今年もいろいろと読みましたが、ベスト3は以下の三冊になるでしょうか。順不同です。
・ 満州の成立 満州の経済・政治の特徴を自然環境をもとに説明してくれる、気宇壮大
・ 日本における在来的経済発展と織物業 10年前の本ですが、分析が鮮やか、お手本的な本
・ ヨムキプール戦争全史 小説より面白い戦史
今日は大晦日です。新型インフルエンザの流行も峠を越えたと報道されていますが、たしかに先日の休日診療所の当番でも、予想外に少ない受診数でした。日本中どこも、このまま平和な新年を迎えられるといいですね。
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モードリス・エクスタインズ著 みすず書房
2009年12月発行 本体8800円
スペインの没落以降、パクス・ブリタニカを脅かす可能性のある国はフランスでしたが、20世紀に入ってからはドイツ帝国がフランスにとってかわります。また20世紀には、アバンギャルド、モダニズムという文化・社会的な叛逆・解放・革新の風潮が出現したわけですが、本書では新興のドイツを社会・経済・軍事的なアバンギャルド、モダニズムの旗手と見立て、20世紀前半に二度もの大戦を経験することに至ったヨーロッパの社会を雰囲気まで表現しようとした作品なのかなと感じました。第一次大戦とモダン・エイジの誕生というサブタイトルがついていますが、そういうことですよね。ふつうの政治史・経済史とは全く違ったアプローチで、興味深く読めました。
いまでは第一次世界大戦 World War I と呼ばれますが、本書を読むと基本的にヨーロッパの内戦だったということがはっきりする感じです。日本と言う単語は日露戦争に言及したところにしかなかったし、アジア・アフリカ諸国についても参戦したセネガル兵のこと触れられていません。まあ、アメリカについては、リンドバーグやロスト・ジェネレーションの現象なども含めて、それなりに触れられていますが。
開戦前の日々、ベルリンなどドイツの各都市で開戦を望むデモに多数の市民が参加していて、ドイツが総動員・開戦を決断するにあたっては、この世論が大きな影響を与えたというのが著者の見解です。また、ドイツ社会民主党が反戦をつらぬくことができなかったのも、戦争への態度を決定するための社会民主党代表者会議に出席する人たちが、ドイツ全国からベルリンへ向かう列車の旅の途中で、戦争を望むデモに多くの群衆が参加している姿を目にしたからなのだとか。
で、私はストラビスキーの音楽の方の春の祭典も好きなのですが、LPの頃からあったブーレーズとクリーブランド管弦楽団の旧盤が一番です。
董国強編著 築地書館
2009年12月発行 本体2800円
南京大学14人の証言というサブタイトルがついているように、文化大革命の時期に南京大学の教官や学生だったりした人たちで、その後に大学教授や研究者となった14名へのインタビューをまとめた本です。14名の中には文革期にすでに教官や教室の管理者として活動していた人たちもいて、その人たちは主に迫害の対象となったつらい経験を中心に語っています。また、それよりも若い大学生や中学生だった人たちの多くは批判する側で、紅衛兵(ATOK2007には紅衛兵が登録されてなかった)として北京で毛沢東と会う経験をした人も含まれています。編著者は日本人ではなく南京大学歴史学科の副教授で、オーラルヒストリーを実践したものです。文革に関する企画は今でも中国国内ではすんなりと許可されるわけではないそうで、中国より先に、日本で出版されることになったそうです。文化大革命自体が特異なできごとですから、それを体験したそれぞれの人の体験談もとても非日常的なもので、とても面白く読めました。まあ、歴史学者なら面白がるだけでなく、こういったことがらを素材として扱うのでしょうが。
世代が上の方の人たちは、百花斉放百家争鳴とそれに続く反右派闘争などを経験していたので、慎重だったようです。文革が始まった時にソ連の大粛清と同じではないかと感じたと述べている人もいました。
文革自体は毛沢東が劉少奇からの政権奪還を目指して発動したものと言われていますが、中国のいろいろなところで一般市民が「反革命」を打倒すると称してふだんの不満をはらす活動をしたためにあんな風に暴走してしまった面があります。この頃の中国では、職場や所属組織といった「単位」が、戸籍・住宅・医療・就職・進学・結婚などまで生活全般をまとめて面倒を見る体制でした(ちょうど、一昔前の日本の大会社が社宅や病院や保養所など持っていたのに似ている)。「単位」の共産党組織の覚えが良くないと生活に差し支える面が多く、コネをもている人はいいけれど、そうでない人や不利な扱いを受けたと感じてもそれを解消する手段がありませんでした。こんな不満・恨みが小さな地域・ローカルな組織での「文革」の原動力だったとか。
