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2011年9月30日金曜日

世界制覇

前間孝則著
上 2000年4月 第一刷
下 2000年4月 第一刷
講談社
本書は、先日読んだ戦艦大和誕生の続編のような位置づけの作品で、大和の建造で力を発揮した西島造船大佐の生産合理化策が応用され、日本の造船業が世界一にまでなった過程を描いています。大和を建造した呉海軍工廠は敗戦後、新造船はおろか船舶の改造工事も禁じられ、沈没している旧海軍艦艇のサルベージと解体、それに引き揚げ船・占領軍艦船の修理を命じられました。佐世保や舞鶴では旧海軍工廠を元に会社がつくられましたが、呉は播磨造船に経営委託されました。表向きは地理的に近いからということでしたが、本当は財閥系でなく大艦を建造した前歴がなかったからだったのだそうです。軍艦は水防隔壁が多いので、浮揚作業をしやすくするためにタ弾(本書の著者はこれに「ゆうだん」と読みがな付していますが、「ただん」が正しいかと思います)で隔壁を破壊したり、沈没艦船十七隻から計一千柱の遺骨を収容し身元の判明した者は遺族の元に送ったりなどさまざまな苦労がありました。また自動車の生産の際にプレス加工に耐えない日本製の薄板の品質が問題となったことは知っていましたが、厚板を使って建造する船舶でもこの時期の日本製の鉄板の品質は劣っていたのだそうです。

旧海軍艦艇の処理が終わった後、呉工廠の施設はアメリカの造船所をもつ船会社であるNBC(National Bulk Carrier)に貸与され、NBC呉という事業所になります。NBC呉では、製作現場本位の設計・部品の標準化・ブロック建造法・早期艤装など、大和や日本の戦時標準線の建造で試みられた技法に、アメリカの優秀な溶接法・溶接機器などを組み合わせて、その時点で世界一大きいと言われたタンカーなどを、日本の他の造船所よりも少ない工数・安い価格で次々と建造して、注目を集めました。
この呉工廠からNBC呉の活動を支えたのは、戦時標準船の建造時に西島造船大佐の元で仕事をした真藤恒さんのリーダーシップでした。真藤さんは古巣の播磨造船所が石川島重工と合併するのを機にIHIに移ります。1960年代のIHIは大型タンカーなどの建造で日本・世界の造船界をリードし、建造量日本一(世界一でもある)の造船会社になった年もありました。真藤恒さんの名前はNTTの社長でリクルート事件にかかわった人として聞いたことはあったのですが、こういう経歴のある人だったとは知りませんでした。
高度成長期は、戦前の安かろう悪かろうの日本製品から、信頼のmade in Japanに変化していった時期でもあります。繊維製品についで、重工業の中では造船業が先陣を切って世界レベルの製品を生産・輸出するようになったわけですが、その秘密を分かりやすく、しかも面白く描いた作品でした。造船会社のことだけでなく、ギリシアの船主についてのエピソードも興味深く読めました。
分かりやすく・面白い作品にするためか、本書での叙述はエピソードをつなぐ形になっていて、各エピソードには人物の会話が多用されています。著者による本書の主人公である真藤恒さんに対するインタビューや、参照文献が本書を構成する主な材料でしょうが、それらからも具体的な細部が分からないエピソードも少なくないはずだと思われます。しかし本書のエピソードは引用符(「」)つきの会話で構成されているものが大部分です。本書は歴史書ではなくエンターテインメントなので、大河ドラマ的なスタイルで書かれているのも仕方ないのでしょう。まあ、「快速巡洋艦「大淀」」とか「アメリカの戦時標準船は粗悪だったために耐用年数が短く」などの気になる表現もなくはないですが、知らなかったことをたくさん教えてくれて、エンターテインメントとしても良くできた読み物でした。

