このページの記事一覧   

2011年11月30日水曜日

李鴻章

岡本隆司著
岩波新書 新赤版1340
2011年11月18日 第1刷発行
むかし、同じ著者の近代中国と海関という本を読んだことがあります。もちろん海関に関して史料を示して論証した本なのですが、素人の私は実証的な部分よりも、清朝側の交易取引と関税徴収を一体化して牙行という商人に任せる仕組みが西洋諸国からは特権商人による独占・桎梏と受け取られたこと、清朝の認識としては洋関(海関)・関税と内地関・厘金が大きくは違っていなかったこと、貿易量の拡大に伴って必要な資金が増えて牙行→保商制度+外洋行→外国商社+買弁という体制へ変化し、それにともない広東にとってかわって上海が成長したこと、外国人の総税務司がお互いに都合が良かった点、などが分かりやすく説明されている点に関心しました。西洋諸国(と西洋諸国の流儀になじんだ現代人である私)が不思議に感じた清朝の制度と、その不思議が解消されることになった経緯を、素人にもわかりやすく整理する手際が非常に鮮やかで、この人はとても頭が切れる人だろうなと思ったのです。本書はその著者によるものですから、単に李鴻章を紹介するだけにはとどまらず、対外関係に影響されて変化する清朝中国の様子が、李鴻章を軸にすっきりと整理されています。以下、ざっと学んだ点をまとめます。
清朝盛時にも治安・取引・財産などを保証する政府サービスの提供は不十分で、かわりに中間団体が自ら秩序を維持するようになりました。社会矛盾が反乱に結びつき、多数の武装した中間団体が反政府運動に組すると正規軍だけでは鎮圧できません。政府側もこれら中間団体を団練(地方民兵制度)として組織し、反乱軍に対抗させました。その有力なものが曾国藩の湘軍と、李鴻章が郷里で組織した淮軍でした。 李鴻章は科挙に合格して進士になった後、曾国藩に師事することがあって、南京付近で湘軍が太平天国軍と戦闘している最中に、危機の迫った上海に曾国藩の推薦で派遣されたのが淮軍でした。李鴻章はここでの勝利で頭角をあらわし、豊かな江南デルタをおさえ軍事力をバックに、外国からも交渉の相手として選択される存在になったわけです。その後、直隷省を脅かした捻軍の反乱も処理してさらに名声は高まり、天津教案を機に李鴻章は北洋大臣に任命されました。
朝貢する自主の属国という存在は西洋諸国の条約体制にはそぐわず、問題が起きましたが、新疆はロシアとの条約で確保でき、ベトナムはフランスとの条約で名を保つことができました。しかし琉球・台湾・朝鮮を窺う日本は相も変わらず倭冦であり脅威であると、北洋大臣の李鴻章は考えていたようです。本書では日本と清朝の間の紛争が、他の西洋諸国との問題と並べられ見通しよく整理されていて、勉強になります。
日清修好条規は日本側の用意した不平等条約の案を退けて、李鴻章麾下の馬建忠の草案にしたがって結ばれました。この条約は両国の所属邦土の尊重を謳い、清朝としては単なる不可侵条約ではなく清朝の朝貢国朝鮮や琉球の保全を保証するものと考えていました。しかし、化外を言質にとっての台湾出兵やその後の琉球処分など、日本には清朝の所属邦土(属国)に朝鮮・琉球が含まれるとの認識はありませんでした。ドイツから定遠・鎮遠を購入し、日本へのデモンストレーションの航海では大いに日本人を恐れさせましたが、西洋からの科学技術の導入と軍事力強化による国防に清朝内部の方針が統一されていたわけではありません。李鴻章は自らの求める洋務・海防が進まない現実に、明治維新以来の君民一体となった日本の西洋化と軍備を脅威に感じ、淮軍や北洋艦隊が日本に劣ると判断していたのだそうです。したがって日本とは戦わずに済ます途を求め、特に壬午事変に際しての出兵と速やかな撤兵による事件収拾は鮮やかで、朝鮮をめぐる日本との関係は小康状態が続きました。しかし甲午農民戦争への出兵は対抗する日本の出兵を招き、これが日清戦争につながりました。本書では戦争に至ったこの経緯を李鴻章生涯最大の失策と評価しています。日清戦争後、日本対策として三国干渉を働きかけ、露清同盟を結んで東三省にロシアの勢力を引き込むことになりましたが、振り返ればこれがその後の東アジアの歴史に大きく影響することになった訳です。晩年、完全に失脚したわけではなかった李鴻章は義和団事件の際の東南互保を支持ましたが、その後、中央政府から列強との講和交渉を委ねられて北京議定書を結び、1901年に死去したのでした。
外国との関係から洋務の必要性を痛感しながら、国内事情のために全きを得なかった悲劇の政治家、しかも悲劇をもたらした主役の一人は日本だったという印象で読み終えましたが、それを予告するように、本書の巻頭は下関での遭難から始められています。巻末には、年譜と並んで、参考文献についてという節が付録していて、李鴻章の全集2つと日録1つ(いずれも中国語)、それに日本語の文献4つが紹介されています。著者の主に紹介したかった文献が中国語という点に、李鴻章に対する日本の関心度と著者の意図と両方が見えるような気がしました。

