2009年5月20日水曜日

ホーチミン・ルート従軍記 感想の続き

1954年のジュネーブ協定で独立の承認されたベトナムは、その後に予定されていた南北統一選挙の後に一つの国になる予定だったとか。南側が選挙の実施を拒否し、それに対して南ベトナムの国内で反政府運動が広がりました。南ベトナム国内の動きに北側は、直接の関与はしない建前でした。なので、著者たちも南に向かう際に偽名などを用意していったそうです。北側が南への関与をおおっぴらにはしたくなかったのは、朝鮮戦争の教訓から米軍の直接的な介入を避けたかったからなのだと本書の訳者あとがきには書かれていました。この指摘は、私のこれまで気づけなかった盲点を鋭くついてくれた感じです。

ます、アメリカ軍のベトナム介入は現在は一般的に大失敗と評価されていると思います。ただ北側の懸念を逆に考えてみると、当時のアメリカ軍やアメリカ政府首脳部は失敗すると思って介入したわけではなく、朝鮮戦争のように直接介入すれば情勢を好転させることができると考えていたということなのでしょうね。

東側の支持した政権の運命を考えてみると、朝鮮戦争では中国の直接介入によりからくも存続できたのに対して、ベトナム戦争後にはベトナムを統一することができたというように、非常に違った経過をたどりました。アジアの三つの分断国家の中で、西側の支持する国が生き残っているのは、日本が統治していた地域にある国だけなのですから、日本統治の影響もかなり大きいような気がします。

もともと日本の朝鮮支配が過酷だっただけに、朝鮮半島にはホーチミン的な人が存在しなかった感じがします。ホーチミンに準じるような人たちは首都のソウルで光復後の政治活動を始めたのでしょうが、そこはアメリカ軍の統治下にありました。ソビエト軍は自軍の占領地区内に活動歴のある有能な政治家を持たず、また自主自立の政治家を望んでもいなかったので、金日成を擁立しなければならなかった。これに対して、日本の降伏後のベトナムの方が独立を望む政治家たちが運動しやすい環境だったことは間違いないでしょう。

本書にはトランジスタラジオを毎日使っていた旨の記載があり、一般的にも普及していたようです。ナショナル製のラジオもつかわれていたそうです。トランジスタラジオは電源は何だったんでしょう。コンセントから電気が安定してとれる環境ではないし、歩きながらラジオを聴いたような記述もあるので電池でしょうか。でも、本書には電池に関する記述ってほとんど無いのと、電池が簡単に入手できたのかどうかが気になりました。

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