2009年1月23日金曜日
壬辰戦争
鄭杜熙・李璟珣編著 明石書店
2008年12月発行 本体6000円
2006年に韓国で開かれた国際的な学術会議での発表をもとにつくられた本です。16世紀末日・朝・中の国際戦争は、日本では文禄慶長の役、韓国では壬辰倭乱、中国では抗倭援朝と別々の名前で呼ばれ、それぞれの国の一国史の中で考察されて来ました。しかし、東アジアの視点からとらえ直すことの意義から、この会議の参加者一同は、この戦争を壬辰戦争と呼ぶことに賛同したのだそうです。妥当な名前だと感じます。収載されている論考の中から、知らなかったこと・面白く感じたものをいくつか紹介します。
晋州が落城した時に、論介という名の一人の妓生(歌舞や進級などに従事した官妓)が川のほとりの高い岩の上で日本軍を出迎えました。武士の一人が論介に近づくと、彼女はその武士を抱きかかえ道連れにして、川へ身を投げて死んだそうです。壬辰戦争後しばらくは、このエピソードが顧みられることはありませんでした。しかし朝鮮時代後期になると国のために死んだ義妓として称えられるようになり、植民地時代には「植民地期に男性の民族主義知識人たちが犯した罪を、代わりに贖ってくれる恋人」として多くの詩や小説に取り上げられました。そして、朝鮮戦争期には国連軍のために「憂国女性が自ら進んで奮起し、献身慰安の任務を担うこと」が求められましたが、国のために喜んで命を預ける存在としての論介像がこの時期に強調されたそうです。ある一つの物語が、社会の状況に応じて受け止められ方が変化していく様子が明らかにされています。
被虜人の本国送還の問題を扱う論考がありました。戦後、徳川幕府の働きかけで日朝の国交が回復するわけですが、初期に日本に派遣された朝鮮からの使節は、被虜人を本国送還することを主な目的の一つとし、刷還使と称しました。刷還使は帰国後の優遇措置などを謳って被虜人の招募を行いました。しかし、実際に使節とともに帰国した被虜人たちは、釜山到着後に新たに奴婢にされたり、食料にも事欠くような状態で留められたりしたそうです。朝鮮側では、朝鮮にとどまれた捕虜も日本に連行された被虜人も、日本側に協力したのではないかという疑いの目で見ていたそうです。なので、国家のメンツとして被虜人の本国送還事業が行われても、国内に連れ帰ればあとは知らないという状況になったのではないかと言うことで、興味深いお話です。あと、この論考の筆者は日本人なのですが、こんなことを韓国内の集会で発表してもOKな時代になっているのですね。
李舜臣は、戦闘に対する方針の違いから国王宣祖によって左遷され、慶長の日本軍再侵攻への敗戦を受けて再度起用され大活躍後に戦死したエピソードがあり、宣祖在位中と次の光海君の時代には、公的には多くの勲功者の一人という評価にされていました。しかし、光海君がクーデターで廃位されると、正史が書き換えられ、身を投じて国家に忠節を捧げた英雄として顕彰されるようになります。ただ、日本の侵略に対する王朝の対応の失態を明らかにしないために、朝鮮王朝時代には日本に対する敵愾心を高める存在としては利用されることはなかったそうです。しかし、植民地時代に出版された本や小説では、王朝の政治の乱れが壬辰戦争初期の敗戦を導いたことと、愛国者李舜臣が国を救ったことが描かれるようになりました。ネルソンや諸葛孔明以上と称える表現もあり、朝鮮総督府がこういうナショナリズムを宣揚するものの出版を許していたことも驚きです。また、朴正熙政権は軍事独裁を正当化するために、軍人である李舜臣の民族指導的精神を強調し、宣揚事業を行いました。ソウルにある李舜臣の大きな銅像もこの時期に建造されたものだそうです。時代背景により李舜臣言説の変遷する様子は興味深いものです。
また、女真のヌルハチの壬辰戦争に対する対応を論じた論考も、東アジアの中の壬辰戦争という性格を明らかにしてくれていて、面白く読めました。戦争過程や戦闘の技術的な側面についての論考はありませんが、壬辰戦争が朝鮮の人たちの民族意識に与えた影響や史実と歴史意識の関係(火旺山城について扱った章がありこれもおもしろい)、外交的な側面に焦点を当てた論考がほかにも収められています。知らないことがたくさん書かれていて、面白く刺激的でした。
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