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2009年8月30日日曜日

最高裁裁判官の国民審査

今日は衆議院議員の選挙と一緒に、最高裁の裁判官国民審査がありました。この制度って何も書かない人は信任したことになるのが現状ですが、何も書かないと棄権・○は信任・×は不信任とすればもっと白熱するだろうとも思うのですが、まあ無理でしょうね。

で、今日はぜんぶで9名の名前がリストにありました。最高裁の裁判官定数が15名ですから、かなり多い感じ。みんな過去4年間に任命された人のようです。これも、政権交代が当たり前になると、アメリカの最高裁判事のようにリベラル派・保守派といった政治的傾向が問題にされる時代が日本にもくるのでしょうか?今のところ、日本の2つの大政党である自由民主党と民主党は、政治的な姿勢の違いが全然はっきりしませんから、すぐにはそうはならないと思われます。

日本の、特に自由民主党に所属する政治家は、政治的心情などお構いなしで、とにかく政権党にいたいというだけの人が多かったのだと思います。だから、総理大臣になっても一年もしないうちに平気で辞めちゃうし、しかもそれを恥じる気持ちもなく今回もまた立候補できるわけですよね。でも、政党というのは本来なら政治的な思想・心情を同じくする人同士が集まるものだと思うのです。ですから、政治家には、与党であれ野党であれ、自分の考えるところを実現するために政党に所属して欲しいし、できれば主な先進国の政党のように、機会の均等を重視するか分配の公平さを重視するかという観点で、別々の政党に分かれてもらった方がすっきりしていいのですが。

日本の深層文化


森浩一著 ちくま新書791
2009年7月発行 本体820円

著者が80年間に見聞き読んだ別々の分野の多くのものごとが、著者の頭の中で結びつけられて紹介されている感じ。粟・禾、野、鹿、猪、くじらなどのテーマで書かれていますが、例えば福岡の志賀島が鹿の島じゃないかとか、鹿の扮装をして服従する儀礼があったのでは、などなど。国際情勢の悪化から天武天皇が信濃に遷都する計画を持ち、天武の死後に妻の持統天皇がその計画に沿って三河に行幸したことが書かれていましたが、これって初めて知りました。

本書の中には著者が腎不全で遠出できないと書かれていますが、人工透析を受けていらっしゃるのでしょうか。私のような素人にも読める興味深い本をたくさん書いてくれている著者なので、お元気でいて欲しいものです。

明治・大正・昭和政界秘史


若槻禮次郎著 講談社学術文庫619
1983年10月発行 本体1450円

戦前期の政治家・経済人などには養子に入った人が多い印象がありますが、彼もその一人でした。また、若い頃は苦学したそうです。大蔵省に入って手腕をみとめられ、次官を退官後に桂太郎の縁で立憲同志会の立ち上げに加わり、その後は政党政治家として歩みます。彼は男爵だったので貴族院議員ではありましたが。彼は加藤高明死去後に憲政会総裁・首相となりますが金のできない総裁だったそうです。そして、その後は重臣として遇されました。慶応生まれの若槻さんですが、これらのことがとても平易で読みやすい文章で綴られています。

明治・大正・昭和政界秘史などという下品なタイトルが付けられて文庫で復刻されましたが、秘史と言うよりも元の古風庵回顧録で出した方が本書にふさわしい感じの内容です。また、企画されたのが第二次大戦の敗戦後で、原著の発行は1950年でした。彼がすでに80歳台になってからのことですから、記憶の定かでない点もあるようです。また、読者としてはとても気になることでも、彼が特に触れる必要のないと感じたか、または触れたくなかったことは、当たり前ですが記載されていません。私がその点で残念に感じたのは以下のようなこと。

第一次若槻内閣の与党憲政会は少数与党でした。憲政会内では衆議院を解散して総選挙を行い、それにより多数を確保しようとする動きがあったのに、若槻首相は予算成立のために、昭和天皇即位の初年ということを理由として、政友会・政友本党の野党2党首に協力を依頼しました。そして、予算成立の後には「政府においても深甚なる考慮をなすべし」と約束したのです。ここまでは本書にも書かれています。ただ、「深甚なる考慮」が総辞職と野党に受け取られ、それなのに総辞職しなかった若槻首相が嘘つき禮次郎と呼ばれるようになったことや党内からの批判など、またそれらに対する釈明が全くないのは残念です。

第一次若槻内閣は台湾銀行救済の緊急勅令を枢密院で否決されたことにより総辞職しました。ロンドン条約批准の時のように枢密院と対決することはできなかったものなのでしょうか。少数与党だから無理だったのか、だとしたら解散総選挙を選択しなかった彼の判断ミスとも言えます。本書では、この時の枢密院での伊東巳代治の発言を「老顧問官」と一見名を伏せるようにして紹介し、非難しています。著者は「じっと腹の虫を抑えて黙っていた」とありますが、よほど悔しかったのでしょう。

