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2011年8月30日火曜日

図説 韓国の国宝

水野さや著
河出書房新社
2011年7月発行
宮殿建築、古墳や古墳からの出土品、仏像や仏寺、塔などの仏教美術、書画、陶磁器と韓国の国宝を紹介した本です。フクロウの本シリーズの一つなので、写真がたくさん載せられていて、字の多い図鑑・絵本といった印象です。でも、図鑑・絵本的な本だからこそ鮮明な印刷が求められ、こういうぶれた印刷のまま販売されるのは困ったことです。

8ページで日本の植民地時代のことが「日帝時代」と表現されていました。日本人の著者の日本語の本に「」なしの日帝時代という表現はあまりみかけませんし、景福宮を覆い隠すように朝鮮総督府庁舎を建設したことが愚行であったと感じる私でも、これには違和感を感じます。でもその点を除けば、著者の文章は読みやすく、どんな品々が国宝とされているのか、分かりやすく解説されていました。

巻末に韓国の国宝の一覧表よると315号まで指定されています。Wikipediaを見ると日本では1100件ほどが国宝に指定されているので、韓国の国宝の方がずいぶんと少ないわけです。両国の国宝選定の基準は異なるはずですから、単純に数を比較することには意味がないかもしれません。でも本書をざっと眺めての印象として、高麗以前の時期の品が少ないことは明らかです。この時期でも古墳や仏像、石造の塔などは国宝に指定されていますが、書画、経典、歴史史料的なモノ、木造建築、木造の仏像などは現在まで無事に残ったモノが少ないのだそうです。その原因として元との戦争や壬辰戦争、そして朝鮮戦争があげられていました。国宝となるべきモノが壁の北側にあったりもするのでしょう。戦争の際に、美術的な価値のあるモノは略奪されたり、保管していた建物ごと燃やされたり破壊されてしまったり、芸術的に価値あるモノを享受する層の生活レベルが低下したりなど悪条件が重なったのでしょう。そう考えると、高麗大蔵経はその企図の壮大さと、戦時の悪条件を克服して造られたことからも本当に偉業だと感じます。逆に日本の、中世期以前にもその住民が日本の一部だと認識していた地域の大部分は、幸運にも言葉のまったく異なる人たちの侵入・略奪を受けずに済んだおかげで、古いものが残りやすい状況だったんでしょう。おかげで、日本では日記、書簡、荘園領主・武家の文書や、国宝ではありませんが正倉院の文書など、鎌倉・平安時代以前の史料も、 歴史家が仕事に困らないくらいは残っています。朝鮮半島の高麗以前の歴史の研究者は困っていないのか知りたくなりました。

2011年8月26日金曜日

生成文法の企て

ノーム・チョムスキー著
岩波現代文庫G253
2011年8月発行
ヒトには普遍的に言語機能が備わっていて、子供は生後の入力に対応してその言語機能を成長させて母語を習得する。実在する個別言語の文法に原理・パラメータ論を適用した研究から、ヒトに生来内在する言語機能の文法である普遍文法が見いだされつつある。私は、生成文法というのはこんな風なものだろうと勝手に理解していて、しかもとても魅力的だと感じています。
ヒトの発生について、からだの形態の詳細の設計図があるわけではなくて、遺伝的に決められた材料に環境という物理化学的な条件が加わって発生の過程が進むと、ふつうのヒトの形態になる確率が高い。なんらかまれな条件が加われないと、ふつうからはずれた形態(奇形)にはなれない。こういう考え方と、普遍文法の存在と言語の習得の関係はとても似ているように感じる点が、私にとって生成文法を魅力的にしているのだと思います。
しかし、こういった関心をもつだけの門外漢にとって本書は難しく、うわっつらだけ読んだという結果に終わりました。この本は「訳者による序説」と「生成文法の企て」と「二十一世紀の言語学」の三つからなっています。「訳者による序説」は「インタヴューで行われている様々な議論の理解のために最低限必要な知的背景の説明」を目的としていて、私のような素人にも分かるようにかみ砕いて書かれています。
しかし、インタヴュアーとチョムスキーさんの対話で構成された「生成文法の企て」と「二十一世紀の言語学」という本書の肝の部分は、「訳者による序説」以上にもっともっとしっかりした知識をもっていないと、得心して読むことができない感じです。チョムスキーが研究をはじめてから半世紀以上が経過しています。生成文法という考え方が現在のかたちになるまでには、多くの議論と発展があったはずです。それらのエピソードをより多く知っているほど、インタヴュアーの質問の意味がよくわかり、またチョムスキーの回答にうなづきながら感心できる、そんな本のように思われました。同じ岩波現代文庫に入っている言語のレシピとは、想定読者がかなり違うようです。当面、文学部言語学科に入学して勉強するのは無理そうなのですが、チョムスキーのインタヴューを楽しく読むにはどんな風に勉強したらいいのかな。
306ページに「オリジナルよりもずっと出来のいい人口の臀部」という表現があります。「臀部」は英語版ではhipだったのでしょうか。それなら股関節と訳すべきでしょうね。

