2011年11月13日日曜日

日本帝国の申し子

カーター・J・エッカート著
草思社
2004年1月30日 第一刷発行
植民地時代の朝鮮で民族資本による企業として大きく発展した京城紡織株式会社について、その創設者・経営者・発展や拡大の要因・取引先・朝鮮人労働者との関係・植民地当局との関係などを包括的に説明し、ひいては当局との癒着ともいうべき関係が韓国の高度成長にもつながったことを示唆している本です。著者はアメリカ人ですが、京城紡織関係者とのインタビューや会社に残されている史料なども利用して本書を書き上げたのだそうです。
韓国の研究者の中には京城紡織を民族資本・朝鮮の工業技術のみにもとづき、朝鮮人のみを雇用し、朝鮮人の経営したモデル的な企業として描いている人がいるのだそうです。しかし実態がそうではなかったことを、「京城紡織50年」「京紡60年」といった社史をも含めた史料から、著者は明らかにしています。第一次大戦中の好景気を背景に、三・一運動後の朝鮮総督府は方針を転換して、朝鮮人資本家による企業の設立を認めるとともに、その保護育成をはかることにしました。京城紡織もそれをうけて設立され、朝鮮総督府からの補助金は創業後の苦境を乗り切ることに役立ちました。株式の出資者の過半数は朝鮮人でしたが、経営に不可欠な借入金は主に朝鮮殖産銀行にたより、原料の購入と製品の販売は伊藤忠など日本の商社に依存し、また商業金融を受け、製造設備は豊田織機などの日本の企業の製品を使用していました。総督府や殖産銀行などからの便宜の供与を容易にするため、京城紡織の経営者は総督府の高級官僚や殖産銀行の幹部と個人的な友好関係を保つようこころがけていました。日本国内の日本人経営の企業でも同じようなことをしていたと思うので、京城紡織のとった個々の行動について読んでいてちっとも不思議だとは感じません。経営者にとっては企業の発展のためにする当たり前のことだったでしょう。しかし、著者はこういった事実の記述に際して「日本の帝国主義を弁護するものでは決してない」と繰り返し本書に書いています。アメリカ人や日本人が読めば当たり前と感じることでも、朝鮮の読者から冒瀆と非難されることを著者は覚悟しなければならなかったのだと思います。
総説としてはとてもよく書けているし、読みやすく翻訳された本だと思います。ただ、読んでいるともっと知りたくなることが出てきます。たとえば、製品や販路の問題。京城紡織は、東洋紡のトリプルAブランドの広幅綿布に、値段は若干安くした自社の太極星ブランドの綿布で競争を挑んで、東洋紡の高品質とブランドに勝てずに失敗したことがあったそうです。このため京城紡織は競争を避ける戦略をとりました。日本企業の競争力の強かった高番手綿糸をつかった薄い綿布ではなく、より厚手の綿布。日本企業の競争力の強かった朝鮮南半部からは意図的に手を引き、低価格と愛国心の宣伝がより意味を持つ、貧しい住民が多く民族主義的な傾向が強い朝鮮北部に販路を求めたこと。さらには満州へと販路をもとめたことなどが、それにあたります。でも、朝鮮の南部向けと北部向けの販売高、製品の内訳やその製造・販売数はどれくらいだったのか、その数値は示されていません。また日本企業はインドや中国の企業との競争で、綿糸の高番手化・薄手綿布の製造にシフトすることになったと思うのですが、工場法がない朝鮮に立地し日本よりも労賃を低く抑えることのできた京城紡織は、インドや中国企業なみの行動をとったということでしょうか。できればこの時期の日本の紡績企業・兼業織布メーカーとの比較なども含めて解説が欲しいところです。さらに民族企業が必ずしも有利でなかったという記述には興味を引かれますが、「朝鮮の企業の製造した綿布を買って下さい」と宣伝した時の効果の南北での違いについても具体的な説明が欲しいところでした。



あとひとつ本書を読んではじめて知り、驚いたこととして、朝鮮では綿花の栽培を続けていて、朝鮮内の紡績会社(京城紡績と釜山の朝鮮紡)が使用するのに充分な量の綿花の収穫があったそうです。ただし在来種ではなく、アメリカの長繊維種の栽培を奨励していたので、収穫された綿花は高番手糸用に内地に移出されたものが多かったとか。開国前後に朝鮮から綿布を輸入したことは知っていましたが、朝鮮半島には日本より綿花の栽培適地が広かったのでしょうか。それとも日本国内では人件費を含めた栽培経費と機会費用の点でつくらなくなったが、朝鮮では栽培による収益と経費とが見合ったということだけなんでしょうか、不思議。

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