もちろん学生たちのように、純粋にフルシチョフのソ連のような修正主義を許すなと活動した人たちもいました。ただ、自分たちの活動が革命的なのか、反動なのかを上部が決定するような状況に、操られている感覚をもつようになった人も多く、特に林彪が失脚してからはみんなが冷めた見方をするようになったそうです。
毛沢東による経験交流の奨励によりお金がなくとも中国国内を旅行して見聞をひろめることができ、学生たちには良い思い出として残っているそうです。しかし農村への下放はつらい体験で、社会主義の新農村が花開いているはずなのに、実際の生活水準の低さを実感して驚いている人もいました。当初は勇んで下放に出かけた人でも、何とかつてを頼って学生として南京にもどることができたからこそ、学者としてこのインタビューを受けることができるようになったようです。
文革の誤りがあっても、それでもマルクス主義を信じて疑っていませんと述べてる人が14人中ひとりだけいますした。その他のひとはどうなのかな。今では中国共産党の共産主義というのは、多数党・政権交代を前提とする政治体制を拒否するためだけに使われてるような感じですからやむを得ないかもですが。
文革が中国の人たちにとって大きな災難だったのは、本書を読んでみても間違いないことです。毛沢東や四人組や、また毛沢東をトップに据え続けざるを得なかった中国共産党に原因があるのもたしかです。でも、20世紀前半にあんな形で日本が中国に干渉しなければ、中国共産党が政権を握ることがなかったかもしれず、ひいては文革なんて起きなかったかも知れないと思うと、日本人にも無縁なできごとではないですよね。
益井康一著 みすず書房
2009年10月発行 本体4500円
本書は、もともと1972年に発行されたものに劉傑さんの解説を新たに付して新版として発売されたものです。本書の巻末にも今井武夫さんの「支那事変の回想」に関する記載がありますが、今年3月に日中和平工作というタイトルで再刊されたその本を読んだことがあったので、汪兆銘政権の舞台裏がみえる感じで本書を読むことができました。
劉傑さんの解説によると対日協力者としての漢奸については中国でも1980年代までタブー視され、あまり研究がなかったそうです。その点で、本書は漢奸裁判に関するかなり早い時期でのまとめです。また、著者は本書の中で裁判の一次史料は国共内戦の影響で残されていないのではと述べていて、毎日新聞の記者だった著者は敗戦後に日本に帰国してから、漢奸裁判関係の外電や中国の新聞などを収集して本書を書いたのだそうです。
汪兆銘が日本の敗戦前に日本で病死したことは知っていたのですが、多発性骨髄腫だったことは本書で知りました。対麻痺と膀胱直腸障害があったそうですから、脊椎の痛みもかなりひどかったことでしょう。症状から死が避けられないことも自覚していたはずで、遺書を残す気になっても不思議はありません。実際、汪兆銘は死後20年たったら公開するようにとした遺書を残していて、文字からもおそらくホンモノと思われるものなのだそうで、それが載せられています。すでに日本の敗戦が見透せる時期に書かれたものですから、それを織り込んで、自分の行動の正当性、汪兆銘政権が決して傀儡政権ではないことを訴えています。日米開戦前には日中戦争が中国に有利に展開すると決まっていたわけではないのですから、蒋介石と袂を分かった彼の行動も理解できる気がします。私も日本人なので、日本側の王兆銘観になびいてしまっているのは否定できませんが。
汪兆銘亡き後の主席陳公博、駐日大使や外交部長だった褚民誼、そして汪兆銘夫人の陳璧君などの大物は、裁判でも過ちはみとめ、それでいて自分の行動の正当性も正々堂々と主張していて、感心させられます。法廷での傍聴人や当時の中国の新聞の論調もこれらの人に対しては同情的な点があったそうです。まあ上海など、もとは汪兆銘政権支配下にあった地域で発行された新聞だからかも知れませんが。陳公博・褚民誼など大物の多くは死刑(絞首刑ではなく、銃殺)になりましたが、陳璧君は終身禁固刑になりました。国共内戦下、共産党の支配下に入った蘇州の刑務所で服役していた他の漢奸たちが釈放されても、陳璧君は釈放されず、共産党側からの転向の誘いも断って1959年に獄死したそうです。
漢奸と認定されるのは、国民党員で裏切ったと見なされた人だけが対象ではないのでした。例えば、科挙の進士合格から経歴をスタートさせた王揖唐という人は、安福派軍閥で段祺瑞の片腕として活躍し、安福派の失脚後は日本に亡命しました。華北の日本の傀儡政権の中には、こういった軍閥に関係した北方の旧政客たちがいました。私の目から見ると、この人たちは元々国民党とは対立していた人たちですから、国民党と対立する華北の傀儡政権に参加しても当然で、漢奸として裁かれるのは筋違いのような気もします。また、あの川島芳子も漢奸として裁かれていますが、清朝の皇族出身で、しかも9歳の時から日本で日本人の養女として育てられた彼女が漢奸とされたことにも、強い違和感を感じます。川島芳子に関しては、当時の中国の中にも同様に感じた人が多くいたそうです。