本書は造船業界をとりあげていますが、高度成長期の日本の製造業にはこれと似たような製造技術の革新をなしとげて、世界的な競争力を獲得した業界がいくつもあるのだろうと思います。例えば、以前のエントリーでとりあげたものづくりの寓話では自動車業界がとりあげられていました。ただし、ものづくりの寓話は専門書ですから、叙述の仕方も一人のヒーローの物語としてではなく、オーソドックスなもので、それでいて惹きつける魅力がありました。どちらも勉強させてくれる本ですが、私としてはああいうスタイルの本の方が好きです。

2011年9月26日月曜日

曹操墓の真相

河南省文物考古研究所編著
国書刊行会
2011年9月発行
安陽市の郊外では、レンガ製造所の土取り場に使われて、たくさんの古墓が破壊されたそうです。その古墓の一つから出土した墓誌に、その墓の位置が曹操の高陵からの方角と距離で記されていて、近くに曹操の墓である高陵があることは間違いないことが分かった。その後、近所で大きな墓が発見され盗掘される事態が発生しました。そこもやはりレンガ原料の土取りで掘られて発見されたようです。警備されましたが、盗掘が繰り返され、やむなく発掘されることになりました。発掘の結果、スロープ状の墓道が40メートルも続き、地上から15メートルほどの深さに、前室・後室と4つの側室をともなった広さ740平方メートルの、壁面を塼で覆われた立派な墓室がみつかりました。盗掘を受けてはいましたが、遺物が残っていなかったわけではなく、60代男性のものと見られる頭蓋骨や、魏武王常所用挌虎大戟と書かれた石の札などなどが発見されました。
生前に曹操は魏武王の称号を得ていましたが、死の10ヶ月後、魏の皇帝に即位した息子の曹丕によって、武帝と追尊されることになりました。武帝ではなく武王と書かれた資料が発見されたことで、この墓が高陵である可能性は高いと考えられています。ただ、訳者が解説の中で書いていますが、他の人の墓、特に曹操の死の3ヶ月後になくなった夏侯惇の墓である可能性も完全に否定できてはいないのだそうです。この場合、夏侯惇は曹操の信頼厚かった高官なので、魏武王常所用挌虎大戟を下賜されて自分の墓に副葬したことになります。
近所の書店の平台に置かれていた本書ですが、曹操墓というタイトルに惹かれて買ってしまいました。晩年の曹操が住んでいた鄴の西郊にあたる場所で、21世紀になってから曹操のものと思われる墓がみつかったという話は本書を読んで初めて知りましたが、まだミステリーは解決していない点も含めて面白く読めました。中国の文章を訳した本だなと感じる点もありますが、訳文は読みやすいし、カラー図版もたくさんあって分かりやすくオススメです。
この高陵と推定される墓(西高穴2号墓)の横にはもう一つ同規模の 西高穴1号墓があります。それは置いておいて、この1号墓も調査中なのだそうで、その結果もぜひ知りたいものです。その他の感想もいくつか以下に。
どうして曹操の墓と推定され先に発掘された方を1号墓ではなく2号墓と名付けたのでしょうか?考古学では、位置の関係などで順番の付け方が決まっているのかな。
曹操は乱世の姦雄でしたよね。でも同時代の人(特に同陣営の人)からは悪や駆使されていたわけではありません。彼が悪役というか敵役になってしまったのは、
東晋南朝の時期、中国北方は異民族の手に落ちた。江南に割拠した東晋南朝の君臣たちは、かつての「孫呉」と同様の状況にあることに気づいたのである。この地縁と政治的立場からすると、曹操は北方に雄拠する軍事的敵対者に他ならない。すなわち、曹操を罵ることは、北方の異民族を罵ることと同じ意味を持っていたのである。
という事情があり、また金が中原を占拠していた南宋の時代にも「愛国情緒」から南方の呉・蜀に同情が集まったからなのだそうです。簒奪者のように思われてもいますが、墓から出土した史料には魏武王と書かれていたわけで、けっして簒奪者ではなかったわけですね。
曹操は自分の墓を高いところにつくるよう指示していたのだそうです。でも地下15メートルまで掘って墓室を設けると、地下水に悩まされたりはしないんでしょうか?このあたりはそれだけ地下水位の低い地域、井戸を掘っても水の得にくい地域なのかもしれません。それとも版築で天井と床と側面と全部固めれば、水の侵入はシャットアウトできるのかな?
曹操自身が薄葬を望んでいたそうですが、高陵は立派な墓室のお墓です。でも、副葬品や埋葬儀礼の点からみると、これでも薄葬なのだとか。
1800年ほども安らかにねむっていたお墓が21世紀になって盗掘されるというのは情けない話です。中国でこういうことが起きるのは、沿海部との間に経済的格差が広がっているからでしょうか?沿海部に住むお金持ちの欲しがる遺物を、内陸部の所得の低い人たちが盗掘するような仕組みです。ただ日本でも、土木工事で遺跡らしきものが見つかっても、公にすると時間と費用をかけて調査しなければいけなくなるので、面倒を避けるためにそのまま破壊してしまったりすることがあるそうですから、そんなに事情は異ならないというべきでしょうか。

