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2010年1月31日日曜日

軍港都市史研究1 舞鶴編

坂根嘉弘編 清文堂
2010年1月発行 本体7600円

この地図のように、舞鶴湾は五老岳のある半島で大きく東西に分かれます。江戸時代には西側の湾奥が丹後田辺藩の城下町で、その西側の由良川舟運ともあわせて、北前船が寄港する土地でした。1889年に舞鶴湾の東側の湾奥に4番目の鎮守府として舞鶴鎮守府の設置が決まりました。その後、日清戦争の償金を利用して1896年に鎮守府建設工事が始まり、1901年に舞鶴鎮守府が開庁されました。しかし、日露戦争の勝利で日本海側という舞鶴軍港の重要性が低下したこともあり、ワシントン条約にともなう海軍軍縮で、舞鶴鎮守府は要港部に、舞鶴海軍工廠は工作部に格下げされました。その後、日中戦争中の1939年にはふたたび鎮守府が置かれることとなりました。敗戦後は引揚援護局が置かれ、現在では海上自衛隊の施設がここに存在しています。 舞鶴っていまは一つの市ですが、むかしは旧城下町の舞鶴と、海軍施設が置かれて発展した中舞鶴・西舞鶴に分かれていたのだそうです、知りませんでした。



こういった軍事施設の置かれた都市と軍隊との関係については、荒川章二著「軍隊と地域」、上山和雄編「帝都と軍隊」などを読んだことがありますが、いずれも陸軍施設の所在地を対象としていました。鎮守府は、陸軍の聯隊駐屯地などと比較して、工廠という大規模な工場施設を併設していることから工業都市としての性格がみてとれ、特に官営製鉄所のあった八幡との類似性が本書では指摘されています。工廠をはじめとした海軍の諸施設にしても製鉄所にしても、国有の施設なので市は固定資産税や法人税にあたる税を課税することができません。また、海軍の従業者(軍人や職工などなど)や製鉄所の従業員は共済組合購買所をよく利用するので、同程度の人口規模の市に比較すると民間の商業が繁盛せず、それらサービス業からの税収も少なくなっています。それに対して、市の支出の面では普通の市と同様に教育や公衆衛生などのサービスを海軍の従業員にも提供しなければいけないわけで、舞鶴だけでなく呉や横須賀などの軍港都市は市の財政がきびしく、海軍が軍港都市に対して助成金を出していたのだそうです。これって、現在でも基地のある自治体に補助金が交付されているのと同じ構図ですね。でも、軍隊がいて補助金が交付されるよりも、同じ規模の民間の事業所が存在した方がその自治体にとっては好ましいかも知れないわけで、普天間基地など沖縄の基地問題を連想してしまいます。また、本書には1940年の東舞鶴の上水道普及率が1%、西舞鶴が0%と紹介されていました。港には船に供給するために良い水源が必要ということは分かるのですが、舞鶴では上水道施設を海軍が独占的に使用していたのだそうです。何もないよりは軍隊でもいてくれた方が経済的に潤うのかも知れませんが、そのための負担も少なくなかったようです。

そのほか、舞鶴の人口構成、鉄道の設置などに鎮守府や戦後の自衛隊が与えた影響や、引き揚げの話などが触れられています。岸壁の母という歌が有名ですが、引き揚げ者は岸壁ではなく砂浜にある桟橋に上陸したのだそうで、つくられた記憶なのですね、あの歌は。

2010年1月29日金曜日

蒸気機関車200年史


齋藤晃著 NTT出版
2007年4月発行 本体4200円

炭鉱での揚水用の固定蒸気機関から始まって、トレビシックやスチーブンソンの蒸気機関車など鉄道創設の頃の様子、蒸気機関車のメカの解説、日本や英独仏米の蒸気機関車の歴史などがイラスト入りでとても分かりやすく解説されています。私は特に鉄分が濃い方ではないので、蒸気機関車の動く仕組みや軸配置の進化の理由、各国ごとの事情の違いなど、本書には学ぶ点が多くありました。