第二次若槻内閣では満州事変が起きます。政府の不拡大方針にも関わらず、朝鮮軍は奉勅命令なしで越境しちゃうし、満州軍もちっとも戦闘を停止しませんでした。本書では、民政党一党の内閣だから軍が命令を聞かないのではと考えて、一時は政友会と連合内閣を組むことも考えたと書かれています。まもなく彼はこの考えを捨てますが、この方針で進もうとする安達内相を止めることができず、閣内不一致から総辞職しました。総辞職して内相だけすげ替えることはむりだったのでしょうね。

また、浜口内閣から第二次若槻内閣にかけては不景気の時代でしたが、その主な原因としては民政党内閣の実施した金解禁があげられます。昭和のこの時期の不況と農村の荒廃が、軍部の台頭、第二次大戦につながった面があると思うだけに、民政党のトップだった著者が金解禁をどう感じていたかに関する記載がないのはとても残念です。

2009年8月29日土曜日

ヨーロッパに架ける橋


T・ガートン・アッシュ著 みすず書房
2009年7月発行 
税込み 上巻5880円 下巻5670円

西ドイツ(BDR)のOstpolitikに関する本です。日本語では東方外交と呼ぶことの方が多いと思いますが、本書では東方政策と訳されています。また、東方政策はドイツ社会民主党(SPD)のブラント・シュミット首相時代の外交を指すものですが、本書ではベルリンの壁の構築から崩壊までを対象として、キリスト教民主同盟(CDU)のアデナウアーの時代から、コール首相時代のドイツ統一までが扱われています。

第二次大戦敗戦後に間接統治の行われた日本とは違い、ドイツでは軍政がしかれました。このため、西ドイツは地方自治の段階から始めて、国家主権の回復を目指すことが必要でした。この西ドイツの対外的自立に向けたプロセスにおいて画期となったのが、1950年代前半に西欧諸国との間に結ばれた条約(西方条約)で、これにより主権の回復が実現しました。また、1955年にはソ連との国交も回復しましたが、その後「ソ連以外で東独(DDR)を承認した国家とは国交を断絶する」というハルシュタイン原則が打ち出され、またポーランド西側国境(オーデル・ナイセ線)の承認も拒否していたので、東側との関係の進展は望めませんでした。したがって、主権は回復されても、分断されたヨーロッパのもとでのドイツ・ベルリンの分断状態は続きました。

1969年のブラント政権誕生後、 デタントの流れに棹さしてこの分断状況を克服する・究極的には統一を目指すためにとられたのが東方政策です。この頃は私も物心ついていたので、ワルシャワのゲットー記念碑を訪れ跪いて献花したブラントの姿のかすかな記憶があります。ブラント政権はハルシュタイン原則を放棄し、1970年のソ連とのモスクワ条約・ポーランドとのワルシャワ条約、1972年の両独基本条約を結び、東方外交を展開してゆきます。オーデル・ナイセ線の承認とそれによる旧プロイセン領などの放棄は当初CDUの反対を受けましたが、ブラントは「とうの昔に賭けに負けて失われたものを除き、この条約によって失われるものは何ひとつない」と指摘し、CDUも後になってこれを容認することとなりました。

ただ「ドイツの分割を心から遺憾に思うヨーロッパの政府はひとつもなかったといっても過言ではなかった」という状況下で統一に向けた政策を実行するために、西ドイツはドイツの分断を克服しないかぎり欧州分断も克服できないという論理を打ち出しました。また、東ヨーロッパでは1953年のベルリン暴動、1956年のハンガリー事件など、下からの改革の要求が圧殺されてきた歴史があったので、SPDは東方政策で「安定化を通じた自由化」戦略をとります。つまり、東欧の政府がより安定化して危機を自覚しなくなってゆけば、自然と自国民の自由・人権を尊重するようになるだろうというねらいです。さらに、東欧の政府がソ連の指示のもとにあることから、西ドイツはまずソ連との間で話を付け、ソ連から東欧の政府に西ドイツの要望を認めるよう指示してもらうような手法を多用しました。

「アメリカ人はムチの力を、ドイツ人はニンジンの力を、フランス人はことばの力を信じている」と言った人がいるそうですが、西ドイツの東方外交での最大の武器は経済力でした。ソ連を含めた東欧諸国の西側での最大の貿易相手国は西ドイツであり、 貿易を通じた変化が追及されました。また、1970年代からソ連・東欧諸国の経済成長は鈍化しましたが、 西ドイツから政府保障付きの借款が供与されるなど資金面でも東欧諸国は依存してゆきました。本来であれば西ドイツから導入した資金を経済成長目的で使用すべきところでしたが、政治改革を行う代わりに国民の不満を抑えるための消費物資の輸入にあてるなどしたため、1980年代末には東欧の債務危機につながりました。