2011年11月26日土曜日

日本書紀成立の真実

森博達著
中央公論新社
2011年11月10日 初版発行
12年前に出版された同じ著者の日本書紀の謎を解く(中公新書1502)を読んだことがあります。日本書紀は中国語で書かれていますが、その中に見られる倭習と呼ばれる単語や語法の誤用や、歌謡の中国語字音による表記の特徴などから、著者は日本書紀をα群とβ群に分け、前者は渡来中国人が二人で分担して、後者は日本人がその後を書き継いだもの、しかもそれぞれを担当した人の名前まで推定されていました。読みながら、筋道の通った謎解きの過程にひどく感心したおぼえがあります。なので、森博達さんの著者が近所の書店の平台に積まれているのを見て、早速購入しました。
本書も前著の延長線上に、江戸時代に懐徳堂の五井蘭洲が日本書紀の漢文の誤用・奇用に気づいていたこと、倭習の源の一つが古代韓国の漢文表記の特徴にあること、誤用・奇用の目立つ部分が中国人の書いた巻にもところどころ集中して存在し日本人による後になっての修飾が想定されることなどがあきらかにされています。そして、乙巳の変の前後に日本人による修飾の多いことから日本書紀編纂の主導者を藤原不比等とし、また彼の急な発病と死により未完成なままの撰上にいたったことが推定されていました。前著と同じく、証拠をきちんと示して論が進められているのでとても説得的だと感じます。説明されてみれば当たり前に感じますが、古代の文語中国語に堪能な著者ならではの議論だと感じました。江戸時代の日本人にも漢文が良くできる人がたくさんいたからおかしな表現は指摘できたのでしょうが、史料批判の考え方の点で今一歩だったんでしょう。
国語学会では著者の説はすでに定説となっているそうです。史学の分野でも日本書紀を材料に論じるためには、著者の説にそのまま従うか、または漢文の知識で著者の説の当否を明らかにしてから議論をする必要があるのは確かですね。読んでいて、一つだけ気になったのは十七条憲法に関してです。著者は
『憲法十七条』は偽作だと私は考えている。拙著『日本書紀の謎を解く』では、憲法から十七項の倭習を掲出した。さらに前稿では、五井蘭洲が憲法の文章に加えた十六項の添削を紹介した。私は、憲法について『文体的にも文法的にも立派な文章』『正挌漢文』と見なす通説を批判したのである。 
憲法には正挌漢文から外れた誤用や奇用が満ちている(A)。憲法の誤用や奇用は、β群に共通する倭習である(B)。私はこれらの事実を総合して、憲法を偽作だと判断したのである。
と、本書の中で述べています。これだけだと、偽作とする論拠が弱いように感じて、前著を読みなおしてみると
以上、憲法から十七例の倭習を摘出した。憲法を『文体的にも文法的にも立派な文章』と見なす通説は誤りである。果たして、憲法は太子の真作なのか。幕末の考証学者、刈谷棭斎の『文教温故批考』は、書記には作者の全文を載せた文章がないことを理由に、憲法を「日本紀作者の潤色」と見なした。私も偽作説に立つ。ただし、棭斎の根拠だけでは薄弱である。憲法の倭習は、その大半が憲法以外の巻二二の本文にも現れていた。巻二二だけではない。β群に一般的な倭習なのである。金石文などに残された推古期遺文や白鳳期遺文にも、倭習の勝った文章がある。しかしそれらは概して、憲法やβ群の文章に比べて古色を帯びているように感じられる。憲法とβ群との倭習の共通性は無視しがたい。憲法の制作年代は、β群の述作年代に近かったのだろう。かなり新しい時代のものと推測される。少なくとも、書記の編纂が開始された天武期以後であると私は考える。
と書かれていました。私も著者の言うとおりに、十七条憲法が聖徳太子の作だとは思いませんし、日本史の研究者の多くも偽作と見なしていると思います。著者は日本書紀の記述の特徴、語法から論じている人なので、十七条憲法偽作説もその観点から実例で論証してほしいなと感じます。特に、著者は誤用・奇用といった特徴から日本書紀αβ両群のそれぞれ複数の筆者を識別したり、風土記の述作者の能力を推し量ろうとしています。十七条憲法の倭習が、推古期にはありえないもので、単に十七条憲法の起草者(聖徳太子??)の書き癖ではないことを示して欲しいのです。例えば、現存する推古朝期の文字史料に見られる倭習は朝鮮半島からの影響が色濃い百済習的な倭習なのに、日本書紀の中の十七条憲法の文章に目立つ倭習は天智・天武期の日本人の書いたものによくみられる倭習なので後になってつくられたものだとかいった具合に。そうでないと、十七条憲法は日本人のつくったものだから、倭習紛々たる文章なのは当然だと主張する人が出てこないとも限らない気がします。