むかしMicroProseから発売されたレイルロードタイクーンというゲームがありました。鉄道会社を経営するゲームで、レールを敷いてマップ上の各地に点在する乗客や貨物を運んで利益を上げ、路線を拡大してライバルの鉄道会社に勝つっていう感じのゲームです。主に19世紀のヨーロッパとアメリカが舞台で、年代が進むにつれて、より強力でより高速な蒸気機関車が出現するとともに、スピードの出る旅客輸送向きのものと、最高速度は劣るけれども牽引力の強い貨物用のものを使い分けて利益を上げるようになっていました。で、このゲームでもヨーロッパよりアメリカの方が開始年代が遅いのですが、アメリカのマップに最初に登場する機関車は縦型のボイラーを積んだごく小さなグラスホッパーという機関車なのでした。イギリスではロケット号のように最初期から横置きのボイラーの、今の目から見てそれなりに機関車らしい姿の機関車が使われたのに、なぜ後発のアメリカでグラスホッパーみたいな見慣れない独特な形の機関車が使われたのかとても疑問だったのです。でも、本書を読むと、イギリスと比較して創設期のアメリカの鉄道では路盤や線路がしっかりしていなくて、勾配やカーブが急で、燃料に石炭ではなく木を使うこともあったという事情が解説されていて、小回りのきくグラスホッパーが選択された理由がよく理解できました。

また、日本の鉄道は開設にあたってゲージに3フィート6インチの狭軌を選択しました。本書では、その当時、狭軌の鉄道の経済性の良さなどが注目されていて、ノルウェー・オーストラリア・南アフリカ・ニュージーランドなどでも採用されていたことが、技術的な点も交えて解説されていて、この問題の理解を新たにさせてくれます。さらに、その後の日本の蒸気機関車の歴史については、国産はできるようになったけれども、技術的には保守的で20世紀になってからは目立った進歩がなかったことも記されています。満鉄のパシナ型も決して優れた機関車ではなかったような。まあ、これらについては戦前の日本の技術水準を考えれば仕方がないところでしょうが。

本書の存在を知ったのは、先日読んだインボリューションのからみで、NTT出版のサイトをブラウズしててたまたまみつけたというものです。けっこう都心の大型書店にも行ってる方だと思うのですが、店頭で見かけた記憶はありません。こういう好著でも出会うきっかけがなく、知らぬままに絶版になってしまうものって少なくなさそうな気がしてしまいました。

2010年1月28日木曜日

iPadのムービーを観て感じたこと


昨日のAppleのイベントで発表されたものはiPadでした。アップルのサイトでiPadを検索しても、探しているのはiPodですか?と尋ねられてしまうだけですが、アメリカのAppleのサイトにはトップにしっかり載せられていて、プレゼンテーションのムービーもありました。

MacBook Proでしていることって、ウエブをブラウズしている時間が一番長いかなと思います。文章を入力するにはタッチパネルのキーボードよりは、リアル・キーボードの方がずっと使いやすいので、そんな時にはMacBook Proのほうを使いたい。でも、いろんなサイトの興味あるページを見たり読んだりするだけならキーボードで文字を入力することは少ないので、iPadでも充分かわりになり得ます。映画や読書に使うんでも、リアル・キーボードの必要がないのは同じですから、そういった、見る・読む用途にはいいのかも。

ふだん、ロッキングチェアに座って、MacBook Proを片方の大腿の上に置いて(ラップトップ状態で)使うことが多いのですが、そんな時にはパームレストに片手だけでも添えていれば、充分安定します。でも、iPadは手で持っていないといけないようだからその点は不便そうに見えます。大腿に巻き付けて固定するベルトみたいなアクセサリがサードパーティから発売されそうではありますが。

iPhoneとくらべてみると、iPadの方がずっと大きくて重くなっています。私がiPhoneでウエブをブラウズするのは、通勤の電車の中かベッドに寝っ転がっている時です。電車の中で243x190mmのモノを見るのは可能でしょうが、他人の眼がiPhoneよりも気になりそう。それにiPhoneは片手で操作することが可能なUIですが、iPadは大きいから左手に持って左の親指だけで操作しやすいのかどうか実物に触れてみないと疑問です。また、ベッドに転がって見る時にはiPhoneの135gと違ってiPadの680 or730gは片手で持つには重すぎる感じがします。

