遠藤慶太著
吉川弘文館歴史文化ライブラリー349
2012年(平成二十四)8月1日 第一刷発行
史料として重要な日本書紀ですが、そもそも書物としてどんなものを材料にどのように作り上げられたのかについて述べられています。葬礼の際に誄として述べられた日嗣(帝紀)や神話や歌にくわえて、日本書紀の中には百済関連の記事もたくさん含まれています。また日本書紀の分注には以下の三つの百済の史料からの引用だと記しているものも多数みられ、
- 百済記:百済と日本の四世紀代の交渉開始頃から、475年の漢城陥落までを扱う、古代の朝鮮漢文によくみられる文末辞「之」使用が認められる
- 百済本記:六世紀の聖王の時代を扱う、正格漢文
- 百済新撰:熊津における百済の再興を扱う
こういった百済の史書が使われたことや、太歳紀年の採用は百済史書や朝鮮での習慣に倣ったものと考えられるので、著者は
後代の実例とフミヒトの役割を重ねて考えれば、船恵尺ら百済系書記官が何らかのかたちで推古朝の歴史書に関与したとみるのは有力な仮説である。
というように、日本書紀の成立に、百済から渡来したフミヒトたちの貢献が大きいだろうと考えているそうです。また、百済の史書についての著者の見解をのべたところを本書から引用してみると
百済記」は日本を「貴国」、君主を「天皇」(『日本書紀』神功皇后六十二年など)、「百済新撰」も日本の君主を「天皇」(『日本書紀』雄略天皇五年七月)と書いた箇所がある。このことから、百済史書は百済において独自にまとめられたものではなく、日本の朝廷に提出する意図があったと理解する点は、研究者の間で意見が一致している。
ところが百済史書の成立を天武・持統朝とみる見解が大勢のなか、あえて和田萃氏が「推古朝に百済から渡来した人びとが、百済と倭国との交渉のいきさつや百済の歴史を史料にもとづいて記述し、倭国の朝廷に提出したものである可能性が高い」と書かれたのが注目される。私見は和田氏の見解に賛成で、六世紀に百済史書が出来たとする旧来の意見を捨て去ることはできないと思う。
などとあります。「百済史書は百済において独自にまとめられたものではなく、日本の朝廷に提出する意図があった」ということは他の日本の研究者だけではなく、著者の見解でもあるんだろうと思います。ということは百済からの渡来人が日本で書いたということになるわけですが、百済記に朝鮮漢文の特徴がある、つまり百済習があるのに、百済本記が正挌漢文なのは、二つの史書の書かれた時期に大きな差はないが、百済記は日本に渡来してから代を重ねた人たちが書いたのに対し、百済本記は百済で正しい漢文を学んだ渡来第一世が書いたというようなことなのでしょうか?
また、日本書紀に引用されている百済史書からの文が百済に特徴的な音仮名をつかっていたり、百済習をそのまま残していることは、修正を加えずに引用する編纂方針だったことを示すのでしょう。すると「天皇」という言葉もそうなのでしょうね。著者は推古朝に天皇記ができたと書いているので、推古朝につくられた帝紀はそのものずばり「天皇記」という名前で、六世紀に編纂された百済史書が「天皇」ということばをつかっていることが「天皇記」実在の証拠になるという立場なのでしょうね。
本書の内容とは直接関連しませんが、三つの百済史書はいつごろまで日本に存在していたのでしょう。本朝書籍目録には載っていなかったと思うので、奈良時代に失われてしまったんでしょうか。現存していれば、とても面白かったろうにと思うと残念です。でも、書物というよりは、消失した天皇記や、日本書紀編纂の資料とするため日本で渡来百済人によって倭国の朝廷に提出するために書かれただけで、残されなかったのかな?
本書のカバーには少女漫画みたいに目が大きく(目はつぶっているが)まつげが長い男性人物像が載せられています。誰なんだろうと思ったら、安田靫彦の描いた聖徳太子像なのだそうです。たしかに安田靫彦さんの描く人は武士なんかでも優しい顔してるから、納得。でも、本人を見て描いた本当の肖像画ならいざしらず、こういった想像図(7ページの舎人親王も)をカバーに載せるのって、歴史の本としてはどうなんでしょうね。著者の意思ではなく、出版社が決めたことなのかな。
0 件のコメント:
コメントを投稿