華北傀儡政権・汪兆銘政権の高官や財界人だけでなく文化人も裁かれています。魯迅の弟として有名なのは周作人は懲役刑の判決を受けました。看板になるような文化人たちは強く対日協力を迫られたのでしょうし、逃げ隠れするには高齢・有名過ぎる人たちですから、やむを得なかったのでしょう。日本人に対する 怨に報くゆるに徳をもってせよという蒋介石の言葉を思うと、文化人たちに対する有罪判決は酷な感じがします。ただ、京劇の女形の名優、梅蘭芳はひげを蓄えて潜み、対日協力をせずに過ごしたそうで、このエピソードには感心しました。
本書を読んで、フランスの対独協力者や、ドイツの占領下にあった地域の同様の人たちのことについても学んでみたい気になりました。また、日本にはこういう問題はこれまでなかったのですが、戦前戦中の捕虜になった人への態度など考えると、もし日本で漢奸が問題にされるような事態が発生した際には、もっときびしい非難が一般のひとたちからあびせかけられるのでしょうね。
吉岡政徳監修 京都大学学術出版会
2009年10月発行 本体7000円
中身は、人類の移動と居住戦略、環境と開発、体と病い、植民地化と近代化、文化とアイデンティティという5つの分野に関する40ほどの章に分かれています。日本オセアニア学会創立30周年の記念出版ということから多数の方が執筆しているので、一つ一つの章はあるテーマを短くまとめて紹介する感じになっています。オセアニア学というのは、個々の島のflora・faunaや、珊瑚礁・火山島の特徴、海流とか気候とかそういった自然科学的なことは対象ではないようで、主にオセアニアに住んでいる人間を対象にした学問なのですね。買って読んでから気付いたので、個人的には期待はずれ感が否めません。
考古学や言語学的な成果から、順にどの島から人が移住していったのかが紹介されていて、人類の移動と居住戦略というテーマが一番面白く感じました。オセアニアへの第一の人類の移動は、海面の低下した5万年前頃にサフル大陸(オーストラリアとニューギニアが陸続き)へ、そこからソロモン諸島までは一万年前くらいまでに拡散していたのだそうです。海面の低下していた頃に人の住んでいた遺跡の多くはもしかすると現在は海面下にあり発掘不能で、じつはその時期に海から離れたところに住んでいた人たちのことしか考古学では明らかにできない点は、問題にならないのかということが何となく疑問に感じました。
体と病いというテーマではマラリア対策に関する章が興味深く読めました。子供の成長の地域差や、糖尿病の多いことは、やはりそうなのかという程度の印象。また、この地域の人口に関する章もありましたが、現状について触れられているだけなのが残念。島という環境なのでヨーロッパ人との接触以前にも人口の調節が行われていたと思うのですが、どんな具合だったのでしょう。またヨーロッパ人からもたらされた感染症などの健康被害によって人口が激減した時期があったように書かれていますが、その程度やその後の人口増加(回復)の様子や、人口の変化が社会に与えた影響など、読んでいてとても知りたくなりました。でも、こういったことは史料が無くて分からないのかも知れません。
先住民運動というテーマでニュージーランドにおけるマオリ語のテレビ局や幼稚園などの事例が取りあげられていました。ただ、先住民だから一般的に考えて生活が苦しいのかなという程度の認識しかない私にとっては、実際にニュージーランドの都市や非都市に住むマオリの人たちが、それぞれどんな仕事をして何を食べてどんな家に住んで何を着ているかなどなど、実際にどんな暮らしをしているのかも提示してもらえないと、いまひとつ理解が深まらなかった印象です。
あと、この本に関しては造本に大いに問題ありです。570ページもあって、しかも用紙が薄くないのにタイトバックで製本されているので、開きにくくて読みにくくて仕方がない。ざっと我が家の本棚を眺めてみて、この厚さの本でタイトバックなんて、ほかには一冊もありません。絵本なんかなら薄いからタイトバックにするのも分かるのですが、この本をタイトバックにした編集者は何を考えていたのでしょう。よほど無能な編集者なのか、またはホローバックにしない何か特別な意図があったのか、謎です。
安富歩・深尾葉子編 名古屋大学出版会
2009年11月発行 本体7400円
