①江戸時代なら下層の町民でも懐の巾着にいくらかの銭を持っていて、それで細々とした買い物をしたり、食事をしたのだと思います。では、中世の京の住人も食料は銭で買ったのでしょうか。また、地方の農民は塩や鉄製品など自給できない物を買う際に銭を使うことがあったのでしょうか。
②中世は識字率が高くはなかったでしょう。文字を読めない人たちは、銭を銭面の文字の違いで識別することが可能だったのでしょうか。使い古されて文字の読みにくくなった銭や、最初から文字が不鮮明な私鋳銭が多く流通していたと思うのですが、銭面の文字を識別して区別するのは誰にでもできたものなのか、それとも、撰銭する必要があったのは貢納・遠隔地交易に携わる人だけだったということなのでしょうか。
③ある程度以上の大口の支払い用の銭は、こんなふうに銭緡でまとめて使われました。で、この銭緡にまとめられている銭の枚数は取引ごとに数えたのでしょうか?一貫程度なら1000枚ですから数えてもいい気はしますが、数十貫のやりとりとなると、数万枚になるので数えるのは嫌になりそうです。枚数を数えるかわりに、重さを量って確認する方が現実的に思えますが、どうでしょう。一貫というのが重さの単位にもなっているので、重さを量ったのかなと想像しました。もしそうなら、欠け・割れなど重量の少ない銭が忌避されたのは理解しやすいと思います。
④欠け・割れのみならず、銭の種類までを撰銭の対象にしようとすると、銭緡にまとめられている銭をばらさなければなりません。紹介されている史料によると年貢の現銭納では数十から百貫以上の銭が送られることがあるようですが、実際に数万〜数十万枚の銭のすべてを目で見てたしかめて選り分けたんでしょうか。すごく手間がかかりそうです。
ざっと考えてみて、このあたりのことが分かりません。実態はどうだったのか、気になります。
5 件のコメント:
はじめまして。
①に関しては保立道久「腰袋と桃太郎」(『物語の中世』東京大学出版会)が参考になるかと思います。中世の庶民も銭を腰袋に入れて携行していたことが明らかにされています。
②に関しては「一定程度の大きさの円形方孔の金属片でさえあれば、すべて一枚一文と認めて授受するのが中世の銭貨通用原則であり、人々は銘文を見ようともしなかった」のであり、15世紀半ば以降、識字率の上昇等により種類・形状・銘文などを基準に銭を区別・分類する意識が生まれたことが撰銭現象発生の根本的要因ではないかとの中島圭一氏の仮説があります。
③ですが、御存知のこととは思いますが、前近代の日本の銭貨通用慣行は省百法と言って、百文未満で百文扱いすることになっています。日本中世では97文で銭緡にまとめて100文として通用させるのが原則ですが、草戸千軒遺跡からの出土事例によれば、同じ甕の中の130さしの銭につき、一さしが82枚から107枚とかなり幅があります。ただし97枚で一さしとなっている事例が過半です。一応は数えているがそこまで厳密ではない、という印象を持ちます。
重量が基準であった可能性についてですが、出土銭を見る限りでは銭の大きさ・厚みに意外とバラツキが見られ、重量で正確に換算できるかどうかはやや疑問も残ります。
④に関しては、私も良く分かりません。
補足です。③での「出土銭の大きさや厚みが意外とバラバラ」というのは、同じ一さしにおいて、という意味です。特に厚みに関しては非常にバラツキがあって驚いた記憶があります。もっとも撰銭が一般化すれば銭の規格化も進むはずで、実際割と揃っている銭緡もあります。そうなってくると重量換算も有効となるかもしれません。全国の出土銭貨の状況を把握しているわけではないので何とも言えませんが・・・・・・
御座候さん、ご教示ありがとうございます。
本棚から物語の中世を引っぱり出して、読み返してみました。
火打ち石と一緒に銭を入れて持ち歩き、茶店なんかで使っていたのですね。
また、撰銭現象が発生するまでは、一枚の銭がどれも一文として通用していた。
これはそうなのですが、私が疑問に思うのは、撰銭現象が出現した後の時期、つまり経済的にせちがらくなった時期に、
・撰銭現象には文字が読めない庶民も参加したのか
参加しなければ悪銭が弱い立場の人に集まりそう
・枚数や銭面を確認することなく一さしが100文として通用したのか
枚数の不正はなかったのか
確認しないのなら、悪銭はさしの真ん中の方に隠すように挿されたりしそう
というあたりです。どうなんでしょう。
省陌法についても、現代から見るととても不思議に感じる慣行です。日々の買い物で数枚ずつ銭を支払う層より、まとめて100文以上での支払う機会の多い層が圧倒的に有利な制度なのに、中世・江戸時代に違和感なく受け入れられていたのは、鎈も繊維製品なのであれに数文の価値があるとして納得されていたんでしょうか。
全てごもっともな疑問ですが、史料的に実証するのは極めて困難に思われます。以下は私の推測というか妄想です。
>撰銭現象には文字が読めない庶民も参加したのか。参加しなければ悪銭が弱い立場の人に集まりそう。
文字が読めなくても、ある程度慣れてくれば、図形的な銭面の違いから銭の種類を区別することは可能な気がします。
>枚数や銭面を確認することなく一さしが100文として通用したのか。枚数の不正はなかったのか。確認しないのなら、悪銭はさしの真ん中の方に隠すように挿されたりしそう。
97枚の出土例が多いことからすると、一応は数えていた気がします。あとはアト・ランダムに一さしを選び出してサンプル調査でもしたんでしょうかね。
>日々の買い物で数枚ずつ銭を支払う層より、まとめて100文以上での支払う機会の多い層が圧倒的に有利な制度なのに、中世・江戸時代に違和感なく受け入れられていたのは、鎈も繊維製品なのであれに数文の価値があるとして納得されていたんでしょうか。
省百法はもともと中国から導入された制度なので、あんまり合理的に検討されないまま定着したのかもしれません。
なお江戸時代は96文を100文とみなす九十六文省百法が一般的だったそうです。これは3でも4でも割れるという計算上の便宜に基づくのではないかとの説があります。ただ、この考え方だと中世の97文は上手く説明できませんが・・・
やはり、こういった思いつき確かめようとすると、実証は難しいものなんですね。
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