新城道彦著
2011年8月発行
法政大学出版局
日韓併合による王公族と朝鮮貴族の創設から、日本の敗戦後の日本国籍剥奪までのあいだのさまざまな事情を紹介してくれています。例えば、
日韓併合は寺内統監のイニシアティブでわずか一週間ほどの交渉で決着し、併合条約の第三条・四条で王公族の創設と皇族の礼が保証されました。交渉の一年ほど前から併合方針が決定されていましたが、綿密名シナリオが準備されていたたわけではなく、その後もしばらく皇族の礼を受ける王公族の法的地位を明確化する措置は執られませんでした。皇族の礼を受ける=皇族と同じ地位?という問題に発展してしまうのでわざと曖昧にしておかれたままだったようです。
王公族の地位を明確化する必要にせまられたのは、李垠と梨本宮方子の結婚問題です。皇室典範では皇族の女性の婚嫁先は皇族か華族に限られていて、もともとこの規定は外国の王室との婚姻を妨げるために設けられた規定だったのだそうです。この規定を、王公族は皇族と同等と解釈で乗り切る意見もありましたが、皇室典範の皇族女性の婚嫁先に王公族を加えることで決着しました。李垠と梨本宮方子の結婚は日鮮融和を目的とした政略結婚だったと一般に受け取られています。しかし一次史料でそれを確認することは困難で、梨本宮が方子の嫁ぎ先を探したがみつからず、密かに寺内に嫁ぎ先探しを依頼したところ李王家を紹介され、男子のいない梨本宮は皇族の礼を受けしかも経済的に裕福な李王家への婚嫁を歓迎したという事情があったのだそうです。この婚儀が日本政府により周到に準備された政略結婚でなかった証拠に、帝室制度審議会と枢密院がこの問題で衝突して、なかなか決着しなかった事情が紹介されていました。
高宗の死去をきっかけに3・1運動が発生しました。この運動の背景には、併合後の義兵運動やロシアの十月革命やウイルソンの十四ヵ条・民族自決の考え方などがあったのはたしかですが、集会の禁じられていた朝鮮で、全国の民衆が集まって情報を交換して、全国的な運動を起こすことは困難でした。しかし高宗の葬儀への参列・見物に多数の人が京城に集まったことで、 京城で3月1日に大規模なデモンストレーションが実現し、デモに参加した人が見聞と経験を帰京後に伝えたことで全国的な運動にまで広がったのだそうです。
併合時に、王公族とならんで朝鮮貴族という地位が創設されました。華族ではなく朝鮮貴族としたのは参政権を与えないためだのだそうです。知りませんでした。朝鮮貴族の中には経済的に破綻する例が少なくなく、監督する総督府・宮内省李王職でも対策に苦慮していた様子が紹介されています。本書でも参考文献に挙げられていますが、浅見雅男さんの「華族たちの近代」「華族誕生」に日本の華族の経済的な没落、放蕩のエピソードがたくさん紹介されていたことを想いだしました。
知らないことがたくさん書いてあるし、個々のエピソードは興味深いし、とても面白く読めました。本書には同様に亡国の運命をたどった琉球、ハワイ、マダガスカルの名前がちらっと出てきますが、そういった他の例についても読んでみたくなりました。また、本書のタイトルは「天皇の韓国併合」となっています。明治天皇の名で結んだ併合条約や王公族の冊立証書に書かれている事項を、その後の日本政府の政治家・官僚は無視できず、皇室典範改正問題や放蕩な公族・朝鮮貴族の処遇などですったもんだするあたり(=帝国の葛藤)が滑稽だから「天皇の」と銘打ったのでしょうね。
高宗と純宗の葬儀のエピソードは載せられていますが、その後、朝鮮の住民が王公族に対してどういう風に感じ考えていたのかが分かりません。1963年の李垠の帰国の際、金浦空港からソウルまでの沿道20kmは歓迎する市民で埋め尽くされたそうで、その時の写真が載せられています。朝鮮の人たちは、ずっと王族を慕っていたのでしょうか?
王公族は皇族のようで皇族ではない身分として<日本>に創設され、天皇制および皇統と密接な関係をもたざるをえなかった。また、内地に対する朝鮮の独立性を表象しうる存在として<日本>という体制を左右するとともに、植民地朝鮮に特有な身分であった。したがって<日本>という枠組みで朝鮮統治の特性を考察するために、王公族は非常に重要な研究対象といえる。
と著者は述べています。本書が浅見さんの本と同じくらいの面白さなのは確かだし、上記のように日本政治のある面をよく表わす問題を扱っているし、日本の官僚制のある種の特質を浮き彫りにしているとは思うのですが、「非常に重要」なのかどうかは疑問。朝鮮の人たちの王公族に対する感じ方考え方が今ひとつ不明な点からも、そう感じてしまうのです。
本書のカバーをはずすと表紙にハングルで何か書かれていますが、これはどういう意味なんでしょ。
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