場主から借地農に転落した人もいたが、借地農から自営農場主になるパターンの方が多かった。
西への移住に際して、人口密度の低いフロンティアでは知人、同じ民族、宗教などで固まる傾向があった。その土地を以前から使用していたというネイティブ・アメリカンからの主張は「条約」に定められたものであったが、無視された。プレーンズのインディアンは問題を起こしたが陸軍が抑えた。
8 Slavery and Its Consequences for the South in the Nineteenth Century
奴隷貿易で大西洋を渡った黒人奴隷の7%がアメリカ合衆国に輸入されたに過ぎず、奴隷貿易の違法化もカリブ海諸国より早かった。アメリカ合衆国では奴隷の自然増が多く、輸入数は多くはなかった。奴隷所有の利点は、高額の賃金でなければ働き手がいないような仕事をさせることができたり、奴隷の消費物資への支出をコントロールでき奴隷によって得た収入との差額を自分の手にすることができたことの2つあった。奴隷は、主に熱帯地域、プランテーションなど適正規模が家族農場より大きな作物の栽培に使用された。
北部の田舎でも奴隷が農場で使用されたが、多い州でも全人口の5%で、ニューヨーク、フィラデルフィアのような都市の方に多かった。南部では経済的に重要で、入植後75-100年で奴隷の割合が増え、18世紀後期には人口の40%にも達した。はじめはタバコ栽培のための年季奉公の白人が減少した代わりに黒人奴隷が導入され、やがて米、ワタ、藍の栽培に従事するようになった。19世紀にはワタのプランテーションでの労働が主となった。生活環境が劣るため、黒人奴隷の人口増加率は白人を下回った。それでも、出生率が死亡率を下回った他の新世界の奴隷制地域とは違い、アメリカでは奴隷の人口は増えたので新規の奴隷の輸入への依存は低かった。
独立戦争後、北部では奴隷が順次解放されていった。憲法の論議から20年目の1808年に奴隷貿易が廃止されたが、この20年間の奴隷輸入数は以前より多かった。それでも奴隷数増加の主因は自然増だった。憲法には奴隷という言葉は含まれず、上院議員定数の項では”other persons”と呼ばれ、一般人の5分の3として勘定された。 憲法は奴隷制を制限することはなく、その地位は州に任されていた。その後に続いた議論も、奴隷制が認められていた州に関してではなく、新たに加入する州での奴隷制の可否についてだった。奴隷制について重要でその後の対立につながったのは、奴隷制を禁止した北西部条例の規定だった。
短繊維のワタは南部全域で栽培できた。綿繰り機の発明後の19世紀前半には、栽培技術の進歩と輸送の改善もあり南部の奴隷制は西と南に拡がった。黒人奴隷の半数以上がワタのプランテーションに所属し、一つのプランテーションに16から50人の奴隷がいた。アメリカの綿花生産は20世紀にいたるまで世界をリードし、イギリスの輸入量の4分の3を占めた。19世紀の第二四半期には南部の総生産の5分の1を、またアメリカの輸出の半分を綿花が占めた。19世紀前半、南部はタバコも輸出していたが重要性は綿花に遠く及ばなかった。
奴隷制が奴隷主にとって引き合うものだったのかどうかは当時も現在も議論があるが、南北戦争前の奴隷主は奴隷制の持続を願っていたし、大金持ちでもあったから、儲かったものと思われる。
アメリカの奴隷の生活状態はカリブ海などよりも良かったので、出産開始年齢が低く、出産間隔は短く、人口が増加した。アメリカ黒人奴隷の身長は白人と同等で、カリブ海の奴隷より高く、アフリカ人よりもずっと高かった。
南部の黒人人口の10%以下だが自由な黒人もいた。都市に住む率が高く、資産家や奴隷を所有する者もいた。poor whiteと呼ばれた南部の自営農場主たちは、需要に応じて食料、家畜なども含めた様々な作物を育てた。この人たちの文化的背景、考え方が他の南部人とどう異なるのかの議論には結論が付いていない。
南北戦争前のアメリカの政治的な争点は何らかのかたちで南部の奴隷制に関連していた。19世紀初頭の北部での奴隷制廃止、1804年のハイチ独立につながったフランス植民地での黒人反乱、スペインから独立した南アメリカ諸国の奴隷制廃止、1834年のイギリスによる西インド諸島での奴隷制の廃止は大きな影響を与えた。北部では1830年代から奴隷制廃止運動が強力になり、1850年代に共和党が結成されて政治的な力を持つようになった。それに対して南部では1830年代にはっきりと奴隷制擁護が主張されるようになった。保守派は南部の宗教・政治とともに数千年続く奴隷制の伝統を訴えたり、奴隷制廃止後にハイチや英領西インド諸島の輸出が減少したことを主張したり、資本主義社会の賃金労働者の厳しい生活を指摘したり、そして黒人の能力の限界を主張する人種差別的な言辞が以前に比較して顕在化していった。南北戦争前には南部の白人の多くがこれらの主張に賛同するようになった。
1846年のウィルモット条項が南北戦争につながった。南北ともに西部への拡張で経済的利益を期待できたが、拡張により増える議員の政治的な立場が問題となった。西部への経済的な拡張は議会での1850年の妥協とカンザス・ネブラスカ法の成立につながり、1850年代は移民が急増する10年となった。反奴隷制論者と移民反対論者が合同し、西部に植民する北部人に無償で土地を与えるよう要求して共和党を結成した。リンカーンの当選した1860年の大統領選挙は、連邦脱退と南北戦争をもたらした。南部にとって連邦を脱退する積極的な経済的理由はなかったし、北部の州も黒人に選挙権や教育などで差別的措置をしていて積極的に黒人の平等を実現するつもりではなかった。黒人奴隷の価格が高く推移していたことから判断すれば、南部のプランターも奴隷制の危機が間近だとは感じておらず、奴隷制度の終焉が遠い未来のことだというのは多くの北部人が感じていたことでもあった。
南北戦争期、奴隷の管理のためにプランターは従軍から免除されたので、南軍の敗戦が続くと自営農場主たちとの対立が表面化した。戦争中、南部の農業生産は綿花だけではなく食料も減少した。逃亡した奴隷の数は多くはなかったが、10万人以上が北軍とともに戦い、北部の農場で働くようになった人もいた。戦争終結で奴隷は解放されたが、混乱が恐れられ、黒人にとっては白人のために奴隷労働ではなく賃金労働をする自由が実現しただけだった。
カリブ海地域の奴隷解放でも、プランテーションでの砂糖などの生産と輸出量が減少した。ただし小規模な食料などの生産への移行だったので本当に農業生産が低下したのかどうかは不明。アメリカ南部でもプランテーションの減少で農業生産は減少し、1人当たり所得も低下した。ワタは黒人の分益小作と白人の小農場で生産されるようになり、1870年には戦前のレベルを回復し、1880年代にはふたたび世界の生産をリードするようになった。タバコは奴隷労働に依存する割合が低かったので、落ち込みは小さかった。南部の1人当たり所得は1890年には戦前のレベルに戻ったが、全国平均の半分に過ぎなかった。
奴隷解放の行われた他の地域では、移民の導入がなされたが、南部はそうではなかった。プランテーションから小規模な栽培へ移行したが、大土地所有はそのまま残った。1890年代のワタの価格低下は白人にも黒人にもダメージを与え、この時期の政治的緊張が人種差別的な法規制につながった。北部にはヨーロッパからの移住が多かったので、黒人の北部への移動は第一次大戦期までは多くなかった。
奴隷解放の成果として黒人児童の就学率と識字率が上昇した。しかし、1890年代に黒人教育への公的支出は減らされた。またこの時期に投票権の制限や、黒人へのリンチなどの反動がみられるようになった。連邦最高裁も「分離しているが平等」の考え方を表明した。この反動の傾向を、1890年代のワタ危機で黒人をライバルとして危険視した白人自営農場主たちが主導したのか、それとも白人エリート層が主導したのかは、結論が付いていない。
その後、ワタの害虫・ボルウィービルの被害と、第一次大戦で移民が減って黒人が北部の軍需工場へ移動するようになった。北部への黒人の移動は1930年代に減少したが、その後のニューディール期、第二次大戦期にも少なくなく、1980年には黒人人口の半分が北部に住んでいる。
9 Techonology and Industrialization, 1790-1914
19世紀のアメリカの経済成長について、工業化初期の原因と能力について二つの説があった。ひとつは、蒸気機関などの1840年代の技術革新の導入と資本の高度化までは生産性の成長はほとんどなかったとする説。もうひとつは、高い輸送費・低い所得・未熟な商業技術という工業化前の経済に、輸送費の減少とそれによる市場の拡大という変化が加われば、19世紀初期にもそれなりの成長がもたらされたとする説。後者は、市場の拡張が分業を産み、それが生産性向上につながるとしたアダムスミスの考え方に遡ることができる。近年の研究では、南北戦争前の限られた資本と技術でも、工場組織の変化や輸送費の削減などで、製造業の多くの分野で生産性の向上があったと考えられている。この時期の労働生産性・全要素生産性の伸びは、機械化・非機械化事業所でも、資本集約的・労働集約的事業所でも大きな差がなかった。
南北戦争前の製造業の規模は小さく、その原因をイギリスの航海条例に求める見解が以前は強かった。しかし現在では、豊富な資源と土地に対して労働が希少だったことから、法制の如何にかかわらず農業に集中することになったに違いないと考えられている。独立後も、保護関税、労働力増加のための移民流入勧奨政策、特許制度など、植民地時代を踏襲した重商主義的な政策がとられた。これらの政策にもかかわらず、イギリス製品の輸入に依存する程度は高く、保護関税があってもイギリス製品と競争することは困難だった。しかし1812年の米英戦争と禁輸は製造業に大きな刺戟を与えた。講和後に新規の製造業は持続が困難になったが、それらの建物や装置は1820年代の成長に役立った。
