2008年6月30日月曜日
18・19世紀の人口変動と地域・村・家族
高木正朗編 古今書院
2008年3月発行 本体6500円
歴史人口学も興味深い分野です。この本には、主に東北地方の史料に基づいた論考が14本集められています。第Ⅰ部地域編では東北地方各藩の人口の推移、仙台藩の田畑の分布と人口の関係、天明飢饉期の人口変化、疾患別の死因などについて検討されています。
第Ⅱ部村・地域編では仙台藩の支藩である一関藩の狐禅寺村(こぜんじむら、ATOKで一発変換できたのでびっくり)について、人口・家族構成・年貢納入の様子・人口減少に対する藩の施策などが検討されています。狐禅寺村には新生児死亡率・乳児死亡率を算出することが可能なほどの非常に良質な人口・経済データ史料が残存しているのだそうです。なので、平均余命もそれを使用して算出されたものです。
読んでみての感想ですが、個々の論考はデータに基づいて手堅く結果をのべているものが多く、興味深くはありますが必ずしも面白いとまでは言えません。狐禅寺村のデータは詳細なものなので、この村に当時住んでいた人の日記などが残っていて対照できたりすると、すばらしい作品になりそうですが、そういう史料はみつかってないのでしょう。
江戸時代の東北地方の人口というと、飢饉の影響に興味がわきます。第3章「天明飢饉期・陸奧国農村の人口と世帯」では、天明三年(1783)の飢饉の前後での人口を、仙台領北部の胆沢郡下若柳村・南部の柴田郡足立村・中部の磐井郡中村について明らかにしています。それによると、3村の人口減少率は、それぞれ27.4%, 55.0%, 8.8%に、また絶家率はそれぞれ23%, 50%, 18%とされています。減少の著しい下若柳村は田が耕地高の88%を水田単作地帯でした。
また、第11章「年貢納入と村」で狐禅寺村の年貢高の推移を米・大豆・金納ごとに数値が示してあります。これを見ると、天保6年の凶作時には米の年貢は平年の三分の一くらいに減っているのに、大豆の年貢は平年とほとんど差がなかったことが分かります。東北地方の冷害はヤマセによる米の不作が主で、大豆や雑穀は冷害に米ほど影響を受けなかったようです。ヤマセによる不作が起こりうる地域に、商品作物としての米生産をすすめた藩の政策が冷害の一因となったことが理解できます。
飢饉というと、中世では京に流民があふれて行き倒れ死体が多数放置されているという光景が想い出されます。また、一昨年「シリーズ中国にとっての20世紀 飢饉と救済の社会史」という本を読みました。1876年の山東・江北の飢饉の様子が書かれているのですが、「飢民が四方に食を求め、過江する者は絶えまもなく。数万数千を下らない」とのことで、長江を越えて都市に流れてゆく人が多かった様子が分かります。
上記の天明の飢饉の場合では、柴田郡足立村では人口減少率55.0%、絶家率50%となっているので、おそらく逃散というか故郷を捨てた人が多かったのでしょう。逆に考えると、飢饉の時でもその他の村では流民になるほどの被害はなかったと言えるのかな。
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