「安定化を通じた自由化」戦略をとったため、ポーランドの連帯などの下からの民主化を支援する点では西ドイツは西側の国の中でも遅れをとりました。しかし、1989年にハンガリーが国内にいた東独国民をオーストリア国境から西側へ亡命させる決断をした背景には、債務危機に対する西ドイツからの金融支援の約束があったからだそうです。そして、この事件以降、ベルリンの壁崩壊からドイツ統一までスムーズに進んだことも、当時のソ連が経済的苦境にあり、ゴルバチョフが西ドイツからの支援を期待していたことが背景にありました。東側の安定化を目指した西ドイツの政策でしたが、最終的には東側の体制転換に役だったと言えそうです。

あと、本書を読んでいて著者の書きっぷりが面白いと感じた点をいくつか。分割されたヨーロッパというのは、過去にも例があったというのです。例えば「ウエストファリア」型の分断、「ウィーン」型の分断、「ベルサイユ」型の分断など。ただ、冷戦の時期が特異だったのは人の交流が非常に制限されていたことだと。

西側と東側が資本主義と社会主義に分かれていたことに関しては、アウグスブルグの和議を持ち出して、「領主の信仰が領民の信仰を決定する」のだと。たしかにそう言われれば、似ているような。

ブラントはベルリン封鎖時にベルリン市長でした。その経験からブラントは交渉で不利な立場に立たされているという痛切な自覚を持っていて、「ベルリンで生まれた新東方政策の本質は、テロリスト国家から人質を釈放するための交渉だったといってもあながち過剰な誇張ではない」と著者は評しています。さらに、東方政策全体についてもストックホルム症候群とまで呼んでいます。まあ、ドイツ統一という目標は東西の隣人たちの同意を得ることによってのみ達成されると言うことを西ドイツ政府は自覚していたので、自然とそれを反映した政策がとられたということなのでしょう。竹島や北方領土は日本の固有の領土と言いながら、対韓・対ソ・対露関係でそれを可能とするような現実的な政策をとらない、却って教科書や靖国参拝問題など反感を買うようなことばかりをしているない日本政府とは対照的です。

東欧への資金援助が、東改革の代用品としての消費財の輸入に用いられた点では、東欧の中でも東ドイツが一番です。東ドイツが政治犯や「共和国逃亡罪」を侵した人を西ドイツに出国させることの代価として西ドイツマルクを受け取る、「自由の買い取り」という仕組みがありました。反体制派の輸出によってハードカレンシーが得られるこんな仕組みは他の東欧諸国には望むべくもなかったと著者は書いています。こういった人身売買やその他の制度から得た西ドイツマルクをつかって東ドイツでも消費財の輸入が行われ、ホーネッカー議長が社会主義国で行列を作らずにバターやソーセージを買えるのは自国だけだと自慢したのだそうです。彼自身は対外債務についての関心も持っていなかったそうで、そんな油断が東ドイツの命とりになったのですね。

ざっと、こんな感じで東方政策に関して学ぶ点が多く面白い本で、また翻訳も読みやすいと感じました。上下巻あわせた本文が500ページ以上、本文より小さな文字で詳細に記された注が170ページ以上にも及ぶ本書ですが、欠点は上下巻あわせて税込み11550円と値段が高い点でしょうか。どうも、みすずの本は高い気がします。

2009年8月22日土曜日

旧外交の形成


千葉功著 勁草書房
2008年4月発行 本体5700円

ロシア革命後に無賠償・無併合を訴えたレーニンと、第一次大戦講和にあたって平和のための十四ヵ条を提案したウィルソンに端を発する「新外交」に対比される概念が「旧外交」です。旧外交の特徴として、君主による外交の独占、秘密外交、二国間同盟・協商の積み重ねによる安全保障、パワーポリティクス外交があげられます。旧外交とは言っても、第一次大戦前の日本にとって、この旧外交は決して旧なものではありませんでした。ウイーン体制後に成熟を迎えるヨーロッパの旧外交(古典外交)とは異なり、19世紀半ばに西欧主体の国際社会に編入された日本は、全く無の状態から旧外交を学び習熟する、つまり旧外交を形成していかなければなりませんでした。具体的には、 同盟・協商関係を全く持たなかった状態から、日英同盟、日露戦争後の日露協商、日仏協商と積み重ねていき、ようやく第一次大戦末期にいたって日本は旧外交に習熟することができたわけです。本書はその過程を描いてます。ただ、その第一次大戦と国際連盟の発足によって、結局これらの同盟・協商は意味を持たないものとなってしまいました。

