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木村幹著 ミネルヴァ書房
2007年12月発行 本体3000円
ミネルバ日本評伝銭選として出版されています。日本人ではないけれど、日本と縁の深い人と言うことで選ばれたのでしょうが、本書は高宗を切り口に、朝鮮の19世紀末から保護国となるまでの過程を鮮やかに分析しています。
高宗は王族宗家の血統が絶えたために、分家から宗家に養子に入って国王になりました。高宗の生家は宗家から6代前に分かれた家系で、宗家とはかなり隔たった関係です。日本にも応神天皇5世孫と称して即位した継体天皇がいますが、実態としては継体王朝というべき別系統の新王朝が建てられたとする説も有力なくらいです。それより一代多い6世孫が国王になれたのはなぜなのか、もっと近い血縁の男性がいなかったのか、以前から疑問に思っていました。
また、日本では始祖に近い方が尊ばれるような感覚がありますよね。徳川8代将軍が御三家筆頭の尾張からではなく、紀伊家の吉宗になったのも、神君家康公と世代的に近い、血が濃いからだったと言われています。高宗が国王になった時には父親が現存していました。父親は大院君(大院君というのは一般的な称号で、高宗の父は興宣大院君と呼ぶのが正式なのだそうです)としてその後政治的に活躍することになるわけですが、なぜ血統的には一代近いはずのその父親の方が宗家に養子に入って国王にならなかったのかも、すごく疑問でした。
日本とは違って朝鮮には儒教が実践されていたわけですが、儒教には養子の選び方に厳格なルールがあるのだそうです。まず、養子は養父より下の世代でないとだめなので、 父の大院君の方は国王になれませんでした。また、長男は家の祭祀を行う必要があるので、次男以下でないと養子に出せなかったのだそうです。基本的に宗家は長男が次ぎますから、分家より宗家の方が世代の進み方が早い傾向があります。したがって、宗家の当主より下の世代の男の子が二人いる家系は王族にも他にいなかったので、この家系から高宗が誕生したのだそうです。本書を読んでこの辺の疑問が氷解しました。
こういう基本的なことに加えて、大院君がなぜ力を持ったのか、大院君と閔妃一族の対立などの国内政治についてや、明治時代の朝鮮の複雑な対外関係、特に清・日本・ロシアとの関係が著者の視点でとても分かりやすく解説されています。朝鮮は君主制の国だから当たり前かも知れませんが、本書によると、軍乱やクーデターを経験した高宗は自国の軍隊を信頼できず、自分と自分の一家を守ることを最優先にした高宗の意向が体外関係に大きく影響していたのだとか。
例えば露館播遷ですが、ふつうの日本史の本なんかだと、三国干渉とあわせて、日清戦争後に朝鮮に影響力を及ぼせるはずだったのがロシアに妨害されたように記載されているのだと思います。しかし本書によると、乙未事変で閔妃を殺害されるという経験をした高宗が、安全確保のために自発的にロシア公使館に移動して居座った、ロシア側としても他国からの非難を考慮して高宗が王宮に帰還するのを望んだがなかなか高宗が帰還に同意しなかったのだそうです。
また、ハーグ密使事件は有名ですが、高宗が密書を授けた使者を外国・外国公館に送ることはそれ以前にも度々あったのだそうです。秘密裏に交渉しなければいけないきびしい国際環境下に朝鮮がおかれていたことも確かですし、軍事的にも経済的にも弱体な国だったので、敵対する二勢力を操作することになってしまったということです。
幸い日本は自力で近代経済成長を試みるに足るだけの経済規模を持っていましたが、朝鮮の国家財政・税収が日本に比較してかなり少なかったのは確かです。また、君主が統治しない伝統を持つ日本とは違って、国王が政治的な力を振るうことのある朝鮮では、よほど優秀な能力のある人が国王になり自制心をもって政権を支えるのでなければ、開国・近代化といった課題をこなすことは難しかったようです。植民地を持つことを正当化するわけではありませんが、朝鮮は植民地化しなければ政治的に安定しないと考えた日本人が当時いたことも、理解できないものではないと感じました。
小熊英二・姜尚中編 集英社新書0464D
2008年10月発行 本体1600円
52人の方のインタビューをまとめた本です。新書としては異例の780ページもあり、背表紙の厚さを測ってみると34ミリもありました。ふつうにいう在日一世の方だけではなく、東京や京都など日本国内で生まれた方(在日二世になるのかな)や、日本人女性で在日の方と結婚してから朝鮮・韓国籍に変えた方のお話も含まれていました。
当たり前ですが、みなさん、とても苦労したようです。たいへんだった頃の話が主で、面白いと言ったら怒られそうですが、どの方のお話も興味深く読めました。気付いた点をいくつか。
むかしむかし、「異邦人は君ヶ代丸に乗って」というタイトルの岩波新書を読んだことがありますが、済州島・大阪航路を君が代丸が結んでいたそうです。その関係か、済州島出身の人が多いのですね。
日本の敗戦後、飴・どぶろくを作って売って儲けたという方がたくさんいました。飴はデンプンを麦芽などで麦芽糖にしたものでしょうか。日本では飴・どぶろくを家庭で自製する習慣が昭和の頃にはなくなっていたが、朝鮮半島ではその習慣が残っていたので、材料を調達すればすぐに作れたとうことなのでしょうか。
パチンコはやはり、在日の方たちが始めたものなのですね。経済的に成功した人の話も複数載せられていました。
この年代になると、女性が男性よりずっと多いものだと思います。でも、本書にとりあげられているのは女性17人、男性35人でした。女性にはインタビューを受けてくれる人が少なかったんでしょうか。それとも男性の話の方が面白そうだから、編者が男性を多く選んだのでしょうか。
「わたしには総連も民団も同じですよ」という方もいますが、総連・民団それぞれの活動に熱心だった方のお話も多く載っています。総連の活動をしていた方の中には、帰国運動や朝鮮学校での教育方針などなどや、近年の朝鮮民主主義人民共和国のことともあわせて自省の弁を語っている人もいました。そうでない人でも、北朝鮮の様子をみてつらい想いをしている人もいそうな気がします。
1947年の外国人登録令と1952年のサンフランシスコ講和条約により、朝鮮半島出身者の日本国籍を剥奪する処置がとられました。一方的に日本国籍を剥奪するのではなく、日本国籍を保持したままにするか離脱するかを本人が選択できるようにすべきだったと私は思っていました。でも、この本を読んでいると、当時そういう選択ができたとしても大部分の人が日本国籍離脱を選んでしまうような雰囲気だったようです。なので、国籍も重要かも知れませんが、もっと必要なのは国籍に関わらず日本国内に住んでいる人が等しく職業選択・居住・就学などの自由を持ち、社会保障の恩恵もひとしく受けられるように日本政府が施策すべきだったという点でしょうね。
しかし、実際の日本政府のやり方をみると、国民健康保険・国民年金という名称が、「国民」でない在日の人たちは制度の対象外だぞというつもりで名付けられたようにも思えてしまうくらいです。まあ実際には、国民健康保険は敗戦前に作られた制度ですから在日の人を意識してはいなかったでしょうし、国民年金の「国民」も国民健康保険にちなんで名付けられただけなのでしょうが。
また、樺太に強制連行された朝鮮半島出身者の問題。敗戦後、日本政府は日本人の帰国はすすめましたが、朝鮮半島出身者は置き去りにされました。自力でなんとか樺太から日本に戻った人のお話が載っていましたが、日本政府のやり口には自分の国ながら情けなくなります。敗戦まで唱えられていた一視同仁というスローガンはどこにいったんでしょう?