2011年8月20日土曜日

日本陸軍「戦訓」の研究




白井明雄著
芙蓉書房出版
2003年2月発行

戦訓報は昭和18年6月から発行が始まった日本陸軍の逐次刊行物で、戦訓速報・特報などと名付けられたものもあわせると、総数300ほどになるのだそうです。著者は元自衛官の方で、ガダルカナル戦以降の対米戦の連戦連敗の原因を探るためにこの戦訓報を研究し、戦訓報の「戦訓」を「陸戦研究」誌に発表し、それをまとめたのが本書なのだそうです。出版社も芙蓉書房出版ですし、もともとは読者として自衛官を想定していたはずで、素人の私には専門的な戦術の理解などは無理ですが、あまりつまづくところなく読めました。興味深く感じた点をいくつか紹介します。
太平洋正面は海軍の担当で、十七年八月に生起したガダルカナル戦とそれに続いたソロモン・ニューギニヤの戦いも海軍への協力と軽く考えていた上陸防御戦は、対ソ戦を念頭に構成一筋に錬成してきた日本陸軍にとって、全く新しい問題であった
こういった研究は平時から自死されていて当然だと思うのですが、日本陸軍が平時に行っていたのは対ソ戦の研究で対米戦は真剣に検討されてはいなかったわけですね。アメリカ相手に守勢に立たされたことではじめて戦訓を全軍に広めることの必要性に思い至ったわけですね。 発行開始が昭和18年6月ですから、気づいて行動に移されたのは開戦後一年半も過ぎてからのことで、戦争の経過を知っている者からすると、反応が鈍すぎると感じてしまいます。しかも著者によると、「絶対国防圏」構想への戦略転換からサイパン戦までは、「我が陸海軍がともに勝利の希望を持って対米戦に取り組んでいた時期」だったのだそうです。ガダルカナルからの撤退以降も希望をもつ人が多数だったということは不思議に感じます。しかし、サイパンの失陥は一大転機で、「海軍航空、特に空母戦力の壊滅によって、南方資源地帯と日本本土との連絡は切断の危機に曝され、戦争の継続は絶望的とな」りました。それまでは戦訓報で水際撃滅のための準備と実行が勧められていましたが、 サイパン玉砕でその欠陥が明らかになって「縦深陣地を絶対に必要とす 複郭陣地は之を準備し置くを要す」と方針が変わったのだそうです。
弾薬資材をほとんど無計画無制限に浪費す 砲爆撃は目標を確認することなく存在を推定する地域に猛烈に実施す
日本軍の白兵戦を狙った斬り込みに対して、アメリカ軍は突撃破砕射撃と呼ばれる対応をとりました。緒戦期に得た資料からこの突撃破砕射撃の存在をつかんでいたのに、その危険を部隊にしらせ、突撃に対しては突撃破砕射撃が実施されることを戦訓報で警告しておくことができませんでした。実際に実施された突撃破砕射撃について、当初は「無計画無制限に浪費」と批判的に書かれていました。無計画無制限に浪費できるほどの弾薬を補給できる能力こそ恐るべきことだし、うらやましいことなのにね。
米軍と支那軍の比較 対支戦闘に於いて戦果を挙げた部隊も米軍の弾丸鉄壁に対しては攻撃意の如く進まざることあり
中国戦線から島嶼の防備に転用された部隊が多かったようですが、はじめて強い軍隊と対峙して自軍の実力を知ることになった様子が分かります。
熾烈なる砲爆撃に対し毅然として守地を護らしむることは精錬なる軍隊にして初めて期待し得るべし 我が軍隊の現状は遺憾ながら離散掌握を脱するものきわめて多し相当兵力の軍隊にても訓練精到ならざるに於ては全く行方不明となりし部隊さえあり 軍隊の精練及幹部の掌握力等は実に予想外なり
これはサイパン戦についての記述ですが、日本陸軍は精神力を強調していましたから、ヒトが正直に反応してしまうほどのひどい状況に直面させられてしまったのでしょう。
海軍航空ハ闘志旺盛、戦技極メテ優秀、電探ノ能力優秀、未ダニ奇襲ヲ受ケタルコトナシ 上陸防御ニ関シ必勝ヲ確信ス
これはトラック空襲についての戦訓報の記述ですが、真相を知る後世の者からすると、弱い海軍に対する皮肉のつもりなのかとも思えるくらいです。戦訓報が士気への影響を配慮して書かれていたことと、戦訓報の材料となる戦闘詳報・戦闘要報自体が弱音を吐いたと思われたくない心理で書かれていたことなどから、こういった記事が出現してしまうのでしょう。著者は「『戦訓特報』は、戦法創始の必要を強調しながら、真実を知らせる点に重大な欠陥があった。真相をボカシあるいは曲げた指摘が多かった。敵砲爆撃の過小評価、我が肉攻・斬込・戦車威力の過大評価等がそれである。士気への配慮もあったであろうが、より根本的には「教育」への配慮を優先したためではないか」と思いやりをもって評価しています。
戦況逼迫せる時期に於て直接戦闘に必要なる築城の完成を見ざるに兵力の大部を以て飛行場作業其の他の土工作業に従事せしむる等のことなきを要す
飛行場の存在する要地・島嶼を防衛するために陸軍部隊が駐屯しているわけですが、戦争が末期に近くなるにつれて、日本側の航空機が無力なこと、すぐに無力化されてしまうことが明らかになり、飛行場の存在自体がお荷物として感じられるようになってしまったようです。
本書は日本陸軍の「戦訓」研究ですが、組織の戦訓研究という点では、現在の組織、例えば私自身の勤務先にも当てはまる点がたくさんあります。ビジネス書として銘打って売られている本に戦争中のことが材料として使われるのも無理無いのかなと感じました。最後に、日本陸軍にも小沼治夫少将という「精神力過大評価の弊」をならした陸大の教官がいたことを知ったのも、本書の収穫のひとつです。

