ブローデルの書いていたことでもう一つ想い出すのは、ヨーロッパ諸国では穀物の遠距離通商があまりされていなかったということです。「ふつう大商人たちは、危険を伴ううえに拘束の多い穀物通商にはあまり関心を払わなかった」とのこと。
また、「農村は自分たちの収穫で暮らし、また都市は剰余生産物で暮らしたのである」、「手の届くところで食糧を補給するのが都市の知恵というものであった。この食糧補給が20ないし30キロメートルという圏内で行われれば、高い金のかかる輸送や、いつどうなるかわからない外国依存をしなくてもよかった」とも「物質文明・経済・資本主義 日常性の構造1」(みすず書房、1985年) には記述されています。
実際、17世紀において「およそのところ、ヨーロッパの小麦通商の最大限は六百万キンタルだったのである。厖大な数字ではあるが、ヨーロッパの全人口が消費した二億四千万キンタルと比較するならば、おかしいほどわずかな数字である」とも記載されています。
それに比較すると江戸期の日本の米の遠距離流通の比率はかなり高いことになります。例えば、大阪は西廻り海運関係地方一帯を市場圏としていましたが、この地域の各藩は平均して石高の15−18%、藩の貢租収入の30−45%を大阪登米にあてていました。大阪に集まる米が年間百五十万石の他に、濃尾地方や仙台から江戸に送られる米も、江戸の人口が百万人近かったことから、かなりあったものと思われます。
日本国内の流通だからそれほど遠距離ではないのかというと、そうでもありません。Googleマップでおおざっぱな距離を調べてみると、赤間関から大阪まで450kmで、シチリアやサルディーニャからイタリア半島やマルセイユまでの距離とそんなに違いません。金沢から大阪までの1100km・酒田から大阪までの1500kmもダンツィヒからアムステルダムまでの1700kmとそれほど大きな差のない距離です。
本書の第八章「地方市場間の連関性と市場形成」では日本国内16カ所の米価の変動の連動性が検討されています。西廻り海運でつながる大阪・広島・赤間関・佐賀・熊本・金沢などの米価の変動の相関係数はかなり高くなっています。また、江戸の米価は名古屋の米価と関連して動いています。
本書第四章によると米一石(1000合)の一里あたり川舟運賃は約3−4合だったそうです。また、河川の舟運よりもずっと大きな船を使える海運の運賃はもっと安かったでしょう。なので、日本は海に囲まれていて重量のある穀物の輸送には有利な条件があり、また人口比で大都市居住者の割合が多かったということなんでしょう。
ただ、江戸や大阪に米を出荷するのに水運だけでは済まず、峠越えの駄送も併用しなければならない信州や会津の米価は、他の地点とは独立した動きを示しています。ヨーロッパの大部分の土地は海から遠く、この信州や会津のような状況だったということなのかも知れません。
近世日本の市場経済
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