谷本雅之著 名古屋大学出版会
1998年2月発行 本体6500円
本書はこれまでに読んだいろいろな本で多数引用されているので、読んでみました。480ページほどもある本でしたが、内容が面白いのと著者の素直な日本語とストーリーテラーとしての能力の高さが発揮されていて、一気に読めました。
綿布市場の展開と商人・小農家族と銘打たれた第I部では、幕末から明治期の綿布市場拡大、各種木綿生産地域の代表として入間地方での縞木綿生産の展開、白木綿生産地域の衰退と発展が論じられています。開港後に綿布が大量に輸入されるようになって、単純に国内の綿織物の産地が衰退していったというわけではなかったそうです。海外から綿布が輸入されるのと並行して、麻布や古着を利用していてこれまで綿布をあまり消費していなかった東北地方などで、収入増とともに綿布の消費が増加したので、国内での綿布生産も伸びました。これにともなって、もともとファッション性の大きい各種木綿は別にして、白木綿の産地も衰退したところと再編・成長していったところがありました。その理由として、白木綿も厚さや肌触りなどの特性の点で必ずしも輸入綿布とは競合しなかったとする川勝平太説がありました。川勝説自体も初めて知った時はその見方の斬新さに感心した覚えがありますが、本書で著者はさらに鮮やかな謎解きをしてくれます。国内で生産された白木綿も一様ではなく、例えば富山の新川木綿は信州松本の絞り木綿加工業の原料として使われていましたが、開港後に養蚕・製糸業が発展したことにより松本周辺での木綿加工は労働力不足から衰退し、そのため新川木綿の生産が振るわなくなった事情があったそうです。さらに、再編・成長してゆく白木綿生産地では輸入綿糸を原料として使用することが必要だったわけですが、幕末の各白木綿産地はそれぞれ分業の程度と在地商人の原料・製品の取引への関わり方違っていました。このため、綿糸を購入するような分業の段階にあった産地、しかも専売制ではなくて生産の様子と輸入綿糸に関する情報の双方をもつような在地商人が取引に主に関与していたような産地の方が、その在地商人による市場対応力でよりすばやく流通・生産構造の再編に成功して、明治期以降の成長につなげることができたということです。非常に説得的な議論だと感じました。
第II部でも入間地方の織元である滝沢家が取りあげられ、問屋制の実相が紹介されています。かつて、問屋制家内工業は農閑期の安い工賃の労働力を利用していたと主張されていました。しかし、製品の需要期と農繁期が重なっていて、農繁期の工賃はかえって高くなりがちだったことや、原料糸の安い時期と生産の多い時期(農閑期)がずれていて在庫を多く持たねばならないことがなど、必ずしもそうとは言えなかったことが本書では実証されています。また、発注から織り上がった製品の回収までの期間のコントロールの困難さや、緯糸の織り込みを粗にして前渡しした糸を全部使わずに残して横領する不正(それにより製品も粗悪化してしまう)など、問屋制特有の問題もあったそうです。ヨーロッパ経済史ではこういった問題を解決することの難しさが問屋制から工場制への移行の一因と考えられているそうで、本書は日本にもその例があったことを示してくれていてとても勉強になりました。
かつて、日本資本主義論争の一環としてマニュファクチュア論争がありました。1980年代頃までの研究ではマニュファクチュアでなければ当然ながら問屋制家内工業の形態をとるというのが基本的な考え方でした。しかし、第I部の入間地方の例でも明らかなように、幕末の段階では在地の商人が市や機業を副業としている農家に買い付けを行っていて、厳マニュどころか問屋制の段階にも至ってはいない産地が少なくありませんでした。著者によると、
やがて、上記の問屋制特有の問題に加えて、日露戦後の工賃の上昇やコンスタントに織り手を確保することが困難なことなどの理由から、この地域でも力織機を導入した小工場が増えていきました。本書で扱われている滝沢家は、他の業者が問屋制から工場主に変わって残された家内工業従事者を対象とすることで、比較的遅い時期まで問屋制家内工業形態での営業を続けていましたが、昭和になってそれも終わりとなりました。問屋制の終わりに関してはとても分かりやすく書かれています。
友部謙一著 有斐閣
2007年3月発行 本体4000円
「18世紀から20世紀初頭にかけての日本では、ほかのアジア諸国で見られる『農民層分解』ーー土地なし層の増大ーーの明瞭な形跡は見あたらず、その一方で1870年代以降小作地化が顕著に進展するという特徴を持っていた。この観察事実だけから地主小作関係が日本の小規模な農家経済の維持に少なからず貢献したというのは性急なことかも知れないが」
この本の白眉は、この記述だと感じました。私が本書を読んで学んだことは、耕作可能な耕地の面積は農家の中の働き手の数に応じて変化すること、しかも死亡・出生・成長などによって農家の中の働き手の数が変化するので、ライフサイクルの各時点に応じた適切な耕地面積を維持するために自作と小作と組み合わせて対応したこと、村を構成する各農家のライフサイクルはそれぞれずれているので耕地をお互いに小作に出したり受けたりしたことなどでしょうか。ふつうに見聞きしたことのある地主制論では、農民層の分解で地主・不在地主と小作が出現し、日本資本主義の半封建的な性格につながり、寄生地主による高率な小作料が労働者の低賃金とも関連し、 小作争議で後退し始めるという感じでしょうか。そうじゃない見方があるという点で、とても勉強になりました。
そのほか、第一章の近世日本における農家経済の成立では、太閤検地にともなう近世初頭の小農自立について、流浪・非定着性の中世→親方宅への下人としての住み込み→同棟別居により下人が世帯を形成し、さらに別棟別居へという過程で下人の「家」が経済的にも独立していったことが論じられていて勉強になります。また、夢であった世帯が持てるようになり、その世帯を存続させるための勤労意欲がもたらされた点や、別居によるプライベートな空間をもつ世帯が多数創出されたことによって、17世紀の人口増加がもたらされたことなども説得的です。
次の数章にわたって、ロシア・ソ連の経済学者で後にスターリンに粛清されたチャヤーノフさん流の小農家族経済論が展開されます。チャヤーノフ理論では基本的な分析単位が農家世帯です。実際の農家でも農作業と副業にどう従事するかを決定していたのは農家の個々の構成員ではなく家長夫婦でしょから、良い分析法ですね。チャヤーノフさんの理論を人類学者のサーリンズさんがまとめた三つの法則、
①農家の消費力・労働力と生産額が正の相関にある
②同一の消費力をもつ農家同士では、より多くの労働力をもつ農家の方が協力による成果でより多くの生産を獲得して、より高い消費水準を実現する
③同一の労働力をもつ農家を比較すると、より多くの消費力をもつ農家の方が、労働強度を増やすことにより、より多くの生産を獲得する
が、世界や江戸期と近代日本の史料で検討されています。
①②は別にして、③は被扶養人数の多い農家の人の方がたくさん働かなきゃならないということだから当たり前だと思ってしまいました。多くの史料にあたって、確認した労作という点が重要なのでしょうか。あと、著者がチャヤーノフさんにこだわるのは、チャヤーノフさんの「農家の所有耕地面積は農地/労働力に応じて循環的に変動する、この状況では古典的な農民層分解が起きにくい」という主張があるからなのでしょうね。
とても勉強になった点のある本ですが、欠点もたくさんあります。まず、この著者の日本語はとても下手で読みにくいのです。特に序章とか第7章とかひどい。また、第8章数量経済史から見た幕末百姓一揆では、Rekishowという著者も関係しているオーサリングツールによる一揆の時代による変遷が、ちらっと紹介されています。その説明と本書唯一のカラーページである口絵の図とをみてもほとんど意味不明です。著者はよく分かっているのでしょうが、知らない読者に紹介するスタンスではなく、自己満足でしかない感じ。さらに、この第8章では一揆の頻度・マグニチュードと地域ごとの都市化・市場階層間バランスの関係が論じられているのですが、途中の議論と解釈の間がまったくつながらない印象です。大学の紀要ってこんなレベルのいい加減さでもいいのかと驚き入った次第です。
上横手雅敬著 角川ソフィア文庫
2002年5月発行 本体600円
高名な中世史家である上横手さんが、週刊現代に毎週1ページでコラムを連載していたものを70回分集めた本です。「武士=ヤクザ」論だとか、明治前半の歴史教科書では南北朝が平等に扱われたり「後醍醐の失政」が取り上げられていたりだとかいろいろですが、気軽に読める本です。