「森林の消尽と近代空間の形成」というサブタイトルがついていますが、清朝の故地である満州は封禁政策により保護され、20世紀初め頃にもトラやヒョウの棲息する森林が広く残されていました。政策転換と、枕木や初期には蒸気機関車の燃料として大量の薪を使用した東清鉄道の建設によって森林は広く伐採され、赤い夕陽が地平線に沈む満州の風景が形作られました。比重が重いために水運では運びにくい広葉樹材が鉄道で輸送され、西側のモンゴルから豊富に供給される馬と組み合わされて、満州特有の1トンも輸送できるような大きな馬車が製造されるようになりました。中国本土では徒歩が主な移動手段だったのでスキナーの提唱するような定期市のネットワークが発達していました。しかし満州では、冬期に地面が凍って馬車による比較的長距離の大量輸送が可能となるので定期市は発達せず、生産地→県の中心地(県城・駅)→大都市→輸出港へと商品が輸送されることから、県城または駅が農村経済の中心となる県城経済という現象がみられようになりました。もともと満州では大豆が商品作物として栽培されていて、華中の綿花、華南のサトウキビ栽培の肥料向けに移出されていました。鉄道の建設後は大豆は国際的な商品作物となり、中国本土の貿易収支が赤字だったのに対して、満州は貿易収支が黒字の状況でした。地域経済が分散的・ネットワーク的な中国本土と、県城を中心としたツリー構造の満州という対照的な様相は政治にも影響して、満州では省→県城→農村という支配の形が無理なく機能します。貿易黒字とツリー状の支配体制を利用して、満州は中国のフロンティアから経済的な先進地帯に変化し、張作霖政権は第二次奉直戦争に勝利するなど軍閥として成長することができました。また張政権は輸入代替工業化や満鉄包囲線の建設などを進め、危機感を抱いた関東軍は満州事変を起こします。満州事変後の満州国では治安維持にある程度成功したのに、日中戦争期の華北の占領地では点と線の確保しかできなかったのは、県城を中心としたツリー構造の満州と、分散的・ネットワーク的な華北という違いが反映していると著者は示唆しています。
ざっとこんな風なことが書かれていると理解しましたが、中国東北部の気候や自然背景から経済・政治まで、無理なくつなげて説明する構想力にはとても感心します。この著者のグランドプラン自体の是非の判断は専門家におまかせするとしても、少なくとも素人の目からは素晴らしいとしか思えません。また、夜間に撮影された衛星写真をつかって、満州と華北の都市・農村配置の違いを示すようなアイデアや、著者の説を補強する材料としてタルバガンという齧歯類の毛皮獣猟とペストの関連、山東省と満州との私帖(非官製紙幣)の発行主体の性格の違い、満州と中国本土の廟会(寺社の縁日+市)の違い、などの記述も興味深く読めました。今年読んだ中でも一番面白かった本になりそうな感じです。
渡辺一夫著 築地書館
2009年10月発行 本体2000円
日本に生育する木のうち36種類の生態・成長や繁殖の様式などの特徴を紹介している本です。「イタヤカエデはなぜ自ら幹を枯らすのか」というタイトルがついていますが、イタヤカエデは25番目に出てくるだけで、特にイタヤカエデについて注目すべき記載があるというわけではありません。さおだけ屋はなぜ潰れないのか?という新書がヒットして以来、似たようなタイトルの本が多く見られるようになりましたが、本書もきっとその一つでしょう。目を惹くためとは言え、はしたないという印象を与えるタイトルです。
36種の木の中には高山に行かなければ見られないものもありますが、東京で街路樹や公園などで身近に見られる木も取りあげられています。また紹介されている特徴も面白く読めました。
例えば、森林の下生えに笹が生えている所って、どうやって樹木の更新が行われるのか疑問だったのですが、笹が枯れた時に稚樹が育つと説明されていました。そういえば、笹は実を結ぶと枯れるんでしたね。
ドングリを付ける木もいくつかとりあげられています。ドングリは乾燥に弱く、土の中での生存期間も一年程度と短く、ネズミなんかに食べられやすくもあってコストの割に欠点が多い種子なのだそうです。固い殻があっても乾燥には弱いとは知りませんでしたが、デンプンの存在の仕方が穀物や豆類とは違うのでしょうか。また、それならどうしてああいう大きなデンプンのたくさん詰まった種子を作るのかが不思議に感じます。ただ、ドングリを作る木が絶滅していない点からは必ずしも、種子としてドングリをつくる戦略が失敗というわけではないようです。
本書は樹形や葉や幹や花や実をたくさんの写真で紹介しています。ただ、カバーを除くとそれらすべてがモノクロ写真なのです。もう数百円高くても良いから、カラー印刷で出して欲しい気がする本でした。
伊藤之雄著 講談社
2009年11月発行 本体2800円
