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寶月圭吾著 吉川弘文館
1999年3月発行 本体8400円
1987年に亡くなった著者の論文のうちで、書籍にまとめられていなかったものを集めた本です。戦前の1933年から1982年までに書かれた22本が、I 日本の古文書、II 中世荘園の諸問題、III 徳政と売券の三部に分けて収められています。I とII には、古文書とは何か、候文の歴史、偽文書、占城米・とうぼし、灌漑、検注などなどに関する論文が収められていて、それらの多くは非専門家の私にも読みやすい内容でした。ただ、お値段が高価なので一般の人が買うことはあまり考えられません。無理なのでしょうが、講談社学術文庫などでもっと安価に出したりはできなかったものかと思ってしまいました。
III 売券と徳政には8本が収められています。徳政の質券・売券への影響、預状の性格・発生、売買と質の関係、祠堂銭など、総じてこちらは専門的な内容のものばかりです。タイトルが売券と徳政とつけられたのもこのためでしょう。私には中身を評価する力はありませんが、研究史を知る意味でも勉強になりました。
吉田文・広田照幸編 世織書房
2004年10月発行
これまでにも戦前の教育の役割についての研究は多数ありましたが、その多くが帝国大学・旧制高校などのエリート層を対象としたものでした。高級官僚や財界・文壇の指導者を論じるのは華々しくもあり、また史料も比較的入手しやすくもあるからです。しかし人口の圧倒的多数は非エリート層であり、本書はそちらを対象としています。本書の前半部分は、中等工業教育と電気事業主任技術者という資格の獲得・地位との関係を扱った章など戦前期における非エリート層の諸相を論じる5つの章からなっています。後半は戦前期国鉄職員の研究と銘打って4本の論文が並べられています。
現在でも大きな企業ではoff the jobの教育機会を与えている場合がありますが、基本的には職能教育が目的だと思います。しかし、戦前の国鉄にあった教習所などの名称の学校は、職業に関する知識の伝達のみならず一般の科目も含んでいて、中学校としての資格をとれるように文部省に働きかけたり、またさらには交通大学とい国鉄自身の大学をも持とうとしたのだそうです。陸軍の幼年学校・士官学校・陸軍大学の国鉄版をつくろうとしていたわけです。中等教育の学歴を持つ人の採用難な時期があったりしたことも一因だったそうですが、学校設置にかかる費用を考えると不思議にも思えます。
戦前の国鉄では職種が多数あったほかに、身分が庸人・雇人・鉄道手・判任官・奏任官などと分かれていました。学歴によってどの身分にまで到達しやすいかが違うのですが、尋常小学校卒業のみの学歴でも天皇の官吏である判任官にまで出世した人もいて、上昇の機会がささやかながら開かれていました。低学歴のひとでもこの身分階梯を上昇しやすくする手段の一つが上記の教習所だったわけで、教習所はガスぬきの役割も持っていたわけです。戦前の多くの企業にあったこの種の身分制度はその後廃止され、一見めでたしめでたしですが、現在でも関連会社職員とか派遣とか出入りの清掃業者などといったより陰険な形で残っているのだと感じます。
また最終章では日本とイギリスを比較して、「学歴や試験の体系によりながら、個人的な上昇=昇進・昇格を希求した日本の鉄道現業職員と、集団的に結束し、労使間の団体交渉を通して、労働条件や待遇の改善を要求していった英国の鉄道員ーーー結果としてどちらがよかったかはわからないが、『よりよい生活』をめざすには複数の道がありえたことだけは確かである」と鋭く指摘しています。日本ではまともな労働組合の結成ができなかったことが影響しているでしょうが、出世・身分の上昇をめざして競争させられていた面があるのは否定できません。しかも、試験に加えて日常の働き方も昇進を左右しますから、競争は職務の評価を行う上司による職場統制にも利用されてしまいますし。
本書の奥付の手前には、本書が消えつつある技術である活版印刷で制作されたので出版が遅れた旨、記載されています。21世紀の現在では活版で印刷された本は珍しいのでしょう。でも、こんなふうに縦に並んだ活字の左右が不揃いなのは活版ならでは。世織書房さんってこの本で初めて存在を知りましたが、活版に縁の深い出版社なのでしょうか。
加藤哲郎著 岩波書店
2008年10月発行 本体5000円
洋行知識人の反帝ネットワークというサブタイトルがついていますが、ベルリンに留学していた日本人の間で、1926年にベルリン社会科学研究会という読書会がつくられました。共産党も合法な自由なドイツで、マルクス主義の文献なども対象とした読書会だったそうです。参加者は蠟山正道、有澤廣巳、千田是也、鈴木東民など、私も名前を知っているような著名人たちでした。この会はしだいに左傾化して遠ざかってゆく人もいたそうですが、ドイツ共産党員となったり、ベルリン反帝グループと呼ばれるような活動をしたり、革命的アジア人協会としてニュースレターを発行したりなど、実践活動に従事するようになった人もいました。中でも最も熱心に活動したのが、東京帝大医学部助教授国崎定洞さんでした。彼は帰国すれば公衆衛生学講座初代教授になれるはずだったのに、ドイツに残って共産党の活動家となり、ナチスの政権獲得後にはモスクワに亡命し、1937年にモスクワで銃殺されました。後に名誉回復されたのだそうです。
数万人が住んでいる都市も多数あるような現在の在留日本人数とは桁が違いますが、戦間期のロンドン・パリ・ベルリンには数百名の日本人がいて、ガリ版刷りのミニコミ誌が発行されたり、数件の日本料理店があったりしたそうです。このこと自体、ちょっとびっくりですね。また、第一次大戦後すぐのドイツのインフレや、その後も1920年代の日本は金解禁の機を常にうかがっていてマルクに比較すると円が高めで推移したせいで、ベルリンは留学生にとって暮らしやすい街でした。なので、文部省派遣在外研究員もヨーロッパの複数の国にゆく人が多かった中で、やはりドイツに長く滞在する人の数が多かったのだそうです。この当時の留学生は帰国後に地位が約束されていた存在ですから、200名程度の滞在留学生の中の読書会に、上記のような著名人の名前が多数みられるわけですね。
まあ、戦間期ベルリンの日本人というほんとに狭い狭い世界のことを扱った本です。それでも、面白く感じられるのは、当時のワイマール共和国が彼ら彼女らに自由の印象を残して、後の活動につながったという点でしょう。共産党の活動家になった人だけでなく、日本での第二次大戦後の活動にその精神を生かした人や、特に有澤廣巳は晩年になって、なぜワイマール共和国が滅んだのかに取り組み、著書まで出したのだそうです。
