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2011年12月31日土曜日

環境から解く古代中国

原宗子著
大修館書店 あじあブックス065
初版第一刷 2009年7月1日
象形文字の「象」が示すように、古代の中国には象が住んでいました。森の中の動物は殷の王の狩猟の対象となり、あたりでは稲作も行われていたのだそうです。しかし、それとは対照的に、現在の黄土高原は黄砂をとばし、黄河を黄色く染め、断流もしばしばの状況です。こういった変化がどうして起きたのか。気候の変化とそれに対する農業などの産業の対応を、殷代から明代までの史料からさまざまな興味深いエピソードを示しながら説明してくれる本でした。たとえば、
ファンの多い『三国志演義』に描かれた「三国鼎立」の状況から、曹操が最終的に抜け出したように見えるのも。実のところ、曹操の軍団には「寒さに慣れた人々」が多く参加したことがポイントだったように思われます」黄河の凍結がおこるなど、三国時代が最も年平均気温が低かった。 
やがて温暖期を迎えた環境条件の下、唐代の国際交流ーシルクロード交易は盛んになりました。中央アジア地帯への雪解け水の流入量が温暖化によって増したようで、オアシス都市を結ぶ隊商の活動も活発化したと考えられます。
こういったエピソードに示されるように、温暖化、寒冷化という気候の変化は大きな影響を持っていたようです。中国では王朝の交替がいくつも行われましたが、王朝の衰退の原因としてこういった気候の変化があったのだろうと感じます。また、乾燥した中国の内陸部では灌漑すれば農業生産に利するとばかりは言えず、畑作灌漑が耕地のアルカリ化をもたらすことも指摘されていて、勉強になります。それに対して、中国のことではありませんが、
稲作は、イワシや貝、アラメなどの海草類、といった海の所産によって何百年も支えられてきたのです。これらは、人が食料として摂取するだけでなく、限られた土地で連作を続ければやがて収穫率の落ちてゆく穀物生産を継続するのに不可欠な、肥料として使われてきました。貝塚を残した縄文人以来、基本的に牧畜をしないで、主たる蛋白質源は海産物だったのですから、人糞尿だってエコロジカルに考えれば日本では海の所産です。
と書かれています。海草や干鰯、鯡粕が肥料として使われたことは周知のことですが、物質循環にまで目を向ければ、たしかに人糞尿も海の所産といえそうで目から鱗の指摘です。日本はエコロジカルには有利な位置にあるわけですね。それに対して海の恵みを期待できない内陸中国で地力維持の役割を果たしていたものについては
養蚕の産業廃棄物ー蚕矢の耕地への投下は、穀物生産による地力減退から、何とか華北の大地を救ったのです。絹はいうまでもなく、前近代屈指の「世界商品」でしたが、中国から輸出される絹の生産こそ、中国の大地を沙漠化から護ったものでもあったのです。
と書かれていました。シルクロードを通して輸出される絹製品は主に山西省あたりで製造されていて、その原料を製造する養蚕業の廃棄物が山西省の農地の維持に役立っていたこと。時代が移って明代になると西域を支配することができず、絹製品の輸出は海路が主になり、絹織物業やその原料を生産する養蚕業も沿海部に移動してしまったこと。絹織物業養蚕業の衰退した山西・陜西地方では、桑の木が減って表土飛散・水土流出をもたらし、養蚕業の廃棄物が投入されることがなくなった農地は有機物を失い団粒構造をとらない荒れ地となったこと。したがって、黄土高原の森林喪失は明代に始まるというのが著者の説明でした。
これまでこういう説を知らなかったのでとても勉強になります。ただ疑問に感じる点もあります。蚕矢は有機物を耕地に供給する意味だけで、さなぎという形で窒素肥料を供給するという意味がなかったのかという点がひとつ。また、養蚕業自体の持続性はどう保証されていたのかということです。養蚕業は桑の葉に含まれるタンパク質・アミノ酸を、蚕に絹糸タンパク質という形に変換・濃縮させ、生糸・絹織物の原料の繭を生産する産業です。桑の木は土壌に窒素が供給されなければアミノ酸・タンパク質を豊富に含んだ葉っぱをつけることができないと思います。稲妻で合成された窒素酸化物が雨に溶けて降ってきたものだけが原料で充分だったのか、それとも放牧した動物の糞などもつかっていたのか。物質循環はどうだったのかというあたりです。
あと、本書の扱っている範囲からは外れますが、長江流域から華南にかけての地域には農地の持続可能性に支障はなかったのでしょうか。日本と同様に降水量が多く湿潤なので、木を伐っても自然とまた生えてくるし、農地が荒廃するような条件もなかったということでいいのでしょうか。宋代以降の中国は長江流域から華南にかけての産業に依存していたのだと思うので、この点も気になりました。

2011年12月29日木曜日

律令制研究入門

大津透編著
名著刊行会
2011年12月19日 第1版第1刷発行
2010年に発行された東方学会の英文紀要が律令制の比較研究を特集していて、そこにおさめられた4本の概括的論文が本書の元となったそうです。本書の第一部はその4本の論文、第二部には律令の各論についての論文4本、そして第三部には編者による律令制の研究史のまとめなどが収められています。
一読してみて、本書が「律令制研究入門」で「律令制入門」でないという印象を受けました。特に具体的な領域を扱った第二部の論文は、古代の日本についての知識をある程度もっていることが前提として書かれています。また、論証のために引用されている条文には、返り点が付されていますが、読み下し文はありません。読み下し文がないと、私の場合はかなりゆっくりと確認しながらでないと読めませんでした。でもどの論文も論旨は明解なのでなんとか理解できたかなと思います。
第一部は外国人向けに日本の律令制の実態を紹介する論文なので分かりやすいし、第三部の研究史のまとめともあわせて、専門的な知識がない私には基礎的な事項がとても勉強になりました。たとえば、
  • 日本が律令法典を編纂し、体系的な律令制の摂取が可能であったのは、唐朝の冊封を受けていなかったことが大きかった
  • 天武・持統朝における律令法典の編纂、律令制の体系的摂取とは、主に唐朝との軍事的な緊張関係による軍国体制形成のためになされた
  • 792年、桓武天皇は返要の地を除き、軍団兵士制すなわち徴兵制度を廃止した。これ以降、編戸制・班田制・租庸調制といった諸制度が次第に衰退してゆくことになるが、それは社会変動のためだけではなく、何よりも軍国体制の放棄によって徴兵制度に深く結びついていた諸制度を維持する必要性が失われたことも大きい
  • 北朝隋唐の均田制は、大土地所有を制限する限田制的要素と公民一人一人に一定額を支給する屯田制的要素とを持っていて、熟田だけでなく、未墾地や園宅地も含めて規制し、荒廃と開墾の繰り返しである現実の再生産過程を包括的に規制できる弾力的な制度であり、給田額正丁一人百畝の応受田額は理想ないし上限であり、均田制は一種のフィクションを内包していて、実際に全額支給されるわけではなかった。それに対して日本の班田制は、屯田制的要素だけを受け継ぎ、男一人二段の規定は全員に現実に支給する額なのであり、熟田だけを集中的・包括的に規制する制度である。園宅地も未墾地も律令国家の規制の埒外に放置されていた
などなどです。第三部の最後には「北宋天聖令の公刊とその意義」が載せられています。唐令は散逸していて日本令などからの復元研究が日本人の手で行われていました。しかし1999年に寧波の天一閣で唐令の情報を豊富に含んだ北宋の令の写本がみつかった(世紀の大発見)のだそうです。これまでの研究とあわせて唐令の復元や日本令の散逸した部分の復元や日本に特有な部分の研究がさらに進む可能性が示されていて、面白く読めました。

2011年12月24日土曜日

湾岸戦争大戦車戦 上・下

河津 幸英著
イカロス出版
2011年7月10日発行(上下巻とも)


