ヤコヴ・M・ラブキン著
菅野賢治訳
平凡社
2011年4月28日 初版第2刷発行
イスラエルには、このカバーの写真の左側の男性のように、長いひげと白黒の衣服と黒い帽子をまとったユダヤ教徒がいて、イスラエル軍の兵士として参戦することがなく、その言動が異端視されているというようなことをどこかで見聞きしたことがあります。ユダヤ教の国であるイスラエルで、熱心なユダヤ教徒がかえって異端視されるなんて不思議だとは感じましたが、日本にも熱心すぎる信仰から事件を起こした人たちもいましたから、そんなものなのかな程度に思って追求したことはありませんでした。しかし本書の中で、敬虔なユダヤ教徒で歴史学者でもある著者は、
ユダヤ教とシオニズムのあいだ、ユダヤ人(教徒)とイスラエル人のあいだで決して混同を起こしてはならないのだということ、そして、イスラエル国を批判し、シオニズムを棄却することは、決して「反ユダヤ主義」の名に値する行為ではないのだということ
を繰り返し繰り返し、門外漢の私にも分かるように説明してくれています。さらに、古代のイスラエルの地に移住して自分たちの国をつくろうというシオニズムの主張を、民族自決の時代にあっては当然の希望の表明だったろうと私は感じていたのですが、本書は
ユダヤ教の伝統において、<イスラエルの地>の獲得は、軍事力や外交活動の成果としてではなく、人間の善行が普遍的な水準で効果を発揮した結果、メシア主義的計画の一環としてなされるべきものである。かつて武力行使によってなされた二度の獲得(ヨシュアによるものと、バビロニアからの帰還後に行われたもの)とは異なり、真の獲得は、それが神の手でじかに行われるゆえに永遠のものとなるタルムードにおいて、個人の水準におけるイスラエル移住の権利が云々されるのみならず、集団としてそこに居を移すことに対する禁忌のコンセンサスが打ち立てられている
と指摘し、それが正当なユダヤ教信仰ではタブー視されていたことだったのだと教えてくれます。第二神殿の破壊以降2000年近くもの間、ユダヤ人がディアスポラの生活を受容し続けていたのはそのためだったわけですね。ともかく、ユダヤ教の信仰とシオニズムとはまったくの別物で、ユダヤ教徒にとってシオニズムとその産物であるイスラエル国は放置できない問題なのだそうです。
19世紀、世俗化の波の中でユダヤ教徒の中にもトーラーの教えから離れ、周囲の社会に受け入れられることを望む人たちがいましたが、東ヨーロッパでは反ユダヤ主義もあってその望みはかないませでんした。彼らの中でも、特にロシアのユダヤ人には、イディッシュ語という共通の言語の存在とロシア帝国のユダヤ人集住政策とにより、民族的な特徴と民族感情が醸成されてゆきました。シオニズム運動はこれらロシア・ユダヤ人が強固な中核を構成してゆくことなりました。 イスラエル建国後にも、西側諸国からの移民をひきつけることができず、ロシア(ソ連)からの移民に依存していたこともあり、 シオニズムはロシア的現象という面を強く持っています。例えば、シオニストは、ユダヤの民全体を代表しているという意識、ボルシェビキでいえば前衛にあたる意識をもって活動していました。しかし本書は
トーラーは以下の二つを義務として課しているというのだ。第一に、神の名に対する冒瀆をやめさせること。イスラエル国が、往々にして、地球上のすべてのユダヤ人の名において、あるいはユダヤ教そのものの名において行動しているという自負を表明するのに対し、シオニズム批判のユダヤ教徒たちの側では、その種の自負を不正とみなしているのだということを、一般の人びと、とりわけユダヤ教徒ではない人々に対して説明する義務があると感じているのだ。第二の義務は、人間の生命を平らかならしめよ、という掟に由来する。ユダヤ教の立場からシオニズムを拒否する姿勢を鮮明にすることで、彼らは、イスラエル国が他の諸民族のあいだにかき立てているーーと彼らの目には映るーー激しい憎悪からユダヤ教徒の集団を守ろうとする。このままでは、イスラエル政治とその帰結をめぐって世界中のユダヤ教徒が人質に取られかねない、と警告を発しているのだ。彼らの主張によれば、現在のイスラエル国は「ユダヤ国家」でも「ヘブライ国家」でもなく、はっきりと「シオニスト国家」として認識されるべきであるということになる
と、イスラエル国はシオニストの国家であり、ユダヤ人全体を代表するものではない旨を述べています。避難所としての意味を持つイスラエル国の建国を、ショアを経験した世界は受け入れましたが、その後の経過を見ると戦争に次ぐ戦争で、特にパレスチナ人の扱いに関しては
地球上のいたるところで脱植民地のプロセスが始まったまさにちょうどその頃に創設された世界最後の植民地国家
とみなされてしかるべき行動をとってきました。そのため、
