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2009年9月26日土曜日

近代日本の国家構想


坂野潤治著 岩波現代文庫 学術228
2009年8月発行 本体1200円

1871ー1936というサブタイトルがありますが、通史ではありません。第一章では、明治維新の革命目的でもあったナショナリズム・工業化・民主化という三つの立国の原理をキーに明治十四年の政変までが分析されています。これら三つを同時に追及することは明治初年代の日本の能力を超えていたので、どれを重視するかで、政治勢力が三つのグループに分類されます。このうちナショナリズムを重視する「新攘夷派」は、征韓論を唱え、台湾出兵を実現しますが、西南戦争に敗れて姿を消します。「上からの工業化派」も、西南戦争後のインフレーションと貿易収支の悪化から、官営企業の払い下げを余儀なくされるなどして挫折します。そして、「上からの民主化派」も国会開設運動の高まりを背景にしながら、明治十四年の政変で国会開設が十年後に先延ばしされて、挫折することになりました。全然うまく要約できてませんが、読んでみるとなかなか鮮やかな分析と感じました。

第二章では、イギリス流の議会政治を目指して論陣を張った福沢諭吉や徳富蘇峰(この頃はウルトラナショナリストではなかった)を軸に、保守・革新との三極構造で明治十四年の政変以降の政治史を描いています。

第三章では、穂積八束、美濃部達吉、吉野作造、北一輝などの明治憲法の解釈が論じられています。内閣制については、明治憲法の制定に携わった人の中でも、例えば伊藤博文、井上毅のように、内閣が連帯して輔弼の任に当たるのか、各国務大臣がそれぞれの職掌について単独で天皇を輔弼するのか、見解が一致していなかったそうです。美濃部達吉は、明治憲法を内閣中心的に解釈することを主張しました。彼が兵力量の決定に内閣が関与すべきとしたのも、政党内閣を擁護したのも、内閣が国政の中心にあるべきとの考えからだったそうで、政党内閣の基礎となる議会については必ずしも重視してはおらず、普通選挙にも必ずしも賛成ではなかった(一人一人の能力が異なるのに、参政の権利だけ平等に与えられるのはおかしいという考え方)とのことです。たしかに、敗戦後の日本国憲法審議の際のことを考えると納得。

井上毅や穂積など、内閣中心的な考えを拒否する天皇大権論者の存在は不思議に思えます。国務の各省や陸海軍や枢密院といった分立する機関をコントロールすることができるのが天皇だけという制度には無理があると思うのです。天皇も生身の人間ですから、幼少だったり、病気になったり、認知症になったりした時どうするつもりだったのでしょう。摂政をたてることができるから問題ないと思っていたのでしょうか。それに、もし超専制的な天皇が即位したりしたら、危ないとは思わなかったのでしょうか。押し込めちゃえばいいと思っていたんでしょうかね。

第四章では、政友会を保守的に、民政党をイギリスの自由党のごとくに、それと労働組合・無産政党の右派をからめて、護憲三派内閣の成立から二・二六事件までが扱われています。著者自身、政友会=悪玉、民政党=善玉として誇張して書いたとしていますが、この解釈自体は私も好きです。なので、田中内閣の辞職後の民政党内閣が金解禁政策を看板としてしまったことを、著者同様、残念に感じます。また、五・一五事件でただちに政党内閣復活の目が無くなったわけではなく、民政党・社会大衆党の支持があった岡田内閣期は政党内閣期と延長としても考えることができるという考え方にも頷かされました。

この本は、元々1996年に出版されたそうです。2009年8月に文庫として出版されるに際して、政権交代を伴う二大政党制という福沢諭吉の夢が叶うだろうとと著者はあとがきで書いています。私も、戦前の政治史の本を読む際には現在のことを気にして読んでいます。自由民主党が政友会で、民主党は民政党にあたるのかなぁとか。

2009年9月24日木曜日

ルポ戦後縦断


梶山季之著 岩波現代文庫 文芸124
2007年9月発行 本体1000円

「トップ屋は見た」というサブタイトルがついています。トップ屋なんていう言葉は聞いたことはあっても、使ったことがありません。Macの辞書で調べてみると、フリーランスライターってなっていますが、もっとおどろおどろしい印象の言葉のような感じがします。今上天皇が皇太子だった頃の皇太子妃のスクープ、王子製紙スト、赤線廃止、産業スパイ、財閥解体などなど、ほとんどみんな私の生まれる前の話題で、文藝春秋・中央公論・週刊文春などに掲載された記事から選んでありました。雑誌に載っていた文章だから読みやすいし、ささっと短時間で読めました。