1812年にニューイングランドに開設された綿織物工場が、アメリカの最初の本格的な製造業で、女性労働力と水力を利用した。保護関税がどの程度役立ったかは議論のあるところだが、綿織物工業は順調に発展した。アダムスミスの綿織物工場の垂直分業の説の通り、やがてここから織機製造、流通販売業が分離していった。
南北戦争前の後期には、季節による差の大きな水力から蒸気機関への変化がみられ、ペンシルバニアの炭鉱や中西部での工場の出現につながった。また工場の立地も郊外から都市へ移り、職人の工房からより生産性の優れた工場制へと変化した。1860年でも、農産物の加工(綿製品、靴製造など)が最も大きな製造業だった。
南北戦争前の生産性の向上は、初期には既存の技術や道具の改善と分業の高度化が原因で、第二段階として人力・畜力以外の動力による機械・新しい機械技術の利用の増加が寄与した。綿織物業では早くに工場の大規模化の第二段階がおこったが、他の産業、例えば製鉄業では無煙炭、瀝青炭、より大きな溶鉱炉、蒸気機関により工場の拡大が1860年頃までに出現した。この時期の労働生産性の伸びは資本の高度化のみでは説明できず、需要の伸びに対応した発明への投資が多くの分野でみられたものと考えられている。製造業のアメリカンシステムという考え方があるが、労働の希少性と標準化された製品という点で、南北戦争前にすでに労働生産性はイギリスを上回っていた。
南北戦争での軍需と政策の変化がアメリカの製造業の成長の起点だとする考え方がかつてはあった。たしかに戦争の前後で変化はあったが、戦争の影響がどれだけ大きかったかは疑問である。戦前から農業生産性は上昇していて、農業製品需要の価格弾力性の低さをから、総生産に占める農業の割合は低下するトレンドにあり、戦争がなくてもそうなっていただろう。
製造業従事者は1860年の13.8%から1910年に22.1%に増加し、GNPに製造業の占める割合も1869年に24%、1899年に30%となった。南北戦争後には中西部にも工場が増えた。輸出に占める工業製品は1860年の28%から1910年の60%に増えた。しかし、人口と1人当たり所得の増加を反映して国内市場の方が重要だった。規模の経済から企業が大きくなる傾向があり、情報通信の改善と中心に管理部門をもつことで、複数の製造場を持ち広い地域に供給できるようになった。
1865から1895年に工業製品の相対価格は低下し、生産性増加の速い業種ほどそうだった。また成長速度の遅い古くからの業種に替わって、新しい製造業が増えた。地域的にはニューイングランドと北東部から中西部への移動が続き、南部もシェアを落とした。南北戦争前の中西部の主な工業は消費財製造業だったが、戦後には製鉄・鉄鋼業など、資本財を地域外に販売する業種になった。石炭を動力に、鉱物と金属を原料とする工業は中西部により多く立地するようになった。企業城下町を形成する余地のある郊外に立地する企業もあったが、労働力の確保と需要の点で大都市への立地が有利になった。
製造業の生産増加は、全要素生産性の伸びよりも要素生産性の伸びの寄与の方が大きかった。特に、投資の増加によって、この時期の労働生産性の増加は速やかだった。大きな発電所の建設による動力源の変化で、投資は工場の新設よりも新しい機械・装置に向けられた。多くの鉱産物と農業産品を安く入手できたことがアメリカの工業の成功の主な理由だった。機械などの資本財に体現される技術の進歩と並んで、より合理的な意思決定を可能とする情報伝達機能も改善された。経営技術の進歩、電信・電話・鉄道が可能とした長距離通信、業務記録技術の進歩などが企業の能率を上げ規模が大きくなることを可能にし、「経営者企業」の出現につながった。内部留保からではなく外部の資本市場からの調達が重要性を増し、規模の拡大に寄与した。
20世紀初頭には義務教育と規制で児童労働は激減した。他方、女性の就労は時とともに増加した。製造業には移民の就労が多く、移民の入国規制を求める動きも出現したが、第一次大戦期までは実現しなかった。
技術革新の担い手は、個人の発明家から企業の研究所へと変化した。西ヨーロッパと同じく、情報・自動車・化学・電機産業では科学にもとづいた研究が重要になった。複数の事業所を持つ大企業では管理方法が研究され、拡がった。
アメリカは他の先進国と比較してもレッセフェールの国だった。連邦政府の役割は、所有権と、自分の金を投資する自由とを保護することだったが、鉄道・通信などの州間の調整、銀行制度とマネーサプライの管理、金本位制などの連邦の政策は影響を与えた。総体としての関税は大きな意味をもたなかったが、関税が重要だった業種もある。関税は国際間の紛争の種だったが、第二次大戦後ほどではなかった。1890年のシャーマン反トラスト法などの独占規制は19世紀末になってようやく出現した。しかし、ニュージャージー州の持ち株会社適法化が連邦最高裁に容認されるなどの動きから、証券の購入や水平合併で市場をコントロールしようとする動きが出現した。1880年代には垂直合併が主流だったが、1897年から1903年にはシェアを高めるための大きな合併が続いた。しかし、水平合併は必ずしも成功しなかった。その後、規制の動きは速やかではなく、大きな企業の成長と集中が続いた。環境政策や資源枯渇に対する規制、食品・薬品の規制などの萌芽は20世紀前半にもみられた。
アメリカでは、経済成長を促進するためにつくられた世界初の近代的な特許制度が実現した。安い費用で事務的に処理される。最初の発明者に特許権が与えられる点が特色だった。
所得税が導入されるまでは、関税が連邦政府収入の80-90%をしめた。輸出されるほどであれば保護は不要だし、重要性の低いものは関税の対象とならなかったので、関税による保護が議会での論争の対象となったもので重要なのは、綿織物と鉄鋼業くらいだった。工業の発展に関税の果たした役割に関する定説はない。関税による保護は産業の幼弱な時期に有効と想定されるが、19世紀初期の関税は鉄鋼業の発展への関与は少なく、綿織物業では多少の保護が与えたのみと論じられている。この両産業は当時イギリスが強力な競争力を有していたが、イギリスとアメリカとでは資源の賦存状況が全く異なるので、関税の保護がなくとも産業は発展できたという考え方もある。
10 Entrepreneuship, Business Organization and Economic Concentration
18世紀の第3四半期までは鉄道会社以外に大会社はなかったが、その後の技術革新で企業の規模が拡大した。第一次大戦までには「中心に寡占的な大きい経営者企業、周辺に自営の小企業」という二重構造が出現し、大企業は上流下流へと進出しシェアを維持しブランドへの愛着を高めるように活動し、小企業は生き残るためにコストを削減することにつとめた。
植民地期にイギリスと競争できたのは造船業のみで、その他で海外に輸出され得たのは一次産品の加工業だけだった。独立後は英領から閉め出されただけでなく仏西とも競争関係になり、貿易商人は例えば皮革の裁断工場と靴縫製の問屋制家内工業の組み合わせといった製造業に投資するようになった。綿工業ではイギリスから監督官だった人を呼んで紡績機をつくらせ、やがては紡績織布工場にも商人が出資した。
資金を借りるだけではなく、製造業者は商人から簿記の仕方もとりいれた。この記帳法は対外取引を記録するためのもので、製造過程での物品の流れを追うには適していなかったので、原料と労働コストについての勘定を加えるようになった。しかし期中に利益の大きさを知ることは困難で、投下資本利益率を知ることもできなかったが当時は問題視はされていなかった。初期の製造会社は商人に倣ってパートナーシップという組織形態をとった。しかし、この組織には持続期間が不定で無限責任とパートナーの借金を背負わされる恐れがあるという欠点があった。これを避ける方法は会社を設立することだが、19世紀初期までの会社は特権を持ち、設立に特別法を必要とし、公益性の強い事業にしか認められていなかった。その後、特権はなくされ、州による規制が行われて、会社を設立することが可能になり、資本の譲渡可能化と有限責任制が実現した。しかし、一般の製造会社の株式は危険視されて関係者以外には流通せず、有限責任制は銀行からの借り入れを妨げ、有力株主が個人保証をする必要があった。会社は実質的には銀行・鉄道に限られ、製造会社は19世紀後期にならないと一般化しなかった。
発明の真価を見抜き、不屈の忍耐と技術的および制度的な障害を克服して、アイディアを実現させる人をシュンペーターは企業家と呼んだが、19世紀初期のアメリカには確かに存在した。しかしこの時期の発明には多くの資本を要さなかったので、同業者によってすぐに模倣・改善されてしまいがちだった。また科学の知識というよりも、熟練職人が好景気に反応して生産性を改善する発明を行った時期だった。綿織物や農業のように小規模の生産者からなる競争的な業界では、発明が寡占につながるようなことはなかったので、相互に協力する姿勢がみられ、価格の低下というかたちで消費者に利益がもたらされた。
トンマイルあたりの運賃は運河より鉄道の方が高かったが、速さと一年を通して利用可能
な点などで鉄道が選択されていった。運河と違って鉄道は私的資本によって建設された。鉄道は、19世紀初期の小企業の時代に初めて生まれた会社で、大企業だった。また資本市場から多額の資金を集めた最初の私的企業でもあったので、後の企業が恩恵に浴することとなる金融技術をもたらした。また多くの複雑な問題に直面して、階層的管理組織をつくり出したのも鉄道会社だった。さらに軌間や機器や運賃などについて協力した。それらに責任をもつのは会社の所有者ではなく管理者で、彼らはおたがいに専門家として協同した。南北戦争後には全国的な学会も組織された。
