2009年10月4日日曜日

海軍砲戦史談


黛治夫著 原書房
2009年8月オンデマンド版発行 
本体3500円

著者は、海軍砲術学校の教官や戦艦大和の初代砲術長などを勤めた人で、ネルソンの時代の砲戦術、南北戦争での装甲艦モニターとメリマック、薩英戦争と馬関戦争、日清戦争、日露戦争、方位盤の発明、ユトランド沖海戦の戦訓
、戦艦の射撃法の変遷、砲塔のダメージコントロールの比較などが述べられています。

本書はもともと1972年が初版の古い本で、復刊ドットコムの投票で復刊されることになりました。30年以上も前の古い本が復刊されたのは、本書が名著にあたるからでしょう。読んでみて、戦艦の射撃法の変遷に関する記述はあまりほかでは目にしたことが無く、これが復刊の望まれた一つの理由でしょう。ただ、専門の砲術以外の点でも、ユニークと感じる見解やエピソードの紹介がいくつもありました。

山本五十六を海軍次官から連合艦隊司令長官に転出させた、海軍大臣米内光政大将の人事行政がある。しかしこれは、「日米戦争に必ず勝つ。そのための最適任者は、山本五十六中将である」という信念によったものではない。「東京にいると右翼のため、暗殺されてしまうから、しばらく海上に逃げろ。安全になったら、海軍大臣の後釜として中央に帰れ」と言って、山本五十六中将を、連合艦隊司令長官に転出させたと伝えられている。
国交緊張の際、臨戦時の連合艦隊司令長官に、片寄った兵術思想を持ち、航空軍政の経験に富むためか、当時実質的な戦力であった戦艦の砲力、軽快部隊の魚雷力を軽視する革新的用兵思想の持ち主を、連合艦隊司令長官に選任した人事は、批判されずに今日まで至ったが、太平洋戦争敗因第1号はこれなのである。
わたし的には太平洋戦争敗因第1号はなんといっても開戦した以外には考えられませんが、砲術畑の著者にとっては、こういう風に見えるのですね。本書を読んでいると、著者が海軍で現役にあった当時に研究熱心だったことがよく伝わってくるので、堂々とした艦隊決戦が起こらなかったことは残念に違いありません。でも、最終的にはアメリカ海軍に決定的に敗れた日本海軍について、歴史的にみて最も高く評価できる点は、空母中心の機動部隊を発明した点なのではないかと私は思います。今でも世界の海洋を支配しているのは空母打撃群なのですから、イギリス海軍がドレッドノートを生み出したのに匹敵する独創性です。

1934年(昭和9年)はジュットランド海戦のあった1916年(大正5年)から18年になる。それなのに金剛型巡洋戦艦4隻の装甲防御はクイン・メリーと殆んど同じである。しかも対手の砲弾は30サンチや、28サンチとちがい40サンチや36サンチで、徹甲性が実に大きくなったのである。
軍令部の軍備を担当している参謀は、ロンドン会議では20サンチ砲巡洋艦の7割か6割で、あんなに熱心だったのに、主力艦がアメリカの6割でありながら、巡洋戦艦4隻の薄弱な防御を改良しようとはしないのは、どうしたことなのであろうか。
ジュットランド海戦でイギリスの3隻の巡洋戦艦が短時間で撃沈された戦訓から、著者は金剛型巡洋戦艦の防御力の改善や、ダメージコントロールの重要性を主張しました。しかし、「技術的感心が貧弱、低級ということが一つ、派手な攻撃的なことが好きで地味な防御がきらい」な海軍軍人が多数で、また艦政本部も自分たちの仕事を批判されているようで面白くはなく、著者の主張は書生論として受け入れられなかったそうです。このエピソードには、海軍もお役所というか官僚の集まりに過ぎない点が表れていて面白いのと、著者のロンドン条約を引き合いに出した、その考え方がとても興味を惹きます。著者自身もきっとロンドン条約に賛成ではなかったでしょうが、新聞などがこの著者の考え方を利用して、国防の危機・統帥権干犯を訴えて浜口内閣のロンドン条約締結を批判する政友会や右翼に対して、反論するようなことができなかったものかと妄想してしまいます。

0 件のコメント: