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2008年8月31日日曜日

古代インド文明の謎


堀晄著 吉川弘文館歴史文化ライブラリー251
2008年3月発行 本体1700円

南ロシアの黒海沿岸ステップに住んでいた遊牧民であるアーリア人が、インダス文明の衰退期にインドに侵入してきたという、日本の世界史の教科書にも書かれている有名な説を虚構だとして、著者独自の仮説を提示している本です。著者は、北シリアがインド・ヨーロッパ語族の故地で、ここから新石器時代に農耕民がイランを通ってインドにまで拡がったとしています。

アーリヤ人(本書ではアーリアではなくアーリヤとしています)の侵入説を「とんでも学説ではないのか?」と著書は書いていますが、本書の方こそとんでも本なのではと思わせるような感を受ける点が多々ありました。著者は、インダス文字は文字ではない、「社会で尊敬されていた行者集団による呪文」だとしていますが、読んでいて根拠がとても薄弱です。

また、奇妙な石製錘というタイトルで2つの石製の物体の写真が載せられています。「最近、東京で確認したもの」だとのことですが、出土地や出土の状況がはっきりしないのに、ホンモノの遺物と断定して大丈夫なんでしょうか。ましてや、これがオリンピックみたいな投擲の競技で使われたなどとまで書くにいたっては、妄想としか思えません。

また、農耕民の拡散にあたっては、「野生の動植物は全て天敵であり、根絶やしにする必要がある」、ヨーロッパでは森を焼き払ってフィールドをつくった時の厚い灰層があると書かれています。焼き畑にしてもそうですが、森林を焼き払った灰の層が発掘されることなんてあるんでしょうか?

日本の学会の定説とは違った説を唱えているそうなので、ご苦労はわかりますが、必ずしもアーリヤ人征服説を信奉する人ばかりではないと思います。例えば、先日読んだ 農耕起源の人類史なんかは、 インドアーリア語族の起源地をアナトリアとしていますが、そこから西にインド・イランと新石器時代に農耕民が拡がっていったとする説で、この著者と近いのかなと思います。タイトルにひかれて買ってしまいましたが、まあ1700円の価値はとてもないなという読後感でした。

2008年8月29日金曜日

近世大名家臣団の社会構造 感想の続き

足軽以下とは区別される武士身分の士と徒士ですが、この二つの間にも序列がありました。例えばある藩では、徒士身分の武士が士分の人に対して会う際には、士分の人からの許しを得てから部屋に入るのが規則でした。多くの藩で、士と徒士の間には挨拶・書札礼などにも同様の徒士を劣位とする規定があったそうです。しかし、士分の者同士は、藩主の一族でも家老でも一般の侍でも、会話・食事などは一室で対等にできる規則で、士分対等が多くの藩での原則でした。

この士分対等の原則についての説明を読んでいたときに頭に浮かんだのは、医者同士の関係です。医師にも、教授や院長や部長や科長などといったエライ方々がいますが、医師同士が会話するときにはお互いを「センセー」かまたは名前をつけて「★★センセー」呼び合うことがふつうです。これは、役職者と研修医の間でもふつうはそうなので、「師分対等の原則」が成り立ってると言えます。また、医師以外のパラメディカルスタッフは研修医も含めて医師に向かって、やはり「センセー」「★★センセー」と呼ぶから、士と徒士の関係に似ているのかも。

あと、本書には論考の材料になった史料の所蔵者についても記してあるんですが、国文学研究資料館所蔵のものがかなりある印象でした。「国文学」研究資料館とい名称なので、国文の資料ばかりを集めているところかと思っていましたが、近世の藩や在方の史料についても保管している組織のようですね。この組織は今年春にうちから歩いて20分ほどの所に移転して来ていて、展示・講演会も開いているそうなので、いちど行ってみようかと思いました。