2011年9月25日日曜日

戦艦大和誕生

前間孝則著
上 講談社+α文庫36-3
2005年12月 第6刷発行
下 講談社+α文庫36-4
2001年4月 第3刷発行
タイトルに戦艦大和誕生とついていますが、大和がどんなに強力な戦艦で、どんな戦績を残したのかといった点をテーマにした本ではありませんでした。上巻のサブタイトルに、西島技術大佐の未公開記録とありますが、西島大佐は大和建造時に呉工廠造船部艤装工場主任・船殻工場主任を歴任した現場の責任者でした。防衛庁防衛研究所戦史室に保管されている海軍技術大佐(造船)西島亮二回想記録をもとに、上巻では呉海軍工廠での大和の建造の過程を描いています。この回想記録は一般には非公開の史料なので、著者は93歳の西島さんに会い閲覧の許可を得たのだそうです。

九州帝大の造船学科(東京帝大と九州帝大にしかなかったとか)を卒業して西島が造船官としての道を歩み始めたのは、艦艇の復元力不足や強度不足による友鶴事件と第四艦隊事件、大鯨建造時の電気溶接の不具合などの造船に関する問題が明らかとなった頃でした。艦船はオーダーメイドで、生産過程の合理化がほとんど緒についていなかったのだそうです。西島さんは使用される部材、例えばバルブとかパイプといったものから共通化・企画化をすすめ、また早期艤装・ブロック建造法といった工夫を艦艇建造に導入したパイオニアでした。大和の建造にもそれが活かされ、大和は予想よりも少ない工数(ずっと小さい長門とほぼ同程度)・価格・期間で竣工することになりました。一番艦大和の教訓を生かして二番艦として三菱長崎で建造された武蔵と比較してみても、大和の法が2ヶ月短く費用も16%安く建造できたのだそうです。日本海軍の艦艇に関する本を読んでも、これまで費用についてこういう風に書かれたものは記憶になく、とても勉強になりました。きっと敗戦時に史料がみんな燃やされちゃって、日本海軍についてはこういう議論を定量的にしにくいんでしょうね。その点、先日読んだBritish Cruisersでは各級の設計時の折衝に価格が頻繁に出てきて、価格が設計に影響を与えていたことまで分かりました。大和の場合に価格を考慮して設計をどうこうしたという記述は本書にはみあたりませんでした。そもそも、大蔵省との交渉で決まった価格の積算根拠は薄弱で、二十数年ぶりに戦艦を建造する海軍としても、価格や工数がいくらかかるか事前に正確に見積もれていたわけではなかったのだそうです。

上下巻あわせて戦艦大和誕生というタイトルですが、下巻には「生産大国日本」の源流というサブタイトルがつけられています。大和で合理化をおしすすめた西島さんは、第二次大戦中、海軍艦政本部が担当することになった商船の建造やその後の一等輸送艦などに際しても部品・部材の共通化標準化、ブロック建造法、実物大模型での検討や治具、電気溶接の採用などで腕を振るいます。戦時標準船は建造能力を持っていた日本の造船会社すべてが参加したプロジェクトですが、この西島さんの薫陶を受けた各社の設計者・技術者・労働者が、敗戦後の造船日本の礎になったというのが著者の見解でした。軍艦に関する本としては毛色の変わった本ですが、面白く読めました。文庫本ですが13ページほどの参照文献リストがつけられていて、そのうち読んでみたくなるものもありました。