一つ一つは短い文章ですが、なかなか鋭い指摘もあります。例えば建礼門院について、自分の母親である徳子が自分の息子である安徳天皇を連れて入水しようとした際に、自分の息子を助けることができなかった人だと。徳子にしても建礼門院にしても安徳天皇にしても、入水などしなくても殺される心配はなかったろうと言うのです。たしかに、承久の乱の首謀者の後鳥羽天皇でも流罪になっただけですから、幼児の安徳天皇もどこかで余生を送れただろうという指摘にはうなづかされました。
角川ソフィア文庫というのは知らない名前でした。でも、同じ角川ソフィア文庫の所には今昔物語などもありましたから、古典だとか学者の書いたものだとかをまとめたのかも知れません。で、気になったのはこの本の値段です。236ページの文庫で本体600円はちと高いような。ふつうの角川文庫とは違ってあまり売れそうにないやつ(これも増刷されてないようです)を高めに値付けするために、ソフィアなんていうシリーズにまとめたのかもとも勘ぐってしまいます。
仲野義文著 清文堂
2009年3月発行 本体1900円
近世石見銀山の経営と社会というサブタイトルがついています。山師たちが間歩を請け負って鉱山経営する際の契約、現物徴収される税の収め方、労働者の勤務形態・賃金、毎年の銀の生産量、生産に使う栗の坑木や燃料の炭の供給地、職業病などなどいろいろ解説されています。職業病になって働けなくなった人に米や味噌が代官所から支給されたこと、江戸時代後期に人口減が問題化して子供の養育手当が支給されたことなど、初めて知ってすこしびっくりしました。
気絶(きだえ?とでも読むのか)という職業病については、粉塵の吸入の影響だけではなく、照明は電気ではなく何かを燃やしたのでしょうから煤や一酸化炭素の影響もあるのでしょう。また、坑道の規定の大きさは高さ四尺から三尺五寸・幅2尺から一尺八寸ということで、およそ高さ120と幅60センチメートル程度しかありません。押し入れならこの大きさの中にはいることも苦ではないけれど、何十メートルも続くこの大きさの暗いあなの中に入って行くのは私なら怖くてできそうにありません。
石見銀山は江戸の初めが最盛期で年間一万貫(38トン)以上の銀産がありましたが、その後衰退して江戸時代後半には年間百貫目(380キログラム)程度の産出になってしまいました。佐渡金山でも同じような経過があったと以前読んだ記憶があります。富鉱が枯渇したこと、地下深くまで坑道を伸ばさなければならず経費がかさむとともに通風・排水が困難になったことがその原因ですが、ほかに幕府の銀貨改鋳も影響していたとのことです。銀貨の改鋳で銀安銭高の相場になりますが、生産された銀は改鋳後の銀貨で買い上げられたのに対して、労働者の飯米など生産に必要な資材は銭で買わなければならず、山師たちの採算を悪化させました。そして、初期は山師たちによる請負で鉱山が運営されていましたが、採算の悪化・生産量減少から代官所による出資・経営の下で山師たちが下請けになるような形態に変化していったのだそうです。
内容から言って、この本は専門家向けではなく一般の人向けに書かれていると思われます。石見銀山は世界遺産に登録されて観光客も増えているでしょうから、銀山を訪れてくれた観光客にビジターセンターやおみやげ屋さんで販売するようにつくられたのでしょうか。でも、そうだとすると本書には大きな欠点があります。石見銀山に関して使われる特殊な単語の解説がないのです。間歩は他の鉱山の本でもよくお目にかかるのでいいのですが、それ以外にも鏈とか鉉とか金偏に外と書くMacでは扱えない漢字とかが頻出するのです。一般の人向けの本では、こういう特殊な単語は初出時に読み方と意味を示すのが作法だと思います。この著者はそういった配慮ができない人のようです。まあ、この欠点を除けば、値段に見合った価値は充分にある本です。
鏈・鉉の読み方と意味はたぶんこうなんだろうと思います
鏈 くさり 掘り出した銀鉱石
鉉 つる 銀の鉱脈
斉藤修著 岩波書店
2008年3月発行 本体5200円
歴史的アプローチというサブタイトルがついていて、著者が1985年にプロト工業化の時代を出版して以来もっていた、「過去数世紀のあいだにおこった経済発展を歴史的現象として理解したい」と考え続けてきたいくつかの論点をまとめたものだそうです。面白く感じた点をいくつか。
古典派経済学者の多くがマルサス以来の人口原理と収穫逓減にとらわれていたのに対して、アダム・スミスは、人口増加があってもそれによる市場の拡大から、分業の進展→中間財の市場拡大という迂回生産によって収穫逓増がもたらされることを示唆していたのだそうです。プロト工業化論は、この「アダム・スミス的分業に基づく発展の途が地域間分業の形をとって進行した歴史的過程をモデル化した点で意義を有すると言える」のだそうです。しかもこの理解なら西欧だけでなく、綿作地帯と主穀生産地帯の分離や繊維産業の地方への拡散、白木綿のような中間生産財に特化した地域が出現したりした江戸期日本や、都市化や科学技術の発展が止んだ宋朝以降にも江南などでの地域間分業が進展した中国にも充分あてはめることができます。
昨年読んだThe great divergenceは、18世紀までの東アジアと西欧の発展水準は同等で、両地域間の大分岐が出現するのは産業革命以降のことだと主張しています。この本は、近世にはすでに西ヨーロッパの優位が確立していたとする東西比較に関する常識に疑問を投げかけ、「この分野の研究に強い衝撃を与え」て論争が行われたのだそうです。でも、現在とは違って賃金の統計も完全ではなく購買力平価の算出も不可能な時代の生活水準を比較することはなかなか困難でした。
で、本当のところはどうだったのか?第3章には生存水準倍率(welfare ratio)法という新しい方法による比較が紹介されています。これは、一日あたりの総栄養摂取量1940キロカロリー・タンパク摂取量80グラムを満たすような食品の組み合わせ・バスケットを想定し、その食品の各地の価格から名目賃金を補整するデフレータを算出するものです。ヨーロッパと東アジアでは食習慣によってバスケットを構成する品目が異なっています。この方法自体、うまいこと考えたものだと感心しました。これによると、16世紀以降、ヨーロッパ内でも北西欧と中南欧グループに生活水準は分岐(divergence)していったのだそうです。また、日本と中国はだいたい同じレベルで、中南欧グループと遜色ない生存水準だったことになります。ポメランツがThe great divergenceで主張したことは半分はあたっていたのかも知れません。
幕末の長州藩でまとめられた風土注進案は有名ですが、第5章ではこの統計をもとに身分階層別の所得格差の算出が試みられています。かなり仮定することが多い計算ですが、それによると徳川日本では身分階層間の所得格差が同時期のヨーロッパやインドや、明治以降の日本と比較してもかなり小さかったのだそうです。昨年読んだ近世大名家臣団の社会構造によると、農業からの収入もある足軽一家の方が、藩から支給されるサラリーのみで暮らす徒士の家族より経済的には豊かだったそうですから、全くその通りなのでしょうね。また、遠隔地交易・海外貿易により商人が富を蓄積する機会が乏しかったことも、著者は身分階層間の所得格差が小さかったことの原因として挙げています。もちろん、江戸期の日本も海外貿易をしていなかったわけではありませんが、大商人たちが遠隔地交易で富を蓄積したフェルナン・ブローデルの「資本主義」にあたるような存在はなかったわけですね。
第III部の近代の分岐と収斂では、イギリスに続く諸国の工業化が取り上げられ、西欧諸国についてはガーシェンクロンの後発国のキャッチアップに関するモデルが有効とされています。そして、日本の工業化に関しては「収斂に潜む分岐の要素を見出す」として、部門間生産性の格差、在来的経済発展論、労働集約型とスキル集約型の工業化などが検討されています。ヨーロッパとアメリカを比較すると、アメリカが互換性部品の組み立てによる大量生産方式というスキル節約型の経路をたどったことは理解しやすいのですが、日本に関するスキルの議論はどうもすっきりしない読後感です。本書で紹介されている谷本さんや杉原さんの著作も読んでみなければ。
このほかにも、論点盛りだくさんの本です。特に経済学・経済学史についてはほとんど知識がないので、勉強になりました。ただ、出版元の岩波書店には文句を言いたい。330ページ以上ある本をどうしてフレキシブルバックにするのでしょう。文庫や新書ならわかりますが、本体だけで5200円もするんですよ。読みにくくて仕方がない。
- 高宗・閔妃
- 伊予小松藩会所日記
- ATOKの賢さに感動
- 在日一世の記憶
- 日本における在来的経済発展と織物業 感想続き
- 日本における在来的経済発展と織物業
- MacBookを使い始めて
- 前工業化期日本の農家経済の感想の続き
- 前工業化期日本の農家経済
- BANG & OLUFSEN Earphones 一年四ヶ月つかってみて
- 日本史の快楽
- 銀山社会の解明
- 定額給付金への感想