鉄道会社は大企業ではあったが他の鉄道会社と競合する立場にもあった。カルテルによって運賃を固定し、競争を回避するこころみもなされたが、裁判所の承認が得られなかった。19世紀終わり頃の反大企業、反鉄道会社気分の蔓延により、政府に価格競争を制限する政策をとらせることもできなかった。不況期にはカルテルを裏切る行為が頻発し、また連邦最高裁がシャーマン反トラスト法に違反すると判断したためカルテルは維持できなくなり、その後は吸収合併と利益連合の時期となった。1890年代には価格競争で破綻する鉄道会社も多く、全国の総路線長の五分の一が破産管財人の管理下にあった。20世紀初めには23社が全国の総延長の80%を保有したが、競争を防ぐにはまだ会社数が多く、その後は株の持ち合いで価格競争を避けることとなった。
運河・鉄道の建設で低下した輸送コストのおかげで、他の業種にも流通を刷新して大規模な企業が生まれた。それまで小規模企業ばかりだった食肉加工が、西部で屠畜→冷蔵貨車で輸送→冷蔵庫を持つ店を展開して大規模・寡占化したり、ミシンや刈り取り機の企業がアフターサービスも備えた支店網を築いて大成功したりなどの例が見られた。
時とともに規模の経済性がはっきりしてきた。最適規模が大きくなった業種では企業数が減少したが、減少の程度は不十分で、かえって価格競争が激化した。カルテルは協定破りと新規参入で破綻しがちだったので、企業合同が選択されるようになった。スダンダードオイルがその先例でトラストを結成した。1890年のシャーマン反トラスト法以後この方法はとれなくなったが、ニュージャージー州のよる持ち株会社設立を認める立法により、この方法がとられるようになり、1890年代に多数の企業合同による寡占化がみられた。
価格上昇をもくろめば新規参入を招き、企業合同は必ずしも成功しなかった。企業合同は証券の発行により実施されたので、成功した企業合同は製造業が鉄道と同様に資本市場から資金調達しやすくする前例となった。また鉄道と同様に、所有と経営管理の分離がもたらされた。
企業合同で充分にシェアを高めたトップ企業は、価格競争を手段として下位企業の行動をコントロールするようになった。また、垂直統合により寡占企業の地位は安定なものとなった。例えば、USスティールは国内の鉄鉱石の多くを支配したので、製鉄企業の新設はなくなった。また下流へ進出し、自社のブランドを確立してシェアを守る動きもみられ、1905年には国内での取引で商標が保護されるようになった。研究所を設立し、特許で競争から免れることが目指された。
寡占的な大企業の支配する業種と、競争の維持されている業種からなる二重構造が成立した。前者では、市場の見えざる手を管理者の見える手が置き換えてしまった。こう述べたチャンドラーは、この変化が20世紀のアメリカ経済の偉大な成果を生んだと肯定的にみている。
11 Business Law and American Economic History
ノースによると、19世紀のアメリカのめざましい経済成長の基礎にあった制度は、個人や集団の清濁あわせ持った活動でも奨励してしまうようなものだった。所有権に対する相反する考え方が共存していて、利己的な視点から異なった目的を追求する集団が存在した。利益集団が相争った最も重要な例は、民主党と共和党の関係が破綻して南北戦争に発展してしまったことだ。
独立から第一次大戦までは四期に分けることができる。憲法は、植民地時代の重商主義的な法と革命の折り合いをどうつけるかの争いの集大成だった。憲法成立から1860年までは、契約・所有権と憲法的秩序に基づくレッセフェール的な企業家活動の奨励と、集中・独占・汚職に対する共和主義者の怖れにもとづいた自営業者・自作農の保護とが分立していた時代だった。南北戦争期に所有権と私的契約の範囲が拡大され、大企業と消費者の利益がクローズアップされ、小生産者的な生き方・共和主義的価値観に変更が加えられた。進歩主義の花開いた1900年以降は、制度的法的秩序を守るための規制も大企業によって乗り越えられてしまい、公的利益と所有権との衝突が続くことになった。
独立までは、イギリスの航海法がイギリス植民地総体をアメリカの市場として利用することができ、アメリカにも独自の経済が発展する自由をもたらしていた。独立後、連邦と州に主権が分かちもたれたが、過去に同じような体制がなかったので両者の性格と権限が争われた。各州それぞれが関税・補助金・規制などの重商主義的州法を制定し、各州内を市場とする企業の繁栄をもたらした。
海外や州外の人から金を借りている州民を一方的に保護するために各州が立法するようなこともあった。イギリスでは金の貸し手は上流階級で保護に値し、借金は恥辱的で借り手は保護に値しないと見なされていたのに対し、アメリカは民主制で借り手も参政権を持っていたので、借り手は一時的な不運から借金をすることになったという見解が一般的だったからだった。
アメリカでは所有権に関して、不動産登記、小規模な貸し手を保護するための先取特権などの制度が発明された。
一時は抵抗もあったが、独立後も法的制度としては慣れ親しんだ植民地時代の方式が用いられた。地域に根ざした陪審員制度や、イギリス枢密院の反対で植民地政府の決定が覆された経験から違憲立法審査権が承認され、司法の独立も取り入れられた。
州と連邦の二重権力という原則を確立するために、憲法制定会議に集まった人たちは苦心した。摩擦は13の州がそれぞれ重商主義を追及したという点だけではなく、州内でも自治体が地域を管理していた点にもあった。また、中位の資産保持者だった会議の出席者は、所有権を守るための革命を起こす権利を主張するロック主義者と、資本家と貧乏人の共謀が市民の美徳を脅かしているとする共和主義者の両者から影響されて、議論は紆余曲折した。
上記の困難を解決する二つの新たな方法から新しい連邦主義が生み出された。一つは、州と連邦間での権力を分けるため、主権を分ける正統性は人々にあるとされた。二院制により州の制度自体をいじらなくとも、政府は人民に基礎を置き、州を包含することができるようになった。ロックの主張した人民と政府との契約でもなく、主権を持った独立した州の連盟でもない制度が生まれた。またもう一つは、行政官は一名とし、その行政官が司法権の構成に影響をおよぼし、その行政官は州の選挙人によって選出されるという制度だった。また行政府の各庁の権力は州とは別物で、議会が共有する。これにより、州は連邦の権力をチェックすることが出来、連邦の行政と立法権はお互いにチェックしあえる。違憲立法審査権は含意されていたが明文では記されず、その確立は未来に残された。
憲法制定後、特に1815年以降になると州が主に経済成長の振興をになった。連邦最高裁は連邦制度の裁定者としての地位を固め、政党が利害を調整した。中央集権化に対する不安、大企業・重商主義に対する小製造業者の保護を優先する傾向が南北戦争前には強かった。
散在する農業経済の時期は終わり1860年以降は都市の工業経済の時期に移った。結果的に政府の役割が拡大し、連邦政府の権威が向上することになった。新しい中央集権的な銀行法、ホームステッド法、大陸横断鉄道への補助、解放奴隷への支援などの中央集権化政策がうちだされた。南北戦争後の憲法修正によって、連邦最高裁は経済自由化を促進することができるようになり全国規模の企業に歓迎され、また連邦の力を強化する方向で修正条項を利用した。州際通商法、シャーマン反トラスト法、破産法などが制定された。
12 Experimental Federalism: The Economics of American Government, 1789-1914
南北戦争はあったが歴史的にみれば小さな問題に関する争いで、長い19世紀のアメリカの制度は安定していた。このことは経済活動の好ましい前提となった。
トクヴィルが「町が郡より前に、郡は州より前に、州は連邦より前に成立していた」と書いたように、アメリカの連邦制度はボトムアップで形成された。植民地時代の自治についての理解がないと、経済などの面での制度の機能の仕方を理解することは出来ない。
憲法の制定後も、強力な連邦政府を主張するハミルトンらの連邦主義者と、州や地方自治体の主権を重んじ連邦政府には憲法で列挙された権限のみをみとめるとするジェファーソンらの共和主義者との対立があり、その影響はその後2世紀にわたって続いた。例えば、ニューディールは、ジェファーソンの理想(平等)をハミルトンのやり方(中央集権化した連邦政府)で実現しようとしたものとも言える。
土地が豊富で労働が希少な状態に変化はなかったが、移民を自由に受け入れる政策は、公式には謳われていなかった。移民の受け入れは19世紀半ばまで州の手に任されていたので、一州が制限しても他の州の港から入国してしまうだけなので、実質的に自由な受け入れだった。
土地・移民政策と違って資本市場・金融制度は独自の政策だった。独立前には独自の貨幣も商業銀行も証券市場もなかった。連邦主義者と呼ばれるようになるハミルトンが財務長官として、独立以来の州と連邦の債務の優良債券化、国立銀行設立に従事した。ジェファーソンに代表される後の共和主義者の反対はあったが、首都のニューヨークからフィラデルフィアそして新首都への移転や、政府債務の優良証券化で債務を保持していた下院議員が潤うことなどから賛成が得られ、可能になった。安全な証券ができたことで証券市場が具体化し、外国から資本が流入するようになった。
