元木泰雄・松薗斉編著
ミネルヴァ書房
2011年11月20日初版第1刷発行
以前、編者の一人の松薗斉さんの書いた王朝日記論(2006年、法政大学出版会)を読んだことがあります。日記の家、日記をはじめとした文書・記録類の保管法として文車の利用が紹介されていたり、日記をつけることを止める時、公事への日記の利用の終焉など、かわった視点でまとめられていてとても興味深く読みました。日記という史料は面白いんだなという感想を持ち、同じ方が編者となっている本書が近所の書店で平積みになっていたので、即買ってきました。
本書は、院政期以降の16の日記について記主の略歴とその特徴や面白さを、各日記の研究者が紹介してくれています。材料が豊富な日記という史料の性格もあるのでしょうが、どの章もとても面白く読めました。残念なのは、索引や史料を除いた本文は300ページ弱しかないので、どの日記についてももっと分量があればと感じたことだけです。各章末にはきちんと参考文献が紹介されているので、「もっと」と感じた人はそちらを読んでくださいということなのだと思います。
勉強になった点を紹介すると、たとえば明月記。日本史の分野で史料としてつかわれているのを目にすることが多い日記ですが、文学作品として評論の材料に使われた堀田善衛さんの定家明月記私抄・同続編(ちくま学芸文庫)も面白く読んだ記憶があります。定家明月記私抄で最初に取りあげられているのは、かの有名な「世上乱逆追討耳ニ満ツト雖モ、之ヲ注セズ。紅旗征戎吾ガ事ニ非ズ」です。堀田さんはこの文が治承寿永の内乱に関連したものと考えて著作を続けていますし、私も当然そうに違いないと思っていました。ところが、現存する明月記が後に清書されたものであることから、この文は承久の乱後に承久の乱と絡めて書き加えたものという説があるとのことです。まあ、本書の明月記を担当した筆者はその説には与しないとのことですが、それにしても史料の解釈って難しいし、また新説を提唱した方の柔軟な考え方にも感心しました。
そして、看聞日記。記主の貞成親王は「落ちぶれゆく宮家の皇子(それも嫡子ではない)」と書かれているくらいで、40歳になってようやく元服し、兄の死で46歳で宮家を嗣いで親王になった人です。この人の日記が残ったのは息子さんが後花園天皇になるという僥倖をつかんだからでしょう。この看聞日記については、横井清さんという方の書いた室町時代の一皇族の生涯(講談社学術文庫)を以前読み、文人として生活していた様子や、将軍義教に対する恐怖や、先々帝の意向に逆らって息子から太上天皇の尊号を贈られたたことなど、興味深いエピソードが書かれていました。ただ、一つ腑に落ちなかったのが、貞成親王が40代になるまで出家もせずに部屋住みみたいな身分を続けていたことです。貞成王は琵琶の修行に励んでいて、彼を養育した今出川家が「貞成の音楽に対する『器量』(才能)と『数寄』(関心)」をかっていたからだろうと本書には説明されていて、納得できました。
直筆の日記が残されているものはそれほど多くはなく、また直筆とされる日記でも、後になって清書されたものが多いのだとか。自分のためだけではなく、自家の存続のために行事などを細かく記録したわけで、子孫がさらに利用しやすいように整理して清書したのでしょうね。でも、清書されていない直筆の日記も残されていないわけではないでしょう。例えば、本書の取りあげている日記とは時代がずれますが、御堂関白記を展覧会で目にしたことがあります。きちんと罫線を引き、濃い墨色のしっかりした文字で日付などが記入されている具注暦に、薄い墨色で大胆というかへたくそというか、暦の文字よりずっと読みにくい字で書かれているのが印象的でした。あれは、直筆のままかなと思います。墨は磨ると腐るから長持ちはせず、毎日磨るものですよね。家の召使いではなく、自分でいい加減に磨ったからあんなに墨の色が薄いのかなと感じました。直筆の日記が残っている人については、そのへんがそれぞれどうなっているのかも知りたいものです。その人の性格も分かりそうな記がするので。また、日記はいつ書いたんでしょう。深夜まで行事が続いたりお酒を飲んだりすることも少なくなかったのでしょう、貴族の方々は。記主によっても違うとは思いますが、帰宅してからその日のうちに疲れた体で日記をつけたのか、それとも翌日落ち着いた気持ちでしっかりと墨を磨って書いたのかも気になります。
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