- 比較経済発展論
2009年3月28日土曜日
高宗・閔妃
木村幹著 ミネルヴァ書房
2007年12月発行 本体3000円
ミネルバ日本評伝銭選として出版されています。日本人ではないけれど、日本と縁の深い人と言うことで選ばれたのでしょうが、本書は高宗を切り口に、朝鮮の19世紀末から保護国となるまでの過程を鮮やかに分析しています。
高宗は王族宗家の血統が絶えたために、分家から宗家に養子に入って国王になりました。高宗の生家は宗家から6代前に分かれた家系で、宗家とはかなり隔たった関係です。日本にも応神天皇5世孫と称して即位した継体天皇がいますが、実態としては継体王朝というべき別系統の新王朝が建てられたとする説も有力なくらいです。それより一代多い6世孫が国王になれたのはなぜなのか、もっと近い血縁の男性がいなかったのか、以前から疑問に思っていました。
また、日本では始祖に近い方が尊ばれるような感覚がありますよね。徳川8代将軍が御三家筆頭の尾張からではなく、紀伊家の吉宗になったのも、神君家康公と世代的に近い、血が濃いからだったと言われています。高宗が国王になった時には父親が現存していました。父親は大院君(大院君というのは一般的な称号で、高宗の父は興宣大院君と呼ぶのが正式なのだそうです)としてその後政治的に活躍することになるわけですが、なぜ血統的には一代近いはずのその父親の方が宗家に養子に入って国王にならなかったのかも、すごく疑問でした。
日本とは違って朝鮮には儒教が実践されていたわけですが、儒教には養子の選び方に厳格なルールがあるのだそうです。まず、養子は養父より下の世代でないとだめなので、 父の大院君の方は国王になれませんでした。また、長男は家の祭祀を行う必要があるので、次男以下でないと養子に出せなかったのだそうです。基本的に宗家は長男が次ぎますから、分家より宗家の方が世代の進み方が早い傾向があります。したがって、宗家の当主より下の世代の男の子が二人いる家系は王族にも他にいなかったので、この家系から高宗が誕生したのだそうです。本書を読んでこの辺の疑問が氷解しました。
こういう基本的なことに加えて、大院君がなぜ力を持ったのか、大院君と閔妃一族の対立などの国内政治についてや、明治時代の朝鮮の複雑な対外関係、特に清・日本・ロシアとの関係が著者の視点でとても分かりやすく解説されています。朝鮮は君主制の国だから当たり前かも知れませんが、本書によると、軍乱やクーデターを経験した高宗は自国の軍隊を信頼できず、自分と自分の一家を守ることを最優先にした高宗の意向が体外関係に大きく影響していたのだとか。
例えば露館播遷ですが、ふつうの日本史の本なんかだと、三国干渉とあわせて、日清戦争後に朝鮮に影響力を及ぼせるはずだったのがロシアに妨害されたように記載されているのだと思います。しかし本書によると、乙未事変で閔妃を殺害されるという経験をした高宗が、安全確保のために自発的にロシア公使館に移動して居座った、ロシア側としても他国からの非難を考慮して高宗が王宮に帰還するのを望んだがなかなか高宗が帰還に同意しなかったのだそうです。
また、ハーグ密使事件は有名ですが、高宗が密書を授けた使者を外国・外国公館に送ることはそれ以前にも度々あったのだそうです。秘密裏に交渉しなければいけないきびしい国際環境下に朝鮮がおかれていたことも確かですし、軍事的にも経済的にも弱体な国だったので、敵対する二勢力を操作することになってしまったということです。
幸い日本は自力で近代経済成長を試みるに足るだけの経済規模を持っていましたが、朝鮮の国家財政・税収が日本に比較してかなり少なかったのは確かです。また、君主が統治しない伝統を持つ日本とは違って、国王が政治的な力を振るうことのある朝鮮では、よほど優秀な能力のある人が国王になり自制心をもって政権を支えるのでなければ、開国・近代化といった課題をこなすことは難しかったようです。植民地を持つことを正当化するわけではありませんが、朝鮮は植民地化しなければ政治的に安定しないと考えた日本人が当時いたことも、理解できないものではないと感じました。
2009年3月25日水曜日
伊予小松藩会所日記
2009年3月23日月曜日
ATOKの賢さに感動
昨日から春の嵐が続いていますが、サクラは当地でも開花しました。そんな中、前のエントリーを書いていて新たな発見がありました。
姜尚中さんの「姜」の字を入力しようとして「かん」で変換しても「姜」の字は候補に出てきません。また、「きょう」で変換してもやはり出てきませんでした。仕方ないので、「しょうが」として生姜を出し、「生」の字をけずって入力しました。そうしたら、「『かん』から姜に変換できるようにしますか?」というウインドウを出してATOK2007さんが問いかけてきたのです。これには驚きました。ATOKにはこんな素敵な仕様があったんですね。
姜尚中さんの「姜」の字を入力しようとして「かん」で変換しても「姜」の字は候補に出てきません。また、「きょう」で変換してもやはり出てきませんでした。仕方ないので、「しょうが」として生姜を出し、「生」の字をけずって入力しました。そうしたら、「『かん』から姜に変換できるようにしますか?」というウインドウを出してATOK2007さんが問いかけてきたのです。これには驚きました。ATOKにはこんな素敵な仕様があったんですね。
在日一世の記憶
小熊英二・姜尚中編 集英社新書0464D
2008年10月発行 本体1600円
52人の方のインタビューをまとめた本です。新書としては異例の780ページもあり、背表紙の厚さを測ってみると34ミリもありました。ふつうにいう在日一世の方だけではなく、東京や京都など日本国内で生まれた方(在日二世になるのかな)や、日本人女性で在日の方と結婚してから朝鮮・韓国籍に変えた方のお話も含まれていました。
当たり前ですが、みなさん、とても苦労したようです。たいへんだった頃の話が主で、面白いと言ったら怒られそうですが、どの方のお話も興味深く読めました。気付いた点をいくつか。
むかしむかし、「異邦人は君ヶ代丸に乗って」というタイトルの岩波新書を読んだことがありますが、済州島・大阪航路を君が代丸が結んでいたそうです。その関係か、済州島出身の人が多いのですね。
日本の敗戦後、飴・どぶろくを作って売って儲けたという方がたくさんいました。飴はデンプンを麦芽などで麦芽糖にしたものでしょうか。日本では飴・どぶろくを家庭で自製する習慣が昭和の頃にはなくなっていたが、朝鮮半島ではその習慣が残っていたので、材料を調達すればすぐに作れたとうことなのでしょうか。
パチンコはやはり、在日の方たちが始めたものなのですね。経済的に成功した人の話も複数載せられていました。
この年代になると、女性が男性よりずっと多いものだと思います。でも、本書にとりあげられているのは女性17人、男性35人でした。女性にはインタビューを受けてくれる人が少なかったんでしょうか。それとも男性の話の方が面白そうだから、編者が男性を多く選んだのでしょうか。
「わたしには総連も民団も同じですよ」という方もいますが、総連・民団それぞれの活動に熱心だった方のお話も多く載っています。総連の活動をしていた方の中には、帰国運動や朝鮮学校での教育方針などなどや、近年の朝鮮民主主義人民共和国のことともあわせて自省の弁を語っている人もいました。そうでない人でも、北朝鮮の様子をみてつらい想いをしている人もいそうな気がします。
1947年の外国人登録令と1952年のサンフランシスコ講和条約により、朝鮮半島出身者の日本国籍を剥奪する処置がとられました。一方的に日本国籍を剥奪するのではなく、日本国籍を保持したままにするか離脱するかを本人が選択できるようにすべきだったと私は思っていました。でも、この本を読んでいると、当時そういう選択ができたとしても大部分の人が日本国籍離脱を選んでしまうような雰囲気だったようです。なので、国籍も重要かも知れませんが、もっと必要なのは国籍に関わらず日本国内に住んでいる人が等しく職業選択・居住・就学などの自由を持ち、社会保障の恩恵もひとしく受けられるように日本政府が施策すべきだったという点でしょうね。
しかし、実際の日本政府のやり方をみると、国民健康保険・国民年金という名称が、「国民」でない在日の人たちは制度の対象外だぞというつもりで名付けられたようにも思えてしまうくらいです。まあ実際には、国民健康保険は敗戦前に作られた制度ですから在日の人を意識してはいなかったでしょうし、国民年金の「国民」も国民健康保険にちなんで名付けられただけなのでしょうが。
また、樺太に強制連行された朝鮮半島出身者の問題。敗戦後、日本政府は日本人の帰国はすすめましたが、朝鮮半島出身者は置き去りにされました。自力でなんとか樺太から日本に戻った人のお話が載っていましたが、日本政府のやり口には自分の国ながら情けなくなります。敗戦まで唱えられていた一視同仁というスローガンはどこにいったんでしょう?
