このページの記事一覧   

2012年3月20日火曜日

中華人民共和国誕生の社会史

笹川裕史著
講談社選書メチエ510
2011年9月10日第一刷発行
日本との戦争を続けるために、税や強制借入として現物の食糧を無理に徴発し、嫌がる人たちを兵士に仕立て、対日戦「惨勝」後にも兵士の多くはお金がなくて故郷に帰れなかったり戦傷を負っていたりなどして、耕し手を失った小作農は地主に土地を取りあげられてしまうなどといった問題が山積していた、そんな日中戦争から国共内戦にかけての時期の四川省の様子を描くことで、タイトルにある中華人民共和国誕生の理由を実感させてくれる本でした。この時期には人口(政府が徴税のために把握していた人口)が大きく減少したことも書かれていて、中国の王朝交代時の大幅な人口減もこういったものだったのかもと思わされます。また、プロローグには
十数年間にわたる戦時下の混乱と変容が、中華人民共和国の誕生とその政策展開における社会的土壌を準備した。その点では、1949年革命の必然性を、日中戦争の開始以前からの社会矛盾に求める通説的な中国近代史像とは異なっている
とありました。日本でも厭戦感情や困窮した生活をそのままに敗戦後数年以内にもうひとつ戦争を戦わなければならなかったとしたら、社会の混乱はただごとではなかったでしょう。中国は日中戦争後に国共内戦を経験することになったんですから、ただでさえ国内を統合する力の弱かった国民党政権が統治の正統性を失い、役人や軍閥なども沈む行く船から逃げ出すような有り様になったのも頷けます。ああいったかたちでの日中戦争がなければ中国に共産党政権ができていなかった蓋然性はかなり大きいのではという点も含めて、本書を読んで著者の見解はかなり正しいだろうと感じました。
日本軍が戦闘・占領した地域はもちろんのこと、重慶爆撃などの例外を除くと日本軍の戦闘行為による直接的な被害を受けなかった四川省でも、日本が社会の混乱と共産党政権誕生の主たる原因とみなされていたでしょうから、この時代を生きた人やこの時代のことを学んだ人たちの対日観がこの戦争に大きく影響されることはやむを得ないことでしょうね。
国民党統治下では統制しきれなかったため、 戦中の日本よりも「報道の自由」があったそうです。本書の史料としてもこの時期の中央・地方政府の文書に加えて、 地元の新聞もつかわれていました。こういう混乱期の新聞なんかは散逸して図書館などでも読むのが難しい気もするのですが、どこに保管されていたものを著者は読んだのか(中国の文書館だそうです)、そんなことも気になってしまうほど、興味深く読めて情勢を理解させてくれる。そんなエピソードの選び方・取りあげ方にもセンスを感じました。また、
アメリカ合衆国に次ぐ世界第二の国内総生産(GDP)を誇る現代中国の経済大国化を考えてみても、その直接の起点は1949年革命ではなく、1978年末の「改革開放」に舵を切った政策転換に求めるのが妥当であろう。 
硬直化した一党独裁体制、拡大する貧富の格差、都市と農村との格差、暴走する人権侵害、党幹部の特権と腐敗、先鋭化する少数民族問題、荒れ狂うナショナリズムなど、今日の大国化した中国が抱える深刻な問題を思いつくままにあげてみても、そのどれもが、1949年革命で誕生した中華人民共和国という国家の特質や、その歩んだ道程と切り離しては理解できない
という点も鋭い指摘で関心。文句なくおすすめできる好著です。また、本書の内容とは直接関連するわけではありませんが、安全な後方にあって臨時の首都がおかれた四川省の様子がこんな状態だったとすると、国民党政権の統治歴の浅い台湾をなぜ保持し続けることができたのかが気になります。大戦中も台湾の食糧事情は比較的良かったようですからそういった要素が効いていたのか、植民地時代の比較的しっかりした統治機構を入手できたからか、それとも文字通り海を挟んでいて共産党軍がおいそれとは攻めて来れなかった状況下で台湾省民の不満は銃剣で押さえつけることができただけなのか。このあたりについて解説してくれている本も読んでみたいですね。