1914年のアメリカの政府支出は、現在と比較しても、当時の英独の政府支出のGNPに対する割合と比較しても、ずっと小さかった。今日のアメリカの政府支出の3分の2は連邦政府のものだが、1914年には8分の1だった。1790年の連邦・州・地方をあわせた政府支出はGNPの4%程度だったと推計される。その後に増加して1914年には2倍の8%になった。
独立後、地方自治体は独立前にしていた仕事を続けたが、防衛は連邦政府に委ねられた。奴隷解放運動と奴隷の人権意識の高まりに対応して、南部では奴隷パトロールの仕事が加わった。また北部と西部では教育に関する支出が増やされたが、長い目で見ると地方自治体の支出のうち最も経済成長に貢献したのはその教育費だった。その後、1840-70年代には鉄道建設、都市のインフラストラクチャー整備も行った。
州政府の活動が経済に与える影響は大きかったが、財政規模はそれに比較して小さかった。州政府の投資が増えた時期が二つあり、ひとつは1850年代以前の銀行・道路改良・運河・鉄道などへの投資で、もうひとつは20世紀初頭の道路への投資の時期で、ともに債権でまかなわれることが多かった。
連邦政府支出の大部分は陸海軍、戦費債務の償還にあてられ、内政費はわずかだった。
植民地期から地方自治体の財源は人頭税と財産税で、後者は現在でも主な財源となっている。確固たる収入は公共投資のための借入を容易にし、公共投資によって価値の上がった資産に対する財産税で債務の返済が可能になるという仕組みができた。憲法制定で防衛義務とともに関税収入を連邦に譲り、紙幣発行を禁じられた州政府も、やがて財産税に頼るようになった。
1789-1914年の連邦政府の主な財源は、関税、アルコール・タバコ消費税と、かなり少ないが土地売却収入の三つだった。中でも関税の占める割合が高く、南北戦争前には総収入の半分以上を占めていた。戦費と領土の購入費は資本市場からの借入でまかなわれた。
1789-1801年は連邦主義者が政権にあった時代だった。対外戦争に備えるため内国消費税が導入されたが、反乱を引き起こすことになったため、連邦主義者から共和主義者に政権が代わると撤回された。かわりに国債が利用されヨーロッパの投資家にも販売された。公共投資を希望する準公的な集団に、資金稼ぎ目的の宝くじ発行を許可することも行われた。
1801-1825年はジェファーソン主義者の時代だった。世界はアメリカの農産物を必要としていて農業を振興すればアメリカの国力は強くなると、 ジェファーソンは考えていた。ルイジアナ購入、州間道路・運河の建設もその目的に沿ってのことだった。しかしジェファーソンの見方はアメリカの利益・能力・繁栄を見誤ったものだった。彼は関税収入で充分と考え内国消費税を廃止し、連邦銀行も1811年に廃止された。連邦の交通網改良への支出も、他の州のために自分の税が使われることに対するジェファーソン主義者流の反感で進まなかった。
1812年の対英戦争は金融機能に優れた合衆国銀行の廃止後だったため、紙幣で戦費をまかなわねばならずインフレを招いた。連邦の能力不足で、イギリスの脅威を受けた州は自ら海軍をつくって交戦しなければならなかった。この戦争がもたらした唯一の利点は、古くからの州の住人がまずは自らの州に忠誠を感じていたのと違い、 西部の州の住民が連邦に忠誠を誓い行動したことだった。その後に続いたジェファーソン派の大統領も業績を残せなかった。この時代を通じて、連邦最高裁は各州が州際的な活動に干渉することを規制することができたのに、連邦政府は何もできないことが明らかになった。連邦政府がしないので、州が自ら行動するようになった。
ニューヨーク州によるエリー運河、オハイオ州によるオハイオ運河の成功をみて、他の州もヨーロッパの資本を借り入れて州内の運河・鉄道・道路の工事を始め、また西部の州は銀行を設立した。連邦政府は州の事業に益する合衆国銀行の営業継続を拒否したが、自らは事業を行わずに関税収入で連邦債務を償還したので、その資金がは州の事業に流れ、また債務の償還が済んだ後は関税収入を州に分配した点で、消極的に貢献した。しかしブームは1840年代初期に支払い不能になる州が出て終わった。ヨーロッパなどからは連邦政府が州の債務を負い、アメリカの信用を回復させるよう要求が出されたが、そういった措置は執られなかった。かわりに、テキサスの支援と対メキシコ戦争でテキサスとカリフォルニアを獲得し、イギリスとの条約でオレゴンを獲得した。
これらの教訓から多くの州は州憲法で債務の額に制限を定めた。かわりに地方自治体が起債して公共工事を行い、交通網の改善と経済発展に遅れが出ることを回避した。しかし1870年代には支払い不能になる地方自治体が続出した。権利侵害に怒った債権者の訴えに対して連邦最高裁は、地方自治体が公企業であり、破産や債務の拒否を行える私企業とは違うことを確認した。地方自治体の起債額にも上限が設けられることになった。1870年以降も、成長する都市のインフラ改善に対する資金需要は大きく、起債額制限を回避する手段をとった都市もあった。
南北戦争の勝利は新しい党派共和党によって勝ち取られた。共和党は半世紀は思想的にウィッグ党の後進だったが、1890年以降は連邦主義者になった。共和党の優越は飛躍的に大きな政府を生み、ワシントンが振興・配分政策の中心となり、国の政策は経済界寄りになり、1800年代前半の数十年を支配したジェファーソン主義とは逆になった。
南北戦争の戦費は、税、政府紙幣、債券でまかなわれ、先例となった。新設・増税された間接税は逆進的だったので、所得税も導入された。しかし税は戦費の5分の1にしかならなかった。政府紙幣の発行は戦費の10%ほどを、また残りの70%ほどは債券でまかなわれた。
1866年以降の四半世紀、連邦財政は黒字を続け債務を償還した。戦中のインフレ時の投資が戦後のデフレ時の通貨で償還されたので、投資者に対する所得移転ともなった。また、債務の償還が進み金兌換が再開できるようになった1879年から、南北戦争後のもう一つの大きな所得移転である復員軍人に対する年金が始まった。これは20世紀に対象が非常に広くなる連邦政府による給付金の先駆けとなった。反対していた南部民主党議員が去ったおかげで、大陸横断鉄道への助成の法律とホームステッド法が成立した。
北部からの移住者が南部の州政権を動かした「再建」期に不法な目的で消費されたものも含め、南部の州の負債は大きく膨らんだ。ふたたび民主党が政権を握ってから、多くの債務が切り捨てられた。
都市としての機能を果たすため多くの投資が必要とされ、1870年頃までに概ね完了した。鉄道会社、大企業に対する規制を希望する声がまずは州に対して出された。先進的な州はこれに応えて、鉄道運賃、教育、労働、健康、保健、漁業規制、森林保護などに関する規制を実施し、多くの州が追随した。救貧、高齢者、障害者、失業者に対する給付も先進的な地方自治体や州で行われ始め、連邦政府に実施を求める声もあったが、復員軍人向けを除いては1930年代以降まで実現しなかった。
鉄道会社が州際交通委員会で規制されるようになったように、製造業の大企業にも州ごとに異なり矛盾することもある規制ではなく連邦政府による統一した規則が求められた。これに続いて、規制、福祉、資源保護、保健、食品などの分野でも中央集権化が実現していった。
13 nternal Transportation in the Nineteenth and Early Twentieth Centuries
充分な量の公的な道路を用意することが難しかったのと、道路は地域外の人も使うことから、公営ではなく私営の有料道路システムが採用され、主に東部に1820年代までにつくられ、海岸の政治経済の中心地から放射状に内陸へ伸びていった。有料道路に補助を与えた州は限られていた。既存の道路と比較すると表面が整えられただけなので輸送効率は大して改善せず、投資にみあった収益をもたらした道路は少なかった。
建設に必要な資本が多いのと、イングランドにおける石炭のような貨物が事前には見込めなかったので、アメリカでの運河の建設は遅れた。エリー運河の成功が、その後の各地での大きな運河建設を誘ったが、不況で建設が遅れて鉄道との競争を強いられて成功しなかった。エリー運河も、支流を含んだニューヨーク州の水系全体への投資の収益という観点からすると成功とは言えなかった。
河川・湖水と内航海運は運河の6倍の輸送量を示した。19世紀初めに蒸気船が導入されが、特に西部の河川で利用され、運賃の低下と川の遡上する時間の劇的な短縮をもたらした。木造帆船の安さや積載量の多さと燃料の入手の困難性から、内航海運での汽船の導入はかなり遅れた。
汽船の運賃は低かったが、直達性・速度・便利さの点で鉄道との競争に敗れるものが多かった。南北戦争後には、南部でも鉄道との競争で減少することになった。それでも19世紀半ばの水運の輸送トンマイルは鉄道の10倍近くもあった。
ボルティモア・オハイオ鉄道が着工され、それにならって多くの鉄道が続いた。鉄のレールの替わりに鉄で被覆した木のレール、トンネルの掘削を避けて勾配と蛇行の経路を選択するなど、イギリス方式を捨てて、建設費用を切り詰めていった。曲線を通過しやすくした国産機関車が輸入に取って代わり、また鉄の使用量を最小にするTレールが採用された。1939年までに東西方向に走る鉄道と、乗客輸送目的で海岸に沿って南北方向に走る鉄道からなるネットワークができあがった。西部では水運を補完する鉄道が敷かれた。1850年には全国を鉄道で旅行、物資輸送できるまでに拡大したが、軌間の統一はなく、大きな川は架橋されていないなどの問題があった。
1840年代までに主要な鉄道の敷設が終わった東部と違い、西部では50年代に建設が盛んとなった。需要のある土地を選んだ初期の西部の鉄道は利益を上げた。西部の鉄道の建設につかわれた地元の資本は少なく、東部から資本が求められた。南部でも1850年代に鉄道建設が再燃し、奥地から地元の港へ鉄道を引くことで港の振興を図ろうと州や地方自治体が補助を与えた。
主に州の公的資金が直接流れ込んだ運河建設とは違って、鉄道には補助金や政府保障などがあっても、経営は私的なものだった。1840年代の鉄道では旅客収入が貨物収入を上回っていた。貨物輸送量は運河の方がずっと多かったがそれでも1850年代以降は貨物輸送収入の方が多くなった。鉄道が建設され続けた理由は、1850年代半ばまでは資本収益率が徐々に増加していたことによると思われる。
季節にかかわらず利用できる、積み替えがない、速い、責任の所在が明確などの理由で貨物輸送も石炭や穀物を除いて水運から鉄道に移っていった。
1860年には世界の鉄道延長の半分がアメリカにあったが、南北戦争中の投資中断が終わり、大陸横断鉄道などへの政府援助などのおかげで、その後も伸びていった。しかし1870年代には収益が上がらず、人手に渡る鉄道もでてきた。
1880年代にはブームが再燃した。ヨーロッパでの穀物需要の増加によって輸送量も増えた。
1893年の不況で最後の鉄道の建設ブームは終わった。その後の投資は車輌などの施設へと向かった。19世紀後半の鉄道建設は国内の資本に加えて、政府からの土地提供などの援助、ヨーロッパからの資本流入にもたよった。
架橋、軌間の統一、積み替えなしの貨物輸送、重軌条の採用、自動連結器、空気ブレーキ、強力な機関車、効率的な貨車などの採用により1870年から1910年に輸送量も生産性も、国民所得の伸び率や国民経済の成長率以上に伸びた。
鉄道の差別的な運賃に対して西部の農民などが抗議した。1887年の州際商業委員会の設置により、カルテルや料金プールは規制され、20世紀の大鉄道企業の経営状態は良くはならなかった。
19世紀の鉄道のは、輸送費の低減、輸送費低減による輸送量増大(前方連関)と、鉄道業の消費する財の増加(後方連関)による製造業への刺激とがあった。
鉄道の後方連関は、鉄道の発展が石炭・鉄・工学の発展につながったことが離陸には重要だったとするロストウの経済成長の段階説から注目されてきた。初期の鉄道の資材は輸入品だったが、1830年には従価25%、その2年後には無税になった。1840年に保護関税が導入され、イギリスの鉄道建設も盛んになりイギリス製品を輸入しにくくなったこともあって、国産レールが使われるようになって、1850年代末には国産品の方が多くなった。1860年代には国産の圧延された鉄の40%がレールに使われ、1880年代には80%に達した。19世後半に鉄道が鉄鋼業に与えた影響は重要で、その後は自動車産業が後を継いだ。鉄道車輌は初期から国産品が多く、鉄道は汽船とともに蒸気機関の需要の多くを占めた。機械は種類が多かったので、鉄道の需要が機械工業全体に占めた割合は10%以下だった。しかし、各地に点在する鉄道の修理工場が機械工業の技術伝播に果たした役割は大きかった。初期のアメリカ鉄道は価格の安い薪も燃料としてつかった。しかし、その後は石炭に移行し、1880年には国産石炭の5分の1を消費した。しかし、鉄道があったがゆえに炭鉱が発展したとまでは言えない。
鉄道の前方連関としては、農業では輸送費の減少が海外を含めた大きな需要の増加をもたらした。また西部への移住が進み、より安価に穀物などを生産できるようになった。しかし製造業の製品原価の中で、鉄道による原料と製品の輸送費の減少はあまり大きな影響を持たなかった。それでも、製粉、食肉加工、皮革加工などの農産品加工業では原料生産地への立地が大きく伸びた。
西部の農業産品はミシシッピ川の水運でニューオリンズを通過して輸送されていた。しかしエリー運河の開通後は東部に直接輸送される貨物量が増え、その後は鉄道が同じ役割を担ったため、ニューオリンズは商業の中心地としての役割を失った。
1870年代のような総資本形成の15%を交通への投資が占めるような時期は、20世紀にはバスやトラックの成長期でもなかった。輸送業の成長は低下し新たな技術革新もなかったので、輸送改善による資源の節約の重要性は減った。鉄道が19世紀に果たした役割を20世紀の初頭には自動車産業がになった。
市内交通の馬車が電車に置き換わり、その技術が20世紀初めにインターアーバンに応用された。主に中西部に建設され、頻回の運転と駅の多さで916年まで成長を続けた。しかし、自家用車とバスとの競争で退潮にむかった。
自動車の出現前から高規格道路を求める運動があった。自動車の普及により多くの州がハイウエイの建設を始め、連邦政府も補助を行った。鉄道会社も道路の改善で輸送量が増えることを期待して大いに賛成していたが、自動車会社が連邦政府による州間ハイウエイ網の建設をもとめた1912年までには意見の相違がはっきりした。1921年には900万台の自動車と100万台のトラックが使用されるようになり、将来の行方は明らかとなった。
第二次大戦前の道路投資は泥道からいつでも使える舗装道路に改善することが主だった。1956年のインターステートハイウエイ法の成立後、有料の高規格道路が建設されるようになった。大量輸送と郊外のアメリカが一般化した。20世紀初頭は貨物ヤード・電化などの投資を熱心に行った鉄道も、1916年以降は投資額を減少させ、1930年代には衰退をみせ、線路延長も減少した。
鉄道投資の線路と車輌の関係とは違って、ハイウエイの建設に対する投資よりも自動車への支出の方がずっと多かった。所得の伸びとクレジット販売の導入により、自動車の販売は大いに増えた。自動車産業は鋼鉄・石油・工作機械・ゴム・板ガラス・ニッケルの大量消費をもたらし、1920年代の繁栄を支えた。自動車のおかげで1940年には人口の10%が郊外に住むようになった。
20世紀に、旅客輸送のほとんどを自動車がになうようになったが、貨物輸送分野では鉄道も低価格のバルク貨物の長距離大量輸送を行ってトンマイルでは半分以上を占めている。
自動車の台頭と鉄道の衰退の原因について、道路は公費で建設されるのに線路は鉄道会社自らが建設しなければならないことを挙げる説があるが、大陸横断鉄道など鉄道建設にも公的援助があったこと、1950年代のハイウエイは有料だったこと、道路建設は燃料に対する税でまかなわれていることなどから、この説は正しくないと思われる。州際交通委員会が鉄道の運賃を、価格の低い大量消費向けの商品は低めに、高価な商品は高めに設定しているため、利益の見込める高運賃の貨物が自動車輸送に逃げたことが一因だと思われる。
14 Banking and Finance, 1789-1914
19世紀の初頭の金融取引では正貨、特にスペインペソで支払われていた。アメリカは1914年には世界をリードする金融力を持つことになったが、そこまでには紆余曲折があった。
革命から憲法制定会議までの間のインフレの経験から、州は紙幣を発行できず、金・銀貨以外を正貨することはできない旨、憲法に明記された。しかし、連邦政府が紙幣を発行できるのかどうか、民間による銀行券または貨幣として通用するものの発行を規制できるかどうかについての条文はなかった。これらは初代の財務長官であるハミルトンの提案に沿って運用された。アメリカドルは流通していたスペインペソと同量の銀を含有するよう定義され、同時にドルの金量も比価15対1と設定された。誰でも無料で正貨の鋳造を求めることができた。アメリカの幣制は金銀複本位制で始まった。
国務長官ジェファーソンの反対はあったが、第一合衆国銀行が発足し、政府への資金融通や商業銀行としてよく機能した。しかし政府の預金のほとんどを集め、商業銀行として他の銀行と競争することに対する反対があり、また憲法にはこの銀行を正当化する条文がないことを問題視され、特許状の期限の20年後である1811年には更新されなかった。
1812年の英米戦争中に連邦政府は資金難となり、戦費を調達するために国務長官が私財を抵当に入れて起債する事態になった。兌換可能な紙幣がなく、紙幣の価値が各地でばらばらだったことなどもあって、国立銀行を求める声が強くなり、1817年に第二合衆国銀行が設立された。今回も、合衆国銀行が地方の銀行の銀行券の兌換を求める政策には反対が多かった。また、ジャクソン大統領も第二合衆国銀行の憲法上の正統性に疑問を持ち、通貨の統一政策に反対だった。特許状の更新に両院の同意は得られたが、大統領の拒否権で葬り去られた。1836年以降、銀行の規制は各州に任され、銀行規制の実検と言えるほど様々な政策がとられ、フリーバンキングの時期と呼ばれている。
南北戦争の勃発後、財務長官はフリーバンキングと似ているが連邦の債券を発券の担保とするナショナル銀行法を提案した。様々な紙幣がいろいろな価値で流通している状況を統一し、戦争中の連邦政府の債券発行を容易にするとして提案されたが、成立後も新しいシステムに参加する銀行は多くなかった。
1865年にステート銀行の銀行券に高率の税がかかるようになったが、それでも、銀行券を発行せず、預金を引き受けて貸し出す機能に特化したステート銀行の多くはナショナル銀行に転換せず、その後もかえって発展した。銀行は銀行券を必ず発行するという時代遅れの考え方に立脚したナショナル銀行法は、ナショナル銀行とステート銀行の二本立てという予期しない事態を招いた。
1812年の戦争をまかなうための政府紙幣によるインフレ。戦後、1820年代から1830年代初頭は価格低下の時代だった。ジャクソンが2回目の大統領に就く頃にはメキシコから銀が流入し、流入した銀の流出先だった中国がアヘン輸入が増えて銀を輸入しなくなっていたので、国内に銀が増えてインフレをもたらした。1837年の恐慌で1840年代はデフレが続いた。カリフォルニアとオーストラリアの金鉱の発見で世界的に金供給量が増えて1850年代前半はインフレとなったが、19世紀で最も長く好景気が続いた時期だった。