また、著者は「旧外交の形成」の過程で外務省の一体化と外交の一元化が実現したと評価しています、
「大戦末期から大戦後にかけて、外務省は枢密院を除く他機関(帝国議会・元老・陸軍)からの外交政策への介入を一応排除することに成功した。また、外務省の内部では大戦末期には外交官試験制度が外務省の頂点まで行き渡ったこともあって、外務省高等官ー外交官ー領事官の一体感が醸成されていた。この二つの事態が重層的かつ密接不可分に進展した結果、外交は外務省が処理するという政策決定の型が、第一次大戦末期に完成した。」


本書については学ぶ点ばかりで、内容を評する能力はありませんが、感じたことをいくつか。たった8年しか続かなかった憲政の常道を政党内閣制の確立と呼んだりしますから、昭和に入っての陸軍の外交への介入は別として、第一次大戦末期には外交は外務省が処理するという政策決定の型ができたと評価することもいちおう可能なのでしょうね。

日露戦争前には清国の領土保全と満州からの撤兵をロシアに要求し日英同盟を結んだのに、日露戦争後には南満でロシアに替わる地位を占めてしまったことが、その後の日本の悲劇につながったと思います。歴史にたら・ればはないのですが、日露戦後に韓国の確保だけで満足し、南満は鉄道の経営だけにとどめるという選択がなぜできなかったのか。某仮想戦記小説ではありませんが、いっそ満州での陸戦ではロシアに大敗した方が良かったのではとも感じてしまいます。陸軍が外交に容喙できる理由は、やはり多数の犠牲を払って満州での戦闘に勝ったことなのですよね。

第二次大戦後の介入的ではあるが市場を開放してくれたアメリカとは違って、新外交を提唱してはいても第一次大戦後のアメリカは、本書で取りあげられている移民問題や、国際連盟に加入しなかったことなどなど、自己中心的な印象です。日本が相当行儀良くしても、第一次大戦後の外交は難しかったはずだし、日本国内の不満がその後の陸軍の外交への介入につながるのも、ある点ではやむを得なかったのかもと感じます。

2009年8月18日火曜日

今日公示の衆院選に政権交代を期待

昨日、投票所入場整理券というのがポストに届いていました。公示は今日だということですが、ポスター掲示板と同じく、入場整理券も事前に準備しておくものなのですね。

で、来る衆議院選挙。マスコミは政権選択選挙と報道しています。マスコミの誘導に乗る訳では全然ありませんが、私も今回の衆議院選挙では政権交代に期待しています。現在日本社会の閉塞感は政治の貧困に負うところが少なくなく、その貧困の一因は本格的な政権交代が半世紀以上にわたって行われなかったことにあると私は考えます。1990年代の細川政権・羽田政権があったではないかとおっしゃる方もいるかもしれませんが、あの時の衆議院第一党は自由民主党であり、本格的な政権交代だったとは言えないと思います。なので、今回こそは、衆議院第一党の交代による政権交代をぜひ期待しているのです。

もちろん、政権交代が実現したからと言って、問題の多くがすぐに解決するだろうなどとは思いません。政権交代が常識化している他の議会制民主主義国でも、政治に関する問題は多々ある訳ですから。ただ、日本でも政権交代が自然に行われるようになれば、万年与党と官僚の間の癒着など、ある種の問題は改善していくはずです。