もうこの湾岸戦争も20年以上前のことになります。当時、GPSという高度な装置の存在を知らされたり、テレビで誘導爆弾の命中する映像をみせられたりなどして、ハイテクを利用した戦闘でアメリカ軍がイラク軍に圧勝したという印象を受けました。でも本当のところはどうだったのか、著者は本書で、アメリカの公刊戦史や当事者の回想録などを資料に、上下巻合計で750ページ以上を費やし、アメリカ(多国籍軍)に勝利をもたらしたハイテク装備、兵站、部隊の練度・士気と、それらを利用した作戦、実際の戦闘の模様が多数の図・写真とともに解説してくれています。例えば、各戦闘に参加した部隊の編成を示すのに、M1A1が何輛、M3が何輛と文字で記すのではなく、M1A1のアイコンを編成に含まれている数だけ並べて図示するなど。そういう表現は近年のビジュアルな雑誌・ムックで多用されていますが、本書は雑誌に連載された記事をまとめたものなのだそうです。 背景説明や機動・戦闘の様子を示す地図もたくさん載せられていました。そんな本書を読んでの感想は以下の通り。
イラクは多数の東側兵器をもつ世界的にも有力な陸軍で、しかもイランとの戦争で実戦経験も豊富で、自信を持ってクエート防衛に兵力を配備しました。対するアメリカは相応の損害を覚悟して、かなり時間をかけて本国とヨーロッパから航空機、ヘリ、多数の戦車・歩兵戦闘車・支援車輛などを多数送り込んで準備しました。しかし実際に戦いが始まってみるとアメリカ軍の圧勝で、装備の質の差が大きく影響したようです。たとえば、イラク軍の主力戦車T-72は装甲防御でも徹甲弾の貫徹力でもアメリカのM1A1に大きく劣り、特にサーマルサイトによる暗視能力に大きな差があることもあって、遠距離から知らないうちに撃破されてしまうことがほとんどだったそうです。それにしても、装備の質の差は織り込み済みだったはずのプロの軍人どうしの予想が実際と大きくかけ離れてしまった理由は、本書を読んでも腑に落ちません。アメリカの軍人は大げさに考え、イラクの軍人は自軍の能力を過信していたというだけのことなのでしょうか。本書は丁寧に書かれていますが、史料の欠如からかイラク軍側の様子がほとんど触れられていません。その結果、アメリカ軍の圧勝だったという記憶を確認してくれただけという印象は否めません。とても本書の帯にあるような7000両の戦車が「激突」なんていう風には読めませんでした。

捕虜になることを希望して投降する者が多数出現して対応に困るほどだったそうですが、イラク軍兵士の士気はどんなものだったのか。イラク軍兵士の捕虜と戦死者の比率は推定戦死者数2万5千人に対して捕虜が8万6千人あまりだったそうですから、当時報道で危惧された不必要な虐殺行為が横行したわけではないようです。また、イランイラク戦争でもこの湾岸戦争でもフセイン大統領がヒトラーのように独裁者として振る舞い、陸軍の将校は積極性・自発性を発揮できなかったことも大敗の原因としてあげられていました。それなら、もっと士気の高い兵士がもっと能力の高い将校の指揮を受けて守っていればアメリカ軍の被害はもっとずっと増えたと言えるのか、その点についてはもっと突っ込んで解説してほしかったところです。

また湾岸戦争が、イラクの装備していた東側の兵器に対する評価を大きく下げたことは確かだと思われます。それら兵器を生産・装備するロシアや中国に与えた影響はどんなものなのでしょう。その後の20年で、アメリカの兵器に匹敵するようなものに更新してしまって、もう影響は残っていないのでしょうか。


さらに、本書を読んでいると、誤射誤爆同士討ちで少なからぬアメリカ軍人が損害を受けています。アメリカ(イギリスも)の戦死傷者の原因はイラク軍によるものと比較して誤射誤爆によるものがかなり多く、アメリカの戦死者の四分の一は同士討ちだったと述べられていました。両軍の武器にハイテクで格段の差があった湾岸戦争でこの結果ですから、もしかすると第二次大戦などでも誤射誤爆による死傷は無視できない数だったのかも知れないと感じました。