2012年3月18日日曜日

記憶の歴史学

金子拓著
講談社選書メチエ519
2011年12月10日第一刷発行
「史料に残る戦国」というサブタイトルにたがわず、戦国期の各種史料を分析して得られた興味深い知見を紹介してくれている本です。どれもかなり細かいところまで考察されていて、面白く読めました。どんなことが取りあげられているかというと、

  • 織田信長が天正二年の賀茂祭の競馬に出席したかどうか、神社の記録と奉行だった太田牛一の記録とで異なる
  • 細川ガラシャ(明智玉子)の死は自害だったのかどうか
  • 天正十年の兼見卿記に一年分の正本と本能寺の変のあった6月まで記載の別本があるのは、追及を怖れての日記改竄なのか
  • 永井荷風の断腸亭日乗は修正を加え続けられた作品と考えるべき
  • 上杉家の家臣たちの家では過去のどの戦いを重視していたのか
  • 家の衰退で中世以来の文書が散逸しかかったが、秋田藩の修史事業でまとまって伝わることになった例
など。著者が経験した各種の史料から話題がとられているので、オムニバスな論集になっています。テーマが一貫していない感を著者はもったのかもしれません。そのため「記憶の歴史学」というタイトルがつけられていて、
史料の成り立ちに関わる記憶、史料のなかからすくい上げることのできる記憶、記憶を意識することにより可能となる新たな史料解釈、記憶という紐帯によってむすびつけられる集団のあり方、そこからあらたに生みだされる記憶など、多角的に記憶という現象のありように迫り、それを史料学のなかに位置づけたいと思う
と著者は述べています。でもこれが成功したかというとはなはだ疑問です。というのも、本書でとられている史料の分析・解釈が、他の史書のなかで行われていることとちっとも違わない、ふつうの史書という印象しか私は受けませんでした。「戦国期史料よもやま話」とかいうタイトルの本になったとしても恥ずかしくはないと思うし、本書のやり方は気取りすぎ。
本書が取りあげている話題で一番驚いたのは、秋田藩の修史事業の件です。秋田藩では家譜を編纂するため、家中の諸士に伝来の文書や系図の提出を求め、担当部署である御文書(記録)所で吟味され、原本の場合にはその旨を記した青印状を添えて、原則的に提出者へ返却されましたが、写しもつくられて現在でも「秋田藩家蔵文書」として残されているのだそうです。ただ、この提出された文書が「原則的に提出者へ返却」というのが曲者で、家中に別に嫡家があれば嫡家の文書とされることになっていて、藩当局から見て所持するいわれのない文書を提出した人は有無をいわさず没収され、本来所持すべき正統性をもっている者に返付されたとか。
これってかなりひどい仕打ちですね。家伝来の大切な文書を藩の修史事業のために提出したのに取りあげられてしまった事例が本書には載せられていました。原本は裏を破って提出者に返付し、写しを「本来所持すべき」者に与えるとかいうようにしなかったのは何故なんでしょう?

