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2013年2月11日月曜日

経済大陸アフリカ


平野克己著
中公新書2199
2013年1月25日発行


冒頭で、永らく低迷してきたアフリカ経済が21世紀になって成長を始めたことと、同じ頃から中国が資源確保を目的にアフリカ諸国に積極的に投資してきたことが述べられています。これはなにも中国の投資のおかげだけでアフリカが成長し始めたということではなく、中国などBRICsの経済成長に起因する世界的な資源の不足が価格体系の変化を招き、アフリカから輸出される燃料・鉱産物の価格が上昇したため、アフリカへの投資が見合うようになったということだと思われます。
いま、アフリカでもっとも評価されている援助国はおそらく中国だ。 
ガバナンスこそが経済成長のパフォーマンスを左右する決定的要因だと主張していた1990年代の開発論は、この現実をみるかぎりまちがっていたといわざるをえない
と著者は指摘しています。経済成長が実現するには競争力を持った商品を生産して付加価値を生み出す主体の存在が不可欠で、ODAによってそれを生み出すことはできないというのは正しいのでしょう。ただ、ODAは本当に効果の期待できないものだったんでしょうか?というのも、本書の中に示されているグラフを見ると、21世紀になってアフリカに流入する国外直接投資(FDI)の額は、20世紀後半にアフリカに向けられたODAの額よりずっと多いように見えるからです。ODAが目に見えた成果をもたらさなかった原因のひとつに、単にその供与額が不十分だったという理由がなかったのかどうかは気になります。また、
経済が急速に成長しているにもかかわらず、アフリカの行政の質は良くなっておらず、所得分配の不平等度もおそらくは悪化している。「資源の呪い」はそれほどまでに強い力で作用するものなのか
成長するアフリカでも農業のパフォーマンスは相変わらず不良で、コスト高の食糧、それも都市が必要とする量を供給できていないことが述べられています。このためアフリカには豊富な低賃金労働というものは存在せず、製造業はかえって停滞しているそうです。農村が取り残されているだけではなく、拡大する都市の住民の中でも良い職に就けない人たちには経済成長の恩恵は行き渡っていないのでしょうね。とはいっても、経済が全く不振だった時期に比較すれば、中国製の消費財が少しづつ庶民の手にも届いてはいるのでしょうが。
従来とのちがいは、国外からの投資が急激に増えてアフリカの生産力をおしあげていることだ。それを可能にしたのは、うけ手としてのアフリカの投資環境が改善されたからではなく、だし手としてのグローバル企業の投資能力が向上したことにあるというべきだろう
これも鋭い指摘です。本書では「低開発問題を世界システムから説く議論」が一世を風靡した20世紀半ばの南北問題解決策は成功しなかったことが述べられています。ただ、私としては「低開発」の根底にはそれを導く世界システムがやはり厳然として存在していると思うし、世界システム論自体がダメだったとは思えません。現在が価格体系の変動期であり、しばらくは一次産品の相対価格が上昇する時代が続くという著者の味方は正しいのでしょう。しかし、BRICsなどによる一次産品需要増が永久に続くわけではなく、また価格の上昇した原材料を節約したり代替したりする技術革新が必ず出現するはずで、いつかは一次産品の相対価格が低下する時期がふたたびやって来るだろうと思います。その頃までに南アフリカ共和国以外のアフリカの国の中から半周辺への移行を成功させる国がもしかすると出現するかも知れません。しかし、ほとんどの国は低開発状態、周辺の地位から抜け出せてはいないでしょう、きっと。いま、成長を謳歌するサブサハラ・アフリカ諸国の首都にそびえる高層ビル群は、マナウスのオペラ劇場のようなもの。19世紀の一次産品が高価だった時代に繁栄を謳歌した南アメリカ諸国が、周辺の地位から抜け出せなかったのと同じことだと思うのです。