この中では、ブラジルの勝ち組・負け組の騒動にユダヤ人や日本人が勝ち組から金銭をだまし取る詐欺が絡んでいたっていう話が、全くの初耳で、驚きです。でも、これってホントにあったことなのか、著者の創作なのか、どっちなんでしょってくらい怪しい印象のお話し。日本に来ている日系ブラジル人の人たちなら知っているんでしょうか。

2009年9月23日水曜日

宋銭の世界


伊原弘編 勉誠出版
2009年8月発行 本体4500円

以前「『清明上河図』を読む」という本を読んだことがあります。これは本書の編者がアジア遊学という雑誌の特集を本にしたものでした。本書もやはりアジア遊学の特集を本にしたものだそうで、銀や紙幣や算数教育などなども対象とした13本の論考が載せられています。

「国際通貨としての宋銭」という論考は、宋の社会では銭貨が不足していたという通説に対して疑問を呈しています。なぜなら、宋銭の大量に鋳造された北宋の時代に物価は次第に上昇していて、銭貨が不足しているなら物価が低下するはずなのにとのことです。もちろん、ある地域やある時期には不足していることもあったでしょうが、一般的には銭貨は過剰だったのだろうと。また、北宋銭が大量に東・東南アジアへ輸出されたことについても、銭貨は素材価格よりも高い額面を持っているので、銅銭を輸出して海外からモノを輸入することが有利だったからと説明してあり、納得してしまいます。

論考のうちの2本は古銭の収集家(古泉家という優雅な呼び方があるそうです)が書いています。「北宋銭と周辺諸国の銭」では、銭貨の大まかな分類や、銭の各部分の呼び名や、鋳造法などが説明されています。「江戸時代の古泉家と古泉書」では江戸時代の古銭収集家(その中には大名もいました)の成果とその出版物が紹介されています。趣味で古銭を収集・研究している人たちは、ある点では考古学者や歴史家よりもずっと深い知識を持っているわけで、そういう知識がもっと活かされればと感じます。
というのも、むかし、ある著名人の遺した明治から昭和までの大量の書簡を整理している人と話した時に、封筒の消印を見ても年号がないので、年号が書かれていない手紙では昭和と大正の区別が難しいことがあると聞いたことがあります。この問題は切手を見ればほとんどは問題解決するはずで、同じ図案の赤い三銭切手でも大正と昭和では、すかしの有無や印面の大きさや用紙に色つき繊維が混入されているかどうかなどでほぼ確実に大正と昭和を区別できると思ったからです。

銭貨がテーマなので、やはり省陌法や撰銭に関する論考もありました。「宋代貨幣システムの継ぎ目」という論考では、宋代の短陌慣行がとりあげられています。国家財政に使われる77文省陌は銭貨不足に対応して1.3倍のデノミ政策だったとする説や、都市の市場でつかわれた75・72・68・56文省陌などは77文省陌から各商品の税金をさしひいたものという説などが紹介されています。紹介している筆者自身は必ずしもこれらの説に満足していないようですが、私は説得的だと感じたので原著を読んでみたくなりました。

撰銭については「日本戦国時代の撰銭と撰銭令」という論考があります。撰銭が可能なのは銭文が読めるからだという指摘には全く同感です。ただ、その他の主張はどうも冴えない印象です。この論考で筆者は、「撰銭は超時空的に存在する。問題は、日本では戦国時代に入り撰銭令が頻発する点にある」と書いています。たしかに、戦国時代に荘園領主や寺院や戦国大名から出された撰銭令がいくつも紹介されてはいます。頻発していると筆者は言いたいのでしょうが、単に統一政権がなかったから、狭い範囲でしか通用しない撰銭令がばらばらに各所から出されていただけで、これを頻発と呼ぶべきかというと疑問です。また、撰銭令の目的について筆者は、「食糧需給ー価格抑制策としての位置づけ」があるとしています。戦争や飢饉などの食料価格高騰時には、支払うための銭の量が不足する銭荒となってしまうので、それを緩和するために撰銭令が出されることはあったのかも知れませんが、価格抑制策と呼んで良いのかどうかはやはり疑問です。さらに、筆者は「すべての撰銭令がこのような性格を持つということではない」とか「撰銭令の各事例間の性格の差異に自覚的な分析が必要であり、全ての撰銭令の性格を一元的に説明することには慎重たるべき」などと書いていて、読者としてははぐらかされた感じです。