ただ、「責任力」などという見慣れない言葉を持ち出して、安倍・福田両首相の政権投げ出しの無責任さを知る国民に対して、どの面下げて訴えるつもりなのかという印象の自由民主党と比較してみても、民主党の政策の方がずっとましなものかどうかについて疑問がない訳ではありません。例えば医療に関して民主党のマニフェストを見てみると、
医療崩壊を食い止め、国民に質の高い医療サービスを提供する
【政策目的】
○医療従事者等を増員し、質を高めることで、国民に質の高い医療サービスを安定的に提供する。
○特に救急、産科、小児、外科等の医療提供体制を再建し、国民の不安を軽減 する。
【具体策】
○自公政権が続けてきた社会保障費2200 億円の削減方針は撤回する。医師・看護師・その他の医療従事者の増員に努める医療機関の診療報酬(入院)を増額する。
○OECD平均の人口当たり医師数を目指し、医師養成数を1.5倍にする。
○国立大学付属病院などを再建するため、病院運営交付金を従来水準へ回復する。
○救急、産科、小児、外科等の医療提供体制を再建するため、地域医療計画を抜本的に見直し、支援を行う。
○妊婦、患者、医療者がともに安心して出産、治療に臨めるように、無過失補償制度を全分野に広げ、公的制度として設立する。
といった政策が掲げられています。医療崩壊と呼ばれるような事態の解決に向けては医師の養成数を増やす対策があげられていますが、これだけでは全く不十分です。産科・小児科をはじめとした救急医療の荒廃は、病院勤務医の労働条件の過酷さ(当直を挟んで二日連続の勤務が当たり前・処理すべき書類の増加など)と理不尽な医療訴訟(刑事・民事)が主因です。病院の医療にもっともっとお金をかけて、病院勤務医の数を増やし労働条件を真っ当なものとすることがまず必要です。また、医療訴訟については民事裁判を政府がどうこうすることは困難でしょうが、大野病院事件・杏林大割り箸事件などのような不当な刑事訴訟をなくすことが望まれます。大学医学部の定員を増やすだけでは、医師が病院勤務を敬遠する傾向を変えることはできるはずがないし、いま私立大歯学部でみられているような入学者の定員割れが、やがては私立大医学部でもみられるようになるだけなのではないかと思います。民主党にも医師の議員が何人もいるはずなのに、「救急、産科、小児、外科等の医療提供体制を再建するため、地域医療計画を抜本的に見直し、支援を行う」とあるだけで、踏み込んだ具体策が書かれていないことには全く失望です。私は医療以外の分野に関しては充分には分かりませんが、おそらく問題点がない訳ではないでしょう。ただ、こういった懸念があるのは確かですが、それでも日本が政権交代がふつうに行われる国になることの方を重視して、民主党による政権奪取を望みます。

ただ、考えてみると今回の選挙に政権交代を切実に希望しなければならないこと自体がとても不幸なことではあります。なにしろ西松建設事件がなければ、あの小沢一郎氏を首相にすることを望まなければいけなかったかもしれないくらいなのですから。で、この半世紀も本格的な政権交代がなく、旧植民地である韓国や台湾にも先を越されてしまったという日本の現在の不幸が何に由来しているかというと、1960年代(70年代ではもう手遅れ)に政権交代の条件が満たされなかったこと、例えば江田ビジョンの抹殺にあるのではと私は考えています。なので、1960年代、左バネによって直接・間接に政権交代の芽を摘み取り、自由民主党政権半世紀存続の基礎を築いた社会党・共産党の末裔の人たちには今回の政権交代の邪魔をしてほしくはないと感じます。また、第二次大戦後の日本の政治史の研究を志す若手の研究者がこれからぞくぞく出現すると思いますが、左バネの人たちが生きているうちに彼らのオーラルヒストリーも交えてこのテーマについての面白い作品を書いてくれることを期待します。

2009年8月12日水曜日

ヨムキプール戦争全史


アブラハム・ラビノビッチ著 並木書房
2008年12月発行 本体4800円

日本では1973年のヨムキプール戦争を第四次中東戦争と呼ぶことが多く、またこの戦争そのものよりも、それに付随して起こされた石油戦略の発動の方が大きな影響を及ぼしました。そのため、私にはこの戦争の戦闘経過についての記憶は残っていませんが、石油危機によるトイレットペーパー不足などの騒ぎは覚えています。ただ、本書を読むとこのヨムキプール戦争の経過はとても興味深いものです。

大筋は以下の通りです。1967年の六日間戦争で大敗を喫したエジプトとシリアは、失地回復を狙ってソ連との結びつきを強め武器を入手しました。特に、歩兵用対戦車ミサイル(RPGやサガー)と地対空ミサイル(SA6)は、後に緒戦で威力を発揮することになります。一方、イスラエルは六日間戦争の戦訓から、戦車を重視するドクトリンをとるとともに、アラブの軍事力に対して兵数は多くとも能力・士気が決定的に劣ると評価していました。また、自らの情報機関の能力にも自信を持っていて、アラブ側に開戦の兆しが見えてから予備役を動員しても充分に間に合うと考えていたため、対シリアの北部戦線(ゴラン高原)、対エジプトの南部戦線(スエズ運河)とも、少数の部隊しか配備していませんでした。しかし、軍事的に劣るアラブ側が攻撃して来るはずがないという思い込みによって判断を誤った情報機関・軍・政府によって、ユダヤ教の最も重要な休日であるヨムキプール(贖罪の日)に奇襲攻撃されてしまいます。当初、イスラエル側は敵のいかなる領土進出も拒否する方針で臨んでいたため、どのような進出も阻止する必要から手持ち戦力を薄くばらまくこととなり、シナイ半島でもゴラン高原でも戦力の集中という機甲の原則が無視され、各個撃破につながりました。しかも、アラブ側の地対空ミサイルにより航空機による対地攻撃の効果的な実施が困難となり、エジプトの歩兵の対戦車ミサイルによって、歩兵を随伴せずに行動したイスラエルの戦車が多数撃破され、ゴラン高原の南半とシナイ半島の東岸を占領されてしまいました。ピンチに陥ったここから、イスラエルの反撃がまずゴラン高原で始まります。
シリア軍は、少しもひるまず大胆に作戦計画を推進したが、次第にその欠点を露呈するようになった。訓練、戦術、指揮のいずれにも問題があった。群をなして押し寄せても、イスラエルの戦車に次々と仕留められていくのである。イスラエルの戦車は射撃速度が速く、遠距離から撃って、しかも命中率が高かった。イスラエルの政治および軍首脳の判断ミスで、第一線部隊はアラブの奇襲攻撃にさらされた。第一線の将兵はプロ中のプロで、戦術、射撃にすぐれ、冷静に行動した。その資質が、政治および軍首脳の誤りを補償していたのであるが、もちろん十分に補償できるものではなかった。
また、シナイ半島でもスエズ東岸を占拠していたエジプト軍の間隙をついてスエズ西岸への渡河に成功します。そして、スエズ東岸のエジプト第3軍を包囲する形をつくり、国連安保理での停戦決議の受け入れとなりました。