2008年8月28日木曜日

近世大名家臣団の社会構造


磯田道史著 東京大学出版会
2003年9月発行 本体9400円

江戸時代の武士というと、ひとくくりに士農工商で一番上の身分だとばかり思っていました。しかし、その内部は一様というわけではなく、士・徒士・足軽以下の三層構造になっていたのだそうです。武士の中で、士分は家老などの大身も禄の少ない者も対等、それに比較して徒士は劣位の地位にあり、足軽以下は領民並みの扱いだったそうです。例えば、足軽は士分の人に外で出会う履き物を脱いで土下座する決まりだったことなど、屋内での対面の作法・屋外で会ったときの挨拶の仕方・書札礼などから著者は三層構造を論証しています。

また、一般には武士と言えば帯刀しているというイメージです。しかし、足軽や許されれば百姓でも帯刀することがあります。本来の武士と言える士・徒士を示すシンボルは、帯刀ではなく袴の着用だったということです。また、明治維新後に士族とされたのも徒士以上層で、足軽は卒族として平民になりました。

また、継承についても、士分は世襲(戦国期には世襲になっていたということでしょうね、その頃からの変遷についても面白そうなテーマです)、徒士層も初めは身長や能力を確認して採用されていましたが、 近世後期には世襲化しました。しかし、足軽は藩当局が譜代の足軽の家筋の存続を願っていたにも関わらず、経済的な理由と仕事をこなす能力(体力や読み書き)がないと勤まらないことからほとんど実現しませんでした。

当然のことながら、士分より徒士、徒士よりは足軽以下層の方が藩から支給されるサラリーは少なくなっています。徒士でも下の方は俸禄だけでは暮らせず、草鞋作りや妻が機織りの内職をしていました。ましてや足軽の給与だけでは、都市で一家を構え家族を養うのは不可能だったのです。なので、足軽以下は農村から奉公という形で供給されていました。

農家のライフサイクルの中で、自家の所有耕地を耕すには労働力が余るような時期(父親と未婚の男の子が複数いるような時期)に、その余った労働力が、足軽や中間などの武家奉公に出たわけです。農業収入をもつ足軽一家の方が、藩から支給されるサラリーのみで暮らす徒士の家族より経済的には豊かだったそうです。また、高10万石の津山藩で、武家奉公人を2400人ほど雇っていたそうで、4万2千石の年貢収入のうち8400石が給料として農村に還元されていました。武家奉公がこれほどの規模だということは、地方によっては地域の中で最大の就業先だったと思われ、経済的にも重要ですね。

世襲された足軽の家は少なかったのですが、足軽奉公している人が辞める際に後任を指名する権利があり、足軽株として売買されていました。株を買ってまでして足軽になる人がいたのは、足軽の給金が小作など他の雇用に比較して良かったのか、または一時的とは言え名字帯刀を許されるなどの点に魅力があったのか、どちらなのか興味あるところです。

まとめると、本書は士・徒士・足軽以下の三層構造を通奏低音とし、家臣団の社会構造を説明した本です。日本全国各地の藩の史料に則して、通婚・家族構成・相続などを分かりやすく解明してあり、今後はこの分野の定本になるのではと感じました。

2008年8月27日水曜日

まだ道路は熱い

先週からめっきり涼しくなり、夏もそろそろ終わりのようです。ただ、今日のように晴れれば、まだ陽射しもそれほど弱くはありません。こんな日にショートパンツで外を歩いていると、体はちっとも暑くはないのに、下腿には熱感を感じます。膝ぐらいと比較して、特にくるぶしあたりが熱い。真夏のかんかん照りの日は全身暑いので、そうはっきりとはしませんでしたが、今日ぐらいの気温だと地面のアスファルトが熱いことがよく分かります。

ヒートアイランド現象の原因は冷房の普及による廃熱の増加や緑地の減少もあるとは思いますが、道路が熱くなることも大きいと思うのです。真夏の外出では、イヌとかヒトでも身長の低い子供たちは、大人よりもずっとこの道路の熱さの影響を受けているでしょうね。道路が熱くならないような舗装は難しいのかな。

