2008年8月28日木曜日
近世大名家臣団の社会構造
磯田道史著 東京大学出版会
2003年9月発行 本体9400円
江戸時代の武士というと、ひとくくりに士農工商で一番上の身分だとばかり思っていました。しかし、その内部は一様というわけではなく、士・徒士・足軽以下の三層構造になっていたのだそうです。武士の中で、士分は家老などの大身も禄の少ない者も対等、それに比較して徒士は劣位の地位にあり、足軽以下は領民並みの扱いだったそうです。例えば、足軽は士分の人に外で出会う履き物を脱いで土下座する決まりだったことなど、屋内での対面の作法・屋外で会ったときの挨拶の仕方・書札礼などから著者は三層構造を論証しています。
また、一般には武士と言えば帯刀しているというイメージです。しかし、足軽や許されれば百姓でも帯刀することがあります。本来の武士と言える士・徒士を示すシンボルは、帯刀ではなく袴の着用だったということです。また、明治維新後に士族とされたのも徒士以上層で、足軽は卒族として平民になりました。
また、継承についても、士分は世襲(戦国期には世襲になっていたということでしょうね、その頃からの変遷についても面白そうなテーマです)、徒士層も初めは身長や能力を確認して採用されていましたが、 近世後期には世襲化しました。しかし、足軽は藩当局が譜代の足軽の家筋の存続を願っていたにも関わらず、経済的な理由と仕事をこなす能力(体力や読み書き)がないと勤まらないことからほとんど実現しませんでした。
当然のことながら、士分より徒士、徒士よりは足軽以下層の方が藩から支給されるサラリーは少なくなっています。徒士でも下の方は俸禄だけでは暮らせず、草鞋作りや妻が機織りの内職をしていました。ましてや足軽の給与だけでは、都市で一家を構え家族を養うのは不可能だったのです。なので、足軽以下は農村から奉公という形で供給されていました。
農家のライフサイクルの中で、自家の所有耕地を耕すには労働力が余るような時期(父親と未婚の男の子が複数いるような時期)に、その余った労働力が、足軽や中間などの武家奉公に出たわけです。農業収入をもつ足軽一家の方が、藩から支給されるサラリーのみで暮らす徒士の家族より経済的には豊かだったそうです。また、高10万石の津山藩で、武家奉公人を2400人ほど雇っていたそうで、4万2千石の年貢収入のうち8400石が給料として農村に還元されていました。武家奉公がこれほどの規模だということは、地方によっては地域の中で最大の就業先だったと思われ、経済的にも重要ですね。
世襲された足軽の家は少なかったのですが、足軽奉公している人が辞める際に後任を指名する権利があり、足軽株として売買されていました。株を買ってまでして足軽になる人がいたのは、足軽の給金が小作など他の雇用に比較して良かったのか、または一時的とは言え名字帯刀を許されるなどの点に魅力があったのか、どちらなのか興味あるところです。
まとめると、本書は士・徒士・足軽以下の三層構造を通奏低音とし、家臣団の社会構造を説明した本です。日本全国各地の藩の史料に則して、通婚・家族構成・相続などを分かりやすく解明してあり、今後はこの分野の定本になるのではと感じました。
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