2011年8月4日木曜日

古墳とはなにか 認知考古学からみる古代






松木武彦著
角川選書493
2011年7月発行





古墳について、墳丘墓から古墳への変化、前方後円の意味、木棺・石室の変化、副葬品などなど、とても勉強になりおもしろい一冊でした。例えば、
広瀬和雄氏は、奈良盆地東南部の古墳群は、地元の長に加え、盆地のほかの場所の長もそこに墳墓を集めることで成立したとみる。おおむね賛成だが、河内や摂津などの上のような状況を見ると、奈良盆地東南部に墳墓を営みあった長たちの出自を、もっと広く見込んでもよいように思う。つまり、畿内各地をそれぞれ代表する地位にあったひときわ有力な長たちは、纏向を本拠とする経済的な活動を前提に、そこを舞台としたほかの長との政治的な関係をたがいに演出するために、三輪山のふもとに広がるオオヤマトの地に古墳を並べあい、ともに神格化されたという可能性だ。このような関係が数代続いたことの累積的結果として、いまみるような盆地東南部の大規模古墳群が形成されたというわけである。
こういう考え方があるとは知りませんでした。これで、この時期に古墳があってもいいほど人が多っかたのに築かれなかった地域の説明もできるとのことで、とてもとても魅力的な説だと感じます。また
日本人が全国どこの神社にいってみても、神社であると認識できるのは、建築様式などの違いはあれ、どの神社も宮居としての基本的な構造や要素を共有しているからで、「当時の人びとの古墳に対する認識や、古墳の形や要素が意味したところも同様ではないだろうか。古墳の基本形とは「亡き人を高く埋めてあおぐ」という認識と行為の表現だ。
基本形が守られていれば、前方後円墳でも方墳でもそれらしくみえるという指摘も、鋭い指摘だと感じました。これは認知考古学的な方法から導かれたんでしょうか?? さらに、日本と中国の関係をひろくローマとブリテン島の関係になぞらえて、気候の寒冷化に伴う漢やローマの滅亡、世界宗教の伝播、封建制度の始まりなどの各要素の対応を示して、この変化の前後の時代は日本史内部の事情で古代とされているが、中世の始まりだったと考えるべきことを述べ、日本に古代はあったかも紹介されていました。この主張もとても説得的だと感じます。
このように学んだ点は多いのですが、期待はずれでもありました。どうしてかというと、私はサブタイトルの「 認知考古学からみる古代」に興味を持ち、本書を購入したのです。 帯もその点を強調するものになっていたました。角川選書という媒体からすると、読者として考古学の専門家は想定されていないでしょう。認知考古学というものがどんなものなのか私には全く知識がありませんが、そういった私を含めた素人に「 認知考古学からみる古代」を読ませるのですから、まず認知考古学っていうものがどんなものなのかの詳しい説明から始まるものだとばかり思っていました。しかし、実際には冒頭7ページに「認知科学を用いた考古史料の解釈法=認知考古学」と書かれているのみで、それ以上の説明がありません。ずーっと読んでいくとようやく194ページに「認知考古学で注目するのは、国や民族や時代をこえて、ヒトならばどう感じるか、どう考えるかという、いわば生物学的な脳の働きのパターンだ。言いかえれば、有史以来のすべての人間が最大公約数的に共通してもっている思考の原則を相手とするのが認知考古学である」という記述が出てきます。これだけだと分かったような分からないような説明です。
そして195ページには「認知考古学で、横穴式石室を読み解いてみよう」とあります。194ページの認知考古学に関する記述は、これに先立って説明しておこうとしたもののようです。「有史以来の世界各地の宗教的な構築物には、三つの基本形がある」とのことで、空間の中に内側と外側をつくりだす二次元的なしかけで内側に入って外側を意識することで独特の感興が得られるもの、どの方向からでもたくさんの人にあおがれるようにたかくつくられた構造物で見上げる行為と密接につながった畏れや敬いの勘定を促す装置、明確で印象的な正面を一方向にもつ建造物の三つがあげられています。そして「このような内外、上下、対面などの物理的体感(認知心理学ではイメージ・スキーマとよぶ)と特定の感情や行為とは、時代や地域や民族の差をこえて、ヒトに普遍的なものだ。だからこそ、大ざっぱではあるが一定の確かさで、過去の構築物の意味や目的をうかがうことができるのだ」→ だから認知考古学で横穴式石室を読み解くことができるという流れのようです。
医療の世界では20年ほど前からevidence-based medicineというのが流行って、診察でも検査でも治療法でも、その医療行為を正当化する根拠が求められています。それに慣れてしまった眼で「このような内外、上下、対面などの物理的体感(認知心理学ではイメージ・スキーマとよぶ)と特定の感情や行為とは、時代や地域や民族の差をこえて、ヒトに普遍的なものだ」などという文を読むと、かなり違和感をおぼえます。生理的なレベルでヒト個体に普遍的なものが存在することは当然だとしても、それ以上のレベルではたとえば言語にしても証拠を示されてはじめてヒトに普遍的だと納得させることができるのだと思います。
著者のもちだした議論が成り立つには、まずある物理的体感と特定の感情や行為がヒトに普遍的なものであることを証拠とともに示し、次にその存在を証明された特定の普遍的なものが過去の構築物の意味や目的をうかがい知るために使用できることを証拠立てて説明することが必要でしょう。それなのに何の論拠も示さずに「横穴式石室を読み解」くことにつかえる「ヒトに普遍的なもの」の存在を当然視して議論をすすめるのは乱暴すぎると思います。また、前記の三つの基本形にしても、宗教的な構築物にしかあてはまらないといえるのでしょうか、とても疑問です。

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