2011年9月6日火曜日

地図と絵図の政治文化史


黒田日出男ほか編著
東京大学出版会
2001年8月発行
「1995年から1997年にかけて、絵図・地図を歴史資料として位置づけていくことを目的に組織された共同研究」のメンバーの研究をまとめたものだそうで、古代から近世にわたる日本の地図を対象とした論考が9本収められています。「1980年代以降、地図に関する研究状況は大きく変化し」て、文化の表現、イマジネーションの産物、政治性、主張/認識された世界の鏡としての地図の側面が注目されるようにもなってきたのだそうです。私が1980年代より前の研究動向を知らないからということもあるのでしょうが、本書の論考に研究状況の変化の影響を強く感じることはありませんでした。じゃ、面白くなかったかというとそんなことはなく、学んだ点もたくさんあります。たとえば
行基図をあつかった「行基式<日本図>となにか」。なぜ行基図と呼ばれるようになったのか、筆者は行基菩薩記という逸書があってその中の記述から行基作とされたのだろうと推定しています。現存する最古の行基図の一つである金沢文庫本日本図には、日本を取り巻く鱗をもった龍蛇が描かれています。この図の周辺には紙の縁にくっついて高麗や唐土や龍及といった実在する外国と羅刹国や雁道といった架空の国が配置され、日本は付属諸島嶼とともに図の中心に龍に取り巻かれて描かれています。しかし不思議なことに、対馬と壱岐だけは龍の外側の海の中に描かれているのです。なぜ日本が龍に取り巻かれているのかも不思議ですが、対馬と壱岐が龍の外側にあることはもっと不思議です。日本のうちに入らないと思われていたの?
日本の領域・国境については、近世になっての江戸幕府にも一定の基準があったわけではないようです。たとえば、幕府の指示でつくられた国絵図や日本図でも作成の年代が違うと朝鮮や倭館や琉球や蝦夷などの扱いが一定していなかったのだそうです。日本の中の国境(くにざかい)や郡境や村境については、疑義・紛争があれば幕府評定所の裁判でもとありげられて確定されましたが、外国との国境(どこまでが日本なのか)については、注目する必要がなかったのでしょう。江戸時代になってもこうですから、行基図がその観点から描かれていなくても不思議はありません。また、竹島領有権の正統性主張のために江戸時代以前の地図を持ち出すのは、歴史的な根拠を示すためではあるのでしょうが、当時の地図作成者の感覚からはかなりはずれているのかもしれません。
伊能図の陰に隠れがちな長久保赤水の改正日本輿地路程全図ですが、路程とタイトルに入っていて、領主名、石高などの記載はないので、赤水さんは旅行などにつかう道路地図として編纂したものと思われるのだとか。色づかいが派手で沿岸の形も比較的正確に見える地図と認識していましたが、それにしても単色一枚17両、極彩色一枚25両とあって、高価なことに驚きました(美人画などの浮世絵の値段もこんなもんだったんでしょうか?)。それでもこの地図の売れ行きはよく、赤水さんの死後も版を重ね、海賊版もたくさん残されているそうです。よく売れた一因は正確さにあったそうですが、日本の形を現在の正確な地図で知っている私たちと違って、当時の人がどうやって正確だと判断できたのかがちょっと不思議です。
ルネサンス以前のヨーロッパ各国よりも日本の方が古い地図の残存数が多いという指摘、江戸時代後期の浮世絵のうち歴史画や一覧図には政治的な意味が込められていて消費者もそれを理解して購入していたという指摘、などなど面白く感じた点はほかにもたくさんある本でした。

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