2008年8月25日月曜日

電波時計

ふだんは、だいたい自然といつもの時刻あたりに目が覚めます。でも、寝過ごすことがあってはまずいので、目覚まし時計もセットします。以前つかっていたクォーツの時計は、一日に数秒のずれがあったと思います。一日に一秒でも、一ヶ月で30秒、一年だと6分のずれになります。朝の数分は貴重ですから、このずれもばかにはできません。かといって時刻あわせをするのも面倒な感じ。

ということで、2年ほど前から電波時計を使っています。電波時計は自分で時刻を修正してくれているので安心です。時刻表示は性格なのですが、この電波時計の目覚ましの音が最近小さくなってきました。また、この時計には本体の上側に付いているスイッチを押すと女の人の声で時刻をアナウンスしてくれる機能があります。夜中にふと目覚めて時刻を知りたい時など、明かりをつけても眼鏡を外していると余程近づかなければ時刻が読めないほどの近視なので、このアナウンス機能は便利です。でも、その女性の声もこのところ小さくなってきました。

どうしてかなと思いながら、電池を交換してみました。バックアップの電源はないようで、電池を交換すると現在の時刻やそれまでセットしていた目覚ましの時刻はリセットされます。しかしボタンを押すと、電波を受信して自分で年月日・曜日と時刻を合わせてくれます。電波時計の電波は時刻だけでなく、日付も知らせてくれているんですね。ただ、時刻合わせが完了するまでに数分かかるのが不思議。

電池の交換で、無事に目覚まし音やアナウンスの声の大きさも復活してくれました。

2008年8月21日木曜日

福島県立大野病院事件の無罪判決

昨日は福島県立大野病院事件の裁判で無罪の判決が言い渡されました。 日本の臨床医であればだれもがこの裁判には注目していたと思います。本当にほっとしました。被告の加藤医師にもおつかれさまといいたい気持ちです。

業務上過失致死や過失傷害で起訴されるのは、患者取り違え・間違った薬剤の使用・薬剤の過量などなど、明らかな過失がある場合だけだと思っていました。ところが、この事件ではそのような専門外の私にも分かるような過失はなく、それなのに担当医が逮捕されてしまったことが非常に驚異かつ脅威でした。他人事とは思えず、それまではこの種の話題にそれほど興味があったわけではないのですが、この事件以降、ネットでの情報収集もするようになりました。

この事件や大淀病院事件については、多くの医師がネットで議論し、詳細な検討がなされています。それらを見た限り、本事件で主治医に過失があったとはとても思えません。医療の場では、過失が無くとも、治癒が望めなかったり、障害が残ったり、死亡につながる場合があることは避けられないことです。

患者さんが不幸な転機を取った際に、医師の過失があったのではと考えたくなるご遺族の気持ちも分からなくはありません。ただ、判決後の記者会見でも患者さんの父親の方は「真実を知りたい」とおっしゃっていたそうですが、裁判の過程できっちり公開された事実以上のどんな「真実」を知りたいのか、疑問に感じます。

また、本件の患者さん死亡後も逃げも隠れもせずに地域での診療を続けていた医師をわざわざ逮捕した警察、また無理筋な起訴をした検察には反省をお願いするとともに、ぜひとも控訴しないで欲しい。また、患者さんの父親が会見で医療界に向かって述べた「今後に不安を感じる。再発を防止するためにも、原因追求して対策をたててほしい」という言葉を、警察・検察は自分たちに向けられたものと考えて欲しいものです。そうでなければ、医師のみならず、医療を受ける人すべてにとっても不幸です。

2008年8月20日水曜日

江戸の高利貸


北原進著 吉川弘文館
本体1700円 2008年1月発行

旗本・御家人と札差というサブタイトルがついていますが、主に札差しについて扱った本です。もともと、「江戸の札差」とうタイトルで1985年に江戸選書一冊として出版されたものを復刊したのだそうです。