南北戦争では戦費調達のため法貨たる政府紙幣であるグリーンバックを発行してインフレを招いた。増税に加えて中流階層にまでも国債の購入が奨励されたが、それまで証券を購入したことのない層に証券投資の習慣がつき、戦後の投資ブームにつながった。グリーンバックは太平洋岸地域では受け入れられなかったが、その他では流通した。
南部の政府も紙幣発行で戦費を調達し、また戦闘による生産の低下と海上封鎖により南部のインフレはさらにひどかった。南部連合の東部では1865年4月に価格水準が戦前の91倍に達した。
終戦後すぐには金貨での支払いには戻らず、金より低く評価されているグリーンバックが通用するアメリカの物価は外国より高く、輸入と金流出が続いた。外債を借りている連邦政府などに損失を与えるので、平価切り下げは考慮されなかった。また物価を引き下げるためのグリーンバック回収政策も議会の反対により実現せず、経済が流通通貨量に見合う程度まで成長するのを待ち、1862年に兌換が再開された。
世界の経済成長と多くの国で金本位制が採用されたことで金が不足したため 1880年以降15年にわたって、物価の下落が続いた。デフレ下ではあっても経済成長は順調に続いた。物価の下落で暮らし向きのラクになる人も少なくなかったが、農民などの債務を抱える人の不満は大きく、インフレを指向する政策が求められた。1873年に銀は法貨としての鋳造を廃止されていたが、復活を求める動きもあった。しかし南アフリカや西オーストラリアでの新たな金鉱の発見やシアン化法の発明で1897年以降は金の供給量が増え、第一次大戦まで軽度のインフレが続き金本位制の全盛期とみなされた。
19世紀は5回の恐慌を経験した。銀行や土地などへの過度の投機からバブルがはじけておこった1837年恐慌が、南北戦争前では最も熾烈だった。
1857年恐慌は1850年代のブームを終わらせた。北部の銀行生命保険会社の破綻から始まった取り付けなどが波及したもので、綿花の価格が堅調だったので南部での被害は少なかった。南北戦争の直接の引きがねとはならなかったが、南部の政治家も北部の政治家もこの恐慌を政略的につかった。
1873年恐慌は、秋に西部での収穫物への代金としてニューヨークから送られる法貨の量が例年より多いことから始まり、コールローンの引き上げ・株式市場の破綻・銀行破綻につながった。
1893年恐慌は北部の会社の破綻から株式市場、銀行へと波及し、兌換停止をもたらした。1890年のシャーマン銀購入法などによりアメリカで銀本位復活勢力が強まっていると解釈されていたこともあって、アメリカから金が流出した。アメリカの金本位への信頼を回復し金準備を守るため、シャーマン銀購入法は撤回された。
ウォールストリートの信託会社の破綻が取り付け騒ぎとなり、1907年恐慌となった。この恐慌は銀行制度の改革につながった。
これまでの恐慌の際に手形交換所が緊急に発行した非兌換性証券と同じ性格の紙幣を、いくつかの銀行が緊急時に発行できるように委ねるアルドリッチーフリーランド法律が制定された。またこの法により、あるべき幣制を研究する委員会を設置された。そこでは、最後の貸し手を準備しておくことの必要性が強調され、1913年に連邦準備法が制定された。連邦準備銀行券は、恐慌時の対処につかわれ、資産を担保に各銀行に貸出を行う際に払い出され、また連邦準備銀行が金を受け入れた引換にも発行され、発行額の40%の金準備をもつこととなっていて、金本位制は継続していた。連邦準備銀行券は政府証券の購入と引換に発行することもできる制度だったが、制定時にはこれが頻用されることは想定されていなかった。アメリカは12の地区に分けられ、それぞれに連邦準備銀行が置かれた。連邦準備銀行はその地区の銀行の監視にも当たった。
銀行制度は金融の中心だが、不動産ローンや国や企業の求める長期の貸出に対応し、高めの利率の長期の預金を受け入れるという、商業銀行が担うのが困難な要望もでてきた。それに対応したのが貯蓄銀行と信託会社だった。相互貯蓄銀行は当初、貧しい労働者のための仕組みとして生まれた。貯蓄銀行は取り付けに対して支払いの猶予を求める権利があったので恐慌にもよく耐え、19世紀後半には全預金量の三分の一を占めるまでに成長した。信託会社は富者の貯蓄銀行だとよく言われる。長期の貸出を行い、貯蓄銀行より高い利率の預金を提供した。1890年以降に本格的に成長し始め、1909年には全商業銀行の資本の27%の資金量を持っていた。この成長の主因は、商業銀行や貯蓄銀行が規制を回避して投資するために信託会社を利用したことによる。
19世紀初めには海上保険と火災保険が保険会社の主な商品だった。その後、保険の対象は増加し、保険会社の資産は国の資産の中でも無視できない額になった。ナポレオン戦争と南北戦争の間の商船隊の成長とともに海上保険も伸びたが、南部海軍による通商破壊でかなりの損失を被った。19世紀には生命保険の扱う企業も増加した。
1792年にニューヨークのブローカーが手数料と新規参入に関する取り決めをしたのが、証券取引所のはじまりだと言われている。当初は政府の債券と銀行株ていどしか取引の対象がなかったが、次第に取引される証券類は増加し、1817年にニューヨーク株式証券取引所ができた。初期にはフィラデルフィアが金融の中心だったが、ニューヨークがその座を奪った。運河、ガス会社、鉄道、鉱山などの株が取引されたが、製造業はその出資者と深く結びついていてあまり取引されなかった。南北戦争で国債、株式、金の取引が非常に増えた。南北戦争の国債の勧誘をきっかけに、証券投資は中流階層にまで普及した。大西洋海底電線、ストックティッカー、電話などの技術革新でウォールストリートの優位が確固たるものとなった。1870-80年代には鉄道株が、1890年代には製造業の株式が主役で、これらの企業は多額の資金を資本市場から調達することが可能となった。
株式証券市場は投資銀行と手に手を取って発展していった。すでに南北戦争前に、運河会社・鉄道会社・州政府発行の証券をヨーロッパの投資家に販売する会社があり、それらは外国資本を導入することに特化していて、証券を発行した企業の経営には関与しなかった。南北戦争後には性格が変わり、証券発行企業の経営に関与し、販売はアメリカ国内に集中させるようになった。最終的にはスタンダードオイル集団とクーン・レープ商会、それにJ,P,モルガンという二つの巨大な金融グループが投資銀行を傘下に置いた。後者はニューヨーク銀行、保険、信託からなるネットワークを創り上げ、合併などの方法でUSスティールなどの大企業を育成した。
銀行が金融界の主役だったヨーロッパとは違って、株式の保有や州外に支店を持つことを禁じた規制でアメリカの銀行は行動が制限されていたので、J. P.モルガンのようにそれを迂回できる金融グループが力を振るったものと思われる。これらの投資グループについては、競争を蝕む独占の成立を助け消費者の利益を奪うとする見方と、破滅的な競争を避け業界に資金と資源の有効な活用をもたらしたとする見方がある。連邦準備制度の検討を行った委員会もどちらともはっきりした結論は出せず、投資銀行自体も規制されることにはならなかった。
15 U.S. Foreign Trade and The Balance of Payments, 1800-1913
アメリカに植民地のできたばかりの頃は生産物の4分の1が輸出されていたが、18世紀末にはその半分の10-15%に減少した。人口の増加がその一因だった。また19世紀初頭にはアメリカ国内産品の輸出は、世界の輸出総額の3%、ヨーロッパの5%になっていた。アメリカの人口が世界人口の0.5%、ヨーロッパの2.5%しかなかったことを考えると輸出依存度は高かった。また、当時のアメリカは近くのヨーロッパの植民地との三角貿易にも組み込まれていたので、再輸出を考えると貿易依存度はその2倍にも達しっていた。当時の輸出品はほとんどが天然資源で、その4分の3は農産物だった。
1750年頃には1人当たり製造業産出はインド・中国以下だったが、1800年までにはほぼヨーロッパの水準にまでになっていた。つまり、アメリカの比較優位に変化はなかったのに産出構造の方は大きく変化したことになるアメリカの特徴は再輸出が大きかったことだ。また、海運業も盛んで、貿易収支の赤字は海運収入で充分にまかなわれたが、保険や支払利子を含めるとまだ赤字だった。
植民地時代にはGNPに対する輸出・輸入の比率がともに高かったが19世紀を通じて低下していった。輸入の低下の方が著しく、1870年代には資本の輸入国から輸出国に転換した。19世紀半ば過ぎまでの貿易の赤字は海運収入でカバーされていた。しかし海運収益は減少し1880年代以降は赤字になった。また、対外債務の利子も19世紀を通じて支払い超過で、これは第一次大戦まで続いた。反対に資本は19世紀を通じて流入した。アメリカが純債権国になったのは第一次大戦になってからだった。
ヨーロッパからアメリカへの対外投資は鉄道や政府の債券に集中し、国内の資本がより小さな企業に貸し出されたのに対して、インフラの整備という役割を分担していた。また直接投資ではなく、ポートフォリオとしての債券投資がほとんどで、株式への投資や経営への口出しはほとんどなかった。また、ルイジアナ購入に必要な資金の半分が外債によっていたことも忘れられない。19世紀にはアメリカの製造業のかなりの分野がヨーロッパよりも技術的に遅れていたことを考えると、直接投資が少なかったことは驚くべきことだ。当時は通信・交通の速度が遅く、大洋を越えて企業を管理することが難しかったことがその一因だろう。そのかわりに、ヨーロッパから企業主やその子供、技術者などが移住して子会社を購入・設立する例が見られた。