本書は伊藤博文の伝記ですが、読んでいると偉人伝という言葉が浮かんできます。明治維新に参加し、30歳代で参議になり、木戸・大久保亡き後の明治政府の第一人者となり、憲法を制定し定着させた人ですから、もちろん偉人であることに間違いはないわけです。ただ、彼の意の通りに進まなかったことを病気・疲労・高齢・他人を疑わない性格などのせいにして書かれている点がなんとなく、ほほえましく思われ、偉人伝だなと感じてしまったのです。でも、伊藤博文の一生を手軽に読めるという意味で、良い本だと思います。
伊藤の最大の功績の一つは明治憲法ですが、憲法施行後に憲法を停止しなければならないような事態に陥ることがないよなものに仕上げる必要があったという指摘は、今まで考えたことがなかったので、新鮮でした。オスマントルコが施行後2年で憲法を停止しそのままになってしまったことは知っていましたが、伊藤たちが前車の轍をふまないようにしたというのは、条約改正を目標として欧米先進国からの目を意識していた時代だから当然ですね。そう考えると、あの時期にはある程度君権の強い憲法にならざるを得なかったのも理解できます。
ただ、憲法のできばえについては、かならずしも不磨の大典とは伊藤が考えていなかったろうという本書の指摘に賛成です。明治天皇、そして昭和天皇も名君で、憲法の求める機関説的な君主を演じてくれたから良かったのですが、仮に後醍醐天皇や後鳥羽上皇みたいな天皇が即位したらかなり危ないことになってしまいそう。また日本が危なくなる事態ではなくとも、大正天皇のように執務が困難になる病気に天皇がかかってしまうと、国家権力の正当性が失われてしまう構造の憲法です。さらに、日露戦争の頃には議会・内閣・軍など権力の分立構造が明らかになってきていて、元勲の第一人者たる伊藤でさえ思うとおりにはできないことが多々生じています。きっと、なんとかしたいとおもっていたことでしょう。
韓国では伊藤に対する評価はとても低く、日韓併合の主導者と考えられています。しかし、著者が他の本でも史料をもとに主張しているように、山県や陸軍などとは違って、伊藤自身は「韓国の富強の実を認むる時」まで保護国として統治するが、植民地にする意図を当初は持っていなかったという説に賛成です。64歳という高齢で韓国統監に就任したのも、韓国に植民地化以外の道を歩ませるという抱負があったからというのはその通りでしょう。ただ、第三次・第四次伊藤内閣がそれぞれ約半年と短命だったように、元勲の第一人者とはいえども日本の政治を意のままに操ることができなくなっていたことも、韓国の政治に携わる理由になったのではないでしょうか。
600ページを超える本書ですが、本体2800円でおさまっているのは有り難いこと。それにしても、講談社発行のハードカバーの本は生まれて初めて買ったような気がします。
斉藤修著 NTT出版
2002年3月発行 本体2500円
17世紀には江戸でも大阪でも年季奉公をする人が多数いました。大阪ではその後も商家で住み込み奉公人の伝統が続いたのに対し、江戸では住み込み奉公人は減少して、かわりに「江戸中の白壁は皆旦那」という意識を持った雑業者の増加がみられるようになりました。大阪の商家で住みこみ奉公の制度が続いたのは、即戦力となる人材を外部の労働市場で調達できる条件がなかったので、若年で採用して実地訓練と幅広い経験の積み重ねによる熟練形成が望まれたからです。近代日本にみられた労働市場の二重構造と似たものが江戸時代にも、内部労働市場を持つ大商家と都市雑業層というかたちで存在していたということが本書には述べられています。
そして、住み込み奉公が終了して自分で一家を構える許可の出る年齢が30歳代後半だったことから人口抑制の効果があったこと、それに対して都市雑業層の増加はこの層が都市に定住して家庭をもったことから人口を増加させる影響があったことが論じられています。初期の江戸は性比のバランスがとれず、出生率の多くない都市でしたが、雑業層の定住によって19世紀には男女比がほぼ一対一になり、江戸で生まれた者が住民のうちの多数を占めるようになったということです。
大阪の商家で見られた労働市場の内部化はホワイトカラーのみを対象とするものでした。明治以降には近代産業の内部でブルーカラーまでが対象となったことを考えると、江戸時代に見られる労働市場の二重構造は、直接には近代の二重構造とはつながらないのだそうです。また、本書ではヨーロッパの都市との対比なども述べられていて、勉強になりました。都市雑業層の存在した江戸を第三世界の大都市のようだったのでは、という指摘も面白い。