自他ともに優勢と判断されていた側の国が油断によって緒戦に敗退し、その後に地力を発揮して挽回するという展開をとったのがヨムキプール戦争です。この劇的な戦闘経過に加えて本書の著者の筆力はかなりのもの。筋立ても、面白さも、トム・クランシーの小説レッドストームライジングに匹敵するくらいですので、ぜひ一読をお勧めしたい戦史です。また、巻末の参照文献リストを眺めても日本語に訳されているものは一つもないような分野なので、そういう意味でも貴重な本だと思います。翻訳・刊行された方には感謝。

本書は冷戦の実情をかいま見せてくれる点でも興味深く読めました。地中海に面する基地をアルバニアで失ったソ連は、シリア・エジプトとの関係を深めて武器を供与しました。しかし、六日間戦争でシリア・エジプトが大敗した結果、ソ連製兵器の信頼性にも疑問をもたれかねない状況となり、ソ連のアラブの軍の能力に対する評価は非常に低いものでした。ロシアはヨーロッパかどうか問題になりますが、こういう際には白人としてアジア・アフリカ人を劣等視している傾向もあるのかと感じます。このため、失地内服をもくろんだエジプトがイスラエルとの再戦を計画した際にはソ連から止めるように勧告されたほどで、これを不服としたサダト大統領はソ連の軍事顧問団を一時帰国させたこともありました。東側の影響下にある国とは言え、決してソ連の意に添った行動ばかりをとるわけではなかったわけです。

また、東側の影響下の国がソ連から離れる行動をとった例もこのエジプトです。ソ連から武器類を輸入しながらこの戦争を戦ったエジプトですが、停戦交渉の過程で敵であるイスラエルを支援するアメリカに接近する路線をとり、最終的には1978年のキャンプ・デービッド合意につながります。戦闘では緒戦を除くと劣勢に立たされていったエジプトですが、外交的にはスエズ運河再開・シナイ半島占領地の返還などの目標を達成することに成功したわけです。冷戦というと、キューバ危機とか東ヨーロッパの状況、また昔々やったバランス・オブ・パワーなんていうPCゲームのことが思い出されたりして、東西がくっきりと分かれて対立しているとうイメージがあったのですが、デタントの進んできているこの頃にはこういうエジプトみたいな動きが可能だったわけですね。

2009年8月10日月曜日

TidBITSの記事の中のSumoという単語

TidBITS日本語版の最新号に、「Google CEO の取締役辞任、競争加熱を示唆する」という記事がありました。AppleとGoogleとMSという三者が異なるアプローチで競争しているという内容でした。そして、まとめには
これら三社はそれぞれ違うため、ただ一社が勝者となることは決してないであろう。このため、この三社の競争はより風変わりなものとなり、勝ち負けのチャンスのない相撲のように、3人の力士が土俵上でぶつかりあっている感じなのだ。だから、将来について何らかの予想をするなど不可能なことであり、だからこそ、この先どうなるのか見守っていくことは大変興味深いことだろう。
と書かれていました。これを読みながら、「勝ち負けのチャンスのない相撲のように、3人の力士が土俵上でぶつかりあっている」という表現が目をひきます。

英語版のもとの文章を見てみると、この部分は
a bit like sumo wrestlers bumping each other around in the ring with no chance of winning or losing
となっていて、確かに相撲レスラーと書かれていました。この記事は特に日本との関連があるわけではないのですが、そういう記事の表現にもふつうに使われるほど、Sumoという単語は一般的なのですね。巨大企業同士の闘いを表現するのに、ふつうのwrestlerではなくsumo wrestlerという単語を使ったのは、より太った大男を連想させて適切ということなのでしょうか。