あとがきを読んでいて、この本の著者の経歴にも少し驚きました。大月書店で編集者になったあと、新しいマルクス・エンゲルス全集のために東ドイツ(著者はDDRと書いてます)に留学し、そこで国崎定洞たちのことを発見して発掘・調査を続けてきたのだとか。奥が深い。
井原今朝男著 吉川弘文館歴史文化ライブラリー265
2009年1月発行 本体1700援
中世の借金事情と銘打った本書ですが、借金についてだけでなく興味深い指摘がたくさんありました。
人に税金が賦課されていた公地公民制が立ちゆかなくなり、土地に税が賦課される中世の徴税システムになってから、名主や国司、地頭など各階層の能力のある者が年貢・公事の納入を請け負うこととなりました。年貢公事の負担者がなんらかの理由で滞納すると、未進分は請負者が代納し、未進者と代納請負者との間で債務債権関係が生まれることになったのだそうです。また、代納請負者自身も借金しなければ年貢・公事を完済することができないことがあり、その借金がかさむと破産状態となり所領を手放すこととなります。院政期に寄進地系荘園が増えたのは、この借金の債務整理目的で寄進されたものが多かったとのことです。
出挙で春に貸し出される種籾は領主の直営田でつくられた良質のイネで、しかも気候などを予測してその年にふさわしい品種の種籾が貸し出されました。中世ヨーロッパでムギの播種量と収穫量の比率が3倍程度でしかなかったのと違って、イネは中世でも100から200倍にもなったので、出挙は無理なく成り立っていたのだそうです。
室町期に荘園の年貢徴収システムに変化があって、代官に請け負わせることで一定額を春に前納させるようになった。年貢の前借りという貸借関係が導入され、不安定だった年貢が豊凶にかかわらず安定的に入手できるようになったのだそうです。
「これまでの中世史研究においても、惣・一揆・衆中・座・講などヨコの共同体的結合の存在が注目されてきた。しかし、その淵源について検討されていない。中世は売買取引よりも貸付取引に依存する社会であり、人格的依存関係による一定の人的結合組織をつくり少ない資金を拠出して一定額の資金を調達する相互扶助組織が発達した。その内部では、借用・運用・返済という債務契約が発達した。この人的依存関係による債務契約こそが社会の絆となって、共同体的社会関係の社会秩序をつくり出したのである」という指摘もおもしろいですね。
でも、読んでいて疑問に感じる点もなきにしもあらず。例えば、本書の中では、「質地は永領の法なし」や利倍法など中世の在地慣習法がいくつか触れられています。前者について著者は「『質券の状あるといえども、永く領知すべからず』という公家法こそ、『質地は永領の法なし』という在地慣習法の淵源であったとみてまちがいない」としていますし、その他の在地慣習法についても、古代法がその起源だと書いていることが多いように感じました。これって本当なのでしょうか。在地慣習法は古くから確固として存在していて、その正当化のために古代法の条文が、淵源として中世人に受け入れられていただけなのではと感じてしまいます。
また、質地は債務者の同意がないと流質させられなかったことが裁判例などを挙げて強調されています。でも、その種の裁判があったっていうことは、債務者の同意なしに流質させようとする債権者が少なからず存在していたということですよね。ほかにも、裁判例などで中世の現在と違った意識が示されている例があるのですが、立法されたり裁判になったりするというのは、著者の主張する中世の常識とは違った意識を持つ人が増えつつあったからだろうと、感じる点がままありました。
あと、本書では現代のことについても、著者の意見が多く述べられています。中世と現在とで債務債権関係の常識が違っていたことを強調するのは本書にとって必要なことだとは思いますが、中世の方が債務者が保護されていて債権者天国の現在よりまともだったということが縷々述べられていてうんざり。その手の話は本書に期待されているテーマではないと、大方の読者が感じたと思います。でも、おおむね面白い本でした。
左近幸村編著 北海道大学出版会
2008年12月発行 本体3200円
2007年3月に行われた「近代東北アジアにおける国際秩序と地域的特性の形成」というシンポジウムでの発表をもとにした論集です。日本・清・朝鮮・ロシア史といった一国史ではとらえきれないテーマを扱った話題ばかりで、跨境史への試みというサブタイトルがつけられています。
この本を読んでみて、新たに気付かされたのは強いはずのロシアの弱さでしょうか。日本の側からすると、江戸時代の蝦夷地へのロシアの来航・通商要求に対する海防論から、明治になってからも三国干渉や朝鮮半島へのロシアの進出の警戒など、ロシア脅威論がずっとあったと思うのです。また清国にとっても、1860年の北京条約で沿海州を割譲させられ、その後も東清鉄道や旅順租借地などの利権をみとめさせられるなど、ロシアの南下は脅威と受け止められていたはずです。しかしロシア側から見ると、沿海州へのロシア人移民が順調には増加しなかったのに対し、中国人・朝鮮人の沿海州への流入が増え、しかもウスリー川の南には多数の中国人がすんでいることから、もし対清戦争が起きたら沿海州を防衛できないだろうという悲観論、南ウスリー・コンプレックスがあったのだそうです。
また、第三章「サハリン石炭と東北アジア海域史」というサハリンのドゥエ炭鉱についての論考でも同様な感想を持ちました。この炭鉱では良質の強粘結炭が採掘されることから、ロシア側では当初、東アジア交易・石炭取引の中心である上海市場での販売をもくろみました。しかし流刑植民地であるサハリン等への移民は少なく、囚人労働を利用しても労働力不足であったことと、炭鉱の近くに良港がなかったことから輸出量は増えませんでした。また、日本炭は長崎から石炭を積んで行った船が上海から帰り荷として何かを輸入したわけですが、上海からサハリンへの輸出品は少なく船の運賃的にも不利で、結局、ウラジオストックの軍需をまかなう程度の生産となったそうです。しかもウラジオストックでも民需用の石炭は日本から輸出されていたとのことです。そして、日露戦争後にこの炭鉱は北樺太の経済利権として日本の資本と労働力で開発され、第一次大戦後暫くまで日本へ輸出していました。アジアの地では人口が少なく、製鉄などの産業基盤を持たないことは、ロシアの弱点ですね。