さて、ひとつ疑問に思うことがあります。十代前半で丁稚として採用されるのですから、最初の数年は住み込みで働かせるのも分かりますが、二十歳代以降は結婚を許可して、通いで働かせてもいいような気がします。なのに、どうして 三十歳代半ばでやっと別宅、つまり通い勤務が許される段階まで、大阪の商家では奉公人をずっと住みこませていたのでしょうか。成功すれば高収入の管理職になれるとはいっても、能力の不足から途中で暇を出される人の方がずっと多かったはずです。それなのに、結婚もできない身分で働き続けなければならない商家の奉公人が割のあわない職業として忌避されるようなことはなかったんでしょうか。
速水融著 藤原書店
2009年10月発行 本体8800円
新しい近世日本像というサブタイトルがついていますが、著者をはじめとした歴史人口学の成果が、私の近世日本に対する認識を大きく変えてくれたことは
たしかです。本書には、主に著者の雑誌に発表した論文が収められていて、読んだことがないものばかりでした。
著者お得意の勤勉革命に関するものはありませんでしたが、江戸時代初期の人口が1800万人ではなく1000万人程度だったこと、江戸時代中期以降の西日本での人口増加と東日本や大都市近郊での人口減少が相殺されて日本全国の人口は停滞していたように見えること、単身者が多かったり婚姻年齢が高かったりして都市の人口は自然減を呈していたこと、などを示す論文が収められていました。
第11章は幕末のカラフトの人口構造という論文です。狩猟や漁労のみに携わっていたカラフト先住民の人口構造の一端が紹介されていることも面白いのですが、1853年という時期に幕府がカラフト先住民の人口調査を行ったこと自体知らなかったので、とても驚きました。
終章では、家族・人口構成パターンから、日本全体を東北日本・中央日本・西南日本(東シナ海沿岸部)の3つに分けることができることが示されています。
また、ふつうに日本を大きく地域に分ける時には、東日本と西日本に分けて論じますが、著者のいう東北日本が東日本に、中央日本が西日本にあたるでしょう。その他に、西南日本の存在を主張するのは著者の特徴ですが、からゆきさんのような実例もあるので、その存在はたしかでしょう。これに関しては、宮本常一さんが日本文化の形成の中で述べていた海部や家船を持つ人たちのことが想い出されます。また、台湾から南に船出してフィリピン・マレー半島・インドネシア・マダガスカル・オセアニアに広がったオーストロネシア語族の人たちですが、一部は黒潮にのって北の日本に行き着き、西南日本の源流になったというようなことはなかったのかしらと妄想してしまいます。
今谷明著 洋泉社MC新書039
2009年9月発行 本体1900円
この本はもともと1989年に平凡社から出版されて、長らく品切れになっていたものだそうです。今谷さんの著者は面白いと感じるものが多いのですが、 天文法華一揆をテーマにした本書もそうでした。読んでいてまるでドキュメンタリーのように感じましたが、あとがきを読むと著者自身も事件史として、非専門家向けにドキュメンタリータッチに叙述した旨を述べています。
天文法華一揆は、むかし教科書で天文法華の乱として学んだ記憶がありますが、どんなものだったのか理解してはいませんでした。本書によると、堺公方体制内部の対立の際に、細川晴元が本願寺に援軍を依頼したところ、 本願寺の動員力は当時の守護や国人が動員できる兵数よりずっと多く、数万の軍勢が集まって、堺にいた三好元長は攻め滅ぼされてしまった。これを知った近国の一向宗門徒は、奈良や京の周辺で一揆を起こした。これを鎮圧するには武士の力だけでは不十分で、幕府は法華宗の信者が多数いた京の町衆の動員力に期待することとした。これは成功して、各地の一揆は鎮圧され、山科の本願寺も焼き討ちされてしまった。大阪の本願寺も攻められ、一向宗側の希望で講和が結ばれた。細川晴元も将軍足利義晴も京にはいない時期だったので、法華一揆が京内の治安維持に任じるとともに、功のあった法華一揆は京の市民の一揆で上級商人層が中心だったので、地子免除を認めさせ、周辺農村の半済や京七口の関所の関銭の廃止を求めた。また、宗教的な対立からか、法華一揆による京周辺の農村の焼き討ちなども行われた。これら一連の法華一揆側の動きは、幕府や法華宗以外の宗教性力などの反発を招いた。そんな時期に、法華宗の一門徒が叡山の華王房という僧を宗教問答でやりこめられてしまうという事件が起こった。これに反発した山門側は近江の六角氏とともに京に攻め込み、京の町は広く焼かれ、法華宗は敗北した、というもののようです。
天文法華の乱は山門が京の法華宗寺院を焼き討ちした事件ですが、そうなるまでのいきさつが説明されていて、すっきりしました。でも読んでいて疑問も無いわけではありません。数万という動員力の一向宗との対決で本山の山科本願寺を焼き討ちするくらいの力を持っていた法華一揆側は、なぜ山門に攻められるとあっさり負けてしまったんでしょう。幕府や他の宗教勢力から孤立していっただけではなく、上級商人以外の京の市民の中でも孤立しつつあったからなんでしょうか。
