佐野眞一著 講談社現代新書
本体950円 2007年10月発行
枢密院議長倉富勇三郎の名前は、これまでにも台湾銀行救済の緊急勅令の否決やロンドン海軍軍縮条約に関連して目にしたことがありました。ただ、これらの事件についての本を読む時は、どうしても私は民政党の味方になって読んでしまうので、ひどいやつだなという印象を持っていたのです。
しかし、この本の口絵には倉富勇三郎の写真が載せられています。これが、ほんとに人の好い田舎のおっさんという風貌で、とても官界で出世しそうにない人に見えます。実際には宮中席次第4位まで出世したのですから、人は見かけによらないもの。
また口絵には、日記の関東大震災の日のページが載せられています。明らかに読みにくそうな字、というか私には読めません。著者は枢密会という、この日記を読むグループを作って読み進んだのだそうです。たしかに、これの解読作業は、分からない部分を数人で知恵を絞らないと続かないでしょうね。
日記は、大正8年から昭和19年まで大学ノート297冊に記録されていて、しかも読みにくいときていますから、全文を通して読むのは困難なのだそうです。なので、著者はいくつかのハイライトを選んで読ませてくれます。
まずは、宮中某重大事件。私はこの事件を、皇太子裕仁の婚約者久邇宮良子女王に色覚異常の血統が存在する可能性を理由に、山県有朋が婚約自体を迫った事件、またそれに付随して長閥・薩閥のからんだ争いになった事件だと思っていました。
しかし、この日記によると、上記のことよりも、久邇宮家が婚約破棄を迫る山県有朋などを攻撃するために壮士グループに怪文書を出させたこと、またそれを種にその壮士から強請られ、秘密裏に金銭でそれを解決したことの方が、問題とされています。
当時、日記の主が宮内官僚だったのでこんな風に感じただけなのでしょうか。それとも、他の政治家元老たちもこの強請事件の方を重大視していたんでしょうか、ちと気になります。
また、5・15事件に関するエピソードですが、当時枢密院議長だった倉富さんは事件の5日後に西園寺公望に面会して、内大臣だとして閑院宮載仁親王と都甲平八郎を迎えるように力説したのだそうです。閑院宮はお飾りの参謀総長、東郷平八郎は政治センスがないことが有名でした。
なので西園寺公望は丁重にかわしたそうですが、こういった発想するあたり、倉富さんは政治家ではなかったんですね。また、こういった政治センスのない人が枢密院議長になってしまう日本という国は、全くなんなんだろうとも思えてしまいます。
ロンドン海軍軍縮条約の審議については、議長辞職後に長い手記を認めていたとのことです。倉富議長は軍縮条約案に反対なのですが、審議の筋論・法律論をもっぱら主張しています。それに対して、同じ反対論でも伊東巳代治などは政治的に反対しているので、審議の過程で反対派が不利になってくると、一転して全会一致で可決されるように根回しを始める訳です。手記の中ではそうした伊東の行動を倉富さんは批判しています。
関静夫著のロンドン海軍軍縮条約成立史(ミネルヴァ書房)を昨年読みましたが、それと対比して、浜口首相を焦らせた倉富さんの考え方が分かって面白かったと思います。
枢密院は一応、憲法の番人と呼ばれていました。そう言う意味では、倉富さんみたいな、筋論・法律論を大切にする人が枢密顧問官を務めたのは正しいのだろうと思います。でも、政治感覚がない人が議長になるのはやっぱり変ですよね。
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