最後の章では、BOPビジネスのフィールドとして格好の存在であるアフリカ、アフリカや資源価格の上昇前のソ連・ロシアと同じく長期の経済停滞に悩む日本の分析、そして日本のアフリカへのアプローチの仕方の提案まで触れられていました。アフリカに対する見方を変えてくれる本であるとともに、いろいろなことを考えるようしむけてくれるという意味で、とても刺激的な本でした。

2013年2月9日土曜日

平家納経の世界


小松茂美著
中公文庫
1995年12月3日印刷 
1995年12月18日発行

冒頭の「一 平家納経の成立ドラマ」ではタイトルにあるとおり、平家納経について物語風に語られています。平清盛がその絶頂期に感謝を込めて厳島神社に納経したのかと思い込んでいましたが、まだ権中納言の時に企画されたものだったのだとか。その他にも知らなかったエピソードがいろいろと書かれていて興味深く読めました。しかし、本書で本当に面白かったのは、平家納経と出会いや、それをきっかけとして古筆学の確立にまで至った著者の個人史を語った部分です。

中学校卒業後に家庭の事情で進学できず、父と同じく鉄道省の鉄道員に就職。召集されるも職業と健康状態から即日帰郷となり運が良いと思う間もなく、広島で原爆に被爆。一時は原爆症で死の宣告も受けたそうです。その後も鉄道で勤務していましたが、被災後の広島駅前の闇市に店を出していた古本屋で池田亀鑑さんの「土佐日記原典の批判的研究」と運命的な出会いをします。同じ頃、秘蔵の平家納経を見たという記事が新聞に掲載され、著者も拝観を希望します。立場上、貴重な品を安易に見せるわけにはいかない宮司に熱心に頼み込み、占領軍の命令ならやむを得ないというアドバイスをもらって、広島地区の司令官の大佐を厳島神社見学に誘い出すようなこともありました。ようやく平家納経を実見することの出来た著者は、その研究を決心したのでした。

国鉄で勤務しながら学ぶ著者には大学などで学んだ経歴がありません。また身近に指導者や参考図書・文献が揃っているわけでもなく、池田亀鑑や東京国立博物館の学芸部長石田茂作など多くの専門家たちに教えを請う手紙を出す「無知の蛮勇」も発揮して勉強を続けたのだそうです。こういった行為は学問の世界だと20世紀半ばには蛮勇と呼ぶべき行為となってしまっていたのかも知れませんが、純粋に趣味の世界で考えると珍しくはないような気もします。例えば同じ頃に、藤子不二雄のお二人は手塚治虫さんにファンレターを書いたり会いに行ったりしていたことをまんが道という作品に描いていました。まんがや音楽やゲームや鉄道やプラモデルなどといった趣味の世界では、これと似たようなことは21世紀の今でも蛮勇にはなっていないでしょう、きっと。目指す世界は違っていても、著者にとっては平家納経・古筆などの研究は大好きな趣味だったということなのだと感じます。

著者は国鉄から分離した運輸省広島陸運局の総務課観光係に移って「いつくしま」という観光用小冊子を編集し、その後はかつての上司を頼って上京し運輸省自動車局総務課に転勤させてもらい、書跡の研究に志す者が少ないという理由で学芸部長石田茂作に頼んで東京国立博物館に出向させてもらって、そして最終的には国立博物館に入職し活躍します。その後の章では著者の主な研究について簡単に披露され、最後の章では著者の確立した「古筆学」がどんなものなのか、国文学に資する点の大きいことが分かりやすく説明されていました。

先日「ある老学徒の手記」で鳥居龍蔵さんの半生を読んだときにも同じような感想を持ちましたが、ふつうに進学するコースから学問の道に入ったのではなく、自力で道を切り開いていった著者のバイタリティに感心させられました。ただ、国鉄時代には同僚に「敬遠」されていたとか、博物館入職後にも「中傷」されたとか、著者自身も書いていますが、本業の方を疎かにして趣味の方に打ち込んでいる人というのは、周囲の人から見たら変人としてみられたのもやむを得なかったのかなとも感じました。