2009年9月22日火曜日

第百一師団長日誌


古川隆久・鈴木淳・劉傑編 
中央公論新社
2007年6月発行 本体4200円

砲兵科出身者として珍しく師団長にまで昇進した伊東中将は、それを最後に退役となりました。しかし、日中戦争の拡大に伴って新設された第百一師団の師団長として招集されました。本書には、1937年8月24日に招集の内命がもたらされてから、1938年9月末に負傷する前までの伊東中将の日誌が収められています。日誌そのものだけでは読んでも意味や意義が不明な点が多いと思われますが、本書の場合、日誌のその日の記載に添えて、三人の編者が詳細な注記をつけてくれているので、理解しやすくなっています。いくつか気付いた点を紹介します。

特設師団は、常設師団よりもかなり装備の質が劣り、兵も40歳ちかい人までが含まれていました。また、第百一師団は東京府とその周辺の県から兵が招集されていたので東京兵団とも呼ばれましたが、都会出身の兵士が多いことからも弱いと考えられていました。しかし、この弱力師団は編成後、内地で訓練を行うこともなく、日中戦争初期の激戦地である上海の呉淞クリーク戦に投入されました。以上のような悪条件から当然苦戦となり、この日誌にも神仏の加護を願う記述が何度もでてきます。師団長が神仏にすがるのはまずいような気もしますが、それだけ苦しかったのでしょう。

この戦いでは、死傷者、特に連隊長をはじめとして将校にも死傷者が多く、
幹部の死傷多きは、近接戦闘に於て、自ら先頭に立つに依る。然らざれば、兵之に従はざればなり。
という事情があったからだそうです。現役兵とは違って、家庭や仕事や社会的地位のある予備役・後備役兵は、お国のためだからとはいっても自分が死ぬわけにはいかない、と感じていたわけですね。

この緒戦の苦戦によって、第百一師団は上海派遣軍から戦力としては信頼できない師団とみなされてしまいます。装備も兵の質も訓練も劣る師団を動員したわけですから弱くて当たり前で、弱いことの責任はなにも師団長が負うべきものでもないと感じます。しかし、師団長である伊東中将はこの評判を覆すことを望んでいました。ただ、弱いと思われたことで上海戦後は後方警備にあてられる期間も長く、かえって兵士にとっては幸いでした。また、師団長自身も、弱いという汚名を注ぐために無理をするという人ではなく、自身のメンツよりも兵士の死傷を少なくすることに気を配っていたことが日誌の記述から分かります。
わが部隊は、大部分が招集者で家族持ちである。なかには四十歳にちかい兵隊もある。だから、ひとりでも兵の損害は少なくしたい。いたずらに隊長が功名に走って部下を犠牲にするようなことはもっともつつしみ
これは、師団長自身ではなく、第百一師団のもとにある第百四十九聯隊の連隊長が出征の式で述べた言葉だそうですが、日中戦争はじめの頃には、おおっぴらにこういう風に言える雰囲気があったわけですね。

上海の警備に当たっている時期には、いろいろな人の訪問があることに驚ろかされます。特に、内地から慰問という名目で来る人が多いのですが、芸能人による慰問だけではありません。貴族院議員や地方議員、会社の重役、僧侶などなどが酒類やお金を携えて、多数訪れています。慰問する人にとっては、上海という日本からの交通の便が良い安全な後方地帯に、慰問を兼ねた観光旅行に来ている感じなのでしょう。

また、皇族に関する記述も目立ちます。皇族は軍人として職務で上海を訪れる・通過するのですが、上海を警備する師団の長にとっては、空港や港に出迎えに行ったり会食したりするのも仕事のうちのようです。

1938年夏には武漢三鎮攻略戦に第百一師団も参加します。この時にもやはり苦戦する場面があります。本書によると、苦境を打開するために毒ガスを使用した場面が2回ありました。毒ガスの使用に関しては特に感想は付されていませんが、条約で使用の禁じられている平気だという認識はあまりなかったようです。

2009年9月19日土曜日

日宋貿易と「硫黄の道」


山内晋次著 
山川出版社日本史リブレット75
2009年8月発行 本体800円

新安沖の沈没船からは28トンもの銅銭が発見されたのだとか。中世の日本が大量の銅銭を輸入するかわりに何を輸出していたのか、とても興味あるところです。教科書的には、金、水銀、扇、刀剣、硫黄などが挙げられ、ていますが、本書では特に硫黄を重要視しています。火薬の発明とともに硫黄の需要が増えましたが、宋の領域内では硫黄の産出がなかったので、十世紀末以降に日本からの輸出量が増えたのだそうです。特に、1084年には日本から300トンもの硫黄を輸入する計画が建てられて、実際に買い付けのための商船が宋から博多に派遣されたことが日本側に遺された史料からも確認できるのだそうです。本書によると、船のバラストとしても使われるほど多量に輸出されていた硫黄の主産地は俊寛の流された鬼界島(薩摩硫黄島)でした。