第五章の「十九世紀中国における自由貿易と保護関税」も勉強になりました。アヘン戦争後の南京条約、アロー号事件後の天津条約で関税が協定されましたが、この頃の清朝の側には財政関税という考え方はあっても、保護関税という考え方がなかったそうです。茶や絹製品には輸出税をかけていたくらいですしね。日本でも幕府が結んだ日米通商修好条約では、関税のことよりどこを開港するかの方が問題だったから、同じようなもの。その清国で保護関税の必要性が理解され始めたのは、西洋に留学した人が実務に就く1870年代末だろうとのことです。不平等条約ではあっても、締結の頃には関税自主権の欠如という意識がなかったというのは、言われてみれば当たり前ですが、重要な指摘だと感じました。
本書の最後には、海域アジア史研究入門の編者でもある桃木至朗さんによる「海域史、地域研究と近代東北アジア」が載せられています。「東南アジアと東北アジアは、主要な富(貿易品)が、人口が少なく国家形成とは縁が薄い海・島・森の世界からもたらされ、貿易ネットワークが地域の動向に強く影響していた点、近世後期以降に外部からの大規模な労働力流入をともなう大開発を経験した点などが共通する」といった指摘など、面白く感じました。
全体として、ほかにも私の知らないことや興味深いことが多く述べられている勉強になる本でした。
古いものを見ていたら、リンククラブからのはがきをみつけました。リンククラブはニューズレターの発行だけでなくて、昔はこういうAppleCare後の保険みたいなこともやっていたのでした。
このPB540cは1994年7月10日に買いました。その後、画面の下の方に帯状に黒い部分ができて表示されないトラブルが発生して、1994年12月23日に修理の依頼をし、12月26日にDisprayが交換されて手元に戻ってきました。購入後半年なので無償で交換してもらえたのですが、その後のことも考えてこのリンククラブの保険に入ったのだろうと思います。
で、PB540cの箱の中を見て今日気付いたことがあります。実は、このPB540cは1997年4月にHDDが壊れちゃったのです。渋谷の日本NCRのクイックガレージに持ち込んで、HDDを交換してもらった記憶があり、105031円也を支払ったその時の領収書が箱に入っていました。リンククラブ保険の関係の書類はPB540cの箱には入っていなかったので、2年半前に保険に入ったことなどすっかり忘れていたようです。こんな風に保険かけても、そのことを忘れるうっかり者はほかにもいたのでは。
ドミニク・ブリケル著 白水社文庫クセジュ932
2009年2月発行 本体1050円
なんとなく謎の民族という印象が強いエトルリア人。実際のところはどうだったのか全く知識がなかったので、2005年と比較的新しく出版されたこれを読んでみました。勉強になった部分をいくつか紹介します。
イタリアのトスカーナ地方に広がっていたヴィッラノーヴァ文化を担った人たちが、都市国家を形成するようになったのがエトルリア人だということのようです。エトルリア人の起源については古代から、イタリア土着民説、小アジアなどオリエントからの移住説がありました。ただ、これらの説が唱えられたのには訳があって、例えばイタリア土着民説にはシチリア島のギリシア植民市の人たちがエトルリア人をギリシア人とは違うバルバロイだとする政治的な目的があったのだそうです。また、フランス人の出自をケルト人・ローマ人・ゲルマン人のどれか一つに求められないのと同様に、エトルリア人も土着の要素に加えて外来の複数の文化の影響があったと考えるべきというのが著者の主張です。
エトルリア人が謎の民族という印象を与えるのは、その言語が解明されていないという点が大きいようです。エトルリアがローマに征服され、ローマが帝政になる頃にはエトルリア語は使われなくなってしまいました。しかし、エトルリア語で記された碑文は多く残され、また偶然残ることになった文書の一部なども伝えられています。文字自体はギリシア文字とほぼ同一なので、読み方や発音も分かっています。また、さまざまな学者の工夫・解釈によって少数の単語の意味や語法は判明しましたが、多くの語や文は意味が読み取れないのだそうです。エトルリア語は、ヨーロッパを席捲したインドヨーロッパ語族には属していないことが解読困難なことの一因で、またこれはエトルリア人の起源が問題とされる由縁でもあるのですね。
この本で扱われる年号のほとんどが紀元前XX年です。なのでこの本では、特記のない限り年の数字の前につける「紀元前」という表現がすべて省略されています。「紀元前」を省略することにより、数ページの節約になり合理的なのだと思いますが、こういう表示の仕方の本はこれまでに出会ったことがありません。フランスでは一般的な表現法なのでしょうか、珍しいですね。あと、この本は1050円なのですが、税込み1050円ではなくて本体が1050円なのです。一見、税込みの価格のような1050円を本体価格にするとは、白水社の人も変わってるような。
佐々木潤之介著 吉川弘文館
2005年9月発行 税込み3150円
世直し状況論などで有名な著者の遺稿を本にしたものです。体調不良を自覚していた著者の近世像について骨格を示すつもりでパソコンに残しておいた原稿だったそうです。
著書は中学校の歴史教科書を執筆したこともあるそうで、歴史研究者として自分の学問の成果が教科書に反映することが一つの目標になると述べています。本書の冒頭には、検定を気にせずに中学校教科書の江戸時代の部分を書くとしたらこうなるという文章60ページほどが載せられています。ただ、読んでみると中学生には難し過ぎるような。例えば、「小農民の自立」の意味するところ、また歴史学的な概念としての含意まで分かるように説明するのは不可能に近い気がします。
本書の大部分は著者の江戸時代に関する見解が、時代区分・技術史・家族史・国家論などなど、平易な文章でつづられています。しかし、文章自体に難しさはないものの、おそらく著者は具体的に誰か・何かを思い描いて書いているものと思われます。そのあたりを分かった専門家が読むともっと面白いのでしょうが、素人の私にはその点の知識がないのが悲しいところ。
唯一、「もっとも、わが国の社会史にはアナール派のそれとは違って、権力論や階級的・階層的矛盾をぬきにした生活史・意識史・民衆史の色彩の強いものがあり、その観点からの国家史研究への批判もある。このことは多分、歴史学とは何かという問題にかかわることなので、別の議論を必要とする。すくなくとも私たちが肯定的にうけついだ歴史学の伝統は、このような歴史学のあり方が正しいとは考えない。本来のわが国の社会史は、この種の今様の社会史とは全く違ったものであった」という強烈な表現だけはなんとなく理解できました。