19世紀初めのアメリカの輸出品は、天然資源に恵まれた比較優位を反映して農産物・林産物・水産物が大部分を占めたが、次第に農産物が増え南北戦争前には80%にまで達した。その後工業製品の輸出が増えたが、それでも19世紀を通じて輸出総額の70%以上は農産物だった。農産物ではタバコから綿花に首位は移った。19世紀の初めには工業製品の輸入国だったが、1820年代には輸入額の10分の1の輸出があり、20世紀初頭には輸入額より輸出が多くなった。
農産物が輸出額の多くを占めていたことは、19世紀のアメリカ経済において生産額でも従業者数でも農業が重要性を減らしていった変化を反映してはいない。アメリカ農業が比較優位を保てたのは、人口増にもかかわらず領土と作付面積の増加が上回り、1人当たりの生産性が上昇し続けたからだと思われる。また輸送費の低減も原因となった。輸出市場は、はなから輸出を目的とした作物を新たな入植により生産拡大させる役割と、また元は国内市場向けの農産物で価格弾力性が低く国内市場規模に限界があっても海外需要で補えるという役割の二つを果たした。
資源の賦存状況による影響の大きい石油と石炭は産業の発展に輸出の寄与が大きかった点で例外的な製造業だった。比較優位を生産量と輸出量の比で表すと、農業も石油・石炭も1879年にピークに達し、その他の製造業はその後も少しづつ上昇を続けた。輸入では逆の現象がみられ、林業を除くすべての製造業分野で輸入品のシェアは低下していった。
植民地時代の初期から、アメリカの輸出はヨーロッパか西インドのヨーロッパ植民地に向けられていたが、19世紀を通じてその傾向は強まり、1890年以降にわずかに低下しただけだった。ヨーロッパは輸入元としても重要だったが、そのシェアは19世紀から第一次大戦期に向けて3分の2から半分程度にまで低下していった。アメリカの農業のヨーロッパに対する優位は継続したが、アメリカの製造業が発展してヨーロッパの製造業の製品の輸入を代替したことによる。
一次産品の輸出国は長期的には交易条件の悪化を経験すると信じられている。しかし、アメリカが一次産品輸出国から主要工業国へと変貌した長い19世紀には、交易条件の改善があり、その改善の大部分はほとんど一次産品のみを輸出していた南北戦争前にみられた。J. S. ミルはじめ古典派経済学者は、工業製品と農産物を含めた一次産品との交換価値は、人口増加と工業の発達とともに低下すると予言していた。しかし統計的にはそうではないことが、プレビッシュらの研究では示された。アメリカの綿花で代表される農産物の輸出価格は工業製品の輸出価格と同じく時代ともに下落したが、農産物の価格の下落の程度の方が大きく、プレビッシュらの見方には従っていなかった。製造業の生産性の伸びの方が農業の生産性の伸びよりも速いということが、古典派の考え方の基礎にあった。事実、南北戦争から第一次世界大戦までの期間にはこの現象がみられた。
植民地時代の貿易にイギリスの航海条例が与えた影響は無視できない。穀物や家畜に大きな市場と高めの価格をもたらし、栽培・飼育を促した。航海条例のもう一つの目的は植民地の原材料をイギリス本国が独占的に輸入し、植民地の製造業の発展を抑えて本国の競争相手とならないようにすることだった。独立後も植民地期と同じパターンでイギリスと貿易したことを考えると、航海条例ではなくアメリカの資源の賦存状況の方が貿易のパターンに及ぼす影響が強かったのかも知れない。
ナポレオン戦争期の海上封鎖と1812年の米英戦争は大きな機会であったとともに、独立間もないアメリカに試練を与えた。中立時代は海運収入と交易条件の改善と大きな輸出市場がもたらされた。しかしイギリスと開戦すると事態は逆転した。禁輸により一時的に製造業が勃興したが、比較優位にもとづいたものではなかったので休戦後の競争に敗退し、実質的な経済の成長はもたらされなかった。
南北戦争で北部が経済的な利益を得たと考える人もいるが、工業化は戦前にすでに始動していたので、戦争自体は工業化の促進にも大きな妨げにもならなかったとノースは主張している。南北戦争がもたらしたのは南部の1人当たり所得の減少で他の州との差が大きく開いた。また、輸出に依存する南部の政治的発言権が低下したことで、保護主義的政策がとりやすくなった。
南北戦争後の高関税が製造業を保護してその後の大企業化を可能にしたという説がある。1869年には工業製品の消費額の14%が輸入品だったが、1909年には6%にまで低下し、輸入代替化がなされた。しかし、単に保護された部門の成長が促され雇用が増えたという以上に、国民経済が利益を得たかどうかについては結論が出ていない。
アメリカ経済にとって貿易はそれほど重要でない状態が続き、そのことはGNPに比較して貿易額が低下していったことからも分かる。
16 International Capital Movements, Domestic Capital Markets, and American Economic Growth, 1820-1914
1890年代にアメリカはカナダとメキシコに投資し始め、その後も海外投資の対象を拡げた。しかし1914年以前はヨーロッパ、特にイギリスが世界の銀行家で、アメリカはヨーロッパの海外投資のいちばん大きな部分を受け入れた。しかも現在とは違って19世紀のアメリカの貯蓄性向は高く、19世紀末には20%にも達していた。外国資本は19世紀のアメリカの総資本形成の5%を占めたに過ぎず、クズネッツの「外国資本はアメリカの発展に比較的小さな役割を果たしたに過ぎない」という結論を多くの現代の経済史家も受け入れている。しかし、外国投資の重要性を計るのにその総額をもってするのは適当ではないとした過去の史家の見解との整合性を見つけるのは難しい。1830年代や南北戦争後のように海外からの投資額の比率の大きかった時期もあり、アメリカ自身の資本市場が未熟だった時期には経験を積んだ海外の市場により鉄道のような投資先を先導してもらうことも必要だったろう。
独立から1820年代までの資本の出入りは多くなかった。1930年代にアメリカへの資本投資が大きくなり、当時の経済の規模を考えると19世紀の中でも外国資本が最も大きな意味を持った時期だった。多くは州政府の借入で銀行と運輸部門に向けられた。その後の恐慌と多くの州が支払い不能となったことにより、しばらくは資本流入が途絶した。
1850年から1876年には資本輸入の多い年が続いた。1850年代には鉄道向けの投資が多く、その後は連邦・州政府と地方自治体の借入が増えた。
その後、1880年代後半から1900年にかけて次の資本輸入のピークがきた。鉄道会社の証券に加えて西部の鉱山・農業・土地に対する投資もみられた。1897年から1905年には資本は輸出されるようになった。しかし第一次大戦前の数年には資本の流入がみられた。
1830年代は連邦・州政府が借り入れて、銀行、運河、有料道路、銀行に投資した。1869年には南北戦争の影響で連邦政府の借入が大きくなっていた。1870年代から80年代には鉄道向けの投資が多かった。その後1914年には、鉄道投資はもちろんだが、証券投資や直接投資がみられるようになった。アメリカへの投資を国別にみると、独立戦争からルイジアナ購入はフランスとオランダによって融資された。その後、主力はイギリスに移行しドイツ、オランダ、フランスからの投資もみられた。
ニューヨーク証券取引所で株式や社債を取引されたアメリカの会社の数は、もちろんロンドン証券取引所で取引された数よりも多かった。どちらの取引所も1870年には鉄道会社が中心だったが、1860年以降ロンドンでは土地、金属、鉱山、電機、電信会社などの非鉄道会社の有価証券の取引が多くなった。しかし、ニューヨークがその傾向に追いつくのは20世紀になってからだった。
19世紀のアメリカの貯蓄率が高かったのに資本が輸入されたのはなぜか。投資需要には波があるので、需要が高まった時には国内の貯蓄だけではまかなえなかった。また、イギリスの投資家はリスクを伴う遠方や面識のない対象への投資についての経験を積んでいたので、アメリカ西部などへの投資に対してアメリカ東北部の人よりも積極的だった。さらにニューヨーク証券取引所は証券会社のカルテルとして出発したので、過当競争にならないように取引所会員数の制限や、上場される企業の業績などへの厳しい制限、大きめの取引単位などを定めていて、安全だが手数料などを含めてコストが高かった。投資家の大部分をしめるふつうのレベルの人たちはニューヨーク証券取引所上場というお墨付きがもたらす安全性を求めてニューヨークを利用したが、アメリカ人でもより知識のある人たちはロンドン市場を利用し、リスクが高いが利益の大きい取引や、ニューヨークより安いコストでの取引をすることが出来た。またニューヨークの上場基準を満たせなかった企業、特に西部や南部の土地や鉱山や金融企業は、海外かニューヨーク以外の国内取引所を選択した。
イギリスにコルトやプルマンが工場を建設したり、ロシア政府のためにペテルスブルグに工場を建てたり、カナダ横断鉄道やパナマ鉄道への投資はあったが、1880年代以前にはアメリカから海外への投資が継続して行われることはなかった。アメリカの輸出入に関連する投資を除くと、多くの海外投資はアメリカ国内市場への投資の延長として行われ、そのパターンは1890年以降大恐慌期までの海外投資のパターンを先取りするものだった。
海外への長期の投資の60%以上が西半球への投資で、その傾向は続いた。例外は技術を活かしたGEやシンガーなどのヨーロッパへの直接投資だった。西半球向けへの投資は、メキシコ・カナダの鉄道や鉱山、カナダの製造業、キューバのサトウキビプランテーションと製糖工場、カリブ海地域のバナナプランテーションなどだった。
