2012年8月7日火曜日

日本の古典籍 その面白さその尊さ


反町茂雄著
八木書店
平成5年6月30日 第3刷発行

先日読んだ「古典籍が語る 書物の文化史」が面白かったでの、同じ分野の本を読みたくなりました。ちょうど同書の巻末ページの広告に、同じ八木書店が発行したこの本が載せられていました。著者の反町さんは有名な方ですが、これまでその著書を手に取ったことがありません。いい機会なので購入して読んでみました。

まず、中身でない外側の印象から。しっかりとした箱に入っています。ページを見てもどことなく古めかしく感じます。印刷された文字に指で触れると凹凸を感じるので、活版印刷なのでしょうか。手に取ったのは第3刷で平成になってから印刷されたものですから、活版印刷なら珍しいかもしれません。紙自体はごくごく薄いクリーム色で中性紙のようです。でも、このところふつうに読む本の用紙に比較して、厚手で単位あたり重量はかなり重そうです。また昔の方の文章らしく、漢字の使い方が古めかしい。しかし、日本の古典籍のノウハウ、欧米でのヨーロッパ産古典籍の実見談などなど、中身はとてもとても興味深い本です。 勉強になった点を列挙すると、
  • 十世紀以前の古写本というと、東洋の他の諸国には極めて少ない。文化の古く且つ優秀な中国やインドにしてもそうである。長期にわたって世界最大の文化国の一の地位を保ち続けた中国でも、八世紀乃至それ以前のものは今世紀初めまで殆ど知られて居なかった。
  • 中国の文化に接する事日本よりも早かった朝鮮の地でも、十三・四世紀以前の古書はいま殆ど伝存して居ない。
  • 一口に結論を云ってしまえば、スエズ以東では、日本の古典籍は最も古く、又その数も多い。
  • 日本の古典籍の世界的な地位は相当に高い。これが、私の十七、八年の外遊見学の結論である。ところが、この事実は、不思議なほど一般にも、又学会に於ても認識されていない。私たちは我々の固有の文化の誇りの一つとして、古典籍の質及び量の優秀性を高唱したいと思う。
  • (平安時代の)四百年間を通じて、現存の数では、漢籍は約三、四十種、国書は百四、五十種くらい。国書の方がずっと多い。
  • 鎌倉時代は先ず文治元年(1185年)から元弘元年(1331年)までとみて約百五十年、平安朝時代の半ばにも足りません。その古写本の現存数は、ごく大ざっぱに見て、平安朝時代に四、五倍するでしょう。国書と漢籍の比では、国書が漢籍に五倍乃至八倍するだろうと思われます。
  • 古今・伊勢・源氏等は、前述の通り、この時代の古写本として、比較的に多く遺存している事は、まことに慶賀すべき現象ではあります。英・仏・独・伊・スペイン等のヨーロッパ諸国の大図書館を訪問しても、その国の国語による著名な文学作品の、十二世紀乃至十四世紀頃に遡る古写本は、寥々として希少、一つ一つが完全に宝物視されて、大切にとり扱われて居ります。萬葉集と源氏物語はいうまでもなく、古今や伊勢も、日本の古典中の古典で、世界的見地に立って見ましても、その成立年代の古さ、アンソロジーとして、短編小説集としての文芸的価値に於て、独自の評価を要求し得るものです。これらの古写本は、更に更に重宝視されるべきでありましょう。
  • (室町時代、)権力と富力と、二つながらを喪失した公卿貴族は、文権の大部分を放棄し、それの切り売りによって、辛うじて生計を維持して居りました。両者をほしいまゝに入手した地方の武家たちは、文芸を継承し、さらに発展させるだけの素養はなく、余裕も持ちません。受け入れるだけでした。必然的に文化は、はかばかしく発展せず、文学は衰退しました。写本の生産も不振だったらしく、その現存は予想外に少ないのです。
  • 近衛稙家が大内氏の家臣阿川淡路入道に与えた詠歌大概の奥書「不顧入木之不堪、書之訖、最可恥外見者也」
  • (春日版で大般若経六百巻という大部なものも出版されていた時代でもある)鎌倉初期と言えば、いわゆる新古今時代で、藤原俊成や後鳥羽上皇を主唱として、和歌の最も流星だったエポックですが、しかも勅撰集の太宗である古今集さえ上梓されて居ない事は、和歌・物語の読者の数は、お経の読者数よりも、ズッと少なかったことを想像せしめます。
  • (伊勢・源氏・狭衣など四、五の古典を除くと)古活字版の古さは、古写本の古さに、そう劣るものではありません
  • 私達の古い書物の価格につきましても、やはり不易と流行の二つがあるのでございます。不易と流行と、も一つその書物の稀覯性と、この三つの掛合わせ方によって、その時の相場が生まれてくるのでありますが、それらをどのように掛合わせるか、どちらをどの程度に重く考えるか、という点に重大な問題があるのでございます。この場合にやはり日本だけを見ていたのでは考え方に徹底を欠く、なにか不安の起ることを禁じえない。それらを、広い世界ではどのように考え、どのように取り扱っているだろうか、ということを知りたいと云う念のきざすのを禁じがたいのでございます。この点を欧米に行って自分の目で見て、確かめて来たい、その上で、云わば、世界的な視野に立って、日本の古典籍を正しく評価し直したい、そんな風に考えたのでした。
こういったことを論文としてまとめるには、きちんとした根拠・史料・資料を提示しなければならないでしょう。ですから、仲間うちでは話しあうことができても、私のような素人の読む本にこういうことがらを書くことが学者さんたちにとってはかえって困難なのだろうと思います。その点、古書取引の世界では大きく成功した反町さんには、ご自身の取引の実体験からつかんだ知識があり、それをわかりやすく打ち明けることができるんだなと感じました。信憑性も高そうですよね。先日「古典籍が語る 書物の文化史」を読んだときに私の抱いた疑問、
日本には古いモノが数多く残っているという意味の記述は、他の歴史関係の書物でもしばしば目にします。著者の指摘するように、大戦乱が少なかったこともたしかに一因でしょう。でも、利用されなくなった「旧態の典籍」を捨てずに大事に取っておく行動様式や「博士家などの学問の世襲化」といったような過去の「日本人」の特質とされているようなことも原因なのだろうと感じます。日本人論などでよくいわれるこの種の「日本人の特質」を具体的に証明することはきわめて困難だと思うのですが、もし他国との文化財の残存状況の差を示す資料があるのなら、それを明かす貴重なエビデンスになってくれるんじゃないかと思うので、見てみたい気がします。
に対する素晴らしい回答が得られた感じがします。さらに、本書の巻末にはビブリオグラフィカル=デカメロンと題して、これまでの取引の経験談が載せられています。都の委嘱で蔵書家を歴訪し特別買い上げした本を疎開させた話、にせ物をつかんでしまった話、仕入れた品を調べ買い手がその価値を分かるようにして売りさばくという商売の秘訣のようなエピソードもいくつも載せられていて、なかなか面白い。この人の書いたものが面白いということはよく分かったので、これまでなんとなく避けていた感じもあった平凡社ライブラリーから出ている一古書肆の思い出の方も読んでみようかなと思っています。

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