2013年2月5日火曜日

ある老学徒の手記


鳥居龍藏著
岩波文庫 青N-112-1
2013年1月16日 第1刷発行

だいぶ昔のこと、岩波書店発行の世界にこの鳥居龍藏さんの評伝がしばらく連載されていたことがあります。その頃は鳥居さんのことをまったく知らなかったので、明治大正の日本には変わった学者がいたんだなと感じただけで終わりました。しかし、その後朝鮮史や満州の本の中に鳥居さんの名前を目にすることが少なくないことに気付くようになりました。そんなわけで、本屋さんに平積みされていたこの文庫本を見かけて、彼がどんな人だったのか知りたいと思い、読んでみることにしました。

岩波文庫のカバーには簡単な内容紹介がつけられていて、この本にも「小学校を中退し、独学自修した」「民間学者の自伝」と記されています。ただ、この記述はミスリードの感なきにしもあらずです。子供の頃から江戸期に出版された本を多数読んだりなど、早熟な鳥居さんは小学校をつまらなく感じていただけで、決してできない子だから留年・退学したわけではありません。また、独学自修の過程で考古学に興味を持つようになり、上京して東京帝国大学理科大学人類学教室で仕事と研究をする機会を得て、やがては帝大の講師や助教授にまでなったわけですから、最終的には自らの名前を冠した研究所を設けたとはいえ、民間学者というのもどうかと思います。

この本の原著が1953年に出版された時には「考古学とともに六十年」というサブタイトルがつけられていたそうです。最終的には考古学者であると自他ともに任じていたということなのでしょうが、本書に記された調査旅行の様子を読むと、必ずしも考古学的な発掘調査だけをしていたわけではなく、各地の人の体格を測定したり、風俗を記録したりなどなどの活動も行っています。現在では考古学も民俗学も人類学もそれぞれ確固とした独立の学問分野ですが、明治の頃はそうではなかったらしいことがよく分かります。また、もしかすると分化・細分化してきた現在の学問水準からすると、彼の調査・研究の成果はいまや取るに足りないものになっているのかも知れません。しかし、彼のようなパイオニアの活躍が現在の学問の基礎になったことは確かでしょう。

「小学校中退」で留学歴もない彼が帝大所属で活躍できたのは、もちろん彼の才能の然らしむるところでしょう。しかし本書を読むと、それだけが理由だったわけではないように感じました。というのも、彼がしょっちゅう東アジアの各地(モンゴル、満州、沖縄、台湾、樺太、朝鮮、沿海州)に、それも現地の民家に泊まり込むことも珍しくない、数ヶ月にも及ぶ調査旅行に出かけているからです。時には配偶者や、生まれて間もない乳児を連れてでかけたこともありました。きっと、こんな風にフィールドワークが好きで、しかもモンゴルなど多くの言葉をものにしている人というのが当時の日本のアカデミズムの世界では得難たかったから、帝大で活躍できたのかなと感じました。また、彼は調査旅行に際して、満鉄や台湾・朝鮮総督府や陸海軍の支援を各地で受けています。この分野で活躍できた背景には、明治・大正・昭和の日本の東アジアへの拡張があったことは見逃せません。そういう意味で、あの時代が育んだ人ですね。

2013年1月18日金曜日

古典籍研究ガイダンス 王朝文学をよむために






国文学研究資料館編
笠間書院
平成24(2012)年8月15日第2刷発行





本書の前半では、代表的な作品を対象とした研究の成果とその手法のエッセンスが分かりやすく紹介されています。また後半では古典籍に関連する言葉の説明が解説されていました。どの項もだいたい12ページ前後とコンパクトにしかも読みやすくまとめられていました。本書のintroductionには
本書は何よりもまず、王朝文学研究に関心を寄せる若い世代の皆さんに手にとっていただきたい、ということで企画編集されました
と書かれています。国文科の学生さんを主なターゲットとして書かれた本なのでしょうが、私のような国文科とは縁のない、学生でもなく若者でもない読者でも楽しく読めました。どんな点が楽しく読めたかというと、たとえば土左日記(土佐日記ではなくむかしはこう書かれていたのだそうです)。