2011年8月16日火曜日

液晶の歴史







デイヴィッド・ダンマー、ティム・スラッキン著
朝日選書882
著者二人は説明の手段として、あまりに個人に立ち入ったやり方の有用性へのはっきりした疑問や、まじめな題材への紳士気取りのこだわりをもっているにせよ、ほんとうのところ、われわれも皆と同じゴシップ好きだということだ。読者はこの物語で個人についての詳細を語っていることに気づくだろう。ある人がどうやって発明にいたったかとか、なにが彼らを動かしたかとか、有名になってどういう態度を取ったかだとかだ。
と終章で著者は述べていますが、その通り。本書には液晶についての簡単な科学的な解説も各所に述べられていますが、主な内容は、19世紀末のボヘミアでの発見から、ドイツ、フランス、イギリス、ロシア、アメリカでの研究の歴史と、アメリカや日本での液晶を応用した製品の開発までを描いた物語です。しかも、ゴシップ好きな著者の手になる物語ですから、読んで面白い作品でした。また、49ページもある索引、注、文献リストに加えて、用語集、年表も載せられ、選書としては分厚い600ページ近い、読みがいのあるしっかしりた本に仕上がっています。また、訳者の鳥山和久さんも1960年代からの液晶の研究者だそうですが、本書のラストには訳者の書いた「日本における液晶技術の開発」という文章が載せられています。ほとんど液晶科学の研究者がいなかった日本ですが、RCAの液晶ディスプレイの発表が刺激となって、多くの企業・大学で研究が始まり、電卓のディスプレイからテレビへと進んでいった物語が描かれていて、こちらも興味深く読めました。本文ともあわせてお勧めな本です。
訳文で気になったところ。
211ページから、ルドルフ・フィルヒョーという人が出てきます。これは医学の分野ではウィルヒョーとして有名な人で、医者ならだれでも、この名前を聞いたことがない人はいないだろうというくらい有名な病理学者です。フィルヒョーと訳されると違和感ありです。
229ページに「1933年の王立研究所の第一回ファラデー研究会は、彼が液晶の舞台に現れてからほぼ40年後のことだった」とあります。この彼は1902年生まれのローレンスさんなので、どこかおかしいような。1933年の会のことではなく、1971年の彼の死去後に開催された会のことのようです。
380ページには「レオニード・ブレジネフ大統領」とあります。当時を知るものとしては非常に違和感ある訳です。これを読んだ時、訳者はかなり若い人なのかなと思ったのですがそうではありませんでした。なぜブレジネフ書記長としなかったのか。原文がpresidentだったのかも。
402ページの「東南アジアでの新しい電子装置への熱中ぶり」は、原文でもsouth east asiaなのでしょうか?日本をはじめとした東アジアのことを書いているような章の中にある文なのですが。