2011年11月25日金曜日

Time Capsuleのファームウェアをバージョン7.6にアップデート

昨夜ふと気づくと、Time Capsuleのステータスランプがゆっくりオレンジに点滅しているのに気づきました。ネットには問題なくつながっていて、ほんとに何気なく見たら点滅していたのです。2008年3月の稼働開始以来、もう3年半以上が経つので、そろそろ寿命なのかなと感じてしまいました。

とりあえず、AirMac ユーティリティでチェックしてみると、「Time Capsule 802.11n(第1世代)が問題を検出していることが報告されました」、「新しいファームウェアバージョンにアップデートする必要があります」とのことです。アップデートのボタンを押すと、Time Capsuleの再起動もあわせて数分で終わりました。でも、Time Capsuleがこうやってファームウェアアップデートの必要をオレンジの点滅で知らせてくれたのは初めての経験です。もしかするとこれまでにも知らせていてくれたのかもしれませんが、気づいたことがありませんでした。
このアップデート7.6では、セキュリティのほかに、重複するワイヤレスネットワークのパフォーマンスに関する問題も解決してくれると書かれています。WiFi機器を利用している人がとても増えているようで、iStumblerというツールでみると、今この時間だけでも17軒のネットワークが検出できます。Logitecが2軒、coregaが3軒、Buffaroが5軒などで、Apple製はうちだけのようです。
まあ、シェアはおいといて、これだけ周囲にWiFiステーションが増えると問題があるのかもしれません。うちでは、夜10時以降くらいになると、Time Capsuleから一番遠い部屋でiPadが接続がぎこちなくなります。もしかすると、これが「重複するワイヤレスネットワークのパフォーマンスに関する問題」なんでしょうか?これまでは、(技術に疎いので、意味のある行為かどうかは不明なまま)周囲で使われてなさそうチャンネルを割り当てて対応していましたが、このアップデートで解消してくれるなら幸いです。