幕臣のうち、知行地をもつ上層の旗本を除いて、その他多くの旗本・御家人は一年に3回、蔵前にある幕府の米蔵から、米と一部お金で給料を支払われていました。米を支給された武士は、生活費としてつかうお金を入手するために米を換金する必要があります。個々の武士が、米を受け取って米屋まで運搬して売り払うのは手間がかかりますから、それを代行して行うのが札差しの業務の始まりでした。米の支給は年に3回ですから、その間にお金の必要となった武士への短期の金融業務も営むようになりました。

やがては、江戸での贅沢な生活に慣れて赤字になった武士家計への金融業も営むようになります。武士は借金があるかぎり札差しを別の札差しに替えることが許されていませんでしたので、定期的に支給される給与を握った札差しは金融業者として経済的に大繁栄したわけです。借金漬けになった幕臣を救うために、幕府は相対済まし令や棄捐令などを出しましたが、消費生活の変化に伴う幕臣の家計の恒常的な赤字が原因ですから、問題の解決にはつながりませんでした。

幕府から幕臣に支給されるのがずっと米であり続けた(一部はお金でも支給されたそうですが)のはどうしてなんでしょう。何石取り・何俵取り・何人扶持というように、サラリーの額が米で表示されていて、それが仕来りとなっていたからだとは思います。でも、知行地を持っている一部の上層旗本以外はサラリーマンなのですから、幕府が米相場の有利なときに米を換金して、幕臣へはお金で支給するようにすれば、少なくとも札差しが米価の変動から得ていた利益の分だけでも、武士の側が手にすることもできたろうにと思えてしまいます。

ハードカバーの本ですが、内容は一般向けの新書といった印象です。札差しについて、その沿革、どんな仕事をしていたのか、江戸の豪商としての札差しなどについて分かりやすく説明されていて、新書としたら1700円は高いけれど、買って損のない好著でした。

2008年8月18日月曜日

クラリスワークス4でマックライトIIの書類を開く

うちでは、SheepShaverでもTitaniumPBG4でも、クラリスワークス4を使ってマックライトIIの書類を問題なく読めてます。ふつうにファイルメニューから開いても、ドラッグアンドドロップでも、どちらでもOKです。


システムフォルダの中にClarisという名前のフォルダがあります。さらにその中にXTNDフィルタというフォルダがあって、他のクラリス製品や他社のソフトの書類を開くのに必要なフィルタ書類が、こんな感じにたくさん入っています。図の下から2番目の「マックライトII XTND-J」がきっとマックライトIIの書類を開くのに必要なフィルタだと思います。もしかすると、これが明宏さんのMacの中に無いのかも知れませんね。

もし、このフィルタがあっても開かないのだとしたら、難問ですね。FileBuddyで単純にtyepをMWJDからCWPJへ、creatorをMWJ2からCWKに変更してもクラリスワークス4では開けないし、解決策がすぐには思い浮かびません。どうしたらいいのだろう。

2008年8月17日日曜日

思想地図 vol.1 特集・日本


東浩紀・北田暁大編 NHKブックス別巻
2008年4月発行 本体1500円

NHKブックスの一冊ではあるのですが、中で編者も書いている通り、中身は雑誌風味です。特集・日本と銘打たれているように、ナショナリズム・日本論・共和主義などに関するシンポジウム・論考とともに、現在の日本文化の代表である、マンガ・アニメ・初音ミク現象などに関する論考も載せられています。

一番おもしろかったのは、「日韓のナショナリズムとラディカリズムの交錯」です。民族主義という言葉に対する感覚が、南北の分裂という問題を抱える韓国と日本とでは異なる点の指摘は鋭いですね。あと、韓国では金大中・盧武鉉という進歩派の指示する大統領が実現し、しかもそれが金融危機後のIMF管理下だったので、経済的には厳しい政策をとらなければならなかった点が、基本的には自民党の政権が続いている日本とは大きく違います。盧武鉉政権の実現に寄与した三八六世代が、その下の世代からは既得権をもつ世代として批判されるというのも、興味深い指摘です。