で、その他の著者の見解に対する違和感、例えば時代区分について。内藤湖南流に応仁の乱を境にして日本の歴史を二つに分ける考え方が主張されているがそれは正しくなく、日本の近隣地域のことも考えてみると16世紀末が時代の区切りになると著者は述べています。また、アジアでは近世以前の時代のあり方はたいへん多様なので、中世であるとも言えないし、ましてや一つの時代区分にまとめることもできず、せいぜい前近世とでもしておくしかない。さらに、日本もアジアの一員なので、日本だけがヨーロッパのような中世や近代をもつとするのは適当ではない。
それでいて「日本近世をどのような歴史時代と考えるか。国家史的基準からいえばアジア近世国家の一つであり、社会構成史的基準からいえば農奴制のうちの隷農制の時代であり、政治体制的基準からいえば封建制の時代である。そして文明史的基準からいえば、明治国家を近代国家というならば、その初期の時代であるといってもよい」とのことです。
著者は当たり前のように書いていますが、時代区分のメルクマールとしては現在一般的に何を使うのが常識なのか疑問に感じてしまいました。まあ、時代区分するということ自体が、社会構成史とか農奴制や隷農制という概念を使用することが前提になった作業ということなのかもですね。でもそれでいて、近隣の東アジアの状況との関連から時代区分するとはどいうことなのか、すっきりしませんでした。
中西聡・石井寛治編 名古屋大学出版会
2006年2月発行 本体6600円
江戸時代後期から昭和まで大阪府南部の貝塚で肥料を扱っていた商家・廣海家には大量の帳簿と商売に関する書簡が残されていました。商家とはいっても小さなお店ではなく、当地に貝塚銀行が創設された時には廣海家の当主が頭取に就任したほどですし、貝塚の属する泉南地方では肥料に関しては地域一番店でした。本書は、この廣海家の史料を対象とした研究会の成果をまとめた本です。興味深く感じた点をいくつか紹介します。
廣海家は江戸時代には米穀と肥料を扱う廻船荷受け問屋で、地域の業者に米穀と肥料を販売していました。一般的にこの時期、荷受け問屋の販売形態が北前船からの委託販売で手数料を稼ぐものから自己勘定売買に変化してきたそうです。廣海家では当初から委託販売の形式をとりながら実質は自己勘定売買をしていることが多かったことが明らかにされています。また米穀の取引は利ざやが薄く、維新後は次第に専ら肥料の取引に特化していきました。肥料の仕入れに関しても、江戸時代はもっぱら北前船からの仕入れでしたが、明治期には自店所有船をつかった北海道からの仕入れを試みたり、第一次大戦後には大阪や神戸の肥料商や人造肥料製造業者からの仕入れが主となりました。そして販売先も、江戸時代は小売業者が相手でしたが、最終的には廣海家自身が農家に売ることとなりました。江戸から明治期の流通構造の変化に従って、卸売り業から小売り業への業態変更に成功した訳です。また昭和戦前期には産業組合の出現もありましたが、廣海家は地域一番店の利点を生かして、産業組合に対する肥料の供給も行っていて、対立するようなことはなかったそうです。その後は肥料統制が強まり、肥料販売業は1944年で廃業したそうです。
肥料販売業は明治期には充分な収益を上げていて、廣海家はその利潤を株式に投資しました。企業勃興期には泉南地方でも多くの創業があり、それらへの投資が主でした。廣海家の所有株式は地元企業のものが多く、しかも会社創業時に払い込んでいる地元の株式は、時価で購入した中央企業の株式より利回りが良かったそうです。この点から、本書では廣海家の株式投資を名望家的なものではなく利益を指向したものだったと結論づけています。ただ、これは結果的に廣海家の投資した地元企業がうまくいっただけで、必ずしも創業時からすべての投資企業の成功が約束されていたわけではなかろうとも思うのですが。また、株式の配当は肥料商業部門に投資された訳ではなく、主に株式に再投資されました。一商家の事例ではありますが、日本の産業化・工業化に商家・商業資本の果たした役割を推測させてくれて興味深く感じました。また、戦間期以降は肥料販売業の成績が芳しくなく、株式が廣海家の主な利益源となったそうです。
廣海家が主に扱った肥料はイワシ・ニシン粕という魚肥です。明治期以降は、大豆粕、油粕や人造肥料の取り扱いも増えましたが、魚肥も使われ続けました。窒素肥料として考えると、魚肥の価格当たりの肥効は大豆粕や人造肥料に比較して劣るそうです。泉南地方では、江戸時代には綿・甘蔗、明治期以降はタマネギ・ミカンなどの比較的高価な商品作物が作られていました。このため泉南地方の農民の間では、窒素とリンをバランス良く含んだ魚肥を好む傾向が続いたことが、廣海家の取り扱う肥料の品目に影響を与えたと考えられるそうです。奥が深い。
この本を読むことにしたきっかけは、本書の編者でもある石井寛治さんの産業化と両替商金融
を読んで、石井さんの本ってこんなに面白かったっけと再発見した感があったからです。廣海家史料の中にも手形使用の記録がたくさん残っていて、本書にも手形使用の実例が紹介されていました。
本書のような面白い研究も史料がなければ始まりません。あとがきには、京大教授だった廣海家の当主の方が、文化財としての価値を感じて貝塚市に調査の依頼をされたのが発端のように書かれていました。現在では76026点が一括して貝塚市に寄託されているそうです。中には昭和に入ってからの文書も含まれていて、かなりプライベートに関わる事項もあると思うのですが、公開に踏み切った決断には敬意を表したいですね。
あと、廣海家文書でぐぐると、貝塚市のこのサイトがトップにきます。貝塚市教育委員会が文化財を紹介しているページなのですが、何を考えたのか、水色の地に白い文字で書かれています。読みにくいことこの上ない。ひどい色遣いのページとして一見の価値ありです。
- 中世日本の売券と徳政
- 職業と選抜の歴史社会学
- ワイマール期ベルリンの日本人
- 中世の借金事情
- 近代東北アジアの誕生
- リンククラブが昔やっていた保険
- 今年もスギ花粉症が始まったようです
- エトルリア人
- リンククラブから一万円の返金入金しました
- 江戸時代論
- 浅間山の火山灰
- 産業化と商家経営
2009年2月25日水曜日
中世日本の売券と徳政
寶月圭吾著 吉川弘文館
1999年3月発行 本体8400円
1987年に亡くなった著者の論文のうちで、書籍にまとめられていなかったものを集めた本です。戦前の1933年から1982年までに書かれた22本が、I 日本の古文書、II 中世荘園の諸問題、III 徳政と売券の三部に分けて収められています。I とII には、古文書とは何か、候文の歴史、偽文書、占城米・とうぼし、灌漑、検注などなどに関する論文が収められていて、それらの多くは非専門家の私にも読みやすい内容でした。ただ、お値段が高価なので一般の人が買うことはあまり考えられません。無理なのでしょうが、講談社学術文庫などでもっと安価に出したりはできなかったものかと思ってしまいました。