2011年12月18日日曜日

江戸城 本丸御殿と幕府政治

深井 雅海著
中公新書1945
2010年5月30日 5版
江戸時代の大名を類別する際に一般的に用いられるのは、将軍との親疎関係により親藩・譜代・外様の三つに分ける方法である。しかし、江戸幕府が大名をこのように分けた史実はなく、大名の家格としては存在しなかったのである
では史実ではどうなっていたのかというと、武鑑の毛利家の項を例に、江戸城に登城した際の控えの間=出席する大名たちの殿席と官位によって大名が類別し統制されていたと述べられています。大広間詰とか帝鑑之間といった言葉については知っていたので、本書もそういった説明で終わる本なのかなと思って読んでいくとそうではありません。江戸城の本丸御殿の絵図が示され、大広間や帝鑑之間といった部屋の大きさがどのくらいでどこにあり、将軍のいる奥との距離はどうかといったことが図示されていて、幕府の大名に対する扱いが客観的かつ具体的に理解できます。
また、老中の執務室である御用部屋とが時期によって変遷し将軍のいる奥から離れていったこと、老中が出勤して執務室に歩いてゆくルート、老中が執務時間中に部下たちの勤務場所を歩いてまわる「廻り」を毎日行って情報交換をしていたことなどが絵図上に示されています。老中・若年寄を表の長官・副長官とし、奥右筆を政務秘書官と呼んでいることともあわせて、理解しやすく工夫されています。
このように、江戸幕府の政治の仕組みとその動き方を54のテーマにわけて、表と奥と大奥に分かれた江戸城本丸御殿の構造・部屋割り、幕府の各部署に所属した人の数・出身・在職期間といった客観的な証拠から、説明している本でした。 本書には以前に読んだことのある旧事諮問録からもいくつか引用されていますが、本丸御殿の内部が示されているだけに一層理解が深まります。本書には本丸御殿と幕府政治というサブタイトルが付されていますが、まったくそれにふさわしく、しかも斬新な内容の本で、とても感心させられました。本書の方法は、例えば発掘された平城宮などの構造から朝政・朝儀の様子を考えたり、日記や記録類に加えて内裏の建物や部屋の配置図を平安時代の政治活動を理解に役立てたりすることと、似ている感じですね。現在でも、国会や地方議会の議事堂の内部構造には似ている点が多いし、裁判所の法廷も類型化されているので、そういった材料から、政治活動や裁判の実際の進められ方を論じることもできそうです。

その素晴らしい本書ですが、収録されている図版が小さくて説明に付されている文字が小さくて読みにくいという点だけが欠点です。収録されている図版は著者の他の著作などに収められていて、それらはもっと判型の大きなものだったのでしょう。新書版の小さなスペースに収まるように図が縮小されたので、文字も小さくなってしまったものと思われます。あらためて本文の文字と同じくらいの大きさで説明を入れ直してくれている図もあるのですが、 老眼の私が近視用の眼鏡をはずして、ようやく文字を読み取れるという図版がいくつもありました。
「小姓」が本書の中では「小性」と書かれています。「小性」と書くこともあるとは知りませんでした。そんなことも学べます。

2011年12月17日土曜日

読書雑志

吉川忠夫著
岩波書店
2010年1月27日 第1刷発行
中国の史書と宗教をめぐる十二章というサブタイトルがついていますが、その通りに、史記、漢書、三國志、高僧伝など中国の仏教、道教に関する書物とそれをめぐるエピソードを紹介した文章が集められています。あとがきで著者は「一般の読者を対象として執筆した文章」が集められているとしています。たしかに、それぞれの章で対象としている書物、その章に登場する人物やその時代背景などがもれなく説明され、また対象の書物からの引用も、白文ではなく読み下し文になっています。なので、門外漢にも一通りは見通しがつくようになっていました。ただ、とても面白いと感じて読むには、中国史・漢籍についてのある一定の基礎知識が必要のようです。勉強が足りないのか興味の方向が違うのか。 少なくとも現在の私は著者のいう「一般の読者」の域には達していないことが分かりました。残念。