2011年11月23日水曜日

日記で読む日本中世史

元木泰雄・松薗斉編著
ミネルヴァ書房
2011年11月20日初版第1刷発行
以前、編者の一人の松薗斉さんの書いた王朝日記論(2006年、法政大学出版会)を読んだことがあります。日記の家、日記をはじめとした文書・記録類の保管法として文車の利用が紹介されていたり、日記をつけることを止める時、公事への日記の利用の終焉など、かわった視点でまとめられていてとても興味深く読みました。日記という史料は面白いんだなという感想を持ち、同じ方が編者となっている本書が近所の書店で平積みになっていたので、即買ってきました。
本書は、院政期以降の16の日記について記主の略歴とその特徴や面白さを、各日記の研究者が紹介してくれています。材料が豊富な日記という史料の性格もあるのでしょうが、どの章もとても面白く読めました。残念なのは、索引や史料を除いた本文は300ページ弱しかないので、どの日記についてももっと分量があればと感じたことだけです。各章末にはきちんと参考文献が紹介されているので、「もっと」と感じた人はそちらを読んでくださいということなのだと思います。
勉強になった点を紹介すると、たとえば明月記。日本史の分野で史料としてつかわれているのを目にすることが多い日記ですが、文学作品として評論の材料に使われた堀田善衛さんの定家明月記私抄・同続編(ちくま学芸文庫)も面白く読んだ記憶があります。定家明月記私抄で最初に取りあげられているのは、かの有名な「世上乱逆追討耳ニ満ツト雖モ、之ヲ注セズ。紅旗征戎吾ガ事ニ非ズ」です。堀田さんはこの文が治承寿永の内乱に関連したものと考えて著作を続けていますし、私も当然そうに違いないと思っていました。ところが、現存する明月記が後に清書されたものであることから、この文は承久の乱後に承久の乱と絡めて書き加えたものという説があるとのことです。まあ、本書の明月記を担当した筆者はその説には与しないとのことですが、それにしても史料の解釈って難しいし、また新説を提唱した方の柔軟な考え方にも感心しました。
そして、看聞日記。記主の貞成親王は「落ちぶれゆく宮家の皇子(それも嫡子ではない)」と書かれているくらいで、40歳になってようやく元服し、兄の死で46歳で宮家を嗣いで親王になった人です。この人の日記が残ったのは息子さんが後花園天皇になるという僥倖をつかんだからでしょう。この看聞日記については、横井清さんという方の書いた室町時代の一皇族の生涯(講談社学術文庫)を以前読み、文人として生活していた様子や、将軍義教に対する恐怖や、先々帝の意向に逆らって息子から太上天皇の尊号を贈られたたことなど、興味深いエピソードが書かれていました。ただ、一つ腑に落ちなかったのが、貞成親王が40代になるまで出家もせずに部屋住みみたいな身分を続けていたことです。貞成王は琵琶の修行に励んでいて、彼を養育した今出川家が「貞成の音楽に対する『器量』(才能)と『数寄』(関心)」をかっていたからだろうと本書には説明されていて、納得できました。
直筆の日記が残されているものはそれほど多くはなく、また直筆とされる日記でも、後になって清書されたものが多いのだとか。自分のためだけではなく、自家の存続のために行事などを細かく記録したわけで、子孫がさらに利用しやすいように整理して清書したのでしょうね。でも、清書されていない直筆の日記も残されていないわけではないでしょう。例えば、本書の取りあげている日記とは時代がずれますが、御堂関白記を展覧会で目にしたことがあります。きちんと罫線を引き、濃い墨色のしっかりした文字で日付などが記入されている具注暦に、薄い墨色で大胆というかへたくそというか、暦の文字よりずっと読みにくい字で書かれているのが印象的でした。あれは、直筆のままかなと思います。墨は磨ると腐るから長持ちはせず、毎日磨るものですよね。家の召使いではなく、自分でいい加減に磨ったからあんなに墨の色が薄いのかなと感じました。直筆の日記が残っている人については、そのへんがそれぞれどうなっているのかも知りたいものです。その人の性格も分かりそうな記がするので。また、日記はいつ書いたんでしょう。深夜まで行事が続いたりお酒を飲んだりすることも少なくなかったのでしょう、貴族の方々は。記主によっても違うとは思いますが、帰宅してからその日のうちに疲れた体で日記をつけたのか、それとも翌日落ち着いた気持ちでしっかりと墨を磨って書いたのかも気になります。

2011年11月20日日曜日

工場の哲学

中岡哲郎著
平凡社選書2
昭和46年12月25日 第3刷発行
機械化、オートメーション化、コンピュータの利用、流れ作業などで大量生産が可能となった高度成長の時期に書かれた著作です。技術の進歩と大量生産の実現で労働時間の短縮が可能となり、やがては労働の止揚につながると楽観的に考えた人もいた時代だったようで、それに対する異論、新しくなったように見える生産現場にも古くからの問題が残っていることを指摘しているのかなと感じました。日本国内でモノの生産に従事する労働者の数はこの著作の時代に比較すると減ったでしょうが、モノをより安くつくれるとされている中国などに問題ごと生産現場は移動していったわけですから、著者の問題意識は現在にも通じるところがあるのだと思われます。工場での話が主にとりあげられているのですが、市役所の書類発行窓口業務や、コンピュータのソフトウエア製作、病院での外科手術などのサービス業にも目が配られていて、こちらの方は現在の日本にももちろんたくさんあるわけですし、事情が変化しても現在の日本が労働する者の楽園になってないのは確かです。というより、職にありつくことの難しい人が少なくない現在の日本では、本書のテーマよりももっと原初的な、失業、格差・差別の方が問題としては深刻になってしまっている感もありますが。
控えめですが、マルクスの著作からの引用があり、文化大革命期の中国に対する期待が表明されたり、社会主義に優位性が期待されたりなど、この時代の雰囲気を伝えてくれる史料としての意味は充分に感じ取れました。しかし、この頃もまた現在でもこの分野に関する著作に接したこと・接しようとしたことも・考えようとしたこともほぼ皆無の読者なので、内容を咀嚼しての評価が私の能力を超えているのが残念です。

