原宗子著
大修館書店 あじあブックス065
初版第一刷 2009年7月1日
象形文字の「象」が示すように、古代の中国には象が住んでいました。森の中の動物は殷の王の狩猟の対象となり、あたりでは稲作も行われていたのだそうです。しかし、それとは対照的に、現在の黄土高原は黄砂をとばし、黄河を黄色く染め、断流もしばしばの状況です。こういった変化がどうして起きたのか。気候の変化とそれに対する農業などの産業の対応を、殷代から明代までの史料からさまざまな興味深いエピソードを示しながら説明してくれる本でした。たとえば、
ファンの多い『三国志演義』に描かれた「三国鼎立」の状況から、曹操が最終的に抜け出したように見えるのも。実のところ、曹操の軍団には「寒さに慣れた人々」が多く参加したことがポイントだったように思われます」黄河の凍結がおこるなど、三国時代が最も年平均気温が低かった。
やがて温暖期を迎えた環境条件の下、唐代の国際交流ーシルクロード交易は盛んになりました。中央アジア地帯への雪解け水の流入量が温暖化によって増したようで、オアシス都市を結ぶ隊商の活動も活発化したと考えられます。
こういったエピソードに示されるように、温暖化、寒冷化という気候の変化は大きな影響を持っていたようです。中国では王朝の交替がいくつも行われましたが、王朝の衰退の原因としてこういった気候の変化があったのだろうと感じます。また、乾燥した中国の内陸部では灌漑すれば農業生産に利するとばかりは言えず、畑作灌漑が耕地のアルカリ化をもたらすことも指摘されていて、勉強になります。それに対して、中国のことではありませんが、
稲作は、イワシや貝、アラメなどの海草類、といった海の所産によって何百年も支えられてきたのです。これらは、人が食料として摂取するだけでなく、限られた土地で連作を続ければやがて収穫率の落ちてゆく穀物生産を継続するのに不可欠な、肥料として使われてきました。貝塚を残した縄文人以来、基本的に牧畜をしないで、主たる蛋白質源は海産物だったのですから、人糞尿だってエコロジカルに考えれば日本では海の所産です。
と書かれています。海草や干鰯、鯡粕が肥料として使われたことは周知のことですが、物質循環にまで目を向ければ、たしかに人糞尿も海の所産といえそうで目から鱗の指摘です。日本はエコロジカルには有利な位置にあるわけですね。それに対して海の恵みを期待できない内陸中国で地力維持の役割を果たしていたものについては
養蚕の産業廃棄物ー蚕矢の耕地への投下は、穀物生産による地力減退から、何とか華北の大地を救ったのです。絹はいうまでもなく、前近代屈指の「世界商品」でしたが、中国から輸出される絹の生産こそ、中国の大地を沙漠化から護ったものでもあったのです。
と書かれていました。シルクロードを通して輸出される絹製品は主に山西省あたりで製造されていて、その原料を製造する養蚕業の廃棄物が山西省の農地の維持に役立っていたこと。時代が移って明代になると西域を支配することができず、絹製品の輸出は海路が主になり、絹織物業やその原料を生産する養蚕業も沿海部に移動してしまったこと。絹織物業養蚕業の衰退した山西・陜西地方では、桑の木が減って表土飛散・水土流出をもたらし、養蚕業の廃棄物が投入されることがなくなった農地は有機物を失い団粒構造をとらない荒れ地となったこと。したがって、黄土高原の森林喪失は明代に始まるというのが著者の説明でした。
これまでこういう説を知らなかったのでとても勉強になります。ただ疑問に感じる点もあります。蚕矢は有機物を耕地に供給する意味だけで、さなぎという形で窒素肥料を供給するという意味がなかったのかという点がひとつ。また、養蚕業自体の持続性はどう保証されていたのかということです。養蚕業は桑の葉に含まれるタンパク質・アミノ酸を、蚕に絹糸タンパク質という形に変換・濃縮させ、生糸・絹織物の原料の繭を生産する産業です。桑の木は土壌に窒素が供給されなければアミノ酸・タンパク質を豊富に含んだ葉っぱをつけることができないと思います。稲妻で合成された窒素酸化物が雨に溶けて降ってきたものだけが原料で充分だったのか、それとも放牧した動物の糞などもつかっていたのか。物質循環はどうだったのかというあたりです。
あと、本書の扱っている範囲からは外れますが、長江流域から華南にかけての地域には農地の持続可能性に支障はなかったのでしょうか。日本と同様に降水量が多く湿潤なので、木を伐っても自然とまた生えてくるし、農地が荒廃するような条件もなかったということでいいのでしょうか。宋代以降の中国は長江流域から華南にかけての産業に依存していたのだと思うので、この点も気になりました。
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