III 売券と徳政には8本が収められています。徳政の質券・売券への影響、預状の性格・発生、売買と質の関係、祠堂銭など、総じてこちらは専門的な内容のものばかりです。タイトルが売券と徳政とつけられたのもこのためでしょう。私には中身を評価する力はありませんが、研究史を知る意味でも勉強になりました。
2009年2月22日日曜日
職業と選抜の歴史社会学
吉田文・広田照幸編 世織書房
2004年10月発行
これまでにも戦前の教育の役割についての研究は多数ありましたが、その多くが帝国大学・旧制高校などのエリート層を対象としたものでした。高級官僚や財界・文壇の指導者を論じるのは華々しくもあり、また史料も比較的入手しやすくもあるからです。しかし人口の圧倒的多数は非エリート層であり、本書はそちらを対象としています。本書の前半部分は、中等工業教育と電気事業主任技術者という資格の獲得・地位との関係を扱った章など戦前期における非エリート層の諸相を論じる5つの章からなっています。後半は戦前期国鉄職員の研究と銘打って4本の論文が並べられています。
現在でも大きな企業ではoff the jobの教育機会を与えている場合がありますが、基本的には職能教育が目的だと思います。しかし、戦前の国鉄にあった教習所などの名称の学校は、職業に関する知識の伝達のみならず一般の科目も含んでいて、中学校としての資格をとれるように文部省に働きかけたり、またさらには交通大学とい国鉄自身の大学をも持とうとしたのだそうです。陸軍の幼年学校・士官学校・陸軍大学の国鉄版をつくろうとしていたわけです。中等教育の学歴を持つ人の採用難な時期があったりしたことも一因だったそうですが、学校設置にかかる費用を考えると不思議にも思えます。
戦前の国鉄では職種が多数あったほかに、身分が庸人・雇人・鉄道手・判任官・奏任官などと分かれていました。学歴によってどの身分にまで到達しやすいかが違うのですが、尋常小学校卒業のみの学歴でも天皇の官吏である判任官にまで出世した人もいて、上昇の機会がささやかながら開かれていました。低学歴のひとでもこの身分階梯を上昇しやすくする手段の一つが上記の教習所だったわけで、教習所はガスぬきの役割も持っていたわけです。戦前の多くの企業にあったこの種の身分制度はその後廃止され、一見めでたしめでたしですが、現在でも関連会社職員とか派遣とか出入りの清掃業者などといったより陰険な形で残っているのだと感じます。
また最終章では日本とイギリスを比較して、「学歴や試験の体系によりながら、個人的な上昇=昇進・昇格を希求した日本の鉄道現業職員と、集団的に結束し、労使間の団体交渉を通して、労働条件や待遇の改善を要求していった英国の鉄道員ーーー結果としてどちらがよかったかはわからないが、『よりよい生活』をめざすには複数の道がありえたことだけは確かである」と鋭く指摘しています。日本ではまともな労働組合の結成ができなかったことが影響しているでしょうが、出世・身分の上昇をめざして競争させられていた面があるのは否定できません。しかも、試験に加えて日常の働き方も昇進を左右しますから、競争は職務の評価を行う上司による職場統制にも利用されてしまいますし。
本書の奥付の手前には、本書が消えつつある技術である活版印刷で制作されたので出版が遅れた旨、記載されています。21世紀の現在では活版で印刷された本は珍しいのでしょう。でも、こんなふうに縦に並んだ活字の左右が不揃いなのは活版ならでは。世織書房さんってこの本で初めて存在を知りましたが、活版に縁の深い出版社なのでしょうか。
2009年2月17日火曜日
ワイマール期ベルリンの日本人
加藤哲郎著 岩波書店
2008年10月発行 本体5000円
洋行知識人の反帝ネットワークというサブタイトルがついていますが、ベルリンに留学していた日本人の間で、1926年にベルリン社会科学研究会という読書会がつくられました。共産党も合法な自由なドイツで、マルクス主義の文献なども対象とした読書会だったそうです。参加者は蠟山正道、有澤廣巳、千田是也、鈴木東民など、私も名前を知っているような著名人たちでした。この会はしだいに左傾化して遠ざかってゆく人もいたそうですが、ドイツ共産党員となったり、ベルリン反帝グループと呼ばれるような活動をしたり、革命的アジア人協会としてニュースレターを発行したりなど、実践活動に従事するようになった人もいました。中でも最も熱心に活動したのが、東京帝大医学部助教授国崎定洞さんでした。彼は帰国すれば公衆衛生学講座初代教授になれるはずだったのに、ドイツに残って共産党の活動家となり、ナチスの政権獲得後にはモスクワに亡命し、1937年にモスクワで銃殺されました。後に名誉回復されたのだそうです。
数万人が住んでいる都市も多数あるような現在の在留日本人数とは桁が違いますが、戦間期のロンドン・パリ・ベルリンには数百名の日本人がいて、ガリ版刷りのミニコミ誌が発行されたり、数件の日本料理店があったりしたそうです。このこと自体、ちょっとびっくりですね。また、第一次大戦後すぐのドイツのインフレや、その後も1920年代の日本は金解禁の機を常にうかがっていてマルクに比較すると円が高めで推移したせいで、ベルリンは留学生にとって暮らしやすい街でした。なので、文部省派遣在外研究員もヨーロッパの複数の国にゆく人が多かった中で、やはりドイツに長く滞在する人の数が多かったのだそうです。この当時の留学生は帰国後に地位が約束されていた存在ですから、200名程度の滞在留学生の中の読書会に、上記のような著名人の名前が多数みられるわけですね。
まあ、戦間期ベルリンの日本人というほんとに狭い狭い世界のことを扱った本です。それでも、面白く感じられるのは、当時のワイマール共和国が彼ら彼女らに自由の印象を残して、後の活動につながったという点でしょう。共産党の活動家になった人だけでなく、日本での第二次大戦後の活動にその精神を生かした人や、特に有澤廣巳は晩年になって、なぜワイマール共和国が滅んだのかに取り組み、著書まで出したのだそうです。
あとがきを読んでいて、この本の著者の経歴にも少し驚きました。大月書店で編集者になったあと、新しいマルクス・エンゲルス全集のために東ドイツ(著者はDDRと書いてます)に留学し、そこで国崎定洞たちのことを発見して発掘・調査を続けてきたのだとか。奥が深い。
2009年2月14日土曜日
中世の借金事情
井原今朝男著 吉川弘文館歴史文化ライブラリー265