土左日記は、蓮華王院宝蔵に収められていた紀貫之自筆本を書写したとされる定家筆本がながらく最良のテキストとされてきました。しかし昭和初期以降、定家筆本と同じように紀貫之自筆本を写したと思われる写本や、 紀貫之自筆本を書写した写本から写した写本があいついで発見されました。それら為家書写本、松木宗綱書写本、三条西実隆書写本を定家筆本とを比較検討することで、紀貫之自筆本を再現しようという研究が行われて成果を挙げるとともに、国宝定家筆本にも異文、仮名づかい、漢字や仮名の別、踊り字の使用などの独自性があり、定家が書写に際してある種の改変を加えていたことが明らかになったのだそうです。

この項は論証も比較的ストレートですが、短いページの中でわくわくするような謎解きが展開されている項もたくさんあったので、数式や英語が苦手でもこういった研究ならできそうかなと感じたり、こういう興味深い研究の余地がある学問分野なら自分も身を投じてみたいと学生さんが感じてくれるようなら本書の編者の方々も大喜びでしょう。私は学生ではないので、残念ながらそうは感じませんでしたが、それでもこの項を読んでいて、疑問というか調べてみたいタネがいくつかみつかりました。

まず、蓮華王院宝蔵に収められていた紀貫之自筆本というのが不思議です。仏教関係の著作や勅撰集などは別にして、平安時代の文学作品で著者自筆本の残っているものはありません。そもそも各作品に著者による定稿が存在していたのかどうか自体にも疑問が残ります。紀貫之自筆本土左日記はその例外なんでしょうか?土左日記を発表後、貴族社会で評判が拡がり、天皇から自筆本を献上するようにという命令が下された時点で書き上げた本で、朝廷の図書収蔵庫(文殿?)に収められ、やがて蓮華王院宝蔵に移されて定家の生きた時代までのこったということなんでしょうか?それとも一度は誰か廷臣の手に渡り、それが後白河法皇に贈られて蓮華王院宝蔵に収まることになったんでしょうか?

鎌倉時代初期に土左日記がどのていど普及していたのかは知りませんが、もし貴族の蔵書としてあるていど普及していたとするなら、それら謂わば流布本とこの蓮華王院宝蔵の紀貫之自筆本との間には、きっとテクストの違いが生じていたでしょう。紀貫之自筆本は定家の記録によると比較的きれいな状態だったようですから、秘蔵されていたものと思われます。土佐日記執筆から約300年が経過した鎌倉時代初期の流布本にはそれなりの変化があったはずです。古写本で、この「流布本」の様子を伝えてくれるようなものがあれば面白そうな気がします。

源氏物語青表紙本や古今集などのように、藤原定家の書写した写本が現存するもっとも権威ある古写本として扱われている作品は少なくないのだろうと思います。定家本の尊重される理由の一つは、書写に際して元の本の本文に積極的に手を入れるようなことをしなかった点なのだと何となく理解していました。しかし、この土左日記についていうと、他の写本と比較して、定家筆本には独自性があり、定家が書写に際してある種の改変を加えていたことが明らかです。こういった改変は他の作品の書写に際しても積極的に行われたと考えるべきなのか、それともこの土左日記の書写にだけ特別な事情があってのことだったからなのでしょうか?などなど、きちんと勉強し始めれば考える材料がたくさんみつかりそうです。そういう魅力を伝えてくれる本でした。