以上、とても勉強になりました。でも、いくつか疑問も残ります。例えば、金が主たる輸出品ではないという本書の主張。これまでは、日宋貿易の輸出品として金が重要視されていたのだそうです。しかし、著者によるとこの頃の日本の産金量はせいぜい年間数百キログラムと推定されるそうです。新安沖沈没船クラスの商船でも安定航行のためには数十トンのバラストが必要で、日本の年間産金量の数百キログラム分の金を一隻に積み込んだとしても、とてもバラストとしては足りない、なので金は主な輸出品ではなかったろうと著者は主張しています。でも、この議論はかなり変ですよね。支払いのために数百キログラムの金の積載で充分なら、金を積むほかにバラストとしては石ころでも積めば済むだはずです。金が主たる輸出品でない理由として、輸出できる金の量がバラストとして使用するには重さが不足しているからというのでは説得力がありません。

本書を読んでいて知りたくなったこと
  • 日本の中国からの銅銭輸入量はどれくらいだったのか。年ごと、時期ごと、中世を通しての総輸入量はどのくらいと推定されているんでしょう。また、金や硫黄の輸出量はどれくらいだったのか。
  • 中世各時期の金銅比価は日本と中国で各々どれくらいだったのか。江戸時代初期は金一両(慶長小判で金4.76匁 =17.85g)と銭四貫文(一文3.75gx4x960=14.4kg)からすると800:1くらいかな。これとはかなりずれていたのでしょうか。
  • 硫黄島で輸出商人は硫黄の生産者から何を代価(米が主?)としてどのくらいのレートで硫黄を買い付けたのか。硫黄の生産値価格。
  • 大量の硫黄を売ることにより、硫黄島は経済的に潤っていたのか。ゴムで繁栄したアマゾンのマナウスみたいな感じが少しでもあったのかどうか。
  • 中国では主に銅銭と交換したのでしょうが、銅銭と硫黄の交換レートはどれくらいだったのか。硫黄の中国での価格。

2009年9月18日金曜日

1968 の感想の続き


本書の主題は『あの時代』の叛乱を日本現代史の中に位置づけなおし、その意味と教訓を探ることにある。『あの時代』の当事者の方々のなかに本書の描写に違和感をもたれる方がいたとしても、ささいな事実誤認(と当人が思うもの)など小さな次元で反発や批判をするより、本書の主題をふまえた議論をしてくださることを期待する。
と著者は書いています。政治家を対象とした政治史とは違って本書の主題の対象となる「当事者」はきわめて多数であり、その中で確固とした目的とそれを達成するための手段とを意識して行動していた人は少なく、「あの時代」の流れの中で自分がどんな位置にいて何をしているのかがはっきり分かっていなかった当事者の方が多かったものと思われます。なので、本書の史実認識に多少の誤謬があったとしても、歴史叙述の大筋自体は「あの時代」を経験していない者が「あの時代」を知るために充分に役立つものだと感じます。また、私は各セクトの内実を知らないので、元・現セクト関係者が本書の記述を読んでどう感じるのかは分かりません。ただ、学生時代に民青の諸君(個人として面識のある人は良い人ばかりなのですが)にあんまり良い印象を持たなかった私にとって読みながらうなづいてしまう記述が多いところからは、(元民青同盟員や活動家でも後に日本共産党とは縁の切れた人はともあれ)おそらく元民青同盟員や活動家で現在も日本共産党に関係している人は本書の記述を面白く思わないだろうとは感じました。

その意味で筆者は、『連合赤軍事件の原因は何だったのかとか、無理に総括しようとしても、ろくな結論なんか出てきませんよ。何も出てこない』という青砥幹夫氏が2003年に述べた意見に賛成である。感傷的に過大な意味づけをしてこの事件を語る習慣は、日本の社会運動に『あつものに懲りてなますを吹く』ともいうべき疑心暗鬼をもたらし、社会運動発展の障害になってきた。しかし時代は、そこから抜け出す時期に来ているのである。
昨日のエントリーで書いたように連合赤軍事件はショックでした。ただ、連合赤軍事件からリアルタイムで衝撃を受けたのはせいぜい私と同世代までのはずで、私よりも若い現在30歳台以下の人たちがこの事件にどういった感想をもっているのかと言う点はぜひ知りたいところです。新左翼運動が、検討にも価しないものになったのは確かだと思うのですが、本当に連合赤軍事件が日本の社会運動発展の直接的な障害になっているとまで言えるのかどうかはよく分かりません。1968の頃の人たちから私と同世代くらいまでが羮に懲りて社会・政治運動を避けたために不毛の時代が続いて、それより若い世代が社会・政治運動に興味を持っても、パイオニアとして以外には活動しにくくなってしまったということになるのでしょうか。