2009年3月22日日曜日
日本における在来的経済発展と織物業 感想続き
専門家の方には当たり前のことなのかもですが、本書を読んでいてとても驚いたことがあります。それは、織元の支払う費用の中で工賃の占める比率がとても低いことです。これは本書の331ページにあるグラフですが、第II部で紹介されていた入間地方の織元の滝沢家が1918年の各月に支払った費用と入金を示しています。
白抜きの棒は収入、黒塗りつぶしが工賃で、点がちりばめられている棒が綿糸支払いです。工賃に比較して綿糸代の支払いが圧倒的に多くなっているのが見て取れます。滝沢家の取引相手はみな、力織機ではなく人力で動かす織機を使っていました。19世紀末にバッタンが導入されても一反織るのに半日程度かかったそうなので、織物の費用に占める人件費ってもっと多いものかと思っていました。
もし現在の日本で手織りの綿織物を作って売ろうとしたら、その費用のほとんどが人件費になるに違いありません。人件費が高くモノの値段が安い現代の日本とこの頃の社会とでは、生活に関する常識が相当に違っていたものと思われます。昔々、古着の売買が一般的だったり、屑拾いが職業として成り立ったり、衣類や身の回りの品で質屋さんが利用されたりなど、モノが大切にされていた背景には、こういう事情があったからでしょうね。
白抜きの棒は収入、黒塗りつぶしが工賃で、点がちりばめられている棒が綿糸支払いです。工賃に比較して綿糸代の支払いが圧倒的に多くなっているのが見て取れます。滝沢家の取引相手はみな、力織機ではなく人力で動かす織機を使っていました。19世紀末にバッタンが導入されても一反織るのに半日程度かかったそうなので、織物の費用に占める人件費ってもっと多いものかと思っていました。
もし現在の日本で手織りの綿織物を作って売ろうとしたら、その費用のほとんどが人件費になるに違いありません。人件費が高くモノの値段が安い現代の日本とこの頃の社会とでは、生活に関する常識が相当に違っていたものと思われます。昔々、古着の売買が一般的だったり、屑拾いが職業として成り立ったり、衣類や身の回りの品で質屋さんが利用されたりなど、モノが大切にされていた背景には、こういう事情があったからでしょうね。
2009年3月21日土曜日
日本における在来的経済発展と織物業
谷本雅之著 名古屋大学出版会
1998年2月発行 本体6500円
本書はこれまでに読んだいろいろな本で多数引用されているので、読んでみました。480ページほどもある本でしたが、内容が面白いのと著者の素直な日本語とストーリーテラーとしての能力の高さが発揮されていて、一気に読めました。
綿布市場の展開と商人・小農家族と銘打たれた第I部では、幕末から明治期の綿布市場拡大、各種木綿生産地域の代表として入間地方での縞木綿生産の展開、白木綿生産地域の衰退と発展が論じられています。開港後に綿布が大量に輸入されるようになって、単純に国内の綿織物の産地が衰退していったというわけではなかったそうです。海外から綿布が輸入されるのと並行して、麻布や古着を利用していてこれまで綿布をあまり消費していなかった東北地方などで、収入増とともに綿布の消費が増加したので、国内での綿布生産も伸びました。これにともなって、もともとファッション性の大きい各種木綿は別にして、白木綿の産地も衰退したところと再編・成長していったところがありました。その理由として、白木綿も厚さや肌触りなどの特性の点で必ずしも輸入綿布とは競合しなかったとする川勝平太説がありました。川勝説自体も初めて知った時はその見方の斬新さに感心した覚えがありますが、本書で著者はさらに鮮やかな謎解きをしてくれます。国内で生産された白木綿も一様ではなく、例えば富山の新川木綿は信州松本の絞り木綿加工業の原料として使われていましたが、開港後に養蚕・製糸業が発展したことにより松本周辺での木綿加工は労働力不足から衰退し、そのため新川木綿の生産が振るわなくなった事情があったそうです。さらに、再編・成長してゆく白木綿生産地では輸入綿糸を原料として使用することが必要だったわけですが、幕末の各白木綿産地はそれぞれ分業の程度と在地商人の原料・製品の取引への関わり方違っていました。このため、綿糸を購入するような分業の段階にあった産地、しかも専売制ではなくて生産の様子と輸入綿糸に関する情報の双方をもつような在地商人が取引に主に関与していたような産地の方が、その在地商人による市場対応力でよりすばやく流通・生産構造の再編に成功して、明治期以降の成長につなげることができたということです。非常に説得的な議論だと感じました。
第II部でも入間地方の織元である滝沢家が取りあげられ、問屋制の実相が紹介されています。かつて、問屋制家内工業は農閑期の安い工賃の労働力を利用していたと主張されていました。しかし、製品の需要期と農繁期が重なっていて、農繁期の工賃はかえって高くなりがちだったことや、原料糸の安い時期と生産の多い時期(農閑期)がずれていて在庫を多く持たねばならないことがなど、必ずしもそうとは言えなかったことが本書では実証されています。また、発注から織り上がった製品の回収までの期間のコントロールの困難さや、緯糸の織り込みを粗にして前渡しした糸を全部使わずに残して横領する不正(それにより製品も粗悪化してしまう)など、問屋制特有の問題もあったそうです。ヨーロッパ経済史ではこういった問題を解決することの難しさが問屋制から工場制への移行の一因と考えられているそうで、本書は日本にもその例があったことを示してくれていてとても勉強になりました。
かつて、日本資本主義論争の一環としてマニュファクチュア論争がありました。1980年代頃までの研究ではマニュファクチュアでなければ当然ながら問屋制家内工業の形態をとるというのが基本的な考え方でした。しかし、第I部の入間地方の例でも明らかなように、幕末の段階では在地の商人が市や機業を副業としている農家に買い付けを行っていて、厳マニュどころか問屋制の段階にも至ってはいない産地が少なくありませんでした。著者によると、
在村の織物仲買商がその営業内容を転換する形で、問屋制家内工業形態の一般化が始まるのは、松方デフレとそこからの景気回復が進む1880年代に入ってからのことであった。織物市場の急速な縮小とその後のすばやい拡大の中で、問屋制家内工業形態による「家内工業」の組織化は、生産地域間の市場競争に耐え抜くための不可欠の生産組織の位置を占めることとなるとのこと。たしかに、売れ筋を多く生産させるなど製品のラインナップをコントロールして産地間競争に耐え抜くことや、生産者からの集荷に際しての他の商人との競合を避けるために、問屋制という取引形態をとるようになっていったのだろうと思われます。しかし、資料の関係からか在地商人が単なる買い付けを行う業態から問屋制へ移行した時期・問屋制の始まり方の実証に薄いのが本書の唯一の弱点でしょう。
やがて、上記の問屋制特有の問題に加えて、日露戦後の工賃の上昇やコンスタントに織り手を確保することが困難なことなどの理由から、この地域でも力織機を導入した小工場が増えていきました。本書で扱われている滝沢家は、他の業者が問屋制から工場主に変わって残された家内工業従事者を対象とすることで、比較的遅い時期まで問屋制家内工業形態での営業を続けていましたが、昭和になってそれも終わりとなりました。問屋制の終わりに関してはとても分かりやすく書かれています。
2009年3月20日金曜日
MacBookを使い始めて
新しいMacBookを使い始めることになりました。2.0GHzのもの(MB466J/A)ですが、自分で購入したのではなく、職場で仕事用に用意してもらったものです。ほかにMacユーザーはいないので、配送されてきた黒ネコさんの段ボール箱から取り出すところから体験できました。
昔はMacも一色か二色で製品のごくシンプルなイメージが印刷された茶色い段ボールの箱に入っていましたよね。でも、MacBookの場合には白地にカラーで、蓋側には閉じた状態が、裏側には開いた状態の製品が印刷されています。ケースを開けると、黒いプラスチックのトレーの中に、薄い透明なフィルムで包まれたMacBookが収められていました。トレーから取り出しやすいように、黒い布のリボンが付けられているのですが、そこには白い文字でDesigned by Apple in Californiaという表示がありました。ここ数年のAppleの製品は梱包からして、おもてなし。
黒い枠で囲まれたMacBookのディスプレイは我が家のMacBook Proのものより明るく、しかも色が濃く鮮やかに見えます。ディスプレイの明るさの違いは、バックライトが蛍光灯とLEDの違いのせいなのか、それともディスプレイが光沢と非光沢の違いのせいなのか、単に蛍光灯の経年劣化のせいなのか、どれなのか気になるところ。
ユニボディのアルミニウムはキーボード周囲だけ凹んでいて、その中に黒いキートップが配列している様子は、我が家のMacBookProよりもずっと高級な感じをただよわせています。上下のカーソルキーの配置と処理もしゃれてます。