2011年8月14日日曜日

天皇の韓国併合

新城道彦著
2011年8月発行
法政大学出版局
日韓併合による王公族と朝鮮貴族の創設から、日本の敗戦後の日本国籍剥奪までのあいだのさまざまな事情を紹介してくれています。例えば、
日韓併合は寺内統監のイニシアティブでわずか一週間ほどの交渉で決着し、併合条約の第三条・四条で王公族の創設と皇族の礼が保証されました。交渉の一年ほど前から併合方針が決定されていましたが、綿密名シナリオが準備されていたたわけではなく、その後もしばらく皇族の礼を受ける王公族の法的地位を明確化する措置は執られませんでした。皇族の礼を受ける=皇族と同じ地位?という問題に発展してしまうのでわざと曖昧にしておかれたままだったようです。
王公族の地位を明確化する必要にせまられたのは、李垠と梨本宮方子の結婚問題です。皇室典範では皇族の女性の婚嫁先は皇族か華族に限られていて、もともとこの規定は外国の王室との婚姻を妨げるために設けられた規定だったのだそうです。この規定を、王公族は皇族と同等と解釈で乗り切る意見もありましたが、皇室典範の皇族女性の婚嫁先に王公族を加えることで決着しました。李垠と梨本宮方子の結婚は日鮮融和を目的とした政略結婚だったと一般に受け取られています。しかし一次史料でそれを確認することは困難で、梨本宮が方子の嫁ぎ先を探したがみつからず、密かに寺内に嫁ぎ先探しを依頼したところ李王家を紹介され、男子のいない梨本宮は皇族の礼を受けしかも経済的に裕福な李王家への婚嫁を歓迎したという事情があったのだそうです。この婚儀が日本政府により周到に準備された政略結婚でなかった証拠に、帝室制度審議会と枢密院がこの問題で衝突して、なかなか決着しなかった事情が紹介されていました。
高宗の死去をきっかけに3・1運動が発生しました。この運動の背景には、併合後の義兵運動やロシアの十月革命やウイルソンの十四ヵ条・民族自決の考え方などがあったのはたしかですが、集会の禁じられていた朝鮮で、全国の民衆が集まって情報を交換して、全国的な運動を起こすことは困難でした。しかし高宗の葬儀への参列・見物に多数の人が京城に集まったことで、 京城で3月1日に大規模なデモンストレーションが実現し、デモに参加した人が見聞と経験を帰京後に伝えたことで全国的な運動にまで広がったのだそうです。
併合時に、王公族とならんで朝鮮貴族という地位が創設されました。華族ではなく朝鮮貴族としたのは参政権を与えないためだのだそうです。知りませんでした。朝鮮貴族の中には経済的に破綻する例が少なくなく、監督する総督府・宮内省李王職でも対策に苦慮していた様子が紹介されています。本書でも参考文献に挙げられていますが、浅見雅男さんの「華族たちの近代」「華族誕生」に日本の華族の経済的な没落、放蕩のエピソードがたくさん紹介されていたことを想いだしました。
知らないことがたくさん書いてあるし、個々のエピソードは興味深いし、とても面白く読めました。本書には同様に亡国の運命をたどった琉球、ハワイ、マダガスカルの名前がちらっと出てきますが、そういった他の例についても読んでみたくなりました。また、本書のタイトルは「天皇の韓国併合」となっています。明治天皇の名で結んだ併合条約や王公族の冊立証書に書かれている事項を、その後の日本政府の政治家・官僚は無視できず、皇室典範改正問題や放蕩な公族・朝鮮貴族の処遇などですったもんだするあたり(=帝国の葛藤)が滑稽だから「天皇の」と銘打ったのでしょうね。
高宗と純宗の葬儀のエピソードは載せられていますが、その後、朝鮮の住民が王公族に対してどういう風に感じ考えていたのかが分かりません。1963年の李垠の帰国の際、金浦空港からソウルまでの沿道20kmは歓迎する市民で埋め尽くされたそうで、その時の写真が載せられています。朝鮮の人たちは、ずっと王族を慕っていたのでしょうか?