反シオニストのラビたちは、シオニズム批判を圧殺する方向に機能している現今の「ポリティカル・コレクトネス(政治的公正)」が、いつの日か解消した暁に、世界中のユダヤ人(教徒)が一転して西洋人たちからの強い非難にさらされることになるのではないか
ショアーに関する西洋の罪悪感が、いつの日か、ツァハル(イスラエル国防軍)の軍事行動に対する批判意識と釣り合ってしまうであろう瞬間、今度はイスラエルに起因する暴力によって呼び覚まされた諸国民の怒りが全ユダヤ人(教徒)の頭上で猛り狂うことになるのではないか
と懸念しているのだそうです。いまや、イスラエル国はイスラエル国内のユダヤ人の安全を確保できないばかりか、ディアスポラのユダヤ人にもテロというかたちでの危険をもたらす、紛争の種になってしまっているのとか。これは私でも以前からそう感じているくらいですから、当事者のイスラエル国民やユダヤ人にとっては切実なはずです。実際、イスラエルに住む一般の人の中にもこういった状態を自覚しつつある人が増えてきていて、
今のままの状態でイスラエル国を維持することが、伝統的なユダヤ教の道徳とは相容れない価値の尺度を要するものであることに気づいている人々もいる。こうしたユダヤ人ーーこれまで度重なるイスラエルの戦争を経験してきた古参兵であることが多いーーは、ある種の恐怖感に囚われている。それは、いうなれば、自分たちの力ではもはやどうにも制御できなくなっている状況に人質として捕らわれてしまったような気持ちである。彼らは、彼ら本来の誠実さの感情に合致するものとして、平和的な出口を探し求めている。そして、そのような出口が見出せないことの絶望感から、ようやく、一世紀以上も前から提起されている議論ーーすなわち、シオニズムとイスラエル国がユダヤ人にとっていかに危険なものであり得るかという、ユダヤ教・反シオニズムの陣営から提起されている議論ーーにも耳を貸してみようかという気持ちになっている
のだそうです。ユダヤ教徒たちは、世界の人々、パレスチナやアラブの人々との連携も模索しながら、
シオニスト国家としてのイスラエル国も、かのソ連とまったく同じように、犠牲者を出さずに地図上から姿を消すことができるのではないか
という期待も持ちながら、イスラエル国の平和裏の退場を祈っているとのことです。本書をごく大雑把にまとめると上記のような内容ですが、これに加えてシオニズムの歴史、ユダヤ教の教義の説明やユダヤ教信仰からのシオニズム批判なども載せられていました。ユダヤ教という縁の遠い世界の話ではありますが、しっかり注も付けられていて分かりやく説明されていますから、本書を読むとユダヤ教・反シオニズムの陣営を100%正しいと判断したくなってしまう感じです。とはいっても、いくつか疑問に感じる点がないわけではありません。
ユダヤ教・反シオニズムの陣営に属する人の数、シオニズムを信奉する人の数、どちらにも与しない人の数、比率はそれぞれどのくらいなのか?イスラエル国の中での数、イスラエル国外のユダヤ人の中での数はそれぞれどうか?本書を読んでいると、著者の主張の真っ当さから著者と同じ意見の人がたくさんいてもおかしくないように感じてしまいますが、実際には少数派のようです。どの程度の少数派なのかを知りたいところ。
イスラエル国の中にユダヤ教・反シオニズムの陣営に属する信者が少なからず居住しているのはなぜなのでしょう?イスラエルの地への移住は教義に反するタブーだと言うことですから、敬虔な信者やラビなら移住しなかったはず。イスラエルの建国前から住んでいた人やその子孫なのか、イスラエルに移住した世俗的なユダヤ人の子孫で信仰に目覚めた人なのでしょうか?
イスラエルも建国後60年以上が経過しました。イスラエル国民として人生の大部分を過ごした人や、イスラエル国民として生まれ育った人たちの中には、ユダヤ教とは無縁なかたちでの、新たなイスラエル国民意識が生まれてはいないのでしょうか?その国を、ユダヤ人だけでなく、ユダヤ人・パレスチナ人双方にとっての世俗的で民主的な国家と変えてゆく動きは期待できないのでしょうか?
ディアスポラの地のユダヤ人は今後どうなってゆくのでしょう。19世紀以来、先進諸国でみられる非宗教化・世俗化一般がディアスポラのユダヤ人にも無縁ではなく、やがて彼らのほとんどがユダヤ人であることを止めてしまうことになるのでしょうか?本書には「ディアスポラの地のほとんどのユダヤ人たちにおいて、みずからの身にユダヤ・アイデンティティーをつなぎ止める最後の絆が、ユダヤの宗教からイスラエル国への忠誠心に置き換わってすでに久しい」とありました。いまでもイスラエルに対して海外から寄せられる支援には、シオニズムを必要悪として受け止めたうえで、自分がユダヤ人であることを確認する目的もこめられているのでしょうね。