2011年9月23日金曜日

British Cruisers

Norman Friedman著
Naval Institute Press
2010年発行
イギリス(と英連邦)の近代的な巡洋艦の歴史をたどった本です。厚めの紙で432ページもあり、うち注が6ページ、文献リスト2ページ、仕様のデータ40ページ、索引11ページが占めています。サイズはA4より二回りくらい大きく、洋書や洋書を訳したものには珍しくないけれど日本の本としてはあまり見ない判型です。当然のことながらこの本には巡洋艦の写真や線画がたくさん載せられています。日本で発行された艦船の写真をたくさん載せた本、例えば光人社の写真|日本の軍艦シリーズとか、日本軍艦史などの海人社の世界の艦船の別冊では、読んでいる本を90度回転させないと正しい向きで見ることができない縦向きの写真や図がたくさん載せられています。しかしこの本ではすべて横向きの図・写真ばかりで、読みやすさに配慮するポリシーが感じられました。
大きめの本で1ページの印面の横幅は21cm弱ありますが、これでも充分な大きさではないと感じました。線画には縮尺が表示されているものはありませんが、目盛りが図とともに描かれているものを計ってみると900分の1でした。どの線画・写真も横幅いっぱいに使って印刷されていますが、艦船の長さは艦種ごとに異なっているでしょうから縮尺にはばらつきがあると思います。図の説明文には例えば、前方煙突の横の3インチ対空砲2門が4連装0.5インチ機関銃2基に換装された、なんて書かれているのですが、それでもこの900分の1程度だと小さくて機関銃をみつけることが極めて困難です。ウォーターラインシリーズより小さいので見分けがたいのは当たり前。見開き2ページを使った大きな鮮明な写真だとかなり細かい部分まで分かるんですけど。でも、これより大きな本を作ってもらっても、重過ぎて読めないと思うし、ここは仕方がないところ。
巡洋艦の近代を、この本では無線通信の利用が可能になった時点から始めています。イギリスの巡洋艦の主要な役割の一つに通商路の保護がありますが、無線が利用できるようになって、通商路の保護のため海外に常駐する巡洋艦の数を大幅に減らすことが可能になったのだそうです。また、巡洋艦はイギリス帝国の防衛をも主要な役割としていましたが、この「帝国」には非公式な帝国、つまりシティの活動、イギリスの海上覇権によって利益を享受しうることを理解している国々が含まれていました。例えば中国は非公式な帝国の一部なので、維持費の高価な中国に艦隊が保持され、日本の中国に対する1930年代の行動がイギリスにとって受け容れがたかったことなどが説明されています。また、イギリス政府が非公式帝国を重要視していたことが近年は歴史学会でも理解されるようになったとして、参照文献にCainとHopkinsのジェントルマン資本主義の帝国(日本では名古屋大学出版会から発行されていますが、これもとても面白くて勉強になる本なのでオススメです)が挙げられていました。著者の目配りの広さには感心です。
日本の巡洋艦について、5500トン型があまり魅力的に見えないのに対し、夕張以降はシアーとフレアの目立つ艦首から乾舷が艦尾に向けて低くなる姿がとても精悍でかっこいいと思っていました。しかし、第一次大戦前後のイギリス巡洋艦の写真をたくさん見ていると、二段に舷窓が並ぶ姿が落ち着いていて、船首楼型だけでなく平甲板型のケント級も上品そうで、居住性にも配慮されている感じがして好きになりました。
第一次大戦後の大きな変化として、日英同盟が四カ国条約に発展的解消となりました。イギリス海軍では、アメリカとの戦争はあり得ない、日本との戦争はありうるという前提で軍備計画をたてることとなりました。巡洋艦の設計に日本が意識され出すのはこの時期からで、設計時に考慮した艦として夕張、古鷹、最上といった名前がでてきます。余談ですが、日本がワシントン条約・ロンドン条約で対米6割7割などにこだわっていたことの愚かさというか、英米不可分→英米とは絶対に戦わないことを前提に進んでいかなければいけなかったのだと思います。
第一次大戦後のイギリス海軍の軍備計画では、日本との有事に際して極東へ艦隊を送るとヨーロッパに充分な戦力を残すことができないことから、機動性を高める計画をたて、全艦石油専焼化と世界中のイギリス領の港に石油を備蓄することとしました。そして大西洋、本国、地中海、中国に巡洋戦艦を中心とした艦隊を維持して25%の予備をもち、また東インド、ケープタウン、南アメリカ、西大西洋にも駆逐艦隊の配備が必要と考えて、巡洋艦は70隻必要と考えていました。