2012年3月10日土曜日

「清明上河図」と徽宗の時代

伊原弘編
勉誠出版
2012年1月 初版発行 
以前、この本の編者である伊原弘さんが編んだ「清明上河図を読む」を読んだことがあります。そちらは張擇端作の清明上河図に描かれた人とモノ、舟や建築や情景などを専門家が読み解いたり日本の同種の図と比較したりといったスタイルの本でした。その本が好評だったことから続編として本書を出版することになったそうですが、私も前著を楽しく読んだので本書を購入してみました。こちらは前著と違って、張擇端作のオリジナルの清明上河図の分析が主眼ではなく、清明上河図の描かれた北宋、特に徽宗の治世下の社会や、明代以降の美術史に与えた影響などを分析した論考などが20本集められています。論点は多岐にわたりますが、個人的にとても勉強になった点を挙げてみます。
冒頭には、清明上河図の描かれた北宋とそれをとりまく時代状況を編者が解説してくれています。北宋は経済が繁栄し、科挙に合格した文官・士大夫が優遇された時代で、軍事力が非常に弱体だったものと思っていました。たしかに亡国の憂き目にあったのですから強力な軍隊を保有していたいたとはいえないのでしょうが、軍隊に組織されていた兵の数は決して少なくはなかったのだそうです。しかし、大量の兵の常備は、土地を失った流民に対する社会政策的な意味をもっていて、その点で強兵ではなかったということです。
国の統治にあたり、徽宗は有効で効果的な政治手段として『芸術が役立つ』と考えていた。そして、未曾有の規模の芸術文化のパトロンであり続けただけでなく、彼自身も多くの作品を生みだした。才能ある人材を自身の代理として使い、御書や絵画を大量生産して、それを朝廷の重要な人物に見せたり、下贈したのである。
徽宗は日本の国宝としても有名な桃鳩図などの作者で、痩金体という特徴ある魅力的な書体の使い手でもあり、芸術に理解のある皇帝だったのだと思っていました。しかし、本書に収められたマギー・ビックフォードさんの「芸術と政治」には、徽宗と芸術との関わりは個人的な娯楽ではなく自らの治世を天が認めた証として現れる瑞祥を記録したものだったこと、瑞祥画の制作は統治の一手段でもあったので臣下への恩恵的な公開・下賜が行われたこと、瑞祥画を多数制作するための組織が設けられていたこと、皇帝の下す命令書類などに書かれた痩金体も彼の書体を真似た秘書役たちが署名を含めて記していたことなど、目から鱗の指摘がなされていました。卓見だと感じますがこれはすでに常識化した見解なんでしょうかね。ともかく、徽宗作とされている絵画は必ずしも画家徽宗個人の作品と考えるべきではなく、彼自身もたしかに筆を執ったのでしょうが、主には(工房の長としてでもなく)パトロンとして振る舞ったということのようです。例えばレンブラントのようなヨーロッパの画家たちや日本の狩野派なんかも集団で制作していたのですから、同じような感じなんでしょうね。
仇英はおそらく伝聞により知り得た宋代の「清明上河図」構図に基づき自らの画巻を書いた。 
十六世紀から十八世紀までの二百数十年間、実際には二十世紀に至るまで、存在していることが知られていながら、誰も見ていない張擇端の「清明上河図」の構図が中国の画巻を支配し続けたのである。
張擇端作のオリジナルの清明上河図は開封の失陥後は金朝の所有に帰し、その後は長らく行方不明でした。清代の1799年に軍費乱用で家財を没収された文人官僚のコレクションから朝廷のものとなり、それが現在では北京の故宮博物院に収蔵されているのだそうです。張擇端作の清明上河図の名声を慕って、清明上河図の画題や構図を参考にした作品を明代の仇英という画家が描き、その後、都市繁盛図が流行すると販売を目的として江南の絵画工房で多数の模作が制作されたのだそうです。それにしても、幻であったはずの作品に対する高い評価がなぜ生まれ、どうやって流布したのか、またみたことのない作品を範として絵を描くなんてことがどうして可能だったのか、これらに対する詳しい説明をしてくれる論考は含まれていなかったので、とても不思議な感じがしました。
さらに「東アジアにおける都市図と風俗画」という論考では、江戸時代の鍬形蕙斎の東都繁盛図巻が清明上河図の影響を受けたと論じられています。しかし、注文主の松平定信と清明上河図との接点のみならず、日本での清明上河図の輸入・受容の様子を示す史料がまったく記されておらず、にわかには信じ難い印象を受けてしまいました。日本の複数の美術館に清明上河図が収蔵されているそうですが、その来歴なんかははっきりしてはいないんでしょうかね。
徽宗時代の捉え方は人それぞれであろうが、筆者は「北宋突然死」説を採っている。もし、徽宗時代の主潮であった王安石学派の経学がその後も順調に展開していたら、東アジアの近世思想文化史は実際にそうなったものとは大きく様相を異にしていたことだろう。
「天を観て民に示す」という儒学史に関する論考で小島毅さんはこう書いています。私には宋学の展開過程はよくわかりませんが「北宋突然死」という考え方には共感できます。コークスを利用した製鉄や市場経済の目覚ましい発展のあった北宋は、思想史とは別の意味でも画期的・魅力的な時代だったと思うのです。もし北宋が金に滅ぼされずに続いていたなら、その後の中国の経済成長がどうなっていたか、また世界は600年以上も早く近代を迎えることにならなかったのかというような経済史的な妄想をたくましくさせてくれる、そんな時代ですよね。