共和主義に関しては、視点のことなった二人の論考が載せられていますが、切れ味は今ひとつ。シンポジウムや対談の記録は、分かりやすく読めるので歓迎。また、評論ってとりあげられている対象をよくは知らなくても何となく読めてしまう物ですが、巻末に載せられて編者に絶賛されている「キャラクターが、見ている」という公募論文は、「エヴァンゲリオン」「あずまんが大王」「らき☆すた」などなどを知らないので、理解困難で残念でした。

雑誌を単行本の形で売る試みはありかもしれませんね。少なくともこの内容の雑誌が創刊されたとして、その創刊号を私が買うかというと、おそらく手に取ることもないような気がするので、そういう点では成功した企画なのだと思います。

2008年8月15日金曜日

まだ暑い、夏の外来

今日も暑い一日でした。ショートパンツで外に出ると、アスファルトからの照り返しで、下腿がちりちり熱く感じられるほどでした。つい木陰を探して歩いてしまいます。

こんな残暑の一日ですが、外来に来た患者さんの中には、 風邪と呼ぶには少し高めの発熱に加えて、咽頭痛・咳などの呼吸器症状の人の比率が多い印象でした。お盆休みのせいで、高血圧症・脂質異常症・糖尿病など、ふだんは多い内科の慢性疾患の患者さんが少なくて、そう感じただけなのかな。

それにしても、38度以上あるのに運動の部活を続けたり、40度もあるのに明日からの合宿には行きたいという方もちらほら。若いからできることだとは思いますが、人生長いのだからまたの機会もあるだろうし、しっかり水分摂ってお休みするようにお話ししました。

2008年8月12日火曜日

夏のTime Capsule

朝、起床後にMacBook Proに触れると、両側の奥あたりは明らかにかなり暖かいというか熱くなっています。夏だとはいえ早朝の室温は30度を下回っています。しかも、夜間は7−8時間以上スリープし続けて全く使用していないのに、こんなに熱を帯びるのは困ったもの。今朝一番にスリープから起こした時の、CPUなどの温度はこうなっていました。


MacBook Proをスリープさせて真夏の屋外に持ち出しても、こんなに熱くはなりません。どうやら、夜中のスリープ中にもTime CapsuleとMacBook Proとの間でなにやらやりとりがあって、こんな風に熱くなってしまうようです。

Time Capsuleの方にも触れてみると、MacBook Proよりも少し温度が高い感じ。耳を近づけると、ファンもまわっています。ただ、夏は窓が開いていて外の音が聞こえてくるので、Time Capsuleのファンの音はまったく気になりません。


TimeMchineの設定はこんな風になっています。なので、一時間ごとのバックアップの他に、日付をまたぐ頃には不要になる前々日のデータの整理などをしてるんでしょうか。でも、こんなに熱くなるのは不思議。




Time Capsule 到着
Time Capsule セットアップ完了
遠くまでカバーするTime Capsule
暖かいTime Capsule

2008年8月10日日曜日

ボクらの京城師範附属第二国民学校


金昌國著 朝日選書845
2008年8月発行 税込み1260円

今上天皇と同年の1933年に生まれた金昌國さんの国民学校(小学校)時代からの半生記です。子供から大人になる頃が激動の時代だっただけに、いろいろとご苦労なさったようです。訳者名がないので、ご自身が日本語で書かれたものなのでしょう。

金さんのご家族は創氏改名(ATOKの辞書になかった)に応じなかったそうなのですが、それでも試験のある国立の国民学校に合格できたのでした。創氏改名に関する締め付けは、地方に比較して京城(これもATOKの辞書になし)では、緩やかだったそうです。

日本の敗戦後、朝鮮半島在住の日本人はみんな日本に引き揚げてきました。日本が朝鮮半島で本当に朝鮮の人のためになる統治をしていたなら、胸を張って住み続けられた筈ですが、ほとんどの日本人が逃げ出してきたことからも、日本の朝鮮統治の実情がうかがわれます。

引き揚げの際には、知人の朝鮮人に家などを託した人が多かったそうです。また手荷物として持ち帰れる品物・お金も制限されていたので、貴重品を預けて帰国した人もいました。託された家の多くは、その後の韓国政府の政策により、託されて住んでいる人のものとなったのだそうです。