2011年12月14日水曜日

Pacific Express

William L. McGee編著
BMC Publications
2009年発行
本書はAmphibious Operations in the South Pacific in WWIIという三部作の第3巻です。第1巻は上陸用舟艇について、第2巻はソロモンキャンペーンを扱っていますが、この第3巻はロジスティックの重要性について扱っています。
著者は徴兵適齢以前に、溶接工としてリバティ船の建造に従事し、その後、Naval Arms Guardの一員としてガダルカナルへの輸送船に乗り込みました。著者の乗り組んだ船団はガダルカナルで日本海軍の空襲を受け、著者も持ち場の20mm対空機銃で応戦しましたが、僚艦のLSTとAKが沈没しました。また帰路では潜水艦の雷撃でやはり僚艦のAKとDEが沈没するという経験をしていて、本書の中でもこの体験がなまなましく綴られています。また、ガダルカナルは高齢者にはきつい、ガダルカナルとツラギ基地の初代司令官は54歳だったが肺炎で後送され、2代目も50歳で障害を負って帰国したことなど初めて知りました。さて、その著者がこの第3巻で取りあげた主なテーマは
  • 開戦前の標準船の計画から、リバティ船・ビクトリー船をはじめとした戦時の急速建造とその実施主体となったMaritime Comission
  • 港湾・兵站・支援機能の乏しい南太平洋地域での作戦を可能とした支援艦艇
  • Seabeaの沿革、編成、ソロモンキャンペーンでの建設・港湾荷役任務での活躍
  • 急速に拡張されたアメリカ商船隊。不足する商船を陸軍・海軍・レンドリース・民間貿易に振り分けたWar Shipping Administration
  • 商船の防衛用の砲・機銃を扱うNaval Arms Guardの活躍
  • 大戦中に拡張されたアメリカ陸軍の船隊
などです。こういったテーマについては戦争中から戦後60年のあいだに語り尽くされている感もあります。ですので、本書におさめられている文章は著者があらたに書き下ろしたものではなく、アメリカの政府文書やこれまでに書かれた戦史から抜粋してきたものです。重要性の高い史料から選ばれたものだけに、私のような外国の門外漢にとってもとても勉強になりました。
例えば、戦前に策定した標準船を大量建造したかったのですが、タービン、ギアなどの供給が海軍艦艇優先政策で不足し、商船には入手可能なレシプロ機関を載せたので、速度の遅いリバティ船で我慢しなければならなくなりました。設計に時間の余裕がなく、石炭炊きを重油炊きに、船橋を一つになどの変更はされましたが リバティ船はイギリスの設計に準拠したものだったのだそうです。また、現在の眼で見るとアメリカ西海岸は東海岸に劣らないように見えるのですが、当時の工業施設の分布はそうではありませんでした。伝統ある造船会社は北東部に集中し、そこでは海軍艦艇の建造が優先されました。商船は新たに船台を設けて建造することになりましたが、人手や資材の供給を容易にするために、西海岸に多くの新造船所が設けられました。船台の増設は比較的容易だったので開戦後も造船計画は次々と拡張され、最終的には鋼板の供給がネックとなりました。鋼板不足で手空きの造船所が生じたことと、戦争目的と終戦後の利用を考えてもっと速い貨物船が望まれていたこともあり、リバティ船より速度も速くましなビクトリー船が建造されるようになりました。
戦前には、開戦後の輸送船には海軍が乗組員を提供して、陸軍部隊や資材を輸送する予定でした。しかし、開戦前からの海軍艦艇の新造で乗組員が不足し、計画は破綻しました。さらに陸軍が陸軍の計画にそった配船・輸送を希望したことや、新造船の配分などで陸海軍の合意がなかなかできず、 希少な資源である輸送船を有効活用するために、大統領の命令でWar Shipping Administrationがつくられたのだそうです。アメリカ陸軍は、輸送船・上陸用舟艇・タンカー・哨戒艇・タグボート、雑役船など多数の船舶を所有・運用することになりました。もちろん、海軍艦艇に比較すると小さな船ですが、隻数としては海軍の艦艇数を大幅に上回っていたのだそうです。
戦争中に1000総トン以上のアメリカの商船733隻が撃沈され、6700名の船員が死亡、670名が捕虜となったと書かれていました。日本の船員は6万名ほどが亡くなったのだそうで、10倍ちかい差があります。商船隊の規模を考慮すれば、その差はもっと大きいはず。こんな風に、造船でも護衛でも、アメリカが日本に比較してずっと贅沢な状態だったのは確かですが、日本と似た事情があったということも本書から学んだ点です。予算の面から日本海軍が戦闘艦艇優先で建造しなければなりませんでしたが、アメリカ海軍も1925年から1940年までに駆逐艦・巡洋艦・空母の数を倍増させましたが、補助艦艇の数は同じままでした。1940年の両洋艦隊法で新造の決定した125隻の戦闘艦に対し、補助艦艇は12隻だけだったのだそうです。また、機関の調達問題から性能の劣るリバティ船を建造しなければならなかったことは日本の第二次戦時標準船と似ていますよね。さらに「空母」まで所有したと揶揄される日本陸軍ですが、アメリカ陸軍も多数の船舶を所有していたということを知り驚きました。陸海軍と民需とで乏しい船舶をとりあっていた日本ですが、はるかに大きな商船隊をもつアメリカでも決して運用に余裕があると感じてはいなかったことが分かります。全体的にやさしい英語で書かれていますし、この分野の基本的な知識を得るためには悪くない本だと思いました。

