本書には「米価の短期変動のコントロール機能、需給調整機能、米価平準化機能、価格保健機能、そして米市場の全国的ネットワークにおける市場中心機能などすべての点から見て、概して十八世紀中葉から十九世紀初期の大阪米市場は有効にワークしていたが、天保期以降にはこれらの機能の多くに衰えが見られるようになった」と記載があります。
その実例として、文化十四年以前は一年に百五十万石もの大阪廻米があったのに、その後廻米制限令が出され、解除後の天保十一年には百八万五千石しか廻米されなくなり、「廻米制限令解除後も大阪廻米は増加せず、これにより大阪米相場の相場平準化機能が失われてしまった」ことや、「幕末にかけて堂島の正米商内と帳合米商内が遊離し、帳合米商内がまったくの投機取引、賭博取引化し、米の実需業者にとっては無縁のものとなっていたこと」があげられています。
また、「天保末期以降の大阪米価の不安定性が大阪商業の動揺・衰退と深く関係」し、米以外についても「大阪への商品廻着量が減少」したことが、述べられています。中央市場大阪とライバル関係にある地方市場の成長が著しかったことが、真の原因なのでしょうね。
経済史に関心のある人なら、F・ブローデルの著作には目を通しているでしょう。この日本の中央市場としての大阪市場と、その後の地位の低下・衰退について読むうちに、なんとなくブローデルが書いていたことを想い出しました。大阪ってアムステルダムに似ているのかなって。
ブローデルは、「物質文明・経済・資本主義 世界時間1」(みすず書房、1995年)の中で「アムステルダムでは、倉庫がうまくゆけば万事がうまくいった」、「倉庫はすべてを呑みこみ、ついですべてを吐き出すことができた。市場にはじつに考えられるかぎりの大量の財貨・素材・商品・サービス業務が揃っていて、なにもかもたちどころに用立てられた。注文を出すと、機械が動き出したのである。まさにそのことによって、アムステルダムはその優越性を維持していた」と書いています。
イングランドやフランスの産物を買うのに、その原産国に買い付けに行くより、アムステルダムで買った方が安くつく状況があったのだそうです。きっと18世紀までの大阪もそれに近い存在だったのでしょう。アムステルダムはやがてロンドンに覇権を奪われますが、ロンドンは倉庫の街ではありませんでした。
倉庫とサービスが中心市場としての地位を保証するのは資本主義の発達のある段階にしかあてはまらず、資本主義がさらに先の段階に進むと別の組み合わせが中心を規定するような感じなのかなと思います。大阪は江戸末期に衰退しましたが、明治から昭和戦前期にかけて復活・繁栄しました。この時期の繁栄は江戸期の経験を元にしてはいたのでしょうが、倉庫とサービス業がもたらしたものではなく、軽工業がもたらしたものでしたから。
近世日本の市場経済
近世日本の経済市場 続き2
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