2009年6月20日土曜日
帝国日本の植民地法制
浅野豊美著 名古屋大学出版会
2008年2月発行 本体9500円
内地と各植民地の関係・法域については、むかしむかし、事典 昭和戦前期の日本というハンドブックを読むなどして学びました。ただ、あの本では主に昭和の日本帝国の最盛期の様子が解説されていました。しかし、内地と植民地の関係は、領有の当初からきちんとしたプランをめざして一直線に形作られてきたわけではなく、対外関係や各省の意向や在留邦人の要求などなどに影響されながらようやく到達したその地点が昭和十年代の状態だったのだということが、本書を読んでみてよく分かりました。注を含めると800ページもある大著ですが、面白く読めました。
本書は6つの部分からなっています。第IとII編では新領土である台湾と保護下においた韓国において、治外法権の撤廃を目標として法律・制度の整備が行われたことが、日本本国の条約改正とからめて論じられています。日本の最初期の植民地となった沖縄県では、琉球処分の際に西洋の条約国の外国人がいなかったことから問題にはならなかったのだそうですが(琉球とアメリカの間に条約が結ばれていてもアメリカ人はいなかったということなのでしょうか、意外)、台湾や朝鮮には少なからぬ外国人が在住していて、しかも朝鮮には居留地があったことから、植民地化にあたって対外関係が重要だったとのことです。特に、韓国を保護国化して外交権を奪い東京を通じて交渉するように列国に通告しても、列国が韓国に公使館を再設置したり韓国に働きかける権利は奪えない、という指摘には目から鱗の感ありでした。
また、暗殺された伊藤博文ですが、統監時代の彼の「日韓協同の自治」を追求する構想は在留邦人の既得権益を侵すものとして日本人居留民団のきびしい批判を受けていたそうです。同様のエゴイスティックな在外邦人の問題は、満州を対象とした第IV編でも扱われています。満州国が最後まで国籍法を制定できなかったことは有名ですが、日本が満州国と治外法権撤廃・満鉄付属地の返還などを含んだ条約を結ぶ際にも、在留日本人の特権が損なわれないようにする特殊な条項をみとめさせています。
仕事がら、高齢の患者さんの昔話をお聞きすることが少なくありませんが、外地で生まれ育ったり、または仕事のために外地に渡ったなど、外地での生活の経験のある人がかなりたくさんいることに気づかされます。本書によれば、1945年末での民間の在外邦人総数が334万人あまりもいたのだそうです。それだけの数ともなれば、日本の対満州政策決定に際して、世論として無視できなかったのも理解できなくはありません。
第V編では大東亜広域秩序建設として、第二次大戦中に行われた中華民国汪政権に対する治外法権の廃止や占領地の独立、朝鮮・台湾への選挙権の付与などの日本の敗勢が明らかになってから実施された「脱植民地化」が扱われています。第一次大戦後の世界の大勢に乗り遅れ、敗戦が明らかになってようやくこういった措置をとるに至った点は、日本の施政者の失政を証明しています。こういった施策をもっと早い時期、遅くとも満州事変頃までに実施していれば、日本も世界の中で名誉ある地位を占めることができたでしょうに。そう考えてみれば、東京裁判でA級戦犯とされた人たちは、機敏にこういった政策を実施できなかったが故に、数十万の英霊の血で贖った台湾・朝鮮・樺太・関東州・南洋諸島・満州を失うに至るという重大な失政の張本人たちであり、例え連合国によって断罪されなかったとしても私たち日本人自身が責任を追及すべき存在なのだと思うのです。
日本の敗戦後、多くの在外邦人が財産を失ったり引き揚げでつらい経験をしたことには、ご同情申し上げます。しかし、なんとしても現地に住み続けようとした在留邦人がほとんどいなかったのは、戦勝国の占領軍から帰国を迫られたという事情があったからだけではなく、敗戦前の在留邦人の生活が日本人としての特権に支えられ、現地の人たちに対する蔑視が伴っていたのだろうことを強く示唆します。朝鮮に対する一視同仁・内鮮一体、満州国建国にあたっての五族協和・王道楽土といったスローガンを、在留邦人や一般の日本人がどうとらえていたのか、当時の生の声をもっと知りたいところです。もちろん、識者の中にはこういった日本と植民地・満州国との関係を「偽善」ととらえていた人もいたのだそうではありますが。
本筋とは関係ありませんが、昭島市に同朋援護会という法人の経営している病院・福祉施設があります。以前から変わった名前だなと思っていたのですが、同朋援護会という名称は外地からの引き揚げ者の支援を行っていた団体の名称なのだと本書を読んではじめて知りました。
また、昨年読んだ枢密院議長の日記の題材となった日記をつけていた倉富勇三郎が、本書にも韓国政府法部次官・統監府参与官として登場します。枢密院議長の日記ではこの頃のことが具体的には触れられていませんが、日記にはこの時代の記述もあったのでしょうか。
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2 件のコメント:
「しかし、なんとしても現地に住み続けようとした~現地の人たちに対する蔑視が伴っていたのだろうことを強く示唆します」の下りには疑問を感じました。私の祖父母を含め、当事者の実感としては「いままで仲良くやっていたのに・・・」というところではないでしょうか。
まあ、「特権」ゆえ表面上仲良くしてもらっていただけかも知れませんし、仲良くといいつつ(成績・容姿・家の資力その他で劣る友人への)優越感のようなものはあったのでしょう。しかし、だからといって上記のような総括で正しいのでしょうか。いつか米軍が日本を去るに際しては、係累その他一人残らず追い出した上で特権と圧制と差別に苦しんだ旨をアピールしないと米軍統治の正当性が「強く示唆」されてしまうのでしょうか?
* * *
と、必要以上に強い表現になってしまったかもしれませんが、自分の認識が正しいと確信している訳でもありません。歴史問題に限らず、これからも色々と勉強させてもらいたいと思います。いつも興味深いエントリーをありがとうございます。
コメントありがとうございます。 たしかに、私に体験談を聞かせてくれた人たちも、引き揚げの時のつらかった経験ではなく、外地での楽しい思い出を語ってくれることの方がずっと多い印象です。なので、匿名さんがおっしゃるように、敗戦前は周囲の人たちと仲良く暮らしていたのは確かなのだと思います。 朝鮮は保護国化して40年、台湾は50年も経過していて、現地生まれの2世3世の在留邦人も多数いました。それなのに、仲良い暮らしをしていた土地に残る人が少なかったのは、仲良い暮らしが日本の統治に支えられるものでしかなかったと判断すべきだと思うのです。日系台湾人・韓国人は例外的な少数しかいませんよね。 ただ、戦勝国の占領軍から帰国を迫られたことも確かなので、この点に関してはこれから勉強したいと思います。 あと、米軍に関してのご指摘は、現在の日本がアメリカの統治下にあるわけではないので、条件が違うように思います。
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