2011年9月26日月曜日

曹操墓の真相

河南省文物考古研究所編著
国書刊行会
2011年9月発行
安陽市の郊外では、レンガ製造所の土取り場に使われて、たくさんの古墓が破壊されたそうです。その古墓の一つから出土した墓誌に、その墓の位置が曹操の高陵からの方角と距離で記されていて、近くに曹操の墓である高陵があることは間違いないことが分かった。その後、近所で大きな墓が発見され盗掘される事態が発生しました。そこもやはりレンガ原料の土取りで掘られて発見されたようです。警備されましたが、盗掘が繰り返され、やむなく発掘されることになりました。発掘の結果、スロープ状の墓道が40メートルも続き、地上から15メートルほどの深さに、前室・後室と4つの側室をともなった広さ740平方メートルの、壁面を塼で覆われた立派な墓室がみつかりました。盗掘を受けてはいましたが、遺物が残っていなかったわけではなく、60代男性のものと見られる頭蓋骨や、魏武王常所用挌虎大戟と書かれた石の札などなどが発見されました。
生前に曹操は魏武王の称号を得ていましたが、死の10ヶ月後、魏の皇帝に即位した息子の曹丕によって、武帝と追尊されることになりました。武帝ではなく武王と書かれた資料が発見されたことで、この墓が高陵である可能性は高いと考えられています。ただ、訳者が解説の中で書いていますが、他の人の墓、特に曹操の死の3ヶ月後になくなった夏侯惇の墓である可能性も完全に否定できてはいないのだそうです。この場合、夏侯惇は曹操の信頼厚かった高官なので、魏武王常所用挌虎大戟を下賜されて自分の墓に副葬したことになります。
近所の書店の平台に置かれていた本書ですが、曹操墓というタイトルに惹かれて買ってしまいました。晩年の曹操が住んでいた鄴の西郊にあたる場所で、21世紀になってから曹操のものと思われる墓がみつかったという話は本書を読んで初めて知りましたが、まだミステリーは解決していない点も含めて面白く読めました。中国の文章を訳した本だなと感じる点もありますが、訳文は読みやすいし、カラー図版もたくさんあって分かりやすくオススメです。
この高陵と推定される墓(西高穴2号墓)の横にはもう一つ同規模の 西高穴1号墓があります。それは置いておいて、この1号墓も調査中なのだそうで、その結果もぜひ知りたいものです。その他の感想もいくつか以下に。
どうして曹操の墓と推定され先に発掘された方を1号墓ではなく2号墓と名付けたのでしょうか?考古学では、位置の関係などで順番の付け方が決まっているのかな。
曹操は乱世の姦雄でしたよね。でも同時代の人(特に同陣営の人)からは悪や駆使されていたわけではありません。彼が悪役というか敵役になってしまったのは、
東晋南朝の時期、中国北方は異民族の手に落ちた。江南に割拠した東晋南朝の君臣たちは、かつての「孫呉」と同様の状況にあることに気づいたのである。この地縁と政治的立場からすると、曹操は北方に雄拠する軍事的敵対者に他ならない。すなわち、曹操を罵ることは、北方の異民族を罵ることと同じ意味を持っていたのである。
という事情があり、また金が中原を占拠していた南宋の時代にも「愛国情緒」から南方の呉・蜀に同情が集まったからなのだそうです。簒奪者のように思われてもいますが、墓から出土した史料には魏武王と書かれていたわけで、けっして簒奪者ではなかったわけですね。
曹操は自分の墓を高いところにつくるよう指示していたのだそうです。でも地下15メートルまで掘って墓室を設けると、地下水に悩まされたりはしないんでしょうか?このあたりはそれだけ地下水位の低い地域、井戸を掘っても水の得にくい地域なのかもしれません。それとも版築で天井と床と側面と全部固めれば、水の侵入はシャットアウトできるのかな?
曹操自身が薄葬を望んでいたそうですが、高陵は立派な墓室のお墓です。でも、副葬品や埋葬儀礼の点からみると、これでも薄葬なのだとか。
1800年ほども安らかにねむっていたお墓が21世紀になって盗掘されるというのは情けない話です。中国でこういうことが起きるのは、沿海部との間に経済的格差が広がっているからでしょうか?沿海部に住むお金持ちの欲しがる遺物を、内陸部の所得の低い人たちが盗掘するような仕組みです。ただ日本でも、土木工事で遺跡らしきものが見つかっても、公にすると時間と費用をかけて調査しなければいけなくなるので、面倒を避けるためにそのまま破壊してしまったりすることがあるそうですから、そんなに事情は異ならないというべきでしょうか。

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