この洋泉社MC新書のMCはModern Classicsという意味だそうです。私が昔読んだことのある本では「東日本と西日本」もこのMC新書として並べられていました。こういう入手しにくかった本が復刊されるのはいいことだと思います。
岸本美緒著 研文出版
1997年1月発行 本体9500円
清には皇帝に各地の米価を報告する制度があったそうです。一般的には前近代の物価の経時的なデータを収集することは困難ですから、この制度の存在は物価史の研究にとても役立ちそうに思えます。しかし著者によると、データの信頼性に問題があるのだそうです。激しく物価が上下する時にはそのまま報告すると上司から叱責されるおそれがあるので、加工していたのだとか。おそらく不作による米価高騰が騒動を引き起こしそうな時でしょうか。また、各地で通用していた貨幣の違いから換算が難しく、比較しにくい点もあるそうです。
ただ、そういったデータも各地からのものが集まると、物価に長期的な変動があったことが明らかです。物価の記録に加えて、その時代の経済が活気を帯びていたのか沈滞していたのかは同時代の人の記録を読めば分かりますから、中国にも長期的な波動が存在したことは明らかです。ここから、銀の動きを媒介に、ヨーロッパや日本との関連を想像するのはお楽しみですが、本書でも第五章清代前期の国際貿易と経済変動で説得的な議論がなされています。
著者は中国経済の全体規模に対する貿易額の割合を1.5%前後と大雑把に見積もっています。1700年のイギリスの総商品貿易額が国民純収入に対する比率は26%にも及ぶそうで、それに比較すると清朝経済の貿易に対する依存度は低かったのですが、清初の海禁が国内経済に不況をもたらすという影響を与えたことを考慮すると、清代経済にとっての貿易の意味はかなり重いとせざるを得ないとしています。こういった事実は、ヨーロッパ経済に対する新大陸貿易を考える際にも、参考になると思うのです。新大陸貿易の比率が低かったことを理由に、ヨーロッパの経済発展に新大陸の存在が必須ではなかったかのような議論は、この清の事例を考えると成り立たないですよね。
前近代の中国の人が古典や先人の文章・意見を引用している際には、必ずしも文字通りに理解すべきではなく、レトリックとして自分の主張の補強に使っていることがあるのだそうです。例えば、土地の所有に関して、ある論者の文章の中には「土地王有論」と「民田は民自有の田」という一見相反するような主張がともに使われています。前者は土地所有者の恣意を抑える論として使われ、後者は国家の不当な干渉を排除するために使われています。文字通りに読んでしまうべきではないとのこと、そういった事情を知らなかったので勉強になりました。
黛治夫著 原書房
2009年8月オンデマンド版発行
本体3500円
著者は、海軍砲術学校の教官や戦艦大和の初代砲術長などを勤めた人で、ネルソンの時代の砲戦術、南北戦争での装甲艦モニターとメリマック、薩英戦争と馬関戦争、日清戦争、日露戦争、方位盤の発明、ユトランド沖海戦の戦訓
、戦艦の射撃法の変遷、砲塔のダメージコントロールの比較などが述べられています。
本書はもともと1972年が初版の古い本で、復刊ドットコムの投票で復刊されることになりました。30年以上も前の古い本が復刊されたのは、本書が名著にあたるからでしょう。読んでみて、戦艦の射撃法の変遷に関する記述はあまりほかでは目にしたことが無く、これが復刊の望まれた一つの理由でしょう。ただ、専門の砲術以外の点でも、ユニークと感じる見解やエピソードの紹介がいくつもありました。
坂野潤治著 岩波現代文庫 学術228
2009年8月発行 本体1200円
1871ー1936というサブタイトルがありますが、通史ではありません。第一章では、明治維新の革命目的でもあったナショナリズム・工業化・民主化という三つの立国の原理をキーに明治十四年の政変までが分析されています。これら三つを同時に追及することは明治初年代の日本の能力を超えていたので、どれを重視するかで、政治勢力が三つのグループに分類されます。このうちナショナリズムを重視する「新攘夷派」は、征韓論を唱え、台湾出兵を実現しますが、西南戦争に敗れて姿を消します。「上からの工業化派」も、西南戦争後のインフレーションと貿易収支の悪化から、官営企業の払い下げを余儀なくされるなどして挫折します。そして、「上からの民主化派」も国会開設運動の高まりを背景にしながら、明治十四年の政変で国会開設が十年後に先延ばしされて、挫折することになりました。全然うまく要約できてませんが、読んでみるとなかなか鮮やかな分析と感じました。
第二章では、イギリス流の議会政治を目指して論陣を張った福沢諭吉や徳富蘇峰(この頃はウルトラナショナリストではなかった)を軸に、保守・革新との三極構造で明治十四年の政変以降の政治史を描いています。