2011年12月3日土曜日

贈与の歴史学

桜井英治著
中公新書2139
21011年11月25日発行
「おわりに」で著者は「本書における叙述の大半は中世後期、とりわけ15世紀の約百年間に集中することになった」こと、またその理由を「贈与が日本史上もっとも異様な発達をみせた時代だから」と書いています。たしかに本書に載せられている興味深いエピソードの多くはその時代のものなのですが、神に対する贈与が税に転化していった例として、初穂から租、調へが書かれているように、中世以前のかなり広い範囲にわたって目が配られています。また、本書は細々と多数の史料を並べて実証しなければならない専門誌や専門書の論文とは違いますから、わずか200ページあまりの中に興味深いエピソードと論点が本当にたくさん取りあげられています。800円でこれだけ内容の濃いものが読める本書はとてもお得だと思います。
例えば、 本書の帯にも書かれているエピソードですが、 貞成親王から送られた八朔の返礼を、後小松天皇は翌年にしたり二年分まとめて贈ったりしていました。その後小松天皇が重病になり死の近いことを自覚した10月に、当年の八朔の返礼を2ヶ月目という早い時期に自筆の書状とともに送ったのだそうです。借りを残さずきれいにしてから死にたいということだったんでしょう。このエピソードは貞成親王の看聞日記に書かれていたから分かったことです。おそらく史料がなくて究明不能でしょうが、後小松天皇が死を前にしてしたこと、他にも整理したことがなかったのか気になってしまいます。
また、土地をokoすことは土地にikiを吹き込むことだとむかしむかし講義で聴いたような記憶があって、徳政の起源に土地と本主の一体観念、復活・再生をみる学説が一般的なのだと思っていました。でも本書の中には「有徳思想にもとづいて有徳人に窮民救済という公共的機能を履行させたところに徳政の本質があった」という学説が紹介されていて、動産の取り戻しはこちらの方がうまく説明できるとのことで、勉強になります。
時間の経過とともに信用経済は深化してゆくものだとばかり思っていたので、 15世紀末から16世紀初頭に中世の信用経済が崩壊して割符が流通しなくなることは以前から不思議に感じていました。これは文書主義が蔓延し経済関係・人間関係までも証文化して譲渡可能にしていた職の体制の時代が終わったことと関連付けて理解すればいいわけですね。
贈与という行為に対する中世の人の考え方の多くは21世紀に生きる私にも理解可能だなと感じる点が少なくなかったのですが、へぇーっと感心する点はほかにもたくさん載せられています。
不用意な贈与が先例となり税・手数料と化すことがあるので先例化の回避がこころみられたこと
定例化して手数料のようになった贈与=役得は受け取りを遠慮しないことが望まれた。一旦執務の人である現職が、職に伴う役得を受け取らないと、次ぎにその職に就く人たちも受け取れなくなる不利に被るので
贈答品の流用・換金が当たり前で、贈与の相殺がなされていたこと
銭が贈答に用いられれるようになり、金額を記した折り紙を贈られ、銭そのものは後日送られた。銭の送付が遅くなると催促されるようにもなったこと
などなど、贈答が幕府・朝廷の財政に果たした役割や、貴族や寺社や武士の間の贈答の実際など、ほかにもいっぱい。ほんとに内容の濃い本でした。