2012年3月2日金曜日

南北戦争記

ブルース・キャットン著 
益田育彦訳
バベルプレス
2011年4月30日
本書を読んで、この有名な内戦について勝敗と奴隷解放くらいしか知らなかったことを再確認させられた感じです。奴隷制をめぐる対立が続いていた状況のもと、リンカーンの大統領選出により南部の州が離脱を決意。しかし双方とも本気で戦争を想定して準備していたわけではなく、北軍の兵士のあいだでは戦争の意義が明確ではなかったのに対して、郷土防衛のために参戦した南軍の兵士たち。人材的にも南軍指揮官に利があり、当初は互角以上に戦うことができ、一時は英仏など外国からの承認を取り付けることに成功しそうな状況だったこと。しかし、総力戦になれば経済力・人口の差が大きく、北部海軍によって綿花の輸出・軍需品の輸入が封じられ、ミシシッピ川が制圧されて南部連合の領域は分断されてしまいました。それでも、長引く戦争と多数の戦死傷者は北部の人たちに厭戦気分をもたらし、リンカーン大統領の再選が危ぶまれる時期もありました。しかし決定的な南軍の勝利は得られず、防勢においこまれた南軍は各個撃破され、降伏にいたったということです。著者はジャーナリスト出身の作家だそうで、この4年超の戦争を読者が理解しやすいよう、主要人物とエピソードを配して綴っていて、日本でいうと司馬遼太郎の作品みたいなものなのかもしれません。訳文もこなれていて、興味深く読めました。
リンカーンの大統領選出を機に南部の州が離脱を決意してから、4年余り。南北の首都がわずか100マイルしか離れていないことを考えると、こんなに長く戦争が続いたことが不思議でしたが、開戦後に兵を募って訓練するところから始めていたことや、南軍の最強軍団がリッチモンドを守りワシントンを脅かす位置にいたことなどから、こうなっていたわけですね。
合衆国軍隊は、南部連合に役に立っている資産を接収するように指示されていたが、実際にわかったのは、南部で最も有用な財産は黒人奴隷である、ということだった。北軍兵は、奴隷に対して人としての同情をほとんど示さなかったし、奴隷を資産であることに、特に反対を唱えたわけではない。 
資産としての奴隷は、南部の戦争継続を支えた。そのため、奴隷を所有者から引き離す必要があり、連れ去られる時、その奴隷に何かしてやれることといえば、自由を与えてやることだけであった。
奴隷解放宣言は有名ですが、著者によると北軍兵士も北部の人たちも、必ずしも奴隷解放をめざして戦ったわけではなく、戦争後期に行われた南軍の経済的基盤を破壊する戦争行為の一環として考えるべきものなのでした。以前、アメリカ南部に生きるという、アラバマ州で19世紀末から20世紀を生きた黒人農民の聞き書きをまとめた大著を読んだことがあります。奴隷解放から一世紀以上経過したその頃でも差別が厳しく残っていて、南北戦争が奴隷からの解放ではあっても、経済的に不利な地位からの解放を本気でめざしたものではなかったことがよく分かります。
また、第2期の当選後のリンカーンは統合のため南部に対して寛大な政策をとる意向だったが、その政策を公にする前に暗殺されてしまった。そして、後継大統領をはじめ連邦政府の政治家たちは戦争でハイになった北部の民衆を善導することができなかったという主旨のことが書かれていました。この本は専門書ではないので、それを裏付ける史料などは載せられていませんが、これが一般的な理解なんだとすると、リンカーンの評価がアメリカの歴代大統領の中でもトップクラスである理由が理解できた気がします。
本書には戦争中の南部の様子についてはわずかに記載があるものの、戦後についてはほとんど触れられていません。南部の人たちの生活や意見や、またカーペットバッガーや北部の人たちの生活者としての本音についても読んでみたい気にさせられました。それと、イギリスの「圧制」から独立してから一世紀もたっていないのに、同じように独立しようとした南部連合を容認しようとする意見が過半数を占めなかったことも不思議に感じます。このへんも詳しく知りたい感じです。