東大闘争の発端となった医学部闘争について。「医学部卒業生が高度成長前と異なり開業医になるのが困難になった」と書かれています。1968の頃で開業が困難になったなどということはないはずで、その後も21世紀に至るまで開業医はどんどん増えました。実際に開業が困難になりつつあるのは、医療界で「1970年パラダイム」が崩壊しつつある現在のことだと思うのです。また、名大小児科の教授選で東大出身者が敗れたことをもって、医学部教授に東大医学部卒業生がなりにくくなったとするような記述もあります。たしかに旧帝大の教授にはその大学の出身者がつくようになったのでしょうが、1970年代に新設医大がつぎつぎとできたおかげで、その教授になれた人はかえって増えたはずです(新設医大の教授では不満だったのかも知れませんが)。もちろん、この開業医・医学部教授に関しては、当時の東大医学部生の認識を著者が記述しているというだけで、著者のささいな事実誤認とは言えないでしょうが。

高度成長下で漠然と抱いていた「現代的不幸」を、表現できる言葉が日本では流通していなかった。そうした彼らが選んだ言葉が、マルクス主義だったといえる。そうなれば、「疎外」論を中心とした人間的な側面がマルクスのなかで好まれたのは当然だった。
なぜ1968の頃の学生たちがマルクス主義の言葉で語っていたのか、とても不思議でした。彼らがマルクス主義による変革の実現を信じていたようには思えなかったので。でも、ほかに語る言葉を持たなかったということなら、納得できるような。むかし廣松渉さんの講義を聴いたことがありますが、疎外論・物象化論などが扱われていても興味を持てなかったことだけを覚えています。ただ、背景としてこういう初期マルクスの受容があったから、彼の研究が注目に価したものになっていたということが、今頃になって分かりました。

日本の学生叛乱と西側先進国の学生叛乱とを比較しても共通点が少ないという著者の主張でした。叛乱の同時性を説明するのに、著者は大学生数の急増を挙げていますが、これと背景にベトナム反戦運動があったことだけでいいのでしょうか。それより、西側先進国で大学生世代の人口の一時的な増加をもたらしたベビーブーマーの叛乱であったからこそ、同時性と大学生数の増加とを伴っていたとした方が納得できる気がします。

1968の感想

2009年9月17日木曜日

1968


小熊英二著 新曜社
2009年7月発行
本体 上巻6800円 下巻6800円

1968というタイトルですが、60年安保前後のセクトの分立から1972年のあさま山荘事件ころまでが描かれています。上下巻ともに1000ページ以上もある分厚い本で、本屋さんで初めて見かけた時には買うのをためらってしまったくらいです。でも実際に読み始めてみると、厚さのわりには読みやすく感じました。本書は雑誌や新聞、日記、回想、記録集などからの引用文を柱に構成されていて、それが読みやすさの一因かと感じました。発言や会話体の引用は感情移入を誘う作用もあり、例えば佐世保エンタープライズ寄港阻止闘争で機動隊に暴行されて負傷し、放水でぬれねずみにされながらもデモを続ける三派全学連の学生に対して、共感した一般市民が食事やカンパを提供するくだりは、涙なしでは読めませんでした。また、ふつうの専門書に比較して表面が粗で少し薄めの用紙がつかってあるので、この厚さの本でも寝転がって読むことがそれほど苦でない重さなのも本書の特色。そして、面白かったので、おすすめです。