いつもだと新製品の発表と同時に買えるようにするのがAppleのやり方なのですが、iPadはまだAppleのサイトでもオーダーできるようにはなっていませんでした。でも、一番安い16GBのモデルだと、初代のiPod touchと同じくらいのお値段でした。面白そうなデバイスではあるし、手にとって見てみたい気はします。でも、私が購入する気になるかどうかは、日本語の電子書籍がiPadに用にどのくらい用意されるかによりますね。

2010年1月24日日曜日

中世の書物と学問


小川剛生著 
山川出版社日本史リブレット78
2009年12月発行 本体800円

中古・中世の漢籍には施行(しぎょう)という制度がありました。詳しい仕組みは不明ですが、おそらく博士家によって正しい読み下し方を示す訓点が施された本が施行済みになるのだろうとのこと。未施行の書物は、例えば元号の出典とはされなかったとか。また、例として花園上皇の日記が紹介されていますが、博士家の説に従って漢籍を読むことを「読む」というのに対して、博士家の説がない書物を読むことを「見る」と表現して、区別されていました。「読む」行為からは決まった解釈が導かれることになりますが、「見る」だと自分勝手な解釈を許す余地があるのでけしからんとも花園上皇の日記には書かれていたそうです。中世の人たちの考え方が現在とはかなり違っていたことがよくわかるエピソードです。

また、「古典」というものがただ古いものというのではないことを、続明暗を例に著者は説いています。私は読んだことがないのですが、続明暗というのは水村美苗さんという小説家が、漱石の未完の小説である明暗に続ける形式で書いたエンターテインメント小説なのだそうです。ただ、これが発表された当時は批判が多かったそうで、たしかに続明暗でググって出てくる書評も批判的なものが多い印象。で、この続明暗に対する批判が出てくるのはどうしてかというと、明暗がすでに侵すべからざる存在、つまり古典となっているからだろうと著者はいうのです。そして、本書で取りあげられている中世は、源氏物語などが古典になっていった時代なのだそうです。 この説明にも感心。

リブレットなので百余ページと薄い本なのですが、こんな感じで面白く読めました。

2010年1月17日日曜日

インボリューションの感想 続き

刺激的な本だけに読みながら、ギアーツさんの言いたかった本筋とは関係ないところで、いろいろと気になってしまう点があります。

本書の中では、ジャワの特徴を示すために日本との対比がなされています。ジャワでも日本でも同じ時期に人口増加がみられました。日本の場合は地租という農業部門の負担で民族資本の非農業部門の産業が設立され、その非農業部門が増加した人口を吸収したので、農業従事者数は人口の増加にもかかわらずほぼ一定で推移しました。このため、非農業部門での労働生産性の上昇とともに、近代に大きく土地生産性が上昇した農業部門でも労働生産性が上昇しました。ジャワでは、農業部門が増加した人口を引き受けたために、労働生産性が低下はしなかったかも知れませんが上昇することもできなかったのです。日本経済を考える際に東アジアやヨーロッパや南アメリカの国との比較は念頭にありますが、ジャワとの比較という視点はなかったので新鮮に感じました。

この時期の日本の人口の増加は、もともと人口が増加しつつあった西南日本に加えて、それまで人口が減少・停滞していた東北日本でも開国のインパクトで生糸の生産などが刺激されて経済的に潤ったことから人口が増えたことが原因かと思います。ジャワでも約100年で3000万人も増加したということは、なんらか人口を増やす要因があったはずですが、何なんでしょう。土地生産性が上昇しても労働生産性が本当に一定な完全なインボリューションで、生活レベルの向上がなかったとしたら、人口増加の理由が不思議です。いくら強権的な植民地政府でも、住民の意思に反して人口を増やすことはできないでしょうから。

ジャワのサトウキビ栽培といえば、台湾産の原糖がジャワ糖などと比較して価格競争力をもたなかったことが思い出されてしまいます。台湾糖よりもジャワ糖の方が安かった理由として思いつくのは、
  • ジャワという本当の熱帯と亜熱帯の台湾の気候的な違いが効いている
  • ジャワの農民の生活レベルが台湾の農民より低く、安く生産できたから
たしか、台湾総督府からジャワ糖業の視察に行っていたと思うので、調べると分かりそう。