同じような話を台湾から引き揚げてきた人から直接聞いたことがあります。一般の日本人が台湾を再び訪れることができるようになったのは1970年代以降ですから、家や物を託してから30年も経過していました。なので、託された物を大事に保管してくれていた台湾の人と再開を果たせたはいいものの、返してくれとは言い出せなかったそうです。同じようなことが朝鮮半島に住んでいてその後韓国を訪れた日本人にもあったでしょうね。

著者は朝鮮戦争の際にはソウルから釜山まで逃げて、アルバムなど大切なものをみんな無くしてしまったそうです。朝鮮戦争を経験した多くの韓国人には、同じような体験があるのでしょう。朝鮮特需について著者は、「日本の身代わりのようにして南北に引き裂かれたわが国の不幸をきっかけに、以後、国力を伸ばしていった日本に対する割り切れない思いは、今も韓国人の中にくすぶり続けている」と記しています。韓国とのお付き合いに際して、日本が国益を損なうような振る舞いをしないためにも、このことを忘れてはいけないと感じます。

2008年8月9日土曜日

夏の野菜餃子

豚挽き肉から出るジューシーな脂肪を味わうのが、日本流の焼き餃子の特徴なのかも知れませんが、うちでは野菜をおいしく食べる調理法というコンセプトで餃子をつくっています。なので、餃子の具はすべてベジタブル。冬場だと白菜が餃子につかわれる定番の野菜です。でも、この季節の白菜は時季外れで高価です。そこで、夏場はこんなレシピで餃子を作っています。

 ニラ    一把
 生シイタケ 一袋
 モロヘイヤ 数本
 大葉    10枚
 ショウガ、ニンニク、片栗粉、塩、味の素
 餃子の皮 西友の餃子皮大判20枚入り

モロヘイヤは茹でずに葉っぱだけを、ニラ・生シイタケ・大葉はそのまま、フードプロセッサでガーっとみじん切り。塩を少々加えてしばらく置いてから、片栗粉・味の素と、おろしたショウガ・ニンニクを加えて混ぜるとこんな感じ。


餃子の皮は手作りすることもできるそうですが、うまく作れる自信がないので買ってます。近くのスーパーが西友なので、西友のプライベートブランドの河なのですが、この大判が一番いいみたい。大きいので包む手間が少なくなるし、水を加えて蒸し焼きにした後で、皮が破けにくいのがいい感じです。包んだら、ごま油をひいて炒めます。


ご飯替わりの餃子なので、こんな感じに大きな器に盛りつけ。ふつうの野菜のみの具だとパサパサしかねませんが、モロヘイヤと適量の片栗粉がしっとりまとめてくれます。モロヘイヤは茹でずにそのまま刻んでも、焼くときの加熱で充分にねばねばになります。生シイタケは白菜のかわりにふんわり感を与えてくれてます。また大葉を入れると、ニラ・ショウガ・ニンニクの風味をやんわりと整えてくれます。夏場はこの組み合わせがいいみたいです。

2008年8月8日金曜日

日本不動産業史

橘川武郎・粕谷誠編 
名古屋大学出版会
2007年9月発行 本体5500円

産業形成からポストバブル期までというサブタイトルの示すとおり、前史である江戸期から、バブル崩壊後の現在に至るまでを対象とした不動産業の通史です。昨年9月に発行されたときに書店で手にとって、買おうか買うまいか迷った本でした。結局、先週購入しこうやって読んだわけですが、昨年購入を躊躇した直感は正しかったようです。決して、できが悪い本だとというわけではありません。ただ、すごくバランスが悪いのです。

江戸期から現在までを本文366ページにまとめるのですから、広く浅くになりがちです。しかも、高度成長期に約70ページ、それ以降の現在までに約100ページが割り当てられています。なので、私が主に興味のあった昭和戦前期までの記述は120ページ程度しかありませんでした。