上巻では、1950年代の日本共産党の状況から60年安保での全学連の分裂から始まり、東大闘争までをざっと以下のような流れで描かれています。
60年安保以降、学生運動の沈滞と新左翼がより小さなセクトに分裂してゆく傾向がみられました。しかし、1967年の羽田事件での学生一名の死亡は多くの学生に衝撃を与え、1968年1月の佐世保エンタープライズ寄港阻止闘争などは市民からの共感をも得ました。また1960年代後半には、学費値上げ反対や学園民主化など各大学固有の問題が闘われ、一般の学生の広範に参加をみるとともに、慶大・中大での闘争は勝利をおさめました。
各大学の自治会は民青やセクトが握っていて、支配下の学生自治会の自治会費などがセクトの資金源だったそうです。しかし当初は、各セクトが学園闘争を軽視していたこと、複数のセクトが割拠して各学部の自治会を握っている大学があったこと、また民青は実力をもっての闘争には反対の方針を持っていたたこと、さらに日大のように学生の公認組織自体が御用団体だった大学もあり、自治会ではなくノンセクトの学生による全学共闘会議が闘争の中心となるケースが出現しました。
全共闘中心タイプの中で、大学の民主化を求めて闘われた日大闘争は、対大学当局的には成功を勝ち取りましたが、佐藤首相の政治介入でご破算にされてしまい、その後は迷走することとなります。また、医学部のインターン制度問題から発した東大闘争も、全共闘を中心として多数の院生も参加した全学的なものに広がり、大学側に全共闘側当初の要求項目のほとんどを受け入れさせるまでに至りました。しかし、全共闘側は処分撤回や制度問題では満足せず、自己否定・大学解体を掲げて政治的には拙劣な戦術で闘争を続けましたが、やがては多くの学生の支持を失い、各セクトの思惑もあって占拠の続けられた安田講堂も落城することとなりました。
日大・東大闘争が勝利とはいえない終焉を迎えたにもかかわらず、1969年には全共闘を名乗ってバリケード封鎖を行うタイプの大学紛争が、生きている実感を持てない日本各地の多くの大学の学生の間で大流行しました。しかしこれらの多くも目立った成果を上げることはなく、また大学外での闘争も政府・警察に押さえ込まれてノンセクトの学生は運動から離れてゆき、セクト間の内ゲバが激化して死者が出るまでになりました。

下巻は、高校の闘争、べ平連(ことえりもATOK2007もは”べへいれん”を一発では変換してくれませんでした)、そして連合赤軍、ウーマン・リブを取り上げ、最後に結論が述べられています。べ平連までは気持ちよく読めたのですが、連合赤軍の章に目を通すのはやはり気が重い。本書の対象としている時期、私は幼稚園から小学生でした(本書の著者もほとんど私と同年輩ですね)。安田講堂の攻防はTVで観た記憶があるような気もしますがはっきりしません。しかし、3年後のあさま山荘事件の強行突入については学校を休んで(かぜで休んだのか、TVを観たいから仮病で病欠したのか記憶が定かではありませんが)、TVで観ました。大きな鉄球が浅間山荘を破壊してゆく様子にはびっくりしました。でも、それ以上に驚いたのは、彼らの元の仲間が「総括」されてたくさん殺されていたことが明らかにされてからです。総括という言葉は流行語にもなりましたし、このリンチ殺人から当時の大学生や大人たちが、小学生以上にショックを受けたことは間違いないでしょう。本書ではリンチ殺人に至った事情が詳しく触れられていて、読むのがとてもつらい感じでした。

下巻の最終章では「『あの時代』の叛乱とは何だったのか」が論じられています。
一言でいうなら、あの叛乱は、高度経済成長にたいする集団摩擦反応であったといえる
好況期ではあったけれど、一種の閉塞感が非常にあったからだと思いますね。つまりこれから俺たちどうなんの? 何になれるのか? 社会はどうなるんだ? といった閉塞感がかなり強くあった
貧しい時代の日本で民主教育を受けて成長したベビーブーマーたちが大学生になった頃、高度成長による日本社会は激変していて、アイデンティティ・クライシスから自分探しのために叛乱を起こした。この彼らの心の問題を表現する言葉が当時は一般的に存在しなかったので、疎外論などマルクス主義のことばをつかって表現することになり、その結果この叛乱が政治的な運動であるかのように誤解されてしまった。また、彼らのもつ現代的な不幸は、戦争・飢餓・貧困といった古典的不幸とは違っていたので、親の世代にはなぜ学生たちが不満を持ち叛乱に走るのかが理解できなかった。ただ、学生たちは、日本社会はしっかりしているので自分たちの叛乱で動揺することはないことを自覚していて、学生の4年間が終わると卒業・就職していった。また、1968年にはアメリカ・フランス・西ドイツ・など他の西側先進国でも学生の叛乱がみられました。背景には大学生数の急増と地位の低下、ベトナム反戦運動が共通してありましたが、日本の叛乱とその他の国とでは違っているというのが著者の主張です。

また1968の成果として、
近代化し管理社会化した経済大国日本と、そこで豊かな経済的果実を享受する「日本人」(マジョリティ)が貧しいアジアとマイノリティを差別し搾取し、管理社会からはみ出した人びと(不登校児や障害者など)を抑圧している
という「1970年パラダイム」ができあがったことも著者の主張のひとつです。1968という本を21世紀の今書いたのは、1990年代以降の日本の経済停滞が「1970年パラダイム」を無効にしてしまったという問題意識があるからなのでしょう。