2011年11月18日金曜日

平家物語、史と説話

五味文彦著
平凡社ライブラリー746
2011年10月7日 初版第一刷
本書のまえがきには、平家物語を文学作品として評価するのではなく、「いかなる質の歴史史料であるかを問う」ことをテーマとしている旨が書かれています。平家物語の中に描かれているエピソードを日記など他の史料に描かれているそのエピソードの記録との対比、平家物語に取りあげられたエピソードはどの時期のどの組織・人に関係するものが多いのか、多く登場する人物は誰でその人物に対する評価は好意的かどうか、登場人物同士の交流、などの視点から分析され、そこから原平家物語作成の元となった資料や作者の推定がなされます。徒然草に平家物語の作者として名前の挙げられている信濃前司行長ですが、著者はこういった手法を使って、彼が八条院・九条良輔に仕え九条良輔の死後に出家して平家物語を書いたのだろうことや、また平家物語の資料としては行長の父藤原行隆の日記も使われただろうことを推定しています。
20年ほど前に同じ著者の書いた「吾妻鏡の方法」を読んだことがあります。吾妻鏡の中に記されたエピソードや人物から、吾妻鏡の書かれた目的や作者像を探る手法にとても感心したものですが、本書もその手法がつかわれていて、実は本書の方が先に書かれたものだそうです。作成の意図・政治性や作者のはっきりしていない編纂物を歴史史料として使う場合には、こういった手法による分析が求められるということなのでしょうね。ただ、「吾妻鏡の方法」にしても本書にしても、いろいろな文献からひろく材料を採って著者独自の手法を使って料理するという感じに書かれているので、無味乾燥なんかではなく、とてもおいしく読める本でした。また第三章では、古今著聞集について同様の手法で分析がなされ、史上有名ではなかった著者橘成季について、どんな人かどんな環境で書いたのかが推定されています。史料が少なくとも、鋭い分析と想像力で、かなり豊かに復元されています。
源頼朝が以仁王の令旨を旗印に挙兵したことはよく知られていますが、以仁王がどんな人だったのかはよく知りませんでした。本書の中で「平氏の擁立する後白河から高倉・安徳へという皇統」とは別に、「八条院をバックにした二条から以仁王へつながる皇統」を擁護する勢力があったこと、高倉天皇の皇子の立太子で即位が望みが立たれた以仁王が後白河の平家による幽閉を契機に、源頼政の勧めで蹶起したと説明されていて、納得しやすい構図だと感じます。 さらに「以仁王の元服に関係して解官された行隆は行長の父であった」とここにも行長の関係者が出てきました。



本書には、保元の乱後に実権を掌握した信西についての考察も収められています。官方・蔵人方・検非違使方といった実務機構に息子・腹心を配し、権力を掌握した信西政権は、荘園整理と内裏造営によって「荘園・公領の秩序を画定し新たな『国家』体制を創」ろうとしたと説明されています。特に、京の秩序を保つうえでも平氏の軍事力は不可欠で、中世的な政権の萌芽はここにあるとのこと。その後、息子が蔵人と検非違使をやめた後の補充ができず信西は情報に疎くなり、源義朝の挙兵で最期を迎えます。平清盛の留守を狙っての挙兵でしたが、いったんは南都に逃れた信西が清盛との合流をめざさなかったこと、平治の乱後に清盛がおいしいところをさらったことなどから、清盛の熊野詣は挙兵を誘ったもので、信西も清盛がすでに頼りにならなくなったことを悟っていたのではないかと著者は推測しています。とても魅力的な仮説ですね。
日本には古い史料が豊富にあるので、たくさんの史料に目を通している人には900年前の出来事とそれを取り巻く人びとの関係でさえ、まるで推理小説のプロットをこさえるかのように、追うことができるんですね。脱帽。