また、台湾では米糖相克問題というのがあって、米価が高くなると農民がサトウキビではなく稲を栽培してしまうことがあるので、製糖工場ではサトウキビの確保に苦心していました。ジャワのサワでの栽培でそういうことは問題にならなかったのかが気になります。ジャワでは強制栽培が行われたように書かれていますが、台湾総督府よりオランダ領東インド当局の方が、農民に対して強権的にサトウキビ栽培を押しつける力を持っていたということなのでしょうか。または、台湾では日本に植民地化される以前からサトウキビ、米を生産・移出していたので、植民地化後も輸移出を手がける民族系の流通業者が残っていたからか。また、台湾米は日本という大市場をもっていたが、ジャワ米は輸出市場に恵まれなかったということなのか。


インボリューションの感想

2010年1月16日土曜日

インボリューション


クリフォード・ギアーツ著 NTT出版
2001年7月発行 本体2500円

先日読んだ土地希少化と勤勉革命の世界史のなかで紹介されていて、おもしろそうだったので読んでみました。日本では1991年発行ですが、原著は1963年に発表されたものだそうで、古典と呼ばれるべき本ですが、古さは全く感じられず刺激的です。

オランダ領東インドはジャワ島とその他の島(外島)から構成されていました。ジャワは灌漑された棚田(サワ)での稲作が盛んで、東南アジアの中でも人口密度が高い地域でしたが、外島は気候や地形の条件から主に焼き畑農業が行われていて人口密度が低くなっていました。植民地期にはオランダ本国の財政を改善させるため、商品作物の栽培が強制的に勧められました。外島では既存の農地・住民と関係なく外部から労働者を招いてプランテーションが作られ、タバコ・ゴム・コーヒーなどが栽培されました。ジャワでは商品作物として主にサトウキビが栽培されました。サトウキビは新たにプランテーションをつくって栽培されたのではなく、地元の人たち所有の既存のサワに水稲とローテーションする形で栽培され、資本の必要なサトウキビの加工工場をオランダ人が所有するという形態がとられました。

サトウキビの収穫には多くの人手が必要です。サワでの稲作に支えられたジャワにはそれを可能とする人口があり、さらに1830年から1940年までにジャワの人口は3000万人も増加しました。しかも、既存のサワにより多くの労働を投入する方が新たなサワを作るよりも収量を増加させるには有利だったので、農地の面積はあまり増えず、労働集約的な傾向が一層すすみました。そのような状況のもと、サトウキビの増産を目指してサワに灌漑の改良工事が行われると、労働集約的な農法ともあいまって、水稲の単位面積あたり収量も増加して、さらに多くの人口を支えることができるようになりました。しかし、製糖工場や運輸業などはオランダ人に支配され利益もオランダにもたらされたので、オランダ領東インドでは工業など非農業部門に目立った成長は実現せず、非農業部門に多くの労働者が吸収されることもありませんでした。このため、増加する人口はサワでの労働をさらに労働集約的なものにすることで吸収され、一人当たりの所得がようやく低下せずに維持される状態が続きました。著者はこれをインボリューションと呼んでいます。

労働生産性を低下させずに土地生産性を高めることができる生態系をもつサワという農地の性質とオランダによる植民地支配下でのサトウキビ栽培の強制とが相まって、このインボリューションと呼ばれる状況がもたらされたということなのかと理解しました。内に向かう発展というサブタイトルがついていますが、全くその通りに感じます。私の理解は経済偏重な理解しかできていないかもしれませんが、そうだとしてもいろいろと妄想をたくましくさせてくれる魅力的な本でした。