1968 の感想の続き

2009年9月13日日曜日

世界の駄っ作機4


岡部ださく著 大日本絵画
2009年6月発行 

前回出版された蛇の目の花園から5年ぶりの第4巻です。駄っ作機というだけあって、全然有名でない、聞いたこともないような飛行機が扱われているのですが、独特のタッチの手書きのイラストとひねった紹介の文章で読ませてしまう著者のセンスに相変わらず感心してしまいます。

駄っ作機といっても、構想に問題があったもの、設計に問題があったもの、構想・設計はまともでも完成が遅すぎたものなど、駄作になった理由はいろいろ。ただ、どれも戦間期からジェット機の出現後しばらくまでのものがほとんどです。エンジンの出力に余裕ができて、空中給油が実用化される頃以前の飛行機が駄作になりやすかったのかなあなどと考えていたら、本書の最後には連載100回(もともと雑誌に連載されていたものをまとめた本なんですね)ということで、「ダメ飛行機の諸相」という著者なりの駄作機についての考察と分類(珍・怪・愚・凡)が載せられていました。

2009年9月4日金曜日

司馬遼太郎の歴史観


中塚明著 高文研
2009年8月発行

以前にも書いたことがありますが、本をもらうのって非常にありがた迷惑です。贈る方は善意でしてくれているのでしょうが、自著でもないかぎり本は贈るべきではないと思うのです。で、この本も贈られたものです。ふつうはお断りするのですが、断りにくいある事情があったのと、またふつうだったら決して手にしないであろうこの種の本にどんなことが書いてあるのかチェックすることができるかと思って、受けとることにしました。

一読してみて、とんでも本の一種だなと感じました。なにがとんでもかと言うと、まずはタイトルがとんでもです。司馬遼太郎という有名作家にかこつけて売り上げを伸ばそうとする下心ありあり。奥付にある紹介を見ると、本書の著者は日本近代史専攻の学者です。学者が他の学者の論文や言動に対して「その『朝鮮観』と『明治栄光論』を問う」ことは当たり前のことでしょうが、小説家の書いた小説や紀行文や新聞談話などを対象にいちゃもんつけるってのは変です。

しかも本書で著者は、重箱の隅をつつくように難癖を付けている印象。例えば46ページには朝日新聞に載った司馬の談話の一部、「李朝五百年というのは、儒教文明の密度がじつに高かった。しかし、一方で貨幣経済(商品経済)をおさえ、ゼロといってよかった。高度の知的文明を持った国で、貨幣を持たなかったという国は世界史に類がないのではないでしょうか。」をとりあげて、李朝期の朝鮮でも常平通宝が鋳造されていると批判しています。でも、これって修辞の問題のような。開国を強要される以前の前近代における日本と朝鮮の貨幣経済の浸透の程度の違いは歴然としているわけで、小説家が一般の人を相手にこういう表現を使ってもおかしくないでしょう。しかも、そもそも語ったとおりに掲載されるとは限らない、新聞記者が大きく改編することが当たり前の新聞談話を対象にして批判するのはフェアじゃないです。

また、坂の上の雲が描く、朝鮮無能力論、帝国主義時代の宿命論、明治は輝いていた、日露戦争=祖国防衛戦争などなどの見方や、日露戦争後に日本陸軍は変質したという司馬の考え方などを著者は批判しています。明治は輝いていた論は別にして、歴史学的な考え方としては多くの点で著者の主張の方が正しいという点では、私にも異論はありません。しかし、朝鮮無能力論、帝国主義時代の宿命論、日露戦争=祖国防衛戦争論などは司馬さんの創作ではなく、明治の日本の施政者が常に被植民地化の可能性を念頭においていた点など、当時において当たり前だった考え方です。小説家が小説を書く際に、背景となる時代に主流だった考え方を紹介し、それにのっとって話をすすめていくのは当然のことです。ことに、読者がその種の考え方を喜ぶのですから、プロの作家としては、それに応えるのが正しい作法であり、歴史家があれこれ口出しすべきことでもないでしょう。

また、明治は輝いていた論について、著者は日露戦争以後日本陸軍は変質したなどの司馬さんの主張に対して、反証を提出して批判しています。でも、同じ明治憲法体制が続いている明治と昭和の政府のやり口に似た点があったとしても、明治から昭和の敗戦まで何の変化もなかったとは言えないはず。著者の論法で行くと、敗戦前の政治史の研究なんてものは意味がなくなってしまいますね。それどころか、著者は敗戦前後の違いを強調していますが、同じ論法を使って、敗戦前後に違いはないと主張することだって可能になってしまいます。著者は歴史家にふさわしくない批判をしているとしか思えません。