2011年11月13日日曜日

日本帝国の申し子

カーター・J・エッカート著
草思社
2004年1月30日 第一刷発行
植民地時代の朝鮮で民族資本による企業として大きく発展した京城紡織株式会社について、その創設者・経営者・発展や拡大の要因・取引先・朝鮮人労働者との関係・植民地当局との関係などを包括的に説明し、ひいては当局との癒着ともいうべき関係が韓国の高度成長にもつながったことを示唆している本です。著者はアメリカ人ですが、京城紡織関係者とのインタビューや会社に残されている史料なども利用して本書を書き上げたのだそうです。
韓国の研究者の中には京城紡織を民族資本・朝鮮の工業技術のみにもとづき、朝鮮人のみを雇用し、朝鮮人の経営したモデル的な企業として描いている人がいるのだそうです。しかし実態がそうではなかったことを、「京城紡織50年」「京紡60年」といった社史をも含めた史料から、著者は明らかにしています。第一次大戦中の好景気を背景に、三・一運動後の朝鮮総督府は方針を転換して、朝鮮人資本家による企業の設立を認めるとともに、その保護育成をはかることにしました。京城紡織もそれをうけて設立され、朝鮮総督府からの補助金は創業後の苦境を乗り切ることに役立ちました。株式の出資者の過半数は朝鮮人でしたが、経営に不可欠な借入金は主に朝鮮殖産銀行にたより、原料の購入と製品の販売は伊藤忠など日本の商社に依存し、また商業金融を受け、製造設備は豊田織機などの日本の企業の製品を使用していました。総督府や殖産銀行などからの便宜の供与を容易にするため、京城紡織の経営者は総督府の高級官僚や殖産銀行の幹部と個人的な友好関係を保つようこころがけていました。日本国内の日本人経営の企業でも同じようなことをしていたと思うので、京城紡織のとった個々の行動について読んでいてちっとも不思議だとは感じません。経営者にとっては企業の発展のためにする当たり前のことだったでしょう。しかし、著者はこういった事実の記述に際して「日本の帝国主義を弁護するものでは決してない」と繰り返し本書に書いています。アメリカ人や日本人が読めば当たり前と感じることでも、朝鮮の読者から冒瀆と非難されることを著者は覚悟しなければならなかったのだと思います。
総説としてはとてもよく書けているし、読みやすく翻訳された本だと思います。ただ、読んでいるともっと知りたくなることが出てきます。たとえば、製品や販路の問題。京城紡織は、東洋紡のトリプルAブランドの広幅綿布に、値段は若干安くした自社の太極星ブランドの綿布で競争を挑んで、東洋紡の高品質とブランドに勝てずに失敗したことがあったそうです。このため京城紡織は競争を避ける戦略をとりました。日本企業の競争力の強かった高番手綿糸をつかった薄い綿布ではなく、より厚手の綿布。日本企業の競争力の強かった朝鮮南半部からは意図的に手を引き、低価格と愛国心の宣伝がより意味を持つ、貧しい住民が多く民族主義的な傾向が強い朝鮮北部に販路を求めたこと。さらには満州へと販路をもとめたことなどが、それにあたります。でも、朝鮮の南部向けと北部向けの販売高、製品の内訳やその製造・販売数はどれくらいだったのか、その数値は示されていません。また日本企業はインドや中国の企業との競争で、綿糸の高番手化・薄手綿布の製造にシフトすることになったと思うのですが、工場法がない朝鮮に立地し日本よりも労賃を低く抑えることのできた京城紡織は、インドや中国企業なみの行動をとったということでしょうか。できればこの時期の日本の紡績企業・兼業織布メーカーとの比較なども含めて解説が欲しいところです。さらに民族企業が必ずしも有利でなかったという記述には興味を引かれますが、「朝鮮の企業の製造した綿布を買って下さい」と宣伝した時の効果の南北での違いについても具体的な説明が欲しいところでした。