インボリューションの感想 続き

2010年1月11日月曜日

ウォール・ストリートと極東


三谷太一郎著 東京大学出版会
2009年12月発行 本体5600円

日露戦争後、戦時に募集した外債の負担と国際収支の赤字に悩まされていた日本にとって第一次世界大戦は天佑であり、大戦景気を謳歌して多額の対外債権を得ました。しかし、輸入代替工業化政策をとっていた国の例に漏れず戦後は再び貿易赤字が続きます。また1920年代の日本は不況続きで、1923年には関東大震災という天災にも見舞われました。大戦中に金輸出禁止措置が執られていたので、国際収支の赤字を反映して為替レートは円安傾向で推移しました。しかし完全な変動相場制だったわけではなく、外債の利払いなどを考慮するとあまりに円安に振れることは望ましくなかったので、在外正貨を使って為替レートを実勢より高めにコントロールする政策がとられていました。この措置によって減少する在外正貨を補充するため、新たな外貨国債こそ発行されませんでしたが、1920年代には地方自治体の外貨建て債券や電力外債などの社債が大量に発行されました。戦間期の日本の施政者は、外債の発行や借り換えがスムーズに行えるような関係がアメリカ・イギリスとの間に続けられることを念頭において政治にあたったわけで、例えばロンドン海軍軍縮条約に対する浜口民政党内閣の姿勢がそれを示してくれています。戦間期のヨーロッパの政治外交の基軸となったベルサイユ体制に対応するアジア太平洋地域での枠組みはワシントン海軍軍縮条約・九カ国条約と四国借款団からなるワシントン体制ですが、持続的な工業化政策を可能とするための前提条件として戦間期の日本はこのワシントン体制を遵守する必要があったわけです。本書には、戦間期の日本の対英米協調路線・政党政治、そして満州事変でワシントン体制を崩壊してゆく様子などが、アメリカの銀行家など国際経済人の史料などをもとにえがかれていました。

2010年1月9日土曜日

海の富豪の資本主義


中西聡著 名古屋大学出版会
2009年11月発行 本体7600円

タイトルの海の富豪というのは北前船主のことです(北前船はキタマエブネですが、北前船主はキタマエセンシュと読むのかな?)。北前船主は西廻り航路でニシン粕や昆布・鮭などの北海道産品、米・塩・砂糖や漁業に必要な品物などの本州・四国の産物とを輸送していました。特に江戸時代には北海道産品の価格が北海道現地と本州とでは大きく異なっていたので、北前船主は買い積み輸送を行うことにより大きな利益を上げることができました。明治に入ってからも縮小はしながらニシン魚肥などには価格差が存在したので、西洋式帆船の導入などで対応しながら北前船の運行が続けられました。しかし松方デフレの影響や、また電信や汽船による定期航路が拡充されることなどにより、やがて買い積み輸送は割の合わないものとなりました。本書の序章から第一章・第二章にかけては北前船と北海道産品との関係についてのとても分かりやすいまとめになっていて、勉強になりました。

本書の第一章から第六章では複数の北前船主の経営の実際を紹介して、各類型に分けて分析しています。例えば、ひとつは江戸時代中期から松前藩の場所請負商人だったり、場所と関連した荷所船という輸送を行っていた船主たちです。北前船の運航を家業としてとらえていたようで、明治に入って産地と本州の価格差が縮小していくことに対して、北海道で自ら漁業を経営したり北海道に支店を設けたりなど、単なる買い積みから垂直的な統合により北前船の運行継続を指向する例がみられました。

また、江戸時代に年貢米輸送などの御用も請け負っていた北前船主が一つの類型です。特に大藩の城下の湊や年貢米の流通拠点に本拠を置いていた船主がこれにあたります。この種の北前船主は御用を手がける特権を利用して利益を上げられる時期がありましたが、幕末に多額の御用金を負担させられることによって疲弊しました。また明治に入ってからも旧御用商人として期待されて地域での企業設立に参加している例が多かったのですが、それらの企業が1880年代の松方デフレで破綻したことによってさらに経済力を失ってしまい、来るべき企業勃興期には充分に投資する余力を持ち得ませんでした。

北陸地方では資産家の上位に多くの北前船主が含まれていました。「日本の産業化と北前船主」と銘打った終章では、近代日本の地域格差の一因として北前船主の企業勃興期の投資姿勢を挙げて、
北前船主は近代初頭に多額の商業的蓄積を進め、日本海沿岸地域の企業勃興の担い手となるべき存在であった。しかし彼らは商権の維持に商業的蓄積を専ら投入したり、会社設立に関わっても銀行・運輸など流通局面に集中したため、日本海沿岸地域の工業部門での会社設立は、南関東・東海・近畿臨海地域に比してかなり遅れた。
というのが著者の評価です。ただ、これについては少し疑問も残ります。