1897年以降も西半球への投資が多かったが、鉄道投資が減り製造業への直接投資が増えるなど投資の内容は変化した。アメリカの企業が技術的に優位な分野では、ヨーロッパやアジアにも製造業の直接投資が行われた。また外国の債券、政府債への投資も増え、日露戦争の際の日本の外債の半分はアメリカが引き受けた。
ラテンアメリカへの投資とともに、パナマ革命や米西戦争後のプエルトリコ割譲やキューバ独立時の憲法のプラット条項など、政治的干渉が行われた。ラテンアメリカに対する投資額はカナダなどに対するものよりずっと少なかったが、これらの干渉はその後70年以上にわたる反米感情の元となった。これらのアメリカの投資はラテンアメリカの労働者や農民の実質賃金を上昇させ、地主の土地の価値を向上させたとする研究がある。アメリカ帝国主義と呼ばれるようになったのは、アメリカの投資が土着の資本家の独占を破るかたちになったからだという説明をする人もいる。
アメリカの経済成長に外国資本の果たした役割は大きくなく、移民として流入した人的資本の果たした役割よりも小さかっただろう。1790年から1900年の間に外国からの資本はアメリカの総国内資本形成の5%にしか達しなかった。しかし、鉄道網の建設や南北戦争時など、特定の時期の特定の目的には大きな意味を持った。
17 The Social Inplications of U.S. Economic Development
1790年には小さな都市・町が少数あっただけで人口の5%ほどしか住んでいなかった。18世紀末のイギリスの田舎の人口密度は一平方マイル当たり100人以上もあったが、アメリカではアパラチア山脈の東側だけでも15人にしかならなかった。しかし資本主義と無縁の自給自足の暮らしをしていたわけではなく、集落は海や川など交易路に沿った場所に立地していたし、ヨーロッパの穀物需要に応えることができない地域でも周囲の市場での交換に参加していた。
18世紀に人々の暮らしは向上したが、遠隔市場との交換にたずさわった人の中には物質的な富を貯えた人もあらわれた。多くの人は、満ち足りた生活を達成し子供に継がせるという昔ながらの生き方を送っていた。
1790年までの四半世紀は独立にかかわる騒動に満ちていたが、1790年以降は新しい輸送技術・生産法・特許・通信などの変化にさらされることになった。特に大きな変化は都市と町の成長、メディアの発展、地域外との取引の増加だった。1790年から1840年にかけて、都市人口は5%から11%に増加し、新しい町が出現し既存の都市は大きく成長した。ただ、東部の港町の中には競争力がなく人口が増えないところもあった。
田舎とその地域の中心の町と大きな都市を結ぶ経済的なシステムは完備してはいなかったが、田舎と都市を結ぶ別の経路、例えば政党活動が存在した。一次政党制はまだ制度とは言えないものだったが、二次政党制は政治的システムがさらに深まったものと言える。州がその地域の経済活動にどうかかわるかに関して、演説会でWhig党は保護関税と中央集権的な銀行制度などを主張し、民主党はそれに反対した。これらの問題は政党制が取りあげたことで争点化したとも言え、1840年代までには多くの市民が政治的な関心をもつことがふつうになった。
政党以外にも、安息日を守り正しいキリスト教を西部に拡げる、奴隷制やアルコール飲料を廃止する、労働者の利益を守るなどの目的のために活動する自発的な団体も出現し、それらの団体が全国的に結集するようにもなった。新聞や雑誌の発行部数や郵便物のやりとりも増えて、都市と地域をむすぶはたらきをした。
織物工場、靴や既製服などの問屋制家内工業、職人の分業が進んだ工房などで作られた商品が流通し始め、社会的な視野を拡げ、地域の社会関係を見直すきっかけになっていった。宗教的活動と世俗的な商品の流通とが相まって、日常生活の中でみずから選択をすることが重要になっていった。かつての一般人は新聞を読むエリートから口伝えで情報を得ていたものだが、ふつうの人たちも新聞・雑誌・書信などから自分で情報を得るようになっていった。できあがってきた政党制は新たな正統性の源ともなり、公人を選ぶ際の指標にもなった。また、資産家は地元の債券を所持するよりも、縁のない企業や組織の株式や債券に投資することを厭わなくなってゆくという形で、地域経済の資本主義化が具体化した。
所得の向上と消費財の価格が低下し豊富になったことから、ファッション雑誌などが新しいマナーをつくりだしてゆき、中流と上流の間では18世紀の頃の階級的な人間関係は表向き地域の小さな社会の中でも消えていった。ただし、上流階級は新たな財と、閉鎖的なサークルをもつようにはなった。実質賃金の上昇がより少なかった下層では階級意識が残り、1820年代には労働者階級意識が育まれた。足るを知る伝統的な生活意識から、富を貯める生活意識に変化していった。
フロンティアがなくなり1893年がアメリカ合衆国の歴史の第1期の終わりだとTurnerは言った。1840年にはミシシッピ川の西に州は三つしかなくアメリカ人の10人に一人しか住んでいなかったが、1890年には4人に一人にまで増えた。1840年代の西部やカリフォルニアには金を集めたり牛を追ったりなどで成功しようとする若い男が多く、彼らの生活ぶりは西部の気質として認識されるようになった。農場も東部よりはずっと広く、集落は鉄道や川沿いのの拠点の町しかなかったので、人が少ないことが大平原にかんする文学のテーマだった。
ターナーのフロンティアテーゼは大陸の東側の木の多いフロンティアに関して唱えられたものだったが、ミシシッピ川の西側にもよくあてはまり、西部はアメリカ人の個人主義や自警的な民主主義を育てる試練の場となった。フロンティアの後ろでは、生産・流通・金融が統合された資本主義システムができあがりつつあった。
1840ー1850年代にアイルランドやドイツから来た移民は、工業化しつつある都市で職を探した。国内生まれの人も田舎から都市に出てきて都市は大きくなった。1840年から1890年に東部の都市人口比率は20から60%に上昇した。西部でも1890年には4人に1人が都市に住んでいた。南部は都市化が一番遅く13.5%だった。アメリカの歴史にとってより象徴的なのは西部ではなく、大都市の勃興だった、
賃金労働者の役割と待遇が変化したので、最初は政治的な用語だった労働者階級・資本家という言葉も、社会的に区別される存在として認識されるようになった。特に、生産の場と住居が分かれ、生産労働者たちが都市の一角に集住するようになると、労働者意識はより一層はっきりしたものとなった。消防団と酒場は主な酒宴の場で男たちの社会関係の維持にはたらいた。
1840年代からアイルランドとドイツから多数の移民が流入し、1850年代以降の工場労働者の多くを外国生まれが占めるようになった。このため、労働者と資本家という分断だけではなく、プロテスタントの地元民がプロテスタントの新入りという目で移民を見るようにもなった。1880年以降、新たに中東欧からたくさんのユダヤ教徒や正教徒が移民して来るようになると、彼らは自分たちで集住する傾向がさらに強く、地元民と労働者階級の文化を共有しようとはしなかった。例えば、鉄鋼労働者組合からハンガリー人を閉め出すような動きがあったりもして、エスニシティ問題は労働者意識を複雑化させはした。しかし19世紀を通じてホワイトカラーよりもずっと低い収入に甘んじなければならず、エスニシティに関わらずお互いの経済的状況が似通っていたことは、労働者意識の物質的な基盤となった。
専門職や上級事務職は、世襲の大きな財産はないが、肉体労働ではなく頭脳労働で快適な生活を送って「ミドルクラス」と呼ばれ、やはり都市の決まった地域に、やがて郊外に集住するようになった。ニューヨークには限られたメンバーだけが所属する間のある上流社会も存在した。上流社会に入るには多くの資産を持つだけは不十分で、新入りは徐々にメンバーとして認められた。ニューヨーク以外の都市には、上流社会を形成できるほどの数の大資産家は存在しなかった。地域の中心の町にも、通販カタログやマスメディアや都市に出て行った人からの手紙などを通して、ミドルクラスの暮らし方が普及していった。
853 こんな風に分断されてしまったのは資本主義の浸透で人々が遠くの市場と接触し、新たな社会的な階層の示す経済的な役割と報酬とに再編されてしまったからだ。アメリカ人は足るを知る存在から利益を追求する人になった。
アダムスミスに倣って、個々人が富を追及することが国家の繁栄と進歩につながるという考え方が、ジャクソン派時代の起業家たちのもとになっていた。個人的な利益の追求を規制しようと考える人たちもいたが、家族農場や自営の企業が自由に競争することがアメリカの市場の基礎で、自由起業、機会均等、開かれた社会という規範を持つアメリカの社会と市場の関係は、ヨーロッパよりも優れているとアメリカ人は感じていた。しかし、例えば個々人の利益の追求という考え方の中身はミドルクラスと労働者階級とでは違っていたように、時期と地域とその人ごとに、同じ理念を掲げてはいても別々のものを求めていた・求めるようになったというのが実情だったろう。
19世紀の後半には、資本主義市場が単に自由な企業の競争をもたらすものではなく、スタンダードオイルのような巨大な寡占・独占企業をもたらすことが明らかになり、伝統的なリベラルの信条を脅かすようになった。しかしそれでも、アメリカ人の中には社会主義を選択する人は少なかった。リベラルと企業経済が社会的・政治的にどう折り合いをつけるのかが次の世代の課題となった。

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