あと、ざっと使ってみて気付いた点をいくつか。
閉じていたMacBookを開く際、ラッチがないのでとっても開けやすい。ディスプレイの開く角度も、MacBook Prよりすこし大きめなのも良い点。
USBやLANや電源アダプタなどのコネクタ類はすべて筐体の左側にあり、DVDドライブへの挿入口は右側にあります。ドライブにディスクを入れる頻度よりコネクタに抜き差しする頻度の方が高いので、右利きとしては左側でなくて右側にコネクタ類をまとめて欲しかった(ディスク挿入口は左でもOKなので)。
電源アダプタは、MacBookProのものと同じ形ですが、一回り小さなモノでした。
ユニボディは堅牢です。我が家のMacBookProを持った時のようなしなる感じが全くありません。
あとひとつ気になるモノ。右のパームレストの手前側にあるこのスリット状のものって何なんでしょう?? また、これの左側にはスリープ状態を示すランプもあるのですが、Appleお得意のスリープしている時にしかその存在が見えない素敵なデザインになってます。
昔はMacも一色か二色で製品のごくシンプルなイメージが印刷された茶色い段ボールの箱に入っていましたよね。でも、MacBookの場合には白地にカラーで、蓋側には閉じた状態が、裏側には開いた状態の製品が印刷されています。ケースを開けると、黒いプラスチックのトレーの中に、薄い透明なフィルムで包まれたMacBookが収められていました。トレーから取り出しやすいように、黒い布のリボンが付けられているのですが、そこには白い文字でDesigned by Apple in Californiaという表示がありました。ここ数年のAppleの製品は梱包からして、おもてなし。
黒い枠で囲まれたMacBookのディスプレイは我が家のMacBook Proのものより明るく、しかも色が濃く鮮やかに見えます。ディスプレイの明るさの違いは、バックライトが蛍光灯とLEDの違いのせいなのか、それともディスプレイが光沢と非光沢の違いのせいなのか、単に蛍光灯の経年劣化のせいなのか、どれなのか気になるところ。
ユニボディのアルミニウムはキーボード周囲だけ凹んでいて、その中に黒いキートップが配列している様子は、我が家のMacBookProよりもずっと高級な感じをただよわせています。上下のカーソルキーの配置と処理もしゃれてます。
あと、ざっと使ってみて気付いた点をいくつか。
閉じていたMacBookを開く際、ラッチがないのでとっても開けやすい。ディスプレイの開く角度も、MacBook Prよりすこし大きめなのも良い点。
USBやLANや電源アダプタなどのコネクタ類はすべて筐体の左側にあり、DVDドライブへの挿入口は右側にあります。ドライブにディスクを入れる頻度よりコネクタに抜き差しする頻度の方が高いので、右利きとしては左側でなくて右側にコネクタ類をまとめて欲しかった(ディスク挿入口は左でもOKなので)。
電源アダプタは、MacBookProのものと同じ形ですが、一回り小さなモノでした。
ユニボディは堅牢です。我が家のMacBookProを持った時のようなしなる感じが全くありません。
あとひとつ気になるモノ。右のパームレストの手前側にあるこのスリット状のものって何なんでしょう?? また、これの左側にはスリープ状態を示すランプもあるのですが、Appleお得意のスリープしている時にしかその存在が見えない素敵なデザインになってます。
2009年3月15日日曜日
前工業化期日本の農家経済の感想の続き
地主制を扱った第5章に引用してあった次の文章
農家のライフサイクルに従って小作地がやりとりされていたという著者の主張を裏付けてくれている文章ですが、戦争で若い男手がたくさん兵隊にとられていた直後の改革ですから不利を被った農家も多かったのでしょうね。また、実質的に小作が禁止されたことも悪影響をもたらしたに違いないですし、農地改革の負の面についてもっと勉強しなければと自覚させられた感じです。
農地改革で土地を取りあげられた百姓は(巨大な不在地主や封建地主は、この場合勿論、論外である)、その時にたまたま家族数が不足していたがために、耕作段別がその所有段別に比して少なかったものであり、逆に土地を入手することのできた百姓は、その時の家族数が所有段別に比して多く、従って余剰の家族労働を、小作に向けていたものであった(松好貞夫著「村の記録」岩波新書1956年)が印象的でした。
農家のライフサイクルに従って小作地がやりとりされていたという著者の主張を裏付けてくれている文章ですが、戦争で若い男手がたくさん兵隊にとられていた直後の改革ですから不利を被った農家も多かったのでしょうね。また、実質的に小作が禁止されたことも悪影響をもたらしたに違いないですし、農地改革の負の面についてもっと勉強しなければと自覚させられた感じです。
2009年3月14日土曜日
前工業化期日本の農家経済
友部謙一著 有斐閣
2007年3月発行 本体4000円
「18世紀から20世紀初頭にかけての日本では、ほかのアジア諸国で見られる『農民層分解』ーー土地なし層の増大ーーの明瞭な形跡は見あたらず、その一方で1870年代以降小作地化が顕著に進展するという特徴を持っていた。この観察事実だけから地主小作関係が日本の小規模な農家経済の維持に少なからず貢献したというのは性急なことかも知れないが」
この本の白眉は、この記述だと感じました。私が本書を読んで学んだことは、耕作可能な耕地の面積は農家の中の働き手の数に応じて変化すること、しかも死亡・出生・成長などによって農家の中の働き手の数が変化するので、ライフサイクルの各時点に応じた適切な耕地面積を維持するために自作と小作と組み合わせて対応したこと、村を構成する各農家のライフサイクルはそれぞれずれているので耕地をお互いに小作に出したり受けたりしたことなどでしょうか。ふつうに見聞きしたことのある地主制論では、農民層の分解で地主・不在地主と小作が出現し、日本資本主義の半封建的な性格につながり、寄生地主による高率な小作料が労働者の低賃金とも関連し、 小作争議で後退し始めるという感じでしょうか。そうじゃない見方があるという点で、とても勉強になりました。
そのほか、第一章の近世日本における農家経済の成立では、太閤検地にともなう近世初頭の小農自立について、流浪・非定着性の中世→親方宅への下人としての住み込み→同棟別居により下人が世帯を形成し、さらに別棟別居へという過程で下人の「家」が経済的にも独立していったことが論じられていて勉強になります。また、夢であった世帯が持てるようになり、その世帯を存続させるための勤労意欲がもたらされた点や、別居によるプライベートな空間をもつ世帯が多数創出されたことによって、17世紀の人口増加がもたらされたことなども説得的です。
次の数章にわたって、ロシア・ソ連の経済学者で後にスターリンに粛清されたチャヤーノフさん流の小農家族経済論が展開されます。チャヤーノフ理論では基本的な分析単位が農家世帯です。実際の農家でも農作業と副業にどう従事するかを決定していたのは農家の個々の構成員ではなく家長夫婦でしょから、良い分析法ですね。チャヤーノフさんの理論を人類学者のサーリンズさんがまとめた三つの法則、
①農家の消費力・労働力と生産額が正の相関にある
②同一の消費力をもつ農家同士では、より多くの労働力をもつ農家の方が協力による成果でより多くの生産を獲得して、より高い消費水準を実現する
③同一の労働力をもつ農家を比較すると、より多くの消費力をもつ農家の方が、労働強度を増やすことにより、より多くの生産を獲得する
が、世界や江戸期と近代日本の史料で検討されています。
①②は別にして、③は被扶養人数の多い農家の人の方がたくさん働かなきゃならないということだから当たり前だと思ってしまいました。多くの史料にあたって、確認した労作という点が重要なのでしょうか。あと、著者がチャヤーノフさんにこだわるのは、チャヤーノフさんの「農家の所有耕地面積は農地/労働力に応じて循環的に変動する、この状況では古典的な農民層分解が起きにくい」という主張があるからなのでしょうね。
とても勉強になった点のある本ですが、欠点もたくさんあります。まず、この著者の日本語はとても下手で読みにくいのです。特に序章とか第7章とかひどい。また、第8章数量経済史から見た幕末百姓一揆では、Rekishowという著者も関係しているオーサリングツールによる一揆の時代による変遷が、ちらっと紹介されています。その説明と本書唯一のカラーページである口絵の図とをみてもほとんど意味不明です。著者はよく分かっているのでしょうが、知らない読者に紹介するスタンスではなく、自己満足でしかない感じ。さらに、この第8章では一揆の頻度・マグニチュードと地域ごとの都市化・市場階層間バランスの関係が論じられているのですが、途中の議論と解釈の間がまったくつながらない印象です。大学の紀要ってこんなレベルのいい加減さでもいいのかと驚き入った次第です。
2009年3月11日水曜日