戦後の財政難の下でこの70隻体制を維持するために、できるだけ安上がりで小さな巡洋艦にするよう努力し、また軍縮条約では他国の巡洋艦にも大きさの制限を設けられるよう交渉しました。本書の中でも、戦間期の巡洋艦各級の設計から建造までのやりとりにこの安くて小さな巡洋艦という傾向がよくみてとれます。小さな艦をより安く建造するために、cruiser standardではなくdestroyer standardにしたらどうかというようなやりとりが何度も書かれていました。巡洋艦の装備標準は、母艦や支援する艦艇がなくても自艦で自艦のことをある程度まかなえる、ボイラーとエンジンの交互配置、旗艦設備がある点が、駆逐艦標準とは違うんでしょうか。この辺は専門的な知識がなくて分かりませんでした。
軍縮条約でトン数制限が設けられました。日本は制限を超えることに無頓着で、他国はきちんと条約の規定を守っていたのかと思っていましたが、そうでもないようです。例えば、イギリスはイタリアの重巡Goriziaがジブラルタルのドックに入渠した時に公称一万トンより10%(実際は20%)重いことに気づいたのだそうです。イギリスはケント級の改装に際して、各艦に実施した改装工事を違えていて、 どこまでやれたかは条約の制限の一万トン(と竣工後の自然増として許される300トンの合計)までに各艦がどれだけ余していたかによったので、同級でも改装時すでに重かった艦は限定的な近代化改装しかされませんでした。でも、そのイギリスも後には計画より重くなってしまった巡洋艦を経験していました。
戦間期以降の巡洋艦の写真をみていて気づくことですが、レーダー装備が充実していますね。艦船用レーダーは1935年から開発を始め、1937年にプロトタイプができて、1938年から実艦に配備開始と書かれていましたが、第二次大戦中に撮られた写真では、どの艦も所狭しと装備していて、またいくつもタイプがあるようです。また対空射撃の制御装置(高射装置のことですよね) の記述も多く見られました。日本の秋月型が装備していた長10センチ砲が優秀だったと書かれているのを目にすることが多いのですが、(VT信管は抜きにしても)レーダーや高射装置を含めた性能という点ではどうだったんでしょうか?開戦後、性能は別にして日本艦も対空機銃をたくさん増備しましたが、読んでいるとイギリス艦もエリコン20mm機関砲、ボフォース40mm機関砲をなるべくたくさん積む方針だったことがよく分かります。
第二次大戦後は艦艇数を減らしてゆく課程です。かわりに新しい巡洋艦を建造する計画も建てられましたが、朝鮮戦争やまた財政難から計画通りにはゆかず、1965-66年計画の新空母の建造が取りやめられ、スエズ以東での作戦行動が放棄されました。しかし、空母に変わって、ヘリコプターの指揮運用機能を持った巡洋艦が模索され、やがてフォークランド紛争で活躍することになるインビンシブル級の軽空母の建造につながったのだそうです。本書の巡洋艦物語はここでおしまいで、付録に戦間期の機雷敷設艦の章がありました。
本書では20世紀のイギリスの巡洋艦各級の計画から建造について、武器装備の変更・増設・撤去、防御鋼板などの変更といった設計の変更に関する細かな海軍内部のやりとりや外部の事情による中止などなど、ある級の巡洋艦についてイギリス海軍が何を考えて層設計建造したのか、何を考えて改装したのかといった点については非常に詳細に述べられています。でも、330ページもある本だから足りない点はないかというとそうでもないのです。
  1. 搭載されている武器、射撃指揮装置、機関、エンジン、飛行機、レーダー、ソナー、ヘリコプターなどについては、名前はたくさんでてきますが、個々のアイテムの性能・性格、旧タイプとの違いなどといったことはほぼ全く触れられていません。
  2. 載せられている線図は、平面図と側面図がほとんどです。艦体内部の様子、ボイラー室・エンジン室・弾薬庫・居室などの部屋割りなどが分かる断面図はほぼ皆無です。例外は、軽巡洋艦デリーの1942年改装時の図と機雷敷設巡洋艦くらい。あとビッカース社が輸出用に見本として外国の海軍に提示した設計図が少なからず収められていて、これにはどれも断面図がついています。
  3. 各艦の就役後の戦歴を示す記述はほとんどありません。掲載されている写真には時期を示すためにその前後の簡単な状況が説明文としてつけられてはいますが。