すでに司馬さんは遠い昔に亡くなっているし、いったい著者は何を目的に司馬さんの小説に文句を付けるのでしょうか。情報リテラシーの低い一般的な日本人読者が司馬さんの小説を読んで、それをあたかもまっとうな歴史書であるかのごとくに思いこんでしまうことが心配だということでしょうか。もしそうだとしても、本書ではその種の誤解を解消するのは全くもって無理だと思います。司馬さんの小説を面白いと感じて読む人が、本書のようなとんでもなタイトルと、難癖付けるような内容の批判、ページと本文の文字の大きさと行間とのバランスがとれていない美しくないデザインの本を共感をもって読んでくれるとは思えないからです。ほんとにその種の誤解をただしたいのであれば、こんなとんでも本ではなく、司馬遼太郎の坂の上の雲よりもっともっと面白い、しかも著者の伝えたい正しい明治・朝鮮像を描いたエンターテインメントを創作するしかないだろうと思います。

2009年9月3日木曜日

薩摩藩士朝鮮漂流日記


池内敏著 講談社選書メチエ447
2009年8月発行 本体1500円

沖永良部島に代官として赴任していた薩摩藩士が帰任のために乗った船が遭難して、朝鮮半島西岸の忠清道庇仁県に漂着する事件が1819年にありました。この事件で特徴的なのは漂着民の中に武士が三名含まれていることで、ふつうの漂着事件では漁船や商船の乗組員ばかりで武士が乗っていることはありません。また、この事件に関しては、朝鮮側の記録、還送にあたった対馬藩の記録とあわせて、武士のうちの一人の安田喜藤太義方さんが絵入りの詳細な朝鮮漂流日記という記録を残していました。本書はそれによっています。以下、興味深く思われた点をいくつか。

漂流してようやく陸地に流れ着いたわけですが、小舟で近寄ってくる人たちが白服を来ているのを見て朝鮮半島だということが分かり、船内では歓声が上がったそうです。本書には「漂流朝鮮人たちは漂着地が日本だと分かると無事に本国に帰国できることを確信した」という記載もあり、航海を仕事とする人たちにとっては、漂流民の還送制度は常識的になっていたようです。また、ある対馬藩の役人は「朝鮮と御和交を結んでから今に至るまで御誠信の験が顕著に見えるのは、漂流民を丁寧に取り扱い。速やかに送り返してきたからであって、こうしたことを百年つつがなく繰り返してきたことによっているのだ」と認識していたそうで、明治以前には善隣友好関係があった証ですね。

日記の作者の安田さんは、壬辰戦争の際に朝鮮半島から薩摩に連れてこられた陶工たちが朝鮮の習俗を守って暮らしている姿を見たことがあるので、白い服を着ている人たちの姿から即座に朝鮮人と分かったのだそうです。また、漂着した船には沖永良部島の出身者も乗り組んでいました。彼らは「琉人」と呼ばれていますが、朝鮮側による事情聴取に際しては、名前や髪型を日本風に変えて対応されています。

安田さんは漂着した忠清道庇仁県や、また倭館まで送られる途中の土地の地方官吏たちと漢文でコミュニケーションをはかり、詩文の交換をしたりしています。口絵にはこの日記の絵が載せられていますが、安田さんは絵がかなり上手で、また漢詩を作ったり他人の漢詩を評価する能力を持っている人でもあり、出会った地方官吏たちと共通の文化的教養を持つもの同士の交流をしています。おそらく安田さんは江戸時代の武士の平均以上の教養を持っていた人なのでしょう。また、江戸時代の日朝関係は「お互いを目下に見る関係」とも書かれていますが、こういった人と人の交流の場がなかったこともその一因なのでしょう(通信使と日本人とのやりとりは国を背負った者同士の関係になってしまうので、安田さんのした交流とは違う感じ)。

日本人が朝鮮半島に漂着した事件は、1618年から1872年に至る約250年間に92件1235人。同じ時期における朝鮮人の日本漂着が971件9770人と、日本人の漂着は朝鮮人のそれに比較して、件数で十分の一、人数で八分の一。また日本人の漂流の時期は五月から八月の夏期に多いと本書に記載されています。経済の発展度からいって沿岸を航海する日本の漁船や商船が朝鮮よりもずっと少ないとは考えがたいところ。きっと冬の北西季節風の方が船の漂流事件を起こしやすいので、朝鮮人が日本に漂着する件数が多くなっているのではと思うのですが、どうでしょうか。