あとひとつ本書を読んではじめて知り、驚いたこととして、朝鮮では綿花の栽培を続けていて、朝鮮内の紡績会社(京城紡績と釜山の朝鮮紡)が使用するのに充分な量の綿花の収穫があったそうです。ただし在来種ではなく、アメリカの長繊維種の栽培を奨励していたので、収穫された綿花は高番手糸用に内地に移出されたものが多かったとか。開国前後に朝鮮から綿布を輸入したことは知っていましたが、朝鮮半島には日本より綿花の栽培適地が広かったのでしょうか。それとも日本国内では人件費を含めた栽培経費と機会費用の点でつくらなくなったが、朝鮮では栽培による収益と経費とが見合ったということだけなんでしょうか、不思議。

2011年11月6日日曜日

停滞の帝国

大野英二郎著
国書刊行会
2011年10月初版第一刷発行
停滞の帝国というのは中国のことですが、中国の停滞の様子を主なテーマとした本ではありません。近代西洋における中国像の変遷というサブタイトルがついているように、中国の様子を見たり、聞いたり、読んだりしたヨーロッパの人たちの主張を時代ごとに並べ、ヨーロッパ人の側にどういう変化がなぜ起きたのかを丁寧に跡づけてくれています。
アヘン戦争、太平天国、日清戦争、辛亥革命など中国自体の変化が契機とならなかったわけではありませんが、ヨーロッパの人が中国を停滞、退行の状態にあると判断し、中国人が白人に劣る黄色人種であことから停滞しているのだと考えるようになっていった主な要因は、ヨーロッパの側の変化にあるということが説明されていました。つまり、ヨーロッパ人の中国観を材料としてヨーロッパ精神史が書けるわけで、目の付け所がシャープですよね。
ヨーロッパにはマルコポーロ以前から中国に関する情報が入り始めていたそうですが、本書で主に扱われているのは16世紀以降のことです。はじめに中国に関するまとまった情報をもたらしたのは宣教師たち、特にイエズス会の宣教師でした。彼らは、数々の発明にも関わらず、絵画、活版印刷、鋳造、彫刻などの分野で中国の科学技術がヨーロッパに劣ると指摘する一方で、日蝕の記録からその正確さを確認できる歴史記録がかなり古くから残されていること、科挙と官僚制、物産の豊かなことなどを伝えました。特に、ノアの大洪水以前までさかのぼりそうな中国史の長さは、ヨーロッパの人たちの間で聖書への信頼を揺るがすことにつながることにもなったそうで、説明されてみればそれはそうだなと感じましたが、これまで知らなかったことなので驚きました。本書でも、はじめは中国に宣教・商売・外交の仕事で実際に訪れた人の体験記が扱われ、時期が遅くなるとそれらの記述を元に中国を論じる人も増えます。カントやアダムスミスやダーウィンなどなども中国について発言していたのだそうです。それにしても、ヨーロッパをいいところも良くないところもあわせて相対化できる人・人種の差別をしない人が長いこと出現しなかったことには驚かされます。
中国文明が古来から一定の水準に達していたという認識は必ずしも好意的な評価にはつながりませんでした。遠い過去からしっかりした制度・文化を維持してきた・変化の少なさ=停滞とマイナスに考えられるようになったわけです。実際には王朝がいくつも交替し、文化面でも例えば儒学においては朱子学・陽明学などの革新が行われたわけですが、それらは無視されます。その後も、清朝治世下の中国自体に大きな変化がなかったにも関わらず、18世紀中葉以降には、進歩するヨーロッパに対して中国文明は停滞・退行と認識されるようになりました。これって、古い時代にはヨーロッパよりも中国の方が進んでいたことがあったと考えなければいけないはずなのに、それを停滞と判定してしまうことの傲慢さには呆れる感じがします。西・北ヨーロッパ人にとってもギリシア、ローマの文化は自分たちのもので、自分たちが過去から一貫して中国に劣っていたはずがないという意識していたのでしょうね。
西洋の黄昏、中国の黎明という終章は、ウエーバーからニーダムまで、革命と戦争、新中国の20世紀をとりあげています。スメドレーやスノーに始まる共産党と新らしい中国についての紹介は、16世紀にイエズス会の宣教師が中国事情を報告したのと同じような感じがします。新王朝の実態が外からはよく分からなかったという点でも。しかし「近代西洋における中国の停滞あるいは不変の神話に限るならば、20世紀中葉から末葉にかけて、中国の変貌と西洋自身の意識の変化が相まって、徐々に、しかし確実に消滅していった」と著者が本書を終えているように、その点について変化があったことはたしかですね。