これら説明のない部分は、決して不備ではなく、この本の守備範囲ではないという著者の見識だと思います。それにしても、こういう本を書いてもらえるイギリス海軍は幸せ。日本海軍についてこういうものを書こうとしても、史料がなくて無理なんでしょう、きっと。

2011年9月7日水曜日

Gulaschkanone

Scott L. Thompson著
Schiffer Publishing Ltd.
2011年発行
教育・観光・娯楽・趣味などの目的で歴史的な衣装や道具・武器をつかって過去の事件やある時代の情景を再現・体験するrennactmentという活動があり、この本の著者はドイツ国防軍に関するrennactmentを趣味としているアメリカ人です。ドイツ軍は、少なくとも一日に一回は温かい食事を提供するという信念から、Gulaschkanone(野戦炊事車)を用いる給食システムをつくりあげました。著者は家畜を飼って食肉にすることを仕事にしていることから、reenactorとしてGulaschkanoneを使用して食事を提供することを思い立ちました。オリジナルのGulaschkanoneは今では珍しい存在ですが、戦後ずっとオランダの農家の納屋に保管されていて比較的状態が良好なものが売りに出され、入手することができました。錆びて傷んだ鍋を修理し、サンドペーパーをかけ、ペンキを塗り直し、木の車輪をアーミッシュの馬車大工に修理してもらったりして使える状態にしました。
Gulaschkanoneは大きな車輪が両側についた箱形の低い車体に煙突と大きな鍋と薪などを燃やせる燃焼室が作り付けられていて、燃料や食材などを積んだ前車と組み合わせて2頭の馬の牽引で移動するようになっています。イメージとしては、昔の焼き芋屋さんのリアカーに積んだ石焼き芋装置をもっと立派にしたものという感じです。大きさ・製造時期などにより数タイプがあるそうですが、著者の入手したものは1939年製造で200リットルのスープ鍋と90リットルのコーヒー沸かし釜のついた、一個中隊225人用のもので、調理のためのナイフや缶切りや寸胴などもセットされていました。後期に製造されたタイプにはオーブンがついていて肉やハムもローストできたそうです。スープ鍋には圧力釜としても使えるような蓋とガス抜き弁がついていて、薪を燃やして加熱した後に蓋を密封すると、戦況により移動を余儀なくされても調理が進行する仕組みになっていました。
ノルマンディでのアメリカ軍との戦いを再現するreenactorの公開模擬戦闘に参加して、 自家製の肉・ソーセージも使ったスープなどのレシピを、食材の皮を剥き小さく切るところから調理を始め、大戦中に実際につかわれた保温容器による配食までを実演して、カラー写真で紹介してくれています。戦車やハーフトラックやMG42などを装備したドイツ兵とジープやM5軽戦車やM4中戦車を装備したアメリカ兵が参加していて、兵士の方々が少し年齢が高く太りすぎな点を除けば、豪華で見所たっぷりのイベントです。それにしてもreenactmentというのはかなりお金のかかる趣味ですね。
本書には大戦中のGulaschkanoneを囲む兵士のモノクロの写真や経験談もたくさん収載されていますが、兵士たちの笑顔がとても印象的です。兵士の一日が食事を中心にまわっていた、暖かい食事を本当に楽しみにしていたことがよく分かります。このGulaschkanoneで野戦炊事に携わった人たちは軍人だったんでしょうか?その点については記載がなく、本書はモノとしての資料的な情報を求める人には適切な本ですが、史料を期待して読む本ではありません。また本書につかわれている英語はきわめて平易、しかも写真が多くて字は大きめで、短時間で読めてしまいました。この本も Printed in Chinaですが、誤字の多いのだけが気になりました。