BANG & OLUFSEN Earphones 一年四ヶ月つかってみて
使い始めてから一年四ヶ月ほどたちましたが、満足しています。BANG & OLUFSEN Earphonesの音の良さの秘訣は、イアーパッドが小さい点にあります。ふつうのヘッドフォンは耳をルーズに覆うだけですが、こいつはイアーパッドが小さいので外耳孔に密着してくれます。また、ヒトの外耳道は外耳孔から垂直に奥に向かっているのではなく少し前上方を向いていますが、イアークリップの自由度が高いので、イアーパッドを外耳道の向いてる方向にきちんと固定させることができ、低音までしっかり聞こえてくるのだと思います。カナルタイプのイアフォンと似ていますが、外耳道の中にプラグを挿入するわけではないので、湿性耳垢の人が使っても汚れないのも良い点ですね。あと、基本的に外を歩く際に使うので、適度にクルマの音などが聞こえるのも良い点です。
ただ、長く使っていると問題もないわけではありません。イアーパッドはふかふかした感触のスポンジみたいなモノでくるまれているのですが、耳と金属に長年はさまれているせいでこんな風にすり切れてしまいました。このまますり切れの部分が広がると、いずれはスポンジの保護なしで使うことになりそう。なので、この2週間ほど試しに左側だけスポンジを外してつかってみました。その感想はというと、耳のあたりの皮膚ってかなり鈍感なので、スポンジありの右も金属がじかに接触する左も、この寒い時期の使用でも装着感に違いは感じられませんでした。また、音的にも大きな違いはありませんでした。
ただ、長く使っていると問題もないわけではありません。イアーパッドはふかふかした感触のスポンジみたいなモノでくるまれているのですが、耳と金属に長年はさまれているせいでこんな風にすり切れてしまいました。このまますり切れの部分が広がると、いずれはスポンジの保護なしで使うことになりそう。なので、この2週間ほど試しに左側だけスポンジを外してつかってみました。その感想はというと、耳のあたりの皮膚ってかなり鈍感なので、スポンジありの右も金属がじかに接触する左も、この寒い時期の使用でも装着感に違いは感じられませんでした。また、音的にも大きな違いはありませんでした。
2009年3月9日月曜日
日本史の快楽
上横手雅敬著 角川ソフィア文庫
2002年5月発行 本体600円
高名な中世史家である上横手さんが、週刊現代に毎週1ページでコラムを連載していたものを70回分集めた本です。「武士=ヤクザ」論だとか、明治前半の歴史教科書では南北朝が平等に扱われたり「後醍醐の失政」が取り上げられていたりだとかいろいろですが、気軽に読める本です。
一つ一つは短い文章ですが、なかなか鋭い指摘もあります。例えば建礼門院について、自分の母親である徳子が自分の息子である安徳天皇を連れて入水しようとした際に、自分の息子を助けることができなかった人だと。徳子にしても建礼門院にしても安徳天皇にしても、入水などしなくても殺される心配はなかったろうと言うのです。たしかに、承久の乱の首謀者の後鳥羽天皇でも流罪になっただけですから、幼児の安徳天皇もどこかで余生を送れただろうという指摘にはうなづかされました。
角川ソフィア文庫というのは知らない名前でした。でも、同じ角川ソフィア文庫の所には今昔物語などもありましたから、古典だとか学者の書いたものだとかをまとめたのかも知れません。で、気になったのはこの本の値段です。236ページの文庫で本体600円はちと高いような。ふつうの角川文庫とは違ってあまり売れそうにないやつ(これも増刷されてないようです)を高めに値付けするために、ソフィアなんていうシリーズにまとめたのかもとも勘ぐってしまいます。
2009年3月7日土曜日
銀山社会の解明
仲野義文著 清文堂
2009年3月発行 本体1900円
近世石見銀山の経営と社会というサブタイトルがついています。山師たちが間歩を請け負って鉱山経営する際の契約、現物徴収される税の収め方、労働者の勤務形態・賃金、毎年の銀の生産量、生産に使う栗の坑木や燃料の炭の供給地、職業病などなどいろいろ解説されています。職業病になって働けなくなった人に米や味噌が代官所から支給されたこと、江戸時代後期に人口減が問題化して子供の養育手当が支給されたことなど、初めて知ってすこしびっくりしました。
気絶(きだえ?とでも読むのか)という職業病については、粉塵の吸入の影響だけではなく、照明は電気ではなく何かを燃やしたのでしょうから煤や一酸化炭素の影響もあるのでしょう。また、坑道の規定の大きさは高さ四尺から三尺五寸・幅2尺から一尺八寸ということで、およそ高さ120と幅60センチメートル程度しかありません。押し入れならこの大きさの中にはいることも苦ではないけれど、何十メートルも続くこの大きさの暗いあなの中に入って行くのは私なら怖くてできそうにありません。
石見銀山は江戸の初めが最盛期で年間一万貫(38トン)以上の銀産がありましたが、その後衰退して江戸時代後半には年間百貫目(380キログラム)程度の産出になってしまいました。佐渡金山でも同じような経過があったと以前読んだ記憶があります。富鉱が枯渇したこと、地下深くまで坑道を伸ばさなければならず経費がかさむとともに通風・排水が困難になったことがその原因ですが、ほかに幕府の銀貨改鋳も影響していたとのことです。銀貨の改鋳で銀安銭高の相場になりますが、生産された銀は改鋳後の銀貨で買い上げられたのに対して、労働者の飯米など生産に必要な資材は銭で買わなければならず、山師たちの採算を悪化させました。そして、初期は山師たちによる請負で鉱山が運営されていましたが、採算の悪化・生産量減少から代官所による出資・経営の下で山師たちが下請けになるような形態に変化していったのだそうです。
内容から言って、この本は専門家向けではなく一般の人向けに書かれていると思われます。石見銀山は世界遺産に登録されて観光客も増えているでしょうから、銀山を訪れてくれた観光客にビジターセンターやおみやげ屋さんで販売するようにつくられたのでしょうか。でも、そうだとすると本書には大きな欠点があります。石見銀山に関して使われる特殊な単語の解説がないのです。間歩は他の鉱山の本でもよくお目にかかるのでいいのですが、それ以外にも鏈とか鉉とか金偏に外と書くMacでは扱えない漢字とかが頻出するのです。一般の人向けの本では、こういう特殊な単語は初出時に読み方と意味を示すのが作法だと思います。この著者はそういった配慮ができない人のようです。まあ、この欠点を除けば、値段に見合った価値は充分にある本です。
鏈・鉉の読み方と意味はたぶんこうなんだろうと思います
鏈 くさり 掘り出した銀鉱石
鉉 つる 銀の鉱脈
2009年3月4日水曜日
定額給付金への感想
定額給付金の財源を確保するための財源特例法案が衆議院で再可決されました。いよいよ実施が決まったわけですが、この施策は昨年夏に定額減税として提起された時からうさんくさい感じでした。なんといってもかつての地域振興券を想い出させますから。でも減税ということなら、まあ了解できる範囲かなとも思っていました。それが、いつのまにか「定額減税は『給付金』方式とし、全世帯を対象に実施。規模は約2兆円。標準的な夫婦子ども2人の4人世帯で給付額が6万円程度になる」とのこと。町中にたくさん貼られているこのポスターの政策キャッチコピーのトップには今でも「定額減税の実施で家計を守る」と書かれていますが、どういうつもりなのかしらん。
また、この定額給付金のうさんくささをさらに増幅させたのは麻生首相の一連の発言です。高額所得者は受け取りを辞退すべきで「矜持の問題」などと言ったり、支給に所得制限を設けるかどうかは地方自治体の判断に任せると言ったりなどなど。まあ、定額給付金という施策がもっとも役立ったのは、麻生首相の政治家としての資質を明らかにしてくれた点なのかも知れません。
世論調査でも、マスコミの論調でも、野党だけでなく自民党の議員にまでも大不評の定額給付金ですが、それにも関わらず実現にまでこぎつけたのは、ひとえに連立パートナーの公明党に対するおもてなしが理由なのでしょう。でも、公明党はどうしてこんなに評判の悪い政策を実現させたがるのか、とても不思議です。
そこで想い出すのが昨年から市内に貼り出されている公明党のポスター。高齢者の旅行補助金制度を創設したと誇らしげです。私なんかはこのポスターを一目見て、こんな子供だましのばらまきの制度で喜ぶ人なんかほとんどいなかろうと感じてしまいました。こんなことに費やす税金があるのなら、介護の充実などに使ってほしいと感じる人の方が一般的なのではないでしょうか。このポスターは、ばらまきの愚策の宣伝をして、公明党に対する評判を悪くするだけなんじゃないかと心配にもなるくらいです。でもでも、きっと公明党を支持している人たちは、この「公明党が実現しました!」を高く評価するのでしょうね。だからこそ、ポスターにまでして愚策を進めたことを公開するのでしょうから。
