2009年4月1日水曜日

近代製糸技術とアジア


清川雪彦著 名古屋大学出版会
2009年2月発行 本体7400円

中国起源の養蚕・製糸業がヨーロッパに伝わり、19世紀には機械を使用した工場で生産されるようになりました。その近代製糸技術がアジアに里帰りしてアジアの国でも使われるようになったわけですが、本書はインド・中国・日本での技術の受け入れ方の違いを論じています。本書で学んだ点をいくつか紹介します。

日本は近代製糸技術を最も巧みに受容しました。同じ軽工業の綿紡績業などと比較しても、ヨーロッパの製糸技術は在来技術との格差がそれほど大きくなかったので、当初は折衷した設備として実地に応用することができました。また、若い女工を寄宿舎に集めて成績別の賃金制度で競争させたり、蚕業に関する学校が多数つくられて教婦(女性のこういう存在は当時としては世界的にも珍しいとのこと)などの現場管理者が養成されるなど、工場の制度面での日本独自の取り組みがみられました。その後も機械の改良と同時に蚕の品種改良や養蚕の技術も洗練されていったことで、19世紀末には日本が生糸の輸出の世界一になりました。レーヨンの発明以降、生糸では高級な製品(ストッキング用の均質な細糸)が需要されるようになりましたが、日本は生産した生糸の輸出向けの比率が中国やインドよりも高かったことから、迅速に対応しました。この結果、大恐慌後に中国の生糸輸出量が激減した際にも、日本産生糸は輸出額が減少したものの輸出量は維持することができたわけです。戦国時代から江戸時代初期に中国から大量の生糸を輸入していた日本ですが、ようやくこの時代に製糸業での中国へのキャッチアップを果たせた訳です。

中国の場合、土着の蚕の繭の品質が良かったので、上海などでは上質で競争力のある生糸を生産していました。しかし、中国の多くの地方では製糸業者が工場の土地・建物を借りて生産にあたる租廠制が一般的で、独自の工夫をこらして工場のレイアウトを変えたりしにくい事情がありました。また、輸出には外商があたっていて、海外との取引の情報が各地の養蚕農家・生糸生産者にまで伝わりにくかったことや、製糸業者が受注制生産をしていたことも、主体的に生産技術を改良し難い一因でした。また、養蚕業においても、桑の所有者と養蚕農家が別々で、養蚕農家は流通している桑の葉を買っていました。分業の高度化のようにも見えますが、桑の木の所有者は上層農家で、価格変動の大きな養蚕を自営するリスクをとりたがらなかったからこうなっていたのだそうです(租廠制と似た事情)。市場で購入する桑の葉を使っていては蚕の成長時期にあわせた適切な給餌など、より綿密な管理への改善がきわめて困難で、日本産生糸に品質で遅れをとるようになっていきました。

インド産生糸の場合、もともと国際競争力がなかったと著者は考えています。このため、フランス・イタリアが微粒子病による大打撃からの回復と、日本・中国の発展によって輸出市場を喪失したのだそうです。インドの蚕の多くが熱帯性の多化蚕で原料繭の品質が不良だったこともその一因です。しかし、1化蚕が用いられているカシミールでも、藩政府・藩営工場による独占的な繭買い上げが養蚕農家のインセンティブの欠如をもたらし、蚕糸業教育がなされなかったことから繭の品質が低い状況でした。また、インドにはごく身近に粗放生産の典型のような野蚕糸市場が存在し、「品質こそが生糸の生命」という意識を形成し難かったことも大きい(ほんとにこんなことあるの??)と著者は記しています。インド産生糸の主な用途はサリーで、現在でも経糸用生糸には中国からの輸入品が使われている程なのだそうです。

結局のところ、中国やインドにはなかった近代製糸技術を受け入れる能力が日本には備わっていたということのようです。一般的に言われていることとですが、開国前から日本はすでに商品経済の真っ只中にあり、商人だけでなく農家も、より有利な農作物や副業の選択を通してより経済的な労働力分配に心がけていた。そんな訳で日本にはその後の製糸業の発展の準備ができていたということになるのでしょう。

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