2009年1月発行 本体1700援
中世の借金事情と銘打った本書ですが、借金についてだけでなく興味深い指摘がたくさんありました。
人に税金が賦課されていた公地公民制が立ちゆかなくなり、土地に税が賦課される中世の徴税システムになってから、名主や国司、地頭など各階層の能力のある者が年貢・公事の納入を請け負うこととなりました。年貢公事の負担者がなんらかの理由で滞納すると、未進分は請負者が代納し、未進者と代納請負者との間で債務債権関係が生まれることになったのだそうです。また、代納請負者自身も借金しなければ年貢・公事を完済することができないことがあり、その借金がかさむと破産状態となり所領を手放すこととなります。院政期に寄進地系荘園が増えたのは、この借金の債務整理目的で寄進されたものが多かったとのことです。
出挙で春に貸し出される種籾は領主の直営田でつくられた良質のイネで、しかも気候などを予測してその年にふさわしい品種の種籾が貸し出されました。中世ヨーロッパでムギの播種量と収穫量の比率が3倍程度でしかなかったのと違って、イネは中世でも100から200倍にもなったので、出挙は無理なく成り立っていたのだそうです。
室町期に荘園の年貢徴収システムに変化があって、代官に請け負わせることで一定額を春に前納させるようになった。年貢の前借りという貸借関係が導入され、不安定だった年貢が豊凶にかかわらず安定的に入手できるようになったのだそうです。
「これまでの中世史研究においても、惣・一揆・衆中・座・講などヨコの共同体的結合の存在が注目されてきた。しかし、その淵源について検討されていない。中世は売買取引よりも貸付取引に依存する社会であり、人格的依存関係による一定の人的結合組織をつくり少ない資金を拠出して一定額の資金を調達する相互扶助組織が発達した。その内部では、借用・運用・返済という債務契約が発達した。この人的依存関係による債務契約こそが社会の絆となって、共同体的社会関係の社会秩序をつくり出したのである」という指摘もおもしろいですね。
でも、読んでいて疑問に感じる点もなきにしもあらず。例えば、本書の中では、「質地は永領の法なし」や利倍法など中世の在地慣習法がいくつか触れられています。前者について著者は「『質券の状あるといえども、永く領知すべからず』という公家法こそ、『質地は永領の法なし』という在地慣習法の淵源であったとみてまちがいない」としていますし、その他の在地慣習法についても、古代法がその起源だと書いていることが多いように感じました。これって本当なのでしょうか。在地慣習法は古くから確固として存在していて、その正当化のために古代法の条文が、淵源として中世人に受け入れられていただけなのではと感じてしまいます。
また、質地は債務者の同意がないと流質させられなかったことが裁判例などを挙げて強調されています。でも、その種の裁判があったっていうことは、債務者の同意なしに流質させようとする債権者が少なからず存在していたということですよね。ほかにも、裁判例などで中世の現在と違った意識が示されている例があるのですが、立法されたり裁判になったりするというのは、著者の主張する中世の常識とは違った意識を持つ人が増えつつあったからだろうと、感じる点がままありました。
あと、本書では現代のことについても、著者の意見が多く述べられています。中世と現在とで債務債権関係の常識が違っていたことを強調するのは本書にとって必要なことだとは思いますが、中世の方が債務者が保護されていて債権者天国の現在よりまともだったということが縷々述べられていてうんざり。その手の話は本書に期待されているテーマではないと、大方の読者が感じたと思います。でも、おおむね面白い本でした。
2009年2月11日水曜日
近代東北アジアの誕生
左近幸村編著 北海道大学出版会
2008年12月発行 本体3200円
2007年3月に行われた「近代東北アジアにおける国際秩序と地域的特性の形成」というシンポジウムでの発表をもとにした論集です。日本・清・朝鮮・ロシア史といった一国史ではとらえきれないテーマを扱った話題ばかりで、跨境史への試みというサブタイトルがつけられています。
この本を読んでみて、新たに気付かされたのは強いはずのロシアの弱さでしょうか。日本の側からすると、江戸時代の蝦夷地へのロシアの来航・通商要求に対する海防論から、明治になってからも三国干渉や朝鮮半島へのロシアの進出の警戒など、ロシア脅威論がずっとあったと思うのです。また清国にとっても、1860年の北京条約で沿海州を割譲させられ、その後も東清鉄道や旅順租借地などの利権をみとめさせられるなど、ロシアの南下は脅威と受け止められていたはずです。しかしロシア側から見ると、沿海州へのロシア人移民が順調には増加しなかったのに対し、中国人・朝鮮人の沿海州への流入が増え、しかもウスリー川の南には多数の中国人がすんでいることから、もし対清戦争が起きたら沿海州を防衛できないだろうという悲観論、南ウスリー・コンプレックスがあったのだそうです。
また、第三章「サハリン石炭と東北アジア海域史」というサハリンのドゥエ炭鉱についての論考でも同様な感想を持ちました。この炭鉱では良質の強粘結炭が採掘されることから、ロシア側では当初、東アジア交易・石炭取引の中心である上海市場での販売をもくろみました。しかし流刑植民地であるサハリン等への移民は少なく、囚人労働を利用しても労働力不足であったことと、炭鉱の近くに良港がなかったことから輸出量は増えませんでした。また、日本炭は長崎から石炭を積んで行った船が上海から帰り荷として何かを輸入したわけですが、上海からサハリンへの輸出品は少なく船の運賃的にも不利で、結局、ウラジオストックの軍需をまかなう程度の生産となったそうです。しかもウラジオストックでも民需用の石炭は日本から輸出されていたとのことです。そして、日露戦争後にこの炭鉱は北樺太の経済利権として日本の資本と労働力で開発され、第一次大戦後暫くまで日本へ輸出していました。アジアの地では人口が少なく、製鉄などの産業基盤を持たないことは、ロシアの弱点ですね。
第五章の「十九世紀中国における自由貿易と保護関税」も勉強になりました。アヘン戦争後の南京条約、アロー号事件後の天津条約で関税が協定されましたが、この頃の清朝の側には財政関税という考え方はあっても、保護関税という考え方がなかったそうです。茶や絹製品には輸出税をかけていたくらいですしね。日本でも幕府が結んだ日米通商修好条約では、関税のことよりどこを開港するかの方が問題だったから、同じようなもの。その清国で保護関税の必要性が理解され始めたのは、西洋に留学した人が実務に就く1870年代末だろうとのことです。不平等条約ではあっても、締結の頃には関税自主権の欠如という意識がなかったというのは、言われてみれば当たり前ですが、重要な指摘だと感じました。