王公族は皇族のようで皇族ではない身分として<日本>に創設され、天皇制および皇統と密接な関係をもたざるをえなかった。また、内地に対する朝鮮の独立性を表象しうる存在として<日本>という体制を左右するとともに、植民地朝鮮に特有な身分であった。したがって<日本>という枠組みで朝鮮統治の特性を考察するために、王公族は非常に重要な研究対象といえる。
と著者は述べています。本書が浅見さんの本と同じくらいの面白さなのは確かだし、上記のように日本政治のある面をよく表わす問題を扱っているし、日本の官僚制のある種の特質を浮き彫りにしているとは思うのですが、「非常に重要」なのかどうかは疑問。朝鮮の人たちの王公族に対する感じ方考え方が今ひとつ不明な点からも、そう感じてしまうのです。
本書のカバーをはずすと表紙にハングルで何か書かれていますが、これはどういう意味なんでしょ。

2011年8月12日金曜日

中世荘園絵図の解釈学

黒田日出男著
東京大学出版会
2000年7月発行
先日、絵図学入門を読み、勉強にはなりましたがなにか物足りない感じ。そこで、こんどは中世の荘園絵図をあつかった本書を読むことにしました。荘園絵図と差図についての論考が13本収められていますが、学ぶ点が多いだけでなく、とても面白く読めるものばかりでした。どうして面白いかというと、内容が面白いのは確かですが「謹厳実直な研究者には怒られるかもしれないが、中世の荘園やムラを調べたり、荘園絵図や村絵図を読み込んでいくことは、一種の<謎解き>に似た、実に刺激的なプロセスである」と著者自身が本書の中で書いているように、良質の探偵小説を読んでいるような感じと著者の筆力のおかげで引き込まれてしまうのです。この本はハードカバーだから一般の人が手に取る機会ってとても少ないと思われます。絵図学入門の方はソフトカバーで近所の書店で平積みしてありました。私としては本書の方がずっと面白く感じたし、本書も近所の書店で平積みにされるような販売法を考えないと、せっかくの良書が専門家以外の読者には届きにくくなってしまって、もったいない感じがします。東大出版会さんはどうお考えでしょうか。
実際のためになって面白い点ですが、例えば薩摩国日置郡北郷下地中分絵図。下地中分絵図ですから、どういう風に中分したのかが分かるように中分線が描かれています。でも、この図は単に確定した中分線を示すためだけに作成されたのではなく、どこに中分線を引くかの交渉の際に使われたのではないかと著者は主張しています。というのも、実際に確定した中分線以外の境界線の候補となりそうな道や地形が描かれているからです。これっていわれてみればそうかもしれない、目から鱗の指摘です。
陸奧国骨寺村絵図。カラー口絵に載せられているものをみると、継がれた用紙に描かれていることが分かりますが、右上の一枚が剥がれてなくなっていることが一目で分かります。それに加えて、 著者は残された文字と紙の色の違いから下方にも糊代があって2枚が剥がされて存在しないことを指摘しています。自分たちの立場に反する記載があったので、その記載のある部分の紙を剥がして相論の場に持ち出したのだろうということで、納得。
黒山、黒石、黒川、黒谷などの黒のつく地名が、開発の手の入っていない境界を表す地名なのではないかということを地名データから主張。鋭い指摘です。また、地名などの文字の向き、主題はなにか、描かれた建築物・田などの数や位置のバランスがどこでとられているかなどなど、各論考での絵図の実際の読み方はとても勉強になりました。

