国書刊行会
2011年10月初版第一刷発行
停滞の帝国というのは中国のことですが、中国の停滞の様子を主なテーマとした本ではありません。近代西洋における中国像の変遷というサブタイトルがついているように、中国の様子を見たり、聞いたり、読んだりしたヨーロッパの人たちの主張を時代ごとに並べ、ヨーロッパ人の側にどういう変化がなぜ起きたのかを丁寧に跡づけてくれています。
アヘン戦争、太平天国、日清戦争、辛亥革命など中国自体の変化が契機とならなかったわけではありませんが、ヨーロッパの人が中国を停滞、退行の状態にあると判断し、中国人が白人に劣る黄色人種であことから停滞しているのだと考えるようになっていった主な要因は、ヨーロッパの側の変化にあるということが説明されていました。つまり、ヨーロッパ人の中国観を材料としてヨーロッパ精神史が書けるわけで、目の付け所がシャープですよね。
ヨーロッパにはマルコポーロ以前から中国に関する情報が入り始めていたそうですが、本書で主に扱われているのは16世紀以降のことです。はじめに中国に関するまとまった情報をもたらしたのは宣教師たち、特にイエズス会の宣教師でした。彼らは、数々の発明にも関わらず、絵画、活版印刷、鋳造、彫刻などの分野で中国の科学技術がヨーロッパに劣ると指摘する一方で、日蝕の記録からその正確さを確認できる歴史記録がかなり古くから残されていること、科挙と官僚制、物産の豊かなことなどを伝えました。特に、ノアの大洪水以前までさかのぼりそうな中国史の長さは、ヨーロッパの人たちの間で聖書への信頼を揺るがすことにつながることにもなったそうで、説明されてみればそれはそうだなと感じましたが、これまで知らなかったことなので驚きました。本書でも、はじめは中国に宣教・商売・外交の仕事で実際に訪れた人の体験記が扱われ、時期が遅くなるとそれらの記述を元に中国を論じる人も増えます。カントやアダムスミスやダーウィンなどなども中国について発言していたのだそうです。それにしても、ヨーロッパをいいところも良くないところもあわせて相対化できる人・人種の差別をしない人が長いこと出現しなかったことには驚かされます。
中国文明が古来から一定の水準に達していたという認識は必ずしも好意的な評価にはつながりませんでした。遠い過去からしっかりした制度・文化を維持してきた・変化の少なさ=停滞とマイナスに考えられるようになったわけです。実際には王朝がいくつも交替し、文化面でも例えば儒学においては朱子学・陽明学などの革新が行われたわけですが、それらは無視されます。その後も、清朝治世下の中国自体に大きな変化がなかったにも関わらず、18世紀中葉以降には、進歩するヨーロッパに対して中国文明は停滞・退行と認識されるようになりました。これって、古い時代にはヨーロッパよりも中国の方が進んでいたことがあったと考えなければいけないはずなのに、それを停滞と判定してしまうことの傲慢さには呆れる感じがします。西・北ヨーロッパ人にとってもギリシア、ローマの文化は自分たちのもので、自分たちが過去から一貫して中国に劣っていたはずがないという意識していたのでしょうね。
西洋の黄昏、中国の黎明という終章は、ウエーバーからニーダムまで、革命と戦争、新中国の20世紀をとりあげています。スメドレーやスノーに始まる共産党と新らしい中国についての紹介は、16世紀にイエズス会の宣教師が中国事情を報告したのと同じような感じがします。新王朝の実態が外からはよく分からなかったという点でも。しかし「近代西洋における中国の停滞あるいは不変の神話に限るならば、20世紀中葉から末葉にかけて、中国の変貌と西洋自身の意識の変化が相まって、徐々に、しかし確実に消滅していった」と著者が本書を終えているように、その点について変化があったことはたしかですね。
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