2011年9月6日火曜日

地図と絵図の政治文化史


黒田日出男ほか編著
東京大学出版会
2001年8月発行
「1995年から1997年にかけて、絵図・地図を歴史資料として位置づけていくことを目的に組織された共同研究」のメンバーの研究をまとめたものだそうで、古代から近世にわたる日本の地図を対象とした論考が9本収められています。「1980年代以降、地図に関する研究状況は大きく変化し」て、文化の表現、イマジネーションの産物、政治性、主張/認識された世界の鏡としての地図の側面が注目されるようにもなってきたのだそうです。私が1980年代より前の研究動向を知らないからということもあるのでしょうが、本書の論考に研究状況の変化の影響を強く感じることはありませんでした。じゃ、面白くなかったかというとそんなことはなく、学んだ点もたくさんあります。たとえば
行基図をあつかった「行基式<日本図>となにか」。なぜ行基図と呼ばれるようになったのか、筆者は行基菩薩記という逸書があってその中の記述から行基作とされたのだろうと推定しています。現存する最古の行基図の一つである金沢文庫本日本図には、日本を取り巻く鱗をもった龍蛇が描かれています。この図の周辺には紙の縁にくっついて高麗や唐土や龍及といった実在する外国と羅刹国や雁道といった架空の国が配置され、日本は付属諸島嶼とともに図の中心に龍に取り巻かれて描かれています。しかし不思議なことに、対馬と壱岐だけは龍の外側の海の中に描かれているのです。なぜ日本が龍に取り巻かれているのかも不思議ですが、対馬と壱岐が龍の外側にあることはもっと不思議です。日本のうちに入らないと思われていたの?
日本の領域・国境については、近世になっての江戸幕府にも一定の基準があったわけではないようです。たとえば、幕府の指示でつくられた国絵図や日本図でも作成の年代が違うと朝鮮や倭館や琉球や蝦夷などの扱いが一定していなかったのだそうです。日本の中の国境(くにざかい)や郡境や村境については、疑義・紛争があれば幕府評定所の裁判でもとありげられて確定されましたが、外国との国境(どこまでが日本なのか)については、注目する必要がなかったのでしょう。江戸時代になってもこうですから、行基図がその観点から描かれていなくても不思議はありません。また、竹島領有権の正統性主張のために江戸時代以前の地図を持ち出すのは、歴史的な根拠を示すためではあるのでしょうが、当時の地図作成者の感覚からはかなりはずれているのかもしれません。
伊能図の陰に隠れがちな長久保赤水の改正日本輿地路程全図ですが、路程とタイトルに入っていて、領主名、石高などの記載はないので、赤水さんは旅行などにつかう道路地図として編纂したものと思われるのだとか。色づかいが派手で沿岸の形も比較的正確に見える地図と認識していましたが、それにしても単色一枚17両、極彩色一枚25両とあって、高価なことに驚きました(美人画などの浮世絵の値段もこんなもんだったんでしょうか?)。それでもこの地図の売れ行きはよく、赤水さんの死後も版を重ね、海賊版もたくさん残されているそうです。よく売れた一因は正確さにあったそうですが、日本の形を現在の正確な地図で知っている私たちと違って、当時の人がどうやって正確だと判断できたのかがちょっと不思議です。
ルネサンス以前のヨーロッパ各国よりも日本の方が古い地図の残存数が多いという指摘、江戸時代後期の浮世絵のうち歴史画や一覧図には政治的な意味が込められていて消費者もそれを理解して購入していたという指摘、などなど面白く感じた点はほかにもたくさんある本でした。

