豊下楢彦著 岩波新書新赤478
1996年12月発行 本体780円
冷戦、中華人民共和国の誕生、朝鮮戦争など敗戦後の情勢の変化を追い風として、日本は寛大な条件で講和を結ぶことができたというのが定説です。従来は1950年4月に訪米した池田蔵相を代表とするミッションの役割がこれまでは重視され、首相外相を兼任した吉田茂のリーダーシップの下で交渉が行われたとされてきました。しかし、その寛大な講和条約と同日に結ばれた日米安全保障条約の交渉過程およびその内容を検討すると、必ずしもそうではなかったことを本書は示してくれています。
朝鮮戦争への日本の協力を確実なものにするためには講和条約を結ぶ時期に来ている、朝鮮戦争によりアメリカは日本に基地を置くことを必要としている、 日本国民は独立後に外国軍が駐留し続けることを望んではいない、また海を越えてソ連が日本に侵略することはない、という認識を吉田首相や外務省は持っていました。したがって、アメリカが日本国内に基地を維持し続けること提案して日本が同意する、しかも国連憲章・総会決議などに根拠を求めた形で受け入れるなど、日本になるべく有利に交渉を行うつもりだったことが、外務省の資料から論証されています。
しかし、実際の日米安保条約には、日本の求めに応じてアメリカが駐屯するという表現が盛り込まれました。しかも「望むだけの軍隊を望む場所に望む期間だけ駐留させる権利」だけを得たアメリカの軍隊は必ずしも日本防衛を義務とはせず、かえって日本以外の極東における国際の平和と安全に寄与する目的でも日本の基地を利用できるという極東条項まで盛り込まれていました。外交官出身で外交センスも確かだったはずの吉田首相の政権下でどうして屈辱的な条約が結ばれることになったのか。著者はその理由に昭和天皇の介入を挙げています。
朝鮮戦争から日本有事の可能性を連想した天皇が、日本有事は天皇制の有事につながることを恐怖して、吉田首相やマッカーサーなどの頭越しにダレス・アメリカ本国へとアプローチしたのではないかと。独立後の日本にアメリカ軍が駐留し続けることは天皇制を安堵してくれる。特に安保条約に盛り込まれている、外国の教唆・干渉による大規模な内乱・騒擾に対してアメリカ軍が援助を与えるというくだりは、天皇制の護持につながると天皇が考えたというわけです。そして、本来なら吉田首相がリーダーシップを発揮して、もっと有利な条件での安全保障条約を締結できたはずですが、天皇は吉田首相の内奏の際などに「御詰問、御叱り」などで路線変更させたのだろう。その証拠に、講和会議への出席を吉田首相が固辞していた。ただそれも天皇への内奏の席で出席するように求められ撤回したのだろう、というのが著者の説明です。
今年の6月に中公新書2046「内奏」を読みました。そこでは、日本国憲法下で法律上の根拠をなくした内奏が継続していった理由として、昭和天皇が在位し続けしかも内奏という慣習にこだわったからだとされていました。そして天皇が内奏の継続にこだわれば、この当時の政治家は永年の大日本帝国憲法下での国制に慣れ親しんだ人たちですから、天皇からの下命があればそれに従うのが当然と感じていたのでしょう。特に吉田首相は臣茂と署名した人ですし。また、天皇自身は何を考えてそんな行動をとったのか。自分一身の保身のために行動したという可能性もないわけではないでしょうが、それよりも天皇制を維持することが自分の使命だと考えて行動したと言う方がしっくりくるだろうと思います。
講和条約・日米安保条約交渉の研究で、著者が唱える本書の説が定説になっているのかどうか、門外漢の私には分かりません。ただ充分に説得力ある説明だと感じました。またもしこの説が正しいのだとすると、日米安保条約交渉のこの時の変針は、その後60年以上にもわたって日本に悪影響を及ぼし続けていますし、また沖縄の軍事占領継続を認める・求める沖縄メッセージにしてもそうですが、戦前戦後を通じて昭和天皇は罪多き人だと感じざるを得ません。自分の意思によらずに君主・象徴なんて地位につかされていた点にはご同情申し上げますが。
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