取りあげられている絵図には、絵師の描いたものと、そうでないものとがあると思われます。たとえば、紀伊国神野真国荘絵図とか陸奧国骨寺村絵図詳細図などは、墨一色で描かれているだけではなく、稚拙な印象なのでプロの絵師ではない人が描いたんでしょう。それにしても、前者は1メートル四方くらいの大きさで、後者も80×50cmくらいと大きな紙をつかっています。貴重な紙を大きく使っていますから、後代まで残る可能性を認識して描いた絵図なんでしょうに、どうしてこんなに稚拙なのか。絵心の全く無い私でももっとましに描けそうな気がします。中世の一般人は現代の一般人と比較すると絵や図を見る機会がずっとずっと少なかったので、現代人より稚拙なものしか描けなかったのかなと感じてしまいました。



2011年8月7日日曜日

絵図学入門

東京大学出版会
2011年7月発行
中世・近世の地図は絵図と呼ばれますが、日本図、世界図、国絵図、城下絵図、沽券図、検地絵図、論所見分地図、道中図などさまざまな種類の絵図のあったことが紹介されています。それに加えて、絵図の元となる測量の方法や、絵図を描く用紙にはどんな紙をどう仕立てたのか、紙を貼るための生麩糊の練り方、色彩豊かな絵図にはどんな顔料・染料が用いられたのか、大きな絵図を描くためにへら痕や針穴であたりをつけた様子、色の塗り方、などなど実際の絵図の描かれ方が説明されていて興味を引きます。また、江戸時代には、印刷されてひろく販売された絵図が多数出現したわけですが、江戸時代の出版と絵図の扱われ方の説明もとても勉強になりました。さらに、大きな絵図の展開の仕方やたたみ方、写真の撮り方、データの記録の仕方、絵図の出典表記法まで触れられています。リファレンスにも文献だけでなく、ウエブサイトが多数紹介されてます。さすがに21世紀の「絵図学入門」ですね。そして、読みながらいろいろ考えさせてくれる本です。たとえば
きらびやかな色彩で彩られた国絵図も、17世紀に江戸幕府がはじめて命じたときには、「色のついた絵にするように」とわざわざ指定しなければならない状況だった

川や海が青色、山や樹木が緑色なのは当然な感じがしますが、道を赤、各郡を色分けするなどの発想はどこからきたのかな?とか。学ぶ点が多く、しかも面白く読める一冊でした。

残されている絵図には古代や中世のものもあります。荘園図や紛争にあたって作成された中世の絵図は素朴な表現で、第三者である現代人にはその解釈自体が研究の対象となるものもありますが、本書の主な対象は江戸時代の絵図で、そういった観点ではとりあげられていません。また、カラー図版が多数載せられているのですが、どれも小さいのが残念です。値段を低くするためには仕方がないのでしょうね。