2011年9月3日土曜日

Rations of the German Wehrmacht in World War II

Jim Pool and Thomas Bock著
Schiffer Military History
2010年発行
第二次大戦におけるドイツ軍のレーションがパン、乳製品、食肉製品、果物・野菜、飲み物、調味料、甘い物、アルコール飲料、非常食といった章に分けられて紹介されている本です。この分野にはたくさんのコレクターがいるそうで、そういった人たちの所蔵品(本物)や、本物を真似てつくった複製品、当時の写真にみられるレーションなどが、きれいなカラー印刷で300ページにわたってたくさん紹介されています。
多数の現物の写真に対して、説明文が付されていますが、筆者独自の調査による記述は多くはありません。説明の大部分はアメリカ陸軍Quartermaster Corps(需品科)の調査報告書にもとづいています。北アフリカ戦線で入手した頃から、アメリカ陸軍はドイツ軍のレーションについて調査していました。記述はかなり詳しく、容器の外観・表示、缶詰なら缶の製法や缶内の圧力や隙間の大きさ、入れられている食品の外観、臭い、味などなど詳細に記述されています。
外観・臭い・味については、素晴らしいと評価されているモノもありますが、「アメリカ兵なら食べたがらないだろう」というようなかなり辛口の評価のモノが多くなっています。ドイツの前線強襲時特別食詰め合わせの中のビスケットなどは「その香りについて「表現しようがない、アメリカのレーションにも一般小売り品にも似たものはなく、強いていえばイヌ用のビスケットに似ている」なんて書かれているほどです。
読み終えての感想ですが、この本はコレクター向けの豪華な図鑑です。モノについての説明はとても詳しく載っています。しかし「レーションに関する兵站システムの説明はほかでも入手しやすいので、詳しくは記さない」と著者が書いているように、兵站を扱った本ではありません。東部戦線に送られたレーションの種類や量や原産国の比率や、現地の部隊は充分にレーションを入手できていたのかどうかとか、そういったことについては、本書ではわかりません。
では図鑑である本書を読んで得るところがないかというとそんなことはなく、初めて知ったことはたくさんあります。例えば、
  • ドイツ赤十字がイギリスにいるドイツ兵捕虜に食糧を送っていた
  • アルミ缶やリングプルオープンの缶がすでに使われていた
  • ラミネートチューブのなかった頃の歯磨きのペーストや絵の具で使われていた 金属製のチューブがチーズなどの包装に使われていた
  • ドイツ軍のマニュアルには包装、容器はリユースするため物資集積所に送り返すこととされていて、「暖を取るために箱を燃やしてはならない」なんて書かれていた
  • FANTAの起源は、第二次大戦開戦でコカコーラ原液を入手できなくなったドイツのボトラーが、1940年にリンゴ酒の絞りかすとチーズ製造の副産物からつくった飲み物だった
  • 満期除隊や傷病で後送されたりする時に、総統からの贈り物(小麦粉・砂糖・ジャム・マーマレード・バター・ハチミツなど合計11.5kgの食品)が送られた
この本のつくりはというと、かなり厚手のアート紙に全ページカラーで印刷されています。またカバーだけでなく表紙裏表紙もカラー印刷の豪華な本です。でも印刷製本を安くあげるためか、Printed in Chinaでした。私の経験では、医学書にしても歴史の本にしても、洋書というのは用紙や装丁が質素なかわりに安いという印象がありました。しかしこの本はその例外で、英語の本でも実用的な専門書は質素でも、趣味の世界の本は豪華ということなのでしょうね。