2009年5月18日月曜日

ホーチミン・ルート従軍記


レ・カオ・ダイ著 岩波書店
2009年5月発行 本体2800円

私が子供の頃、ベトナム戦争がありました。そして、ベトナム戦争には難しいという印象が持っていました。同じように子供の頃にあった戦争でも、例えばやせこけた子供の写真がひどく強烈だったビアフラ内戦では、内戦とは言いながら二つの勢力が戦っていることはよく理解できたのです。ところがベトナム戦争の場合、アメリカと北ベトナムと南ベトナムとベトコンと、シアヌークのカンボジアとロン・ノルのカンボジアとクメール・ルージュと、ラオスとがあって、しかもアメリカは北爆はするのに北ベトナムを占領しようとはしなかったことや、北ベトナムとベトコンの関係とかが不思議だったのです。

大人になってから、NAM(同朋舎出版、1990年)やドキュメントヴェトナム戦争全史(岩波現代文庫、2005年)を読んだり、フルメタル・ジャケット(キューブリック監督、1987年)を観たりして、子供の頃に不思議だったことのほとんどは理解できるようになりましたが、ベトナムの人がどんな想いで戦っていたのか知りたいと感じて、本書を読むことにしたのです。

著者は北ベトナムの陸軍病院の胸部外科の医師で、卒後19年目の1965年から南に派遣され、1973年まで中部高原の野戦病院の副院長・院長として過ごしました。胸部外科医として胸部の外傷の手術や血管外科の手術をするだけでなく、虫垂炎や小腸の手術など一般外科医の仕事もします。 また、患者数1000名を越えるような病院のトップで偉い人なわけですが、手術室・病室としてつかう掩蔽壕を掘ったり、陸稲やキャッサバや野菜を栽培したり、会議に出たり、嫌がらずになんでもする人です。特に爆撃や攻撃される危険を感じるとその度に病院を移転させるわけで、壕の穴掘りだけでも大変な労働でした。汚れ仕事をいとわない、こういうモラルの高いリーダーがいたからこそ、抗米戦争に勝利できたわけですね。頭が下がります。

当然のことながら、薬品や医療器具も十分ではない中で仕事をしています。いろいろ工夫をした様子が書かれていますが、驚いたのは輸血についてでしょうか。この野戦病院のスタッフはハノイを出発する前に各々の血液型を調べてあります。戦場で負傷者の血液型を調べるには、試薬としてスタッフの血液をつかったそうです。また、輸血が必要な際、患者の血液型と一致する供血者が見付からない時には、著者自身がO型なのでユニバーサルドナーとして、献血したそうです。執刀医が患者に自分の血液まで与えるとはびっくりです。実は中部高原には悪性のマラリアがあって、著者自身も中部高原に来て間もなくマラリアになってしまっていました。ほとんどの人がマラリアにかかっているから問題ないと合理的に考えているのでしょうが、自分がマラリア罹患者であることを知りながら患者に自分の血液を与える医師というのもすごい。

塩・米と言った食料の補給が乏しく、なるべく畑をつくって自給を求められていました。タンパク質の補給としてはイノシシや鹿だけではなく、象やテナガザルを捕らえて食べたのだそうです。食糧の不足とマラリアと、あと本書では一部に触れられているだけですが枯れ葉剤とが、彼らの健康の大きな障害になったそうです。戦場ですから戦闘が原因の死者が多いのかと思っていましたが、
爆弾、銃弾による負傷兵はこの病院の患者の10パーセントにすぎない。戦傷がもとで死ぬ数はこの病院の死者の一五分の一だ。ちなみに昨年の病院スタッフの死者は11人、そのうち九人が病死、一人が敵特殊部隊レーンジャーによる殺害、一人が事故死だ
と著者は書いています。まあ、病院スタッフは後方にいるからということもあるのでしょうが。

北ベトナムの戦争従事者が高いモラルをもった人が多かった一方、問題点もあったことが指摘されています。例えば、南に出征する前には同じランクだった同僚と比較して、南で苦労して数年を過ごしている著者の給与や階級よりもハノイで仕事を続けている人の方が上になってしまったそうです。また、戦闘で負傷し治療しても戦場に復帰できない人が北に帰還するのにたくさんの書類を用意しないと許可されないなど、この頃から官僚制の弊害があったそうです。

本書を読んでいて残念に感じるのは、おかしな訳語が多い点です。医師の書いた本なので医学用語が少なくないのですが、例えば「主頸動脈」、これは総頚動脈のことでしょうね。また「鎖骨の下で分岐する脊柱動脈」というのは脊柱動脈なんて聞いたことない言葉なので、椎骨動脈のことでしょう。こういう風に推測できるのはまだましですが、「固まった斑状出血」なんて書かれているといったい何のことなのか見当がつきません。出版の前に医師に読んでもらえばこういう問題は解消されていたでしょうに、岩波書店の編集者にはそういう知恵がないものとみえます。

まあ、そういう問題もないわけではないのですが、よい本だと思います。

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