TidBITS日本語版にはメールで配信されてた頃からお世話になってます。日本語版翻訳チームの方々、ありがとうございます。

2009年8月9日日曜日

iPhoneの擦り傷とひび

通勤の途中にiPhoneを持っている人をみかけることが増えてきました。iPhone所有者の特徴としては、ふつうのケータイを持っている人よりも平均年齢が高い印象で、ほかのケータイと2台所有の人も見かけることと、女性が少ない感じはします。

で、これまでみかけた人はみんな、iPhoneをケースに入れていました。裸で持ってる人を西武国分寺線の中で見かけたのですが、裏が銀色だったのでiPod touchのようです。やはり、ケースに入れるのがふつうなんでしょうか。私の場合は裸で尻ポケットに突っ込んでいます。


裸の状態で一ヶ月半もつかっていると、裏面のアップルのマークにはこんな感じの擦り傷が。


また、液晶画面を囲んでいる銀の縁にも少し傷がついてきています。


購入した頃から、白の方のプラスチックにはひび割れが見られるという噂がありました。新品の頃にはよく観察しても全然ひびなんてなかったのですが、最近はこんな感じにひびが見られるようになりました。通勤途中はiPodとしても使っているので、このイアフォンジャックは一日に一回以上は抜き差ししています。それで、ひびが入ったのでしょうね。

擦り傷やひびはこれからも増えていくとは思うのですが、自分のiPhoneの個性と思って、このまま裸で使い続けるつもりです。ただ、ストラップだけはつけたいかな。

2009年8月8日土曜日

検定絶対不合格教科書 古文


田中貴子著 朝日選書817
2007年3月発行 本体1400円

教科書といえば歴史の分野ばかりが問題なのかと思っていましたが、そうではないようです。
  • 本来なら易しい明治期の文章から教えはじめればいいのに、古文で教えられる文法が平安時代のものなので、収録されている作品が平安〜鎌倉期のものに偏っている
  • 性的な意味を含んだ文章の掲載が忌避されている
  • 現代国語と同様に、登場人物の気持ちを問う設問によって、道徳教育的な誘導がされている
  • 後世に書かれた想像による人物画が挿入されていることが多く、作者のイメージが変に固定されやすい
などなど、いろいろ問題があるそうで、勉強になりました。

また、第一部では教科書によく採用されている5つの文章を読みなおすという企画がされています。例えば、中宮定子の「香炉峰の雪はいかならむ」という問いに清少納言が御簾を上げたことで有名な枕草子の「雪のいと高う降りたるを」の段。定子をかこむサロンの雰囲気を称揚するために書かれた枕草子なので、自慢話を書いたわけではないと今では解釈されているのだそうです。でも教科書には、清少納言を高慢ちきな女性としてとらえるような設問が載せられています。というのも、女性はその能力をあからさまに発揮すべきではなく控えめにすべきという道徳的な意味が込められているからなのだとか。また、白氏文集のもとの詩からこれは定子が朝寝坊した日のことなのではとか、いつもなら開けてあるはずの格子が閉じられていた理由なども検討されています。

ほかの例でもそうですが、読み込むと細かな点までもが文学的にはいろいろと検討の対象になりうるということが分かってびっくりしました。説話や戦記物語なんかは文庫本で読んだことがありますが、こういう例をみせられると、読んでいながらその文章に込められた意味を多々見過ごしていたのだろうと感じさせられます。

2009年8月7日金曜日

分子進化のほぼ中立説


太田朋子著 講談社ブルーバックスB1637
2009年5月発行 税込み840円

分子進化の中立説が淘汰説との論争の下にあった頃、著者は以下の3点を疑問に感じたそうです。
  • ①淘汰を受ける突然変異から中立突然変異への移行は、いったいどうなっているのか
  • ②分子時計が世代の長さにあまり関係なく、年あたりほぼ一定となるのはなぜか
  • ③集団内多型の度合いが各種生物で狭い範囲に収まってしまい、中立説の予測とはくい違うのはなぜか
そして、非常に弱い淘汰を受ける弱有害効果を持つ突然変異が多く存在することを仮定すれば、これらの疑問を説明できることに気付きました。これが、弱有害突然変異仮説=「ほぼ中立説」なのだそうです。例え同じアミノ酸配列に翻訳される同義置換であっても、完全に中立な遺伝子の変化なんてなさそうなことは理解できますから、この「ほぼ中立説」の考え方は受け入れやすいですね。