2011年8月5日金曜日

外邦図








小林茂著
中公新書2119
2011年7月発行

外邦図という耳慣れない単語が戦前は政府機関で使用されていた由緒正しい言葉であったことを本書を読んで初めて知りました。外邦図は日本がアジア太平洋地域の今では外国である地域を対象に作成した地図で、作成された事情が事情だけにこれまであまり研究されてきませんでした。しかし現在では軍事的な有用性は乏しく、それでいてたとえば当時と現在の森林被覆などの環境や景観などを比較する資料にもなるといった、使い方によってはとても有用なものなのだそうです。
本書には日本近世の伊能さんたちの地図づくりから、近代的な測量・地図作成技術の習得、そしてその技術が日本国内だけではなく、朝鮮や中国などにも応用されていった歴史が書かれています。例えば、開国後にイギリスなどが日本近海で測量をしていたことや、日本が朝鮮を開国させるのに江華島で測量をして朝鮮側を挑発して起こした江華島事件は有名ですが、相手国の許可を得ない秘密測量がその後も朝鮮や中国では続けられ、また日清戦争・日露戦争、そして支那事変・第二次大戦でも、戦時の測量や相手国からの地図の獲得が、日本の外邦図づくりに大きな意味を持ったのだそうです。
地形図と、昔の地租、今の登記につかわれている地籍図とが別ものなのは、なんとなく不思議だなと思っていました。日本の 地形図と地籍図が別々なのは、地積図が作成された時期には技術的に遅れていたので両図を関連させることができなかったこと、その後に獲得された沖縄や台湾では地籍図を組み合わせて地形図を導き出すことができるようになったのだそうです。
飛行機から撮影した写真が地図づくりに利用できるようになると、秘密測量は行われなくなりました。それと同時に外邦測量沿革史という本の編集が開始されました。その背景には、秘密測量に従事した人の事績はその性格上公表しにくく検証も困難で、また殉職もまれならずあったのに殉職しても靖国神社に祀られないこともあるなど、遺族や同僚からの不満が大きかったからなのだそうです。外邦図作成に関する事情がうかがい知れるエピソードですね。
敗戦時に焼却されてしまった資料も多かったのですが、米軍に押収された外邦図がアメリカの議会図書館や公文書館に、また日本にもお茶の水女子大・阪大・東北大などに残されていて、整理と公開(インターネット上でも)が行われつつあるそうです。知らないことばかりで、新書ですがとても勉強になりました。