そう考えると、定額給付金についても同じ構図の存在が推測できます。どれだけ世間で評判の悪い愚策だとしても、「公明党が実現しました!」ということで支持者はさらに支持を固くしてくれる。たとえ新たな層に支持を拡げることができなくとも、これまでの支持者だけを手堅くまとめる内向きの戦略と考えれば納得できます。
でも、そうは言っても総額2兆円にもおよぶ定額給付金。個人消費を増やすために使うというのなら、私の希望としては介護の分野に支出して欲しかった。21世紀世界大恐慌の影響によって失業者が増加する一方で、介護・福祉の業界では慢性的な人手不足が続いていて。その緩和のためにもインドネシアやフィリピンから外国人介護労働者の受け入れが始まります。外国人労働者の受け入れについては論点がいろいろあるのでおいとくにしても、失業者と人手不足の共存はどう考えても変。で、この問題を解決するには介護労働者の給与の低さの是正がぜひとも必要です。厚生労働省が来年度に行う3パーセント程度の介護給付費の引き上げ改定では全く焼け石に水。でも、日本全国の一年間の介護保険給付費の総額は5兆円程度ですから、今回の2兆円を投入すれば給与水準ははっきり上昇してミスマッチはかなり改善するに違いありません。まあ、一年ぽっきりのばらまきと違って、こういった制度的な改善には連年の2兆円支出が必要になってしまうので、与党にはとりあげてもらえないのでしょうが。
また、この定額給付金のうさんくささをさらに増幅させたのは麻生首相の一連の発言です。高額所得者は受け取りを辞退すべきで「矜持の問題」などと言ったり、支給に所得制限を設けるかどうかは地方自治体の判断に任せると言ったりなどなど。まあ、定額給付金という施策がもっとも役立ったのは、麻生首相の政治家としての資質を明らかにしてくれた点なのかも知れません。
世論調査でも、マスコミの論調でも、野党だけでなく自民党の議員にまでも大不評の定額給付金ですが、それにも関わらず実現にまでこぎつけたのは、ひとえに連立パートナーの公明党に対するおもてなしが理由なのでしょう。でも、公明党はどうしてこんなに評判の悪い政策を実現させたがるのか、とても不思議です。
そこで想い出すのが昨年から市内に貼り出されている公明党のポスター。高齢者の旅行補助金制度を創設したと誇らしげです。私なんかはこのポスターを一目見て、こんな子供だましのばらまきの制度で喜ぶ人なんかほとんどいなかろうと感じてしまいました。こんなことに費やす税金があるのなら、介護の充実などに使ってほしいと感じる人の方が一般的なのではないでしょうか。このポスターは、ばらまきの愚策の宣伝をして、公明党に対する評判を悪くするだけなんじゃないかと心配にもなるくらいです。でもでも、きっと公明党を支持している人たちは、この「公明党が実現しました!」を高く評価するのでしょうね。だからこそ、ポスターにまでして愚策を進めたことを公開するのでしょうから。
そう考えると、定額給付金についても同じ構図の存在が推測できます。どれだけ世間で評判の悪い愚策だとしても、「公明党が実現しました!」ということで支持者はさらに支持を固くしてくれる。たとえ新たな層に支持を拡げることができなくとも、これまでの支持者だけを手堅くまとめる内向きの戦略と考えれば納得できます。
でも、そうは言っても総額2兆円にもおよぶ定額給付金。個人消費を増やすために使うというのなら、私の希望としては介護の分野に支出して欲しかった。21世紀世界大恐慌の影響によって失業者が増加する一方で、介護・福祉の業界では慢性的な人手不足が続いていて。その緩和のためにもインドネシアやフィリピンから外国人介護労働者の受け入れが始まります。外国人労働者の受け入れについては論点がいろいろあるのでおいとくにしても、失業者と人手不足の共存はどう考えても変。で、この問題を解決するには介護労働者の給与の低さの是正がぜひとも必要です。厚生労働省が来年度に行う3パーセント程度の介護給付費の引き上げ改定では全く焼け石に水。でも、日本全国の一年間の介護保険給付費の総額は5兆円程度ですから、今回の2兆円を投入すれば給与水準ははっきり上昇してミスマッチはかなり改善するに違いありません。まあ、一年ぽっきりのばらまきと違って、こういった制度的な改善には連年の2兆円支出が必要になってしまうので、与党にはとりあげてもらえないのでしょうが。
2009年3月1日日曜日
比較経済発展論
斉藤修著 岩波書店
2008年3月発行 本体5200円
歴史的アプローチというサブタイトルがついていて、著者が1985年にプロト工業化の時代を出版して以来もっていた、「過去数世紀のあいだにおこった経済発展を歴史的現象として理解したい」と考え続けてきたいくつかの論点をまとめたものだそうです。面白く感じた点をいくつか。
古典派経済学者の多くがマルサス以来の人口原理と収穫逓減にとらわれていたのに対して、アダム・スミスは、人口増加があってもそれによる市場の拡大から、分業の進展→中間財の市場拡大という迂回生産によって収穫逓増がもたらされることを示唆していたのだそうです。プロト工業化論は、この「アダム・スミス的分業に基づく発展の途が地域間分業の形をとって進行した歴史的過程をモデル化した点で意義を有すると言える」のだそうです。しかもこの理解なら西欧だけでなく、綿作地帯と主穀生産地帯の分離や繊維産業の地方への拡散、白木綿のような中間生産財に特化した地域が出現したりした江戸期日本や、都市化や科学技術の発展が止んだ宋朝以降にも江南などでの地域間分業が進展した中国にも充分あてはめることができます。
昨年読んだThe great divergenceは、18世紀までの東アジアと西欧の発展水準は同等で、両地域間の大分岐が出現するのは産業革命以降のことだと主張しています。この本は、近世にはすでに西ヨーロッパの優位が確立していたとする東西比較に関する常識に疑問を投げかけ、「この分野の研究に強い衝撃を与え」て論争が行われたのだそうです。でも、現在とは違って賃金の統計も完全ではなく購買力平価の算出も不可能な時代の生活水準を比較することはなかなか困難でした。
で、本当のところはどうだったのか?第3章には生存水準倍率(welfare ratio)法という新しい方法による比較が紹介されています。これは、一日あたりの総栄養摂取量1940キロカロリー・タンパク摂取量80グラムを満たすような食品の組み合わせ・バスケットを想定し、その食品の各地の価格から名目賃金を補整するデフレータを算出するものです。ヨーロッパと東アジアでは食習慣によってバスケットを構成する品目が異なっています。この方法自体、うまいこと考えたものだと感心しました。これによると、16世紀以降、ヨーロッパ内でも北西欧と中南欧グループに生活水準は分岐(divergence)していったのだそうです。また、日本と中国はだいたい同じレベルで、中南欧グループと遜色ない生存水準だったことになります。ポメランツがThe great divergenceで主張したことは半分はあたっていたのかも知れません。
幕末の長州藩でまとめられた風土注進案は有名ですが、第5章ではこの統計をもとに身分階層別の所得格差の算出が試みられています。かなり仮定することが多い計算ですが、それによると徳川日本では身分階層間の所得格差が同時期のヨーロッパやインドや、明治以降の日本と比較してもかなり小さかったのだそうです。昨年読んだ近世大名家臣団の社会構造によると、農業からの収入もある足軽一家の方が、藩から支給されるサラリーのみで暮らす徒士の家族より経済的には豊かだったそうですから、全くその通りなのでしょうね。また、遠隔地交易・海外貿易により商人が富を蓄積する機会が乏しかったことも、著者は身分階層間の所得格差が小さかったことの原因として挙げています。もちろん、江戸期の日本も海外貿易をしていなかったわけではありませんが、大商人たちが遠隔地交易で富を蓄積したフェルナン・ブローデルの「資本主義」にあたるような存在はなかったわけですね。
第III部の近代の分岐と収斂では、イギリスに続く諸国の工業化が取り上げられ、西欧諸国についてはガーシェンクロンの後発国のキャッチアップに関するモデルが有効とされています。そして、日本の工業化に関しては「収斂に潜む分岐の要素を見出す」として、部門間生産性の格差、在来的経済発展論、労働集約型とスキル集約型の工業化などが検討されています。ヨーロッパとアメリカを比較すると、アメリカが互換性部品の組み立てによる大量生産方式というスキル節約型の経路をたどったことは理解しやすいのですが、日本に関するスキルの議論はどうもすっきりしない読後感です。本書で紹介されている谷本さんや杉原さんの著作も読んでみなければ。
このほかにも、論点盛りだくさんの本です。特に経済学・経済学史についてはほとんど知識がないので、勉強になりました。ただ、出版元の岩波書店には文句を言いたい。330ページ以上ある本をどうしてフレキシブルバックにするのでしょう。文庫や新書ならわかりますが、本体だけで5200円もするんですよ。読みにくくて仕方がない。
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