2009年1月19日月曜日
経済発展と両替商金融
石井寛治著 有斐閣
2007年7月発行 本体4400円
幕末明治期の日本では、不平等条約下ながら外商の内地での自由通商が許されず、また買弁も根付きませんでした。輸入品の国内での流通は日本人のしかも新興の商人が主に担いましたが、開港場での買い付けには多額の資金を要しました。また、19世紀の世界の常識とは違って、日本は外債を排除して自力経済建設路線で産業化することをめざしました。これにも多額の資金を要しました。輸出入品の取引に際しては、手形の取引を通じた商業金融の担い手として、また産業化に対しては銀行の設立を通じて、江戸時代以来の両替商(著者曰く、商人=高利貸資本)が重要な役割を果たしたことを主張し、それを実証するために両替商の取引の実態を史料から分析して見せてくれている本です。一つ一つの帳簿の例示と解釈は素人には難解ですが、そこから導き出される論点が面白い本です。とくに勉強になった点をいくつか紹介します。
江戸時代の両替商の中には維新期に没落するものがあり、通説では1868年5月の銀目廃止をその原因としていました。しかし著者は、1868年1月の鳥羽伏見の戦いの後に、幕府や幕府側の諸藩の御用を勤める両替商が長州や薩摩による現金の分捕りにあって資金ショートから閉店を余儀なくされたことを、書簡などの史料から示しています。
通説では、維新から銀行の設立される時期までの明治初年は両替商不在の時期とされていたのだそうです。しかし、銀目廃止で金銀両替からの手数料収入が得られなくなった両替商ですが、戊辰戦争の混乱が落ち着くと手形の扱いはきちんと再開して活動していたことを史料から明らかにしています。
1873年に印紙税収入を目的に、手形に印紙を貼付しなければならない制度が始まりました。大阪では引き続き手形がおおいに利用されましたが、京都では手形の流通する範囲が面積的に狭いからか印紙制度開始の影響で手形の利用が激減したのだそうです。また、送金手形と貸し付けの証書とでは貼付すべき印紙の額が違う制度でしたが、当座貸し越しをどう扱うかなど、旧来の手形取引ではその両者が厳密には区別されていなかったそうです。
また、為替使用の実態を明らかにするために、両替商の大福帳・当座帳・手形帳などの史料がつかわれています。同じ史料を分析して論文を書いている方が過去にいる場合、その史料の解釈が間違っていることを指摘している場面が本書には散見されます。しかも、二つの両替商のうちどちらが親両替でどちらが子両替かなどの基本的な解釈が違っていたりなど、重要な点で理解が食い違うことがあるようです。どちらの主張が正しいのか、素人の私には判断しかねますが、たかだか150年前の江戸時代の史料の解釈でもこういうことが起きるとは少しびっくり。帳簿の記載の仕方が事情を知る人だけに分かるようなメモ程度なものなのと、近代以降は帳簿の記載が西洋式になってしまって過去のやり方が伝承されなかったからこういうことになるんでしょうね。
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