この時期に関しては史料の制約もあるとのことです。なので、丸の内オフィス街と三菱、京浜工業地帯の埋め立てと浅野、私鉄と住宅分譲などなど、比較的よく知られたエピソードが主につづられています。少なくともこの時代に関しては、知りたいことが書かれていないという印象です。

例えば、明治から昭和戦前期に個人が住宅を購入する際の資金はどうやって調達していたんでしょう。数年前までは個人が住宅を購入する際には住宅金融公庫から融資をうけることが当たり前で、私自身も融資を受けたことがあります。本書にも「高度成長初期、住宅ローンにおいて重要な役割を担ったのは、住宅金融公庫で」、1955年の金融機関の住宅ローン貸出残高の98.8%を占めたとありました。こんなにシェアの高い金融機関がなかった戦前はどうなっていたのか気になります。

また、現在でもそうですが、小規模の土地や建物を所有していて、不動産業者を通して賃貸に出している人がたくさんいます。こういった零細な不動産業者のありようについての記述も昭和戦前期までに関しては詳しくありません。このあたりは、個々の事例をたくさん積み上げる研究がこれから必要な分野なのかも知れませんが。

ただ、本書で新たに得た知識もあります。それは農地改革についてです。「農地改革実施時点では、改革の対象となった農地が耕作されなくなった場合、これを政府が統制価格により買い戻す、先買い権規定が定められていた。しかし、この規定は1950年土地台帳法改正による賃貸価格の廃止により効力を失っており、これによって農地についての地価統制は解除され、創設自作農地についても転用の途が開かれ」たのだそうです。

農地を解放させられた地主が、創設自作農地が農地解放後10年も経たないのに工場用地などに転用されたことに不満をもらしていたとの記述も本書にはありますが、もっともな不満です。後になって大都市圏の創設自作農地は、宅地などとして転売され多額の収入を創設自作農家にもたらしたり、賃貸収入をもたらしたりなど、元地主ならずとも社会的正義に反すると感じます。どうして、こんな不公平の変更が実現したのか興味があるところですが、保守党が創設自作農を自らの票田にするためにこんな風にしたんでしょうか。機会があったら調べてみよう。

2008年8月7日木曜日

セミはなぜ歩道に落ちているのか

野生動物の死骸を目にする機会って、ほとんどないですよね。小鳥の死んでるのを見かけるのが年に一度くらい、ネコが轢かれているのを見るのが二年に一回くらいでしょうか。昆虫はずっとたくさんいるはずだから、もっと死体を見かけることが多くてもおかしくはないはずですが、あまり見ないような。


虫は身の回りの環境にたくさん生息していたとしても、小さいものが多いから目につかないだけなんでしょうか。たしかに蚊が死んでても、気付きそうにありません。でも、チョウやトンボくらいの大きさの虫の死体もみかける機会は多くないように感じます。その点、セミは昆虫なのに歩道に死体がよく落ちています。こんな抜け殻のことではなくて、本当の死体の方をです。

同じくらいの大きさの虫でも死体を目にする頻度に差がある理由はどんなものでしょう。考えつく仮説としては、①チョウやトンボなどは補食されて死亡することが多いので死体が残らないがセミは天寿を全うして死ぬことが多いので死体が残る、②チョウやトンボは人の目につきにくい場所で過ごしているので死体も見つかりにくいが、セミはふだん歩道の上の街路樹の枝でくつろいでいることが多いので死ぬと歩道に落ちる、③チョウやトンボに比較してセミは生息している絶対数がずっと多い、くらいです。③だとつまんないけど、これなのかも。真相はどうなのでしょう。

2008年8月4日月曜日

セミの幼虫と窒素

セミの幼虫は成長に必要な栄養をどうやって摂っているのでしょう。根っこから樹液を吸っているのですが、葉から根に流れる師管液を吸っているのか、根から葉に向かう道管液を吸っているのか、それとも口吻の先を無差別に根の中に差し込んで、両者の混ざったものを吸っているのか。