2013年1月9日水曜日

新版 匠の時代4


内橋克人著
岩波現代文庫 S220
2011年7月15日 第1刷発行

国鉄のいろいろな職種のできる人たちをとりあげた軽い読み物に仕上がっていますが、ただそれだけ。各人の技能や国鉄の技術が深く掘り下げられているわけではないし、国鉄の抱えていた問題や労組のもたらした問題などへの言及は少なく、また叙述の仕方もリアリティを狙ったスタイルではありません。例えば、著者がその場で実際に聴いたはずのない登場人物の会話が、カギ括弧で囲まれた直接引用の形で書かれているのです。こういうのって、事実を語るというよりもエンターテインメントを重視した、小説にふさわしい作法だと私は感じます。こういった見てきたような嘘を語る手法をつかった作品には、例えば坂の上の雲があります。しかし坂の上の雲なら、読んで明治の日本を学んだ気になってはいけないとは言えても、エンターテインメントとしてはよくできた作品だから売れています。しかし本書は、高度成長期日本の一面を学ぶにも、暇つぶし以上のエンターテインメントとしてもよくできた作品とは言えず、「匠の時代」というタイトルは分不相応かなと感じました。

もともとは夕刊紙の連載コラムだったものが書籍として出版され、その後講談社文庫、そしてこの岩波現代文庫として出版された履歴があると記されていますが、岩波が21世紀のこの時期になぜわざわざ現代文庫として出版したのか、その意図が読めません。時代背景の書き込みが乏しいのは、同時代の読者には不要だったからだと思いますが、当時を知らない読者にはおすすめできない、とうに賞味期限の過ぎた本だと思うんですがね。

2013年1月5日土曜日

船舶解体


佐藤正之著
花伝社
2004年11月30日 初版第1刷発行

鉄リサイクルから見た日本近代史というサブタイトルがつけられているように、船舶解体だけでなく、解体によって得られる鋼材・鉄屑の利用について、戦間期から現在までの状況を扱っている本でした。第一章では、潜水艦との衝突で沈没したえひめ丸が調査のために引き上げられながら、その後は解体されずにふたたび沈められたエピソードとともに、人件費の低くない国では船舶は解体できなくなっていることが紹介されていました。現在の日本で解体される船は自衛艦のように秘密保持の目的のものくらいなのだそうです。世界の船舶解体に占めるシェアも、第二次大戦後しばらくは日本が一位だったものの、石油危機前後には台湾・韓国のシェアが大きくなり、現在ではインド・パキスタン・バングラデシュの南インド3カ国と中国が大部分を占めています。これらの国でも人件費が上昇し、また解体にともなって排出されるアスベストなど有害物質も問題視されるようになってきていますから、廃船を解体してくれる国がなくなってしまうのではとも危惧されるのだそうです。AppleがMacの生産の一部をアメリカに移すことを発表したように、機械化が進んだ製造業では人件費よりも他の経費を重視して先進国に戻る動きが増えてくるでしょうが、人手の関与する部分が大きく、しかも3K職場の典型のような船舶解体業ではそうはいかないでしょうね。

まだ鉄屑の発生量が少なく、盛んに船舶が解体されていた頃の日本には、解体する対象として船舶を輸入することも行われました。船舶解体業者は用船で得られる運賃と解体で得られる鉄材鋼材の価格とを比較して、輸入した船舶を運用・傭船にまわすこともあったのだそうです。また戦前でも輸入規制のあった時期には便宜置籍船(変態輸入船と呼ばれた)として運用されたりもしたのだとか。さらに解体された場合にも、製鉄の原料として輸入された鉄屑と同じように、船舶解体によって得られる鋼材も溶かされて高炉や電炉で再利用されるのかと思っていました。しかし、程度の良いものは伸鉄業にまわり加熱・成型して建築用の丸棒などとして販売されました。JISの整備で公共工事に伸鉄材からつくった丸棒がつかえなくなったことも日本での船舶解体の衰退に繋がったのだそうです。

