2009年7月12日日曜日

考古学からみた倭国


白石太一郎著 青木書店
2009年6月発行 本体7000円

弥生時代、鉄や先進的な文物は主に北九州を通して供給されていました。その鉄や先進的な文物の安定確保・分配の主導権を狙って玄界灘沿岸勢力と畿内・瀬戸内連合との間で倭国の大乱が起こり、結果としてできたのが邪馬台国連合で、倭国王となったのが卑弥呼。邪馬台国連合の盟主は大和・河内の勢力で、「箸墓古墳が卑弥呼の墓である蓋然性はきわめて大きい」。卑弥呼の死後、濃尾地方にあった狗奴国を中心とする東日本勢力との争いが起こり、邪馬台国連合主導で東日本と西日本が統合されてヤマト政権ができあがった。首長連合であったヤマト政権における政治的秩序を示すのが前方後円墳。「古墳はその政治勢力の本願地に営まれるもの」という考え方をとると(これをみとめないことには古墳を資料とする地域勢力間の政治史的研究は成り立たない)、倭国王墓とみられる前方後円墳が奈良盆地から大阪平野南部に移動したのは、盟主権が大阪平野南部の勢力が倭国王につくことになったからで、その変化には朝鮮半島での高句麗の南下が影響していた。ざっとこんな流れをもとに、江戸時代の大名たちの墓所にいたるまで、いろいろなテーマの論文が収められています。

著者が館長をしていた国立歴史民族博物館のグループが主張する、年輪年代法で補整したC14年代によると、弥生時代の開始が500年ほど早まるなど、これまでの年代観とは大きく食い違うので、まだ大方の同意が得られているわけではないようです。また、邪馬台国に関しても倭人伝に関する論争があるわけですが、ただ素直に考えれば、上記のシナリオには全然無理がないように私は感じます。

高句麗の南下を契機に、百済からのアプローチがあって倭国が文明化されていったと著者は述べています。古墳から馬具が出土したり、牧が作られたりなどがその例で、百済は馬や武具に関する専門家を倭国に派遣したわけです。その見返りとして、倭国からは倭人の傭兵が百済に派遣され、高句麗との戦いに参加したのでしょう。広開土王碑文などは、そういった状況を記したものなのかと思います。ただ、海を越えてどれくらいの数の兵士が派遣されたのか興味があるところ。貴重な専門家たちとの交換だから常時数百人くらいなのでしょうか。

あと、弥生時代から古墳時代にかけての数百年間、朝鮮半島から鉄を入手していました。この頃の鉄は高価な物だったと思うのですが、その対価として日本列島から持ち出された物って何なんでしょう。日本列島で産出されるが、朝鮮半島では入手しにくい物で、長期にわたって需要され供給できる物って、ヒト、水晶・ヒスイなどの宝石、南島からの貝、大木などなのでしょうか。

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