坂根嘉弘編 清文堂
2010年1月発行 本体7600円この地図のように、舞鶴湾は五老岳のある半島で大きく東西に分かれます。江戸時代には西側の湾奥が丹後田辺藩の城下町で、その西側の由良川舟運ともあわせて、北前船が寄港する土地でした。1889年に舞鶴湾の東側の湾奥に4番目の鎮守府として舞鶴鎮守府の設置が決まりました。その後、日清戦争の償金を利用して1896年に鎮守府建設工事が始まり、1901年に舞鶴鎮守府が開庁されました。しかし、日露戦争の勝利で日本海側という舞鶴軍港の重要性が低下したこともあり、ワシントン条約にともなう海軍軍縮で、舞鶴鎮守府は要港部に、舞鶴海軍工廠は工作部に格下げされました。その後、日中戦争中の1939年にはふたたび鎮守府が置かれることとなりました。敗戦後は引揚援護局が置かれ、現在では海上自衛隊の施設がここに存在しています。 舞鶴っていまは一つの市ですが、むかしは旧城下町の舞鶴と、海軍施設が置かれて発展した中舞鶴・西舞鶴に分かれていたのだそうです、知りませんでした。
こういった軍事施設の置かれた都市と軍隊との関係については、荒川章二著「軍隊と地域」、上山和雄編「帝都と軍隊」などを読んだことがありますが、いずれも陸軍施設の所在地を対象としていました。鎮守府は、陸軍の聯隊駐屯地などと比較して、工廠という大規模な工場施設を併設していることから工業都市としての性格がみてとれ、特に官営製鉄所のあった八幡との類似性が本書では指摘されています。工廠をはじめとした海軍の諸施設にしても製鉄所にしても、国有の施設なので市は固定資産税や法人税にあたる税を課税することができません。また、海軍の従業者(軍人や職工などなど)や製鉄所の従業員は共済組合購買所をよく利用するので、同程度の人口規模の市に比較すると民間の商業が繁盛せず、それらサービス業からの税収も少なくなっています。それに対して、市の支出の面では普通の市と同様に教育や公衆衛生などのサービスを海軍の従業員にも提供しなければいけないわけで、舞鶴だけでなく呉や横須賀などの軍港都市は市の財政がきびしく、海軍が軍港都市に対して助成金を出していたのだそうです。これって、現在でも基地のある自治体に補助金が交付されているのと同じ構図ですね。でも、軍隊がいて補助金が交付されるよりも、同じ規模の民間の事業所が存在した方がその自治体にとっては好ましいかも知れないわけで、普天間基地など沖縄の基地問題を連想してしまいます。また、本書には1940年の東舞鶴の上水道普及率が1%、西舞鶴が0%と紹介されていました。港には船に供給するために良い水源が必要ということは分かるのですが、舞鶴では上水道施設を海軍が独占的に使用していたのだそうです。何もないよりは軍隊でもいてくれた方が経済的に潤うのかも知れませんが、そのための負担も少なくなかったようです。
そのほか、舞鶴の人口構成、鉄道の設置などに鎮守府や戦後の自衛隊が与えた影響や、引き揚げの話などが触れられています。岸壁の母という歌が有名ですが、引き揚げ者は岸壁ではなく砂浜にある桟橋に上陸したのだそうで、つくられた記憶なのですね、あの歌は。
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