これまで知らなかった分野が取り上げられたとても興味深い本でした。ただ、製鉄や造船といった大企業の多い華々しい業種とは違って、静脈産業である船舶解体業には中小企業が多く、まとまった史料が残されていないようです。本書にも著者が資料探しに苦労したことが書かれていました。船舶解体業で活躍した人たちに直接インタビューすることができれば、きっと面白いエピソードをたくさんきくことができたでしょう。でも、それら取材すべき人たちが元気でいたのはおそらく半世紀は前のこと。本書にも船舶解体業で活躍した人たち子供の世代が親の思い出話を語った部分が少し載せられていますが、正直なところ興ざめ。21世紀に発行された本書は、オーラルヒストリーという意味では遅過ぎます。オーソドックスな史書の流儀で書いた方が良かったのではとも感じました。

2013年1月2日水曜日

モノが語る日本対外交易史 七 — 一六世紀








シャルロッテ・フォン・ヴェアシュア著
藤原書店
2011年7月30日 初版第1刷発行


大和朝廷の頃から室町・戦国時代までの日本の対外交易を扱った著作です。 著者はまず序章で「海は道なり」というブローデルの言葉を紹介し、西洋の海のルートである地中海との比較研究の可能性を示唆して本書を始めています。ブローデルの地中海も多くの研究者の研究成果に依拠した著作ですが、本書もこれまでに多くの日本人研究者が積み重ねてきた成果をまとめ、大和朝廷の時代から室町・戦国時代までの通史としています。そして、具体的にはタイトルにもあるように
筆者はモノの需要は各時代において国際交流の主たる要件であると考える。換言すれば「モノが人を動かす」でのある。
と述べられていて、交易されたモノに着目している点が本書の特色です。口絵の写真や、本文中に取り上げられている品物を眺めながら読むだけでもワクワクしますが、扱われている10世紀間を通観して受けた印象としては
  • 平安時代の頃までは、中国や朝鮮半島から輸入されたモノは唐物として天皇や貴族たちのあいだだけで消費され、彼らの間で贈答品として交換されることはあっても、商品として日本国内を流通することはなかった。日本から輸出されたモノとしては、絹製品もあったが金や水銀、真珠などの一次産品が中心だった。また初めは朝貢、その後の交易は中国や渤海や朝鮮半島の商人によってになわれた。交易船の往来の頻度は少なかった。
  • 本書の対象とする期間の後半になると、日本から交易に出かける人が多くなり、朝鮮や中国は日本からの交易船の来港を制限しようとしたほどだった。日本から中国への輸出品をみると、金、硫黄、特殊な木材などの一次産品もあったが、金額的には手工芸品が主となった。たとえば明が輸入した品を資源・天然材料、単純工芸品、高級工芸品の三つに分けると朝貢国の中で「美術工芸品を大量に明に輸出するのは日本だけであった」。日本の輸出における「工芸品の比重が大きく、その売り上げによって日本は利益を獲得し続けたのである」。
7世紀以前の日本は、縄文時代から住んでいた人と、江南から移住してきた人と、朝鮮半島からの人と、台湾から九州南部へ移住してきたオーストロネシア語族の人とが次第に融合しつつはあっても、中国や朝鮮半島と比較すると文明化は遅れていたのだと思います。商品生産などはまだまだ無理で、交易に出せるような品もたいしてなかったから、卑弥呼の時代には生口を献じたのでしょう。本書の対象となる期間の初めの頃も事情は大して変わっていなかったはずで、中国人の欲しがるようなモノを用意できない土地だったから、交易に来てくれる船も少なかったということなのだと思います。しかし、時代が進んで室町・戦国時代になると、日本国内でも商品の生産・流通が盛んになり、なんといっても銭貨が強く需要されるようになっていました。さいわい、手工業の技術も一定程度は進み、売れるモノが日本国内でもまあまあ生産できるようになってきたので、銭貨を求めて日本人主体の交易船が大挙して押し売りに行ったんでしょうね。