例えば、昨年読んだ日本における在来的経済発展と織物業では、江戸時代に白木綿の産地として有名だった富山県の新川木綿の衰退について、この地域では綿を購入して綿糸から綿布への生産が行われていたために、原料を国産綿花から輸入綿糸へと転換させるインセンティブが綿商になかったことがあげられていました。本書ではそれに加えて、横浜に輸入された綿糸を本州の反対側の富山県にまで運んで販売するメリットを感じなかった越中国の北前船主・綿商が、綿取引から輸入綿糸取引へ転換することなく、より利益の見込める北海道交易に転換したことを、新川木綿の産地が輸入綿糸導入に遅れた大きな要因としてあげています。それならば、北陸地方が外国貿易港から遠かったことも日本海沿岸地域の工業部門での会社設立が遅れた要因でしょうし、ほかにも地理的な要因はありそうです。ただ、著者はそういった立地条件は当然のこととして、北前船主の役割を強調しているのかもですが。

近世の日本では外国貿易が制限されていて、ブローデルのいう資本主義の三階が欠如していたわけですが、北前船の買い積み輸送は規模が小さく期間が短いながら三階の役割を果たしたのかなと、そんなことまで妄想させてくれる面白い本でした。

2010年1月3日日曜日

休耕と家畜で地力が維持できるのはなぜ

昨日のエントリーの 土地希少化と勤勉革命の比較史の第七章は「農場」と「小屋」で、エルベ川東側のドイツを扱っていました。この地域で農業を持続して展開するためにはある一定の家畜を保有していることが必要で、そのために人口が増えても農場の分割は行われず、農場数は一定に推移したのだそうです。家畜を保有する目的は地力の維持と大型の車輪つきの鋤をひかせるためでした。鋤はおいといて地力については、
ヨーロッパ農業の基本をなす畑作経営の場合には、土地の消耗がはなはだしいため、「畑作を維持するためには、施肥の改良が絶対に必要であ」り、「この改良に、畑作に牧畜がくりこまれ、家畜の糞が耕地にすきこまれることによって実現した」
と書かれています。中世から前近代のヨーロッパの農業についての本を読むと、この家畜と三圃制・二圃制の組み合わせによる地力の維持について触れられていると思います。

畑で育てた作物を畑から持ち出して、食料として食べたり、手工業の原料として利用します。持ち出された作物に含まれている炭素や水素は、植物が生長する過程で雨や空気中の二酸化炭素という形で供給されます。でも、作物の中の窒素・リン・カリウムなどが簡単には補充できないので地力が問題になります。私には家畜を飼うとなぜこれが解決するのかが以前からとても疑問なのです。

休耕している間に、雷などによって自然に合成された窒素酸化物が雨に含まれて降ったり、畑で育った雑草やマメ科の草を家畜が食べてその糞が肥料になるのでしょうか? 窒素はこんな感じで補給されるかも知れません。また人間の育てる作物よりも雑草の方が土壌からリンやカリウムを吸収する力が強いのでしょうから全く意味がないとは思いませんけれども、ただこれだけでは数十年数百年のあいだには、土壌の中の利用できるリンやカリウムなどの必須元素は使い尽くされてしまうはずです。

採草地でとれた牧草を家畜に食べさせ、畑で排泄させるようにすれば、一時的にはリンやカリウムなどの補給になるでしょう。日本でも山に入って青草を刈り田畑にすきこむ刈敷っていうのがあったと思いますが、ただ単にすきこむより家畜に食べさせて糞の形にしてからすきこむ方が確かに効果はありそうです。でも、これも長い目で見ると、採草地からリンやカリウムなど植物にとっての必須元素が枯渇していって、やがては牧草となるような草も生えなくなってしまうような気がするのです。畑から持ち出した作物を食べた人間の排泄物も肥料としたり、工業原料となる作物の場合には魚肥などをつかったりする日本ではかなりこの問題をクリアーできていたと思うのですが、ヨーロッパの農業がどうして持続できていたのかがとても不思議。また、このことについて触れている経済史の本は読んだことがありません。農業技術史みたいな本にはかいせつされているんでしょうか。

2010年1月2日土曜日

土地希少化と勤勉革命の比較史


大島真理夫編著 ミネルヴァ書房
2009年12月発行 本体6500円

社会経済史学会で編著者が担当した共通論題への報告をまとめた本だそうです。序章と第一章で編者が問題意識と総論を述べ、その後の各章では日本、中国、東南アジア、インド、中欧、ロシアの例が紹介されています。そして、終章には斉藤修氏による前近代成長の二つのパターンと題した文章があり、これは昨年読んだ比較経済発展論(岩波書店、2008年)の第4章と同じでした。