本書の最後には、海域アジア史研究入門の編者でもある桃木至朗さんによる「海域史、地域研究と近代東北アジア」が載せられています。「東南アジアと東北アジアは、主要な富(貿易品)が、人口が少なく国家形成とは縁が薄い海・島・森の世界からもたらされ、貿易ネットワークが地域の動向に強く影響していた点、近世後期以降に外部からの大規模な労働力流入をともなう大開発を経験した点などが共通する」といった指摘など、面白く感じました。
全体として、ほかにも私の知らないことや興味深いことが多く述べられている勉強になる本でした。
2009年2月9日月曜日
リンククラブが昔やっていた保険
古いものを見ていたら、リンククラブからのはがきをみつけました。リンククラブはニューズレターの発行だけでなくて、昔はこういうAppleCare後の保険みたいなこともやっていたのでした。
このPB540cは1994年7月10日に買いました。その後、画面の下の方に帯状に黒い部分ができて表示されないトラブルが発生して、1994年12月23日に修理の依頼をし、12月26日にDisprayが交換されて手元に戻ってきました。購入後半年なので無償で交換してもらえたのですが、その後のことも考えてこのリンククラブの保険に入ったのだろうと思います。
で、PB540cの箱の中を見て今日気付いたことがあります。実は、このPB540cは1997年4月にHDDが壊れちゃったのです。渋谷の日本NCRのクイックガレージに持ち込んで、HDDを交換してもらった記憶があり、105031円也を支払ったその時の領収書が箱に入っていました。リンククラブ保険の関係の書類はPB540cの箱には入っていなかったので、2年半前に保険に入ったことなどすっかり忘れていたようです。こんな風に保険かけても、そのことを忘れるうっかり者はほかにもいたのでは。
2009年2月8日日曜日
今年もスギ花粉症が始まったようです
昼前に買い物に出かけました。今日は陽射しは暖かなのですが、かなり風が強く吹いていました。で、外を歩いている時にはそうでもなかったのですが、自宅に帰ってから鼻水が多くなっていることに気付きました。先週から目の痒みや鼻水の訴えで受診する人がぼつぼつ出始めていたので、私の今日の症状も、おそらくスギ花粉によるものでしょう。1月末からクスリをのみ始めていたのですが、やはり多い日には症状が出ます。
2009年2月7日土曜日
エトルリア人
ドミニク・ブリケル著 白水社文庫クセジュ932
2009年2月発行 本体1050円
なんとなく謎の民族という印象が強いエトルリア人。実際のところはどうだったのか全く知識がなかったので、2005年と比較的新しく出版されたこれを読んでみました。勉強になった部分をいくつか紹介します。
イタリアのトスカーナ地方に広がっていたヴィッラノーヴァ文化を担った人たちが、都市国家を形成するようになったのがエトルリア人だということのようです。エトルリア人の起源については古代から、イタリア土着民説、小アジアなどオリエントからの移住説がありました。ただ、これらの説が唱えられたのには訳があって、例えばイタリア土着民説にはシチリア島のギリシア植民市の人たちがエトルリア人をギリシア人とは違うバルバロイだとする政治的な目的があったのだそうです。また、フランス人の出自をケルト人・ローマ人・ゲルマン人のどれか一つに求められないのと同様に、エトルリア人も土着の要素に加えて外来の複数の文化の影響があったと考えるべきというのが著者の主張です。
エトルリア人が謎の民族という印象を与えるのは、その言語が解明されていないという点が大きいようです。エトルリアがローマに征服され、ローマが帝政になる頃にはエトルリア語は使われなくなってしまいました。しかし、エトルリア語で記された碑文は多く残され、また偶然残ることになった文書の一部なども伝えられています。文字自体はギリシア文字とほぼ同一なので、読み方や発音も分かっています。また、さまざまな学者の工夫・解釈によって少数の単語の意味や語法は判明しましたが、多くの語や文は意味が読み取れないのだそうです。エトルリア語は、ヨーロッパを席捲したインドヨーロッパ語族には属していないことが解読困難なことの一因で、またこれはエトルリア人の起源が問題とされる由縁でもあるのですね。
この本で扱われる年号のほとんどが紀元前XX年です。なのでこの本では、特記のない限り年の数字の前につける「紀元前」という表現がすべて省略されています。「紀元前」を省略することにより、数ページの節約になり合理的なのだと思いますが、こういう表示の仕方の本はこれまでに出会ったことがありません。フランスでは一般的な表現法なのでしょうか、珍しいですね。あと、この本は1050円なのですが、税込み1050円ではなくて本体が1050円なのです。一見、税込みの価格のような1050円を本体価格にするとは、白水社の人も変わってるような。
2009年2月4日水曜日
リンククラブから一万円の返金入金しました
リンククラブに無断で引き落とされた1万円が2月2日に振り込まれていました。いつもの引き落としはNS リンククラブ名義なのですが、この返金の振り込みはリンククラブ名義で入金されていました。返金の要求があった会員の講座一件一件にリンククラブの中の人が振り込んでるんでしょうかね。まあ、とりあえず私の場合はこれで一件落着です。
江戸時代論
佐々木潤之介著 吉川弘文館
2005年9月発行 税込み3150円
世直し状況論などで有名な著者の遺稿を本にしたものです。体調不良を自覚していた著者の近世像について骨格を示すつもりでパソコンに残しておいた原稿だったそうです。
著書は中学校の歴史教科書を執筆したこともあるそうで、歴史研究者として自分の学問の成果が教科書に反映することが一つの目標になると述べています。本書の冒頭には、検定を気にせずに中学校教科書の江戸時代の部分を書くとしたらこうなるという文章60ページほどが載せられています。ただ、読んでみると中学生には難し過ぎるような。例えば、「小農民の自立」の意味するところ、また歴史学的な概念としての含意まで分かるように説明するのは不可能に近い気がします。
本書の大部分は著者の江戸時代に関する見解が、時代区分・技術史・家族史・国家論などなど、平易な文章でつづられています。しかし、文章自体に難しさはないものの、おそらく著者は具体的に誰か・何かを思い描いて書いているものと思われます。そのあたりを分かった専門家が読むともっと面白いのでしょうが、素人の私にはその点の知識がないのが悲しいところ。