2011年8月4日木曜日

古墳とはなにか 認知考古学からみる古代






松木武彦著
角川選書493
2011年7月発行





古墳について、墳丘墓から古墳への変化、前方後円の意味、木棺・石室の変化、副葬品などなど、とても勉強になりおもしろい一冊でした。例えば、
広瀬和雄氏は、奈良盆地東南部の古墳群は、地元の長に加え、盆地のほかの場所の長もそこに墳墓を集めることで成立したとみる。おおむね賛成だが、河内や摂津などの上のような状況を見ると、奈良盆地東南部に墳墓を営みあった長たちの出自を、もっと広く見込んでもよいように思う。つまり、畿内各地をそれぞれ代表する地位にあったひときわ有力な長たちは、纏向を本拠とする経済的な活動を前提に、そこを舞台としたほかの長との政治的な関係をたがいに演出するために、三輪山のふもとに広がるオオヤマトの地に古墳を並べあい、ともに神格化されたという可能性だ。このような関係が数代続いたことの累積的結果として、いまみるような盆地東南部の大規模古墳群が形成されたというわけである。
こういう考え方があるとは知りませんでした。これで、この時期に古墳があってもいいほど人が多っかたのに築かれなかった地域の説明もできるとのことで、とてもとても魅力的な説だと感じます。また
日本人が全国どこの神社にいってみても、神社であると認識できるのは、建築様式などの違いはあれ、どの神社も宮居としての基本的な構造や要素を共有しているからで、「当時の人びとの古墳に対する認識や、古墳の形や要素が意味したところも同様ではないだろうか。古墳の基本形とは「亡き人を高く埋めてあおぐ」という認識と行為の表現だ。
基本形が守られていれば、前方後円墳でも方墳でもそれらしくみえるという指摘も、鋭い指摘だと感じました。これは認知考古学的な方法から導かれたんでしょうか?? さらに、日本と中国の関係をひろくローマとブリテン島の関係になぞらえて、気候の寒冷化に伴う漢やローマの滅亡、世界宗教の伝播、封建制度の始まりなどの各要素の対応を示して、この変化の前後の時代は日本史内部の事情で古代とされているが、中世の始まりだったと考えるべきことを述べ、日本に古代はあったかも紹介されていました。この主張もとても説得的だと感じます。
このように学んだ点は多いのですが、期待はずれでもありました。どうしてかというと、私はサブタイトルの「 認知考古学からみる古代」に興味を持ち、本書を購入したのです。 帯もその点を強調するものになっていたました。角川選書という媒体からすると、読者として考古学の専門家は想定されていないでしょう。認知考古学というものがどんなものなのか私には全く知識がありませんが、そういった私を含めた素人に「 認知考古学からみる古代」を読ませるのですから、まず認知考古学っていうものがどんなものなのかの詳しい説明から始まるものだとばかり思っていました。しかし、実際には冒頭7ページに「認知科学を用いた考古史料の解釈法=認知考古学」と書かれているのみで、それ以上の説明がありません。ずーっと読んでいくとようやく194ページに「認知考古学で注目するのは、国や民族や時代をこえて、ヒトならばどう感じるか、どう考えるかという、いわば生物学的な脳の働きのパターンだ。言いかえれば、有史以来のすべての人間が最大公約数的に共通してもっている思考の原則を相手とするのが認知考古学である」という記述が出てきます。これだけだと分かったような分からないような説明です。
そして195ページには「認知考古学で、横穴式石室を読み解いてみよう」とあります。194ページの認知考古学に関する記述は、これに先立って説明しておこうとしたもののようです。「有史以来の世界各地の宗教的な構築物には、三つの基本形がある」とのことで、空間の中に内側と外側をつくりだす二次元的なしかけで内側に入って外側を意識することで独特の感興が得られるもの、どの方向からでもたくさんの人にあおがれるようにたかくつくられた構造物で見上げる行為と密接につながった畏れや敬いの勘定を促す装置、明確で印象的な正面を一方向にもつ建造物の三つがあげられています。そして「このような内外、上下、対面などの物理的体感(認知心理学ではイメージ・スキーマとよぶ)と特定の感情や行為とは、時代や地域や民族の差をこえて、ヒトに普遍的なものだ。だからこそ、大ざっぱではあるが一定の確かさで、過去の構築物の意味や目的をうかがうことができるのだ」→ だから認知考古学で横穴式石室を読み解くことができるという流れのようです。
医療の世界では20年ほど前からevidence-based medicineというのが流行って、診察でも検査でも治療法でも、その医療行為を正当化する根拠が求められています。それに慣れてしまった眼で「このような内外、上下、対面などの物理的体感(認知心理学ではイメージ・スキーマとよぶ)と特定の感情や行為とは、時代や地域や民族の差をこえて、ヒトに普遍的なものだ」などという文を読むと、かなり違和感をおぼえます。生理的なレベルでヒト個体に普遍的なものが存在することは当然だとしても、それ以上のレベルではたとえば言語にしても証拠を示されてはじめてヒトに普遍的だと納得させることができるのだと思います。
著者のもちだした議論が成り立つには、まずある物理的体感と特定の感情や行為がヒトに普遍的なものであることを証拠とともに示し、次にその存在を証明された特定の普遍的なものが過去の構築物の意味や目的をうかがい知るために使用できることを証拠立てて説明することが必要でしょう。それなのに何の論拠も示さずに「横穴式石室を読み解」くことにつかえる「ヒトに普遍的なもの」の存在を当然視して議論をすすめるのは乱暴すぎると思います。また、前記の三つの基本形にしても、宗教的な構築物にしかあてはまらないといえるのでしょうか、とても疑問です。