マルクス主義や近代経済成長理論などへの懐疑的な態度から普遍主義的な認識一般が避けられている今日の状況ですが、編者は経済発展の歴史的展開に関する何らかの普遍的な認識枠組み=参照軸の構築が経済史研究の重要な課題の一つであるとして、経済資源としての「土地の希少化」を「経済史上の近世」を定義する指標として序章で提唱しています。また本書のタイトルのもう一つのキーワードである「勤勉革命」という言葉は、速水融氏以来いろいろな論者がいろいろな内容で使用しています。編者は土地希少化が出現した段階で、さらなる労働の投入が収穫逓減をもたらすのではなく収穫逓増をもたらすようなメカニズムを勤勉革命と呼ぶように提唱しています。

この二つのキーワードをもとにユーラシア各地を通観しようというのが編者の意図ですが、本書を読んでみるとそれが成功しているようには全然思えませんでした。まず「経済史上の近世」を土地希少化を指標として認識する件ですが、例えば中国はその本土が地理的な条件からいくつかのマクロリージョンに分けて考える必要があることが第四章で論じられていますが、華北の中原では早くも紀元前に上限に近い人口に達してしまったのに対して、20世紀になってもフロンティアの残っていた地域があるなど、リージョンごとの差が大きいのだそうです。
土地希少化によるフロンティアの消滅段階を近世段階と呼称するなら、宋代には華北、四川コア、長江中下流域コア、福建沿海部などがそれに該当する。その意味では、王朝あるいは中国国家全土がくまなく近世段階を迎えることは今日までない
と述べられていますが、中国本土はいちおう一つの経済システムと考えるべきでしょう。他に本書で扱われているインドやロシアにも問題があり、土地希少化指標説の破綻は明らかだと思います。また、土地希少化への対応としての勤勉革命と言う点でも、前提となる土地希少化が現れていない地域の存在ともあわせて、編者の勤勉革命にあたるものを探すこと自体にはあまり意味がないようです。ただ、日本での土地希少化への対応と他の土地希少化を経験した地域の対応の違いを考えることには意味があります。日本では外国貿易が制限されていたとは言え、西日本と東日本では自然条件がかなり異なりますから、主穀を含めた商品作物の栽培や手工業での特産地の形成による分業が徳川日本の成長を支えたわけです。勤勉革命は、終章で斉藤氏が述べるようにスミス的成長ととらえるのが、ヨーロッパやジャワなどとの比較のためにはいいのでは。

第二章から八章のユーラシア各地の紹介はどれも面白く読めましたが、特に中国に関する第四章が一番勉強になりました。中国はなぜ宋代に技術革新のピークを経験しながらその後停滞に陥ってしまったのかという「ニーダムの難題」が、ポメランツ、フランク、アブー=ルゴド、趙岡などなどの研究者には問題意識としてあるのだそうです。これらの人の中で趙岡さんの農業経済論が紹介されていていますが、高人口圧と農業経営形態が関連しているとするものだそうで、面白い。でも残念ながら日本語訳はない。

第三章では日本の東海地方の4つの農書が紹介されていて、興味深い点がいくつも紹介されています。例えば、「尾州辺の土民と関東筋の土民は耕作方法雪と墨ほどちがひて、関東筋下手なり」。近畿地方や東海でも三河より西と、東日本とでは農業技術の水準に大きな差があったことは当時の人も認識していたわけですね。また、農書のつくられた時代が後になるにつれて土豪経営から小農経営が当然の存在になっていくそうです。また、農業は商業などに比較して労多くして益少なしという認識は農書の中にもあり、施政者だけでなく農書も農本主義を主張しています。あと、この地方は未婚の男女の多くが町や都市に奉公に行っていた地方だったはずですが、農業を難儀として「若き者ハ思案薄き故嫌ふ」というのがそれに対する評価なのでしょうか。でも、奉公に出た人も多くは戻ってきていたのですから、社会勉強や段取りを付ける勉強になるというような評価はされてなかったのかなあと感じます。