唯一、「もっとも、わが国の社会史にはアナール派のそれとは違って、権力論や階級的・階層的矛盾をぬきにした生活史・意識史・民衆史の色彩の強いものがあり、その観点からの国家史研究への批判もある。このことは多分、歴史学とは何かという問題にかかわることなので、別の議論を必要とする。すくなくとも私たちが肯定的にうけついだ歴史学の伝統は、このような歴史学のあり方が正しいとは考えない。本来のわが国の社会史は、この種の今様の社会史とは全く違ったものであった」という強烈な表現だけはなんとなく理解できました。
で、その他の著者の見解に対する違和感、例えば時代区分について。内藤湖南流に応仁の乱を境にして日本の歴史を二つに分ける考え方が主張されているがそれは正しくなく、日本の近隣地域のことも考えてみると16世紀末が時代の区切りになると著者は述べています。また、アジアでは近世以前の時代のあり方はたいへん多様なので、中世であるとも言えないし、ましてや一つの時代区分にまとめることもできず、せいぜい前近世とでもしておくしかない。さらに、日本もアジアの一員なので、日本だけがヨーロッパのような中世や近代をもつとするのは適当ではない。
それでいて「日本近世をどのような歴史時代と考えるか。国家史的基準からいえばアジア近世国家の一つであり、社会構成史的基準からいえば農奴制のうちの隷農制の時代であり、政治体制的基準からいえば封建制の時代である。そして文明史的基準からいえば、明治国家を近代国家というならば、その初期の時代であるといってもよい」とのことです。
著者は当たり前のように書いていますが、時代区分のメルクマールとしては現在一般的に何を使うのが常識なのか疑問に感じてしまいました。まあ、時代区分するということ自体が、社会構成史とか農奴制や隷農制という概念を使用することが前提になった作業ということなのかもですね。でもそれでいて、近隣の東アジアの状況との関連から時代区分するとはどいうことなのか、すっきりしませんでした。
2009年2月2日月曜日
浅間山の火山灰
2009年2月1日日曜日
産業化と商家経営
中西聡・石井寛治編 名古屋大学出版会
2006年2月発行 本体6600円
江戸時代後期から昭和まで大阪府南部の貝塚で肥料を扱っていた商家・廣海家には大量の帳簿と商売に関する書簡が残されていました。商家とはいっても小さなお店ではなく、当地に貝塚銀行が創設された時には廣海家の当主が頭取に就任したほどですし、貝塚の属する泉南地方では肥料に関しては地域一番店でした。本書は、この廣海家の史料を対象とした研究会の成果をまとめた本です。興味深く感じた点をいくつか紹介します。
廣海家は江戸時代には米穀と肥料を扱う廻船荷受け問屋で、地域の業者に米穀と肥料を販売していました。一般的にこの時期、荷受け問屋の販売形態が北前船からの委託販売で手数料を稼ぐものから自己勘定売買に変化してきたそうです。廣海家では当初から委託販売の形式をとりながら実質は自己勘定売買をしていることが多かったことが明らかにされています。また米穀の取引は利ざやが薄く、維新後は次第に専ら肥料の取引に特化していきました。肥料の仕入れに関しても、江戸時代はもっぱら北前船からの仕入れでしたが、明治期には自店所有船をつかった北海道からの仕入れを試みたり、第一次大戦後には大阪や神戸の肥料商や人造肥料製造業者からの仕入れが主となりました。そして販売先も、江戸時代は小売業者が相手でしたが、最終的には廣海家自身が農家に売ることとなりました。江戸から明治期の流通構造の変化に従って、卸売り業から小売り業への業態変更に成功した訳です。また昭和戦前期には産業組合の出現もありましたが、廣海家は地域一番店の利点を生かして、産業組合に対する肥料の供給も行っていて、対立するようなことはなかったそうです。その後は肥料統制が強まり、肥料販売業は1944年で廃業したそうです。
肥料販売業は明治期には充分な収益を上げていて、廣海家はその利潤を株式に投資しました。企業勃興期には泉南地方でも多くの創業があり、それらへの投資が主でした。廣海家の所有株式は地元企業のものが多く、しかも会社創業時に払い込んでいる地元の株式は、時価で購入した中央企業の株式より利回りが良かったそうです。この点から、本書では廣海家の株式投資を名望家的なものではなく利益を指向したものだったと結論づけています。ただ、これは結果的に廣海家の投資した地元企業がうまくいっただけで、必ずしも創業時からすべての投資企業の成功が約束されていたわけではなかろうとも思うのですが。また、株式の配当は肥料商業部門に投資された訳ではなく、主に株式に再投資されました。一商家の事例ではありますが、日本の産業化・工業化に商家・商業資本の果たした役割を推測させてくれて興味深く感じました。また、戦間期以降は肥料販売業の成績が芳しくなく、株式が廣海家の主な利益源となったそうです。
廣海家が主に扱った肥料はイワシ・ニシン粕という魚肥です。明治期以降は、大豆粕、油粕や人造肥料の取り扱いも増えましたが、魚肥も使われ続けました。窒素肥料として考えると、魚肥の価格当たりの肥効は大豆粕や人造肥料に比較して劣るそうです。泉南地方では、江戸時代には綿・甘蔗、明治期以降はタマネギ・ミカンなどの比較的高価な商品作物が作られていました。このため泉南地方の農民の間では、窒素とリンをバランス良く含んだ魚肥を好む傾向が続いたことが、廣海家の取り扱う肥料の品目に影響を与えたと考えられるそうです。奥が深い。
この本を読むことにしたきっかけは、本書の編者でもある石井寛治さんの産業化と両替商金融
を読んで、石井さんの本ってこんなに面白かったっけと再発見した感があったからです。廣海家史料の中にも手形使用の記録がたくさん残っていて、本書にも手形使用の実例が紹介されていました。
本書のような面白い研究も史料がなければ始まりません。あとがきには、京大教授だった廣海家の当主の方が、文化財としての価値を感じて貝塚市に調査の依頼をされたのが発端のように書かれていました。現在では76026点が一括して貝塚市に寄託されているそうです。中には昭和に入ってからの文書も含まれていて、かなりプライベートに関わる事項もあると思うのですが、公開に踏み切った決断には敬意を表したいですね。
あと、廣海家文書でぐぐると、貝塚市のこのサイトがトップにきます。貝塚市教育委員会が文化財を紹介しているページなのですが、何を考えたのか、水色の地に白い文字で書かれています。読みにくいことこの上ない。ひどい色遣いのページとして一見の価値ありです。
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