私自身もむかしむかし木村資生さんの分子進化の中立説(1986年、紀伊國屋書店)を読んで一番に疑問に感じたのは、②の分子時計が世代の長さにあまり関係なく、年あたりほぼ一定となるのはなぜかという点です。これに対して、著者は本書で、
一般に世代の長い動物はからだが大きく集団サイズが小さいが、世代の短いものは逆である。一方、集団サイズが小さければドリフトの効果が大きくなり、ほぼ中立突然変異の割合が増える。したがって、世代効果による年あたりの突然変異率の減少と集団サイズによるほぼ中立突然変異の増加とが打ち消しあって、年あたりの一定性に近づく
と簡潔に説明というか、言い切っています。勢いにおされて、納得してしまうところです。木村さん自身も分子進化の中立説の中で同じような説明をしていますが、学術書だから慎重というかもっとずっと歯切れがわるかったのでした。

本書はブルーバックスとしては本当に久しぶりに購入した一冊です。中学から高校生の頃にはブルーバックをよく読んだもので、何となく分かりやすい啓蒙書という印象を持っていました。ただ、本書の場合には、ほぼ中立説の分かりやすく詳しい説明がなされているというよりは、ほぼ中立説から導かれる要点を詳しい説明ははしょってプレゼンテーションしてくれているという感じです。編集者の人が脚注や巻末の用語集をたくさんつけてくれているのですが、中立説に対する基礎知識のない人がこの本を読んでどこまで理解できるのかというと疑問が残ります。興味がある人は木村さんの分子進化の中立説を読んだ方が詳細な説明があって、かえって分かりやすいのではないでしょうか。あちらにも、ほぼ中立説に関する記載はありますし。

では本書が読んでみてつまんない本だったかというと、全然そんなことはありません。遺伝子発現調節や形態進化などなどの最近の知見とほぼ中立説との関連についての著者によるプレゼンテーションが面白く感じられました。

2009年8月2日日曜日

伊藤博文と韓国統治


伊藤之雄/李盛煥編著 ミネルヴァ書房
2009年6月発行 本体5000円

伊藤博文が統監として赴任した当初は韓国を保護国として統治し近代化するつもりだったが、韓国ナショナリズムの興隆によって断念し、山県・桂らの併合論に反対しなくなったと最近の日本では考えられるようになってきているのに対し、韓国では併合への道を強圧的に推し進めた人物としてとらえられることが今でも多いのだそうです。本書は日韓の12人の著者による論考からなっていますが、日本の著者は伊藤博文を当初からの併合論者とは考えていないのに対し、韓国の著者は日本側の見解にそって考えている人と、当初から強圧的併合論者だったとする人に分かれていました。伊藤は内閣総理大臣を4回も経験していて、その人が64歳になってから栄職である枢密院議長を辞してわざわざ韓国へ統監として赴いたのは、単純に併合を目的としていたというよりも、併合論者が多い中、保護国として韓国の近代化をめざすという難題に対処できるのは自分しかいないという感覚だったのだろう、という意味のことが第一章には書かれています。この見解に私も同感です。

被植民地化の危機意識から多くの藩に分かれていた日本を明治維新で一つにまとめ、しかも富国強兵を目標として被支配者にまで国民という意識を浸透させ、日清・日露戦争では兵士として勇敢に戦わせることができたのは、ナショナリズムのおかげだったと思います。ナショナリズムで日本を一つとすることに成功した伊藤博文が、韓国民が反日でひとつにまとまる可能性を重視せずに統監として赴いたことは不思議なことです。本書では韓国の司法改革や条約改正に関する論考のほかに、伊藤の思想、韓国の進歩派や儒者に対する対応に関する論考も載せられていますが、どうして伊藤が韓国を保護国として運営できると思っていたのか、彼のナショナリズム観についての分析は不十分と感じました。

あと、いくつか興味深かったこと。安重根による暗殺に対する韓国民の反応についての第10・11章ですが、この事件を必ずしも全員が歓迎したわけではないのですね。植民地化などの前途への憂慮を示す意見や、追悼会や謝罪使といった話があったことには驚きました。また、第12章には、追悼のためにソウルに春畝山博文寺が建立されたことが書かれていました。銅像だと、像を攻撃する行動が象徴的に行われるかもしれないので、仏寺の建立になったのだそうです。このお寺はようやく昭和になってから建設され、敗戦まで観光名所として日本からの修学旅行生が訪れたり、内鮮融和のための行事が開催される会場となり、日本の敗戦後には放火されて消失したそうです。このお寺のことは全く知らなかったので、勉強になりました。

また、本書のあとがきには編者の伊藤さんによる
なお、韓国側の誤解を避けるために記しておくが、伊藤之雄の先祖は、幕末において、幕府あるいは徳川勢力を支えるため、伊藤博文が属した長州藩と闘った桑名藩士である。伊藤博文およびその子孫との血縁・親戚関係はまったくない。
という記載があります。日韓関係の微妙さを示す象徴的な文章だと感じざるを得ませんでした。