Wikipediaをみると「幼虫は太く鎌状に発達した前脚で木の根に沿って穴を掘り、長い口吻を木の根にさしこみ、道管より樹液を吸って成長する」「土中の閉鎖環境で幼虫が師管液を主食とした場合、大量の糖分を含んだ甘露を排泄せざるを得なくなり、幼虫の居住場所の衛生が保てなくなる」とあり、この点は予想通りで納得できました。

植物食の昆虫の幼虫の場合、エネルギー源となる炭水化物の入手よりも、体をかたちづくるタンパク質・アミノ酸の入手が成長を規定していると思うのです。道管液を吸って成長するためには、道管液にタンパク質・アミノ酸がある程度含まれていないと困るのですが、どうなんでしょう。

植物は、自分が必要とするタンパク質を根から吸収した窒素から合成できます。土壌中に遊離のアミノ酸がたくさんあるとは思えませんから、根から吸収するのは、アンモニウムイオン・亜硝酸イオンなどでしょう。で、これらの窒素を含む無機イオンからアミノ酸を合成する部位はどこなんでしょう。酸素やエネルギー源であるブドウ糖の入手しやすい葉でアミノ酸が合成されるものかと思っていましたが、道管液を吸ってセミの幼虫が成長できるってことは、根がアミノ酸の主な産生部位なのかも。

また、セミの必須アミノ酸はヒトのそれとは違っているかも知れませんが、動物だから自分の体内で合成できないアミノ酸があるだろうと思うのです。すると、植物の道管液中にはそれらセミの必須アミノ酸がすべて含まれていることになります。これって何となく不経済のような。主に根でアミノ酸を合成して茎や葉や花に道管を通して輸送するのだとしても、アラニンやグルタミン酸のような汎用のアミノ酸の形で輸送して、その他のアミノ酸は必要な場でアラニンから合成するなり、グルタミン酸からアミノ基を転移してつくるようなことになってないのか。その辺、気になります。

2008年8月2日土曜日

セミの穴


8月に入り、アブラゼミの声がしきりと聞こえるようになりました。街路樹の根元には、セミの幼虫が抜け出してきたとおぼしき穴がいくつも見られます。そして、歩道に敷かれたタイルの隙間にも、こんな風にセミの抜け穴が。



広い公園や舗装されてない地面に植わっている樹の根っこで暮らしているセミの幼虫の場合には、大きくなればなんの障害もなく地上に出て来られるでしょう。でも、街路樹の根で暮らしている幼虫の場合、地上に出ようとして土を掘りながら上がっていっても、地面が舗装されていて地上に出られなくなっちゃうこともありそうな気がしますが、どうなんでしょう。このセミみたいに、運良くタイルの隙間が見つかればいいけど、車道なんか一面にアスファルトで舗装してあるから、困ってしまいそう。

櫻の樹の下ではありませんが、アスファルトの下には羽化できないセミの幼虫の死体が埋まってたりして。

2008年8月1日金曜日

東京大学「80年代地下文化論」講義


宮沢章夫著 白夜書房
2008年8月発行 本体1300円

地下文化論という言葉がタイトルの中にありますが、地下文化っていう感じではないですね、語られていることは。2005年度に駒場で行われた講義ですが、教養課程ではなくて教養学部の学生向けだったそうなので、講義の対象は1985年前半に生まれた人が主だったのでしょう。その人たちにとっては自分の知らない時代についての語りを聞く体験だったでしょう。しかし、私は彼らよりも宮沢章夫さんの方にずっと年齢が近いので、語られなくとも自分で実際に体験した時代なのです、80年代は。

でも、この本に採りあげられている、「かっこいい」ピテカントロプスは別世界の出来事。また、「おたく」にしても自分とは縁がないというか、少なくとも宮崎勤君の事件の際に衝撃を受けるようなことはありませんでした。きっと、あのバブルの時代、80年代に東京にいなかったからなのかな。

こういう本って、内容について感想以上のことを書く能力・ものごとを分析してみせる能力が自分にないことを再確認させられてしまう。でも、面白く読めました。