2011年12月2日金曜日

帝国海軍の最後

原為一著
河出書房新社
2011年7月30日 復刻新版初版発行
本書の帯には「アメリカ、フランス、イタリアで翻訳されベストセラーとなった名戦記が待望の復刊!」と書かれています。それは単なる謳い文句というわけではないようで、私が本書の存在を知ったのも、アメリカのとあるウォーシミュレーションゲームのフォーラムで、推薦図書の一冊として挙げられていたからです。それを知った当時、日本では絶版になっていたのですが、この夏、日米双方で復刊されたようです。
著者は天津風の駆逐艦長として開戦を迎え、南方攻略作戦、ミッドウエイ作戦、ソロモンキャンペーンに参加しました。ソロモン戦の途中で第27駆逐隊司令に昇進して引き続き多数の輸送任務に従事し、また海戦でも活躍しました。その後、本土の水上特攻隊の司令として過ごした後、巡洋艦矢矧の艦長として戦艦大和の沖縄特攻の護衛を行い、最後は撃沈されました。この沖縄特攻では出撃前から死を覚悟せざるを得なかったでしょうが、さらに漂流という本当に死を予感させる体験もして生還した方なのですね。アメリカで本書が出版された理由のひとつは、ソロモンキャンペーンの戦闘に何度も参加し、しかも大和特攻も体験したという著者の経歴があるからなのでしょう。


本書を一読してみての私の感想ですが、「名著」とは言い難いところ。 当事者が書いた作品ではあっても一次史料ではない本書は、読者をひきつける魅力・おもしろさという点でも弱点があります。この戦争も70年近く前の出来事になってしまったわけで、興味深く読める作品をということであれば、本書自体を手に取るより、一次史料と本書のような当事者の著作などをもとにして読みやすくまとめた作家・ライターの作品を手に取るべきだと感じます。
本書の初版は1955年で、戦後しばらくしてから書かれたことが本書の記述からも明らかです。また152ページの記述から著者が従軍中ノートをつけていたことも分かり、そのノートを元に本書は書かれたのでしょう。しかし、そのノートがどれだけ詳しいものだったのか、少なくとも本書が臨場感あふれる作品に仕上がっているとは言えません。また戦後しばらくしての著作なのに、事実関係にも問題がないわけではないようです。
例えば、96ページから記載のあるコロンバンガラ輸送作戦。一般にはベラ湾夜戦(Battle of Vella Gulf)と呼ばれているそうです。この海戦で著者座乗の駆逐艦時雨は敵艦に魚雷を一発命中させたと記してあります。海戦後のアメリカの戦果の発表について「比較的正しく発表し」と評価しながら、時雨の与えた魚雷の被害についての発表がないことを「自国の損害一隻を忘れたのは、双方ともにありがちなことであろう」としています。実際には対戦したアメリカの駆逐艦には被害がありませんでしたが、著者は「その後の調査によれば、ムースブラッガー中佐指揮する駆逐艦六隻であった」としているだけで、アメリカ側の被害の有無についてはそれ以上触れていません。本書のアメリカでの評価が高いということですから、もしかすると英訳本ではこういうあたりには注がついていたりするのかもしれませんが。
しかし、当事者ならではの経験談、感想が多数載せられていて、勉強になります。例えば、比叡などが撃沈された第三次ソロモン海戦に天津風も参加し、アメリカの巡洋艦に魚雷を命中する戦果を与えましたが、舵が故障して落伍してしまいました。翌日ようやく追いついたところ「貴艦はいまのいままで沈没となっていた。生還おめでとう」と手旗信号で返されたそうで、乱戦というのはこういう状況になるわけですね。また、第二次ベララベラ海戦のところには「すぐに追いつきたいが、艦底の汚れた時雨、五月雨は30ノット以上の速力はでない」と書かれてあって、駆逐艦を入渠整備させる余裕のなかった日本海軍の実情が判明。さらに、舵や探針儀にも不調が出現した時雨はラバウルから本土へ入渠整備のために向かうことになります。ついでに輸送船2隻を護衛する任務を与えられたのですが、一隻の輸送船は魚雷を命中させられてしまいました。。探深儀が不調ということはあったかもしれませんが敵潜水艦の所在が分からず「消えかかった魚雷の航跡をたどり、発射の起点と思われる付近に、いきなり爆雷六個をたたき込んだ。しかしその効果は不明であった」と書かれているあたりに、日本海軍の対潜戦のレベルがにじみ出ています。