第三章では、穂積八束、美濃部達吉、吉野作造、北一輝などの明治憲法の解釈が論じられています。内閣制については、明治憲法の制定に携わった人の中でも、例えば伊藤博文、井上毅のように、内閣が連帯して輔弼の任に当たるのか、各国務大臣がそれぞれの職掌について単独で天皇を輔弼するのか、見解が一致していなかったそうです。美濃部達吉は、明治憲法を内閣中心的に解釈することを主張しました。彼が兵力量の決定に内閣が関与すべきとしたのも、政党内閣を擁護したのも、内閣が国政の中心にあるべきとの考えからだったそうで、政党内閣の基礎となる議会については必ずしも重視してはおらず、普通選挙にも必ずしも賛成ではなかった(一人一人の能力が異なるのに、参政の権利だけ平等に与えられるのはおかしいという考え方)とのことです。たしかに、敗戦後の日本国憲法審議の際のことを考えると納得。
井上毅や穂積など、内閣中心的な考えを拒否する天皇大権論者の存在は不思議に思えます。国務の各省や陸海軍や枢密院といった分立する機関をコントロールすることができるのが天皇だけという制度には無理があると思うのです。天皇も生身の人間ですから、幼少だったり、病気になったり、認知症になったりした時どうするつもりだったのでしょう。摂政をたてることができるから問題ないと思っていたのでしょうか。それに、もし超専制的な天皇が即位したりしたら、危ないとは思わなかったのでしょうか。押し込めちゃえばいいと思っていたんでしょうかね。
第四章では、政友会を保守的に、民政党をイギリスの自由党のごとくに、それと労働組合・無産政党の右派をからめて、護憲三派内閣の成立から二・二六事件までが扱われています。著者自身、政友会=悪玉、民政党=善玉として誇張して書いたとしていますが、この解釈自体は私も好きです。なので、田中内閣の辞職後の民政党内閣が金解禁政策を看板としてしまったことを、著者同様、残念に感じます。また、五・一五事件でただちに政党内閣復活の目が無くなったわけではなく、民政党・社会大衆党の支持があった岡田内閣期は政党内閣期と延長としても考えることができるという考え方にも頷かされました。
この本は、元々1996年に出版されたそうです。2009年8月に文庫として出版されるに際して、政権交代を伴う二大政党制という福沢諭吉の夢が叶うだろうとと著者はあとがきで書いています。私も、戦前の政治史の本を読む際には現在のことを気にして読んでいます。自由民主党が政友会で、民主党は民政党にあたるのかなぁとか。
梶山季之著 岩波現代文庫 文芸124
2007年9月発行 本体1000円
「トップ屋は見た」というサブタイトルがついています。トップ屋なんていう言葉は聞いたことはあっても、使ったことがありません。Macの辞書で調べてみると、フリーランスライターってなっていますが、もっとおどろおどろしい印象の言葉のような感じがします。今上天皇が皇太子だった頃の皇太子妃のスクープ、王子製紙スト、赤線廃止、産業スパイ、財閥解体などなど、ほとんどみんな私の生まれる前の話題で、文藝春秋・中央公論・週刊文春などに掲載された記事から選んでありました。雑誌に載っていた文章だから読みやすいし、ささっと短時間で読めました。
この中では、ブラジルの勝ち組・負け組の騒動にユダヤ人や日本人が勝ち組から金銭をだまし取る詐欺が絡んでいたっていう話が、全くの初耳で、驚きです。でも、これってホントにあったことなのか、著者の創作なのか、どっちなんでしょってくらい怪しい印象のお話し。日本に来ている日系ブラジル人の人たちなら知っているんでしょうか。
伊原弘編 勉誠出版
2009年8月発行 本体4500円
以前「『清明上河図』を読む」という本を読んだことがあります。これは本書の編者がアジア遊学という雑誌の特集を本にしたものでした。本書もやはりアジア遊学の特集を本にしたものだそうで、銀や紙幣や算数教育などなども対象とした13本の論考が載せられています。
「国際通貨としての宋銭」という論考は、宋の社会では銭貨が不足していたという通説に対して疑問を呈しています。なぜなら、宋銭の大量に鋳造された北宋の時代に物価は次第に上昇していて、銭貨が不足しているなら物価が低下するはずなのにとのことです。もちろん、ある地域やある時期には不足していることもあったでしょうが、一般的には銭貨は過剰だったのだろうと。また、北宋銭が大量に東・東南アジアへ輸出されたことについても、銭貨は素材価格よりも高い額面を持っているので、銅銭を輸出して海外からモノを輸入することが有利だったからと説明してあり、納得してしまいます。
論考のうちの2本は古銭の収集家(古泉家という優雅な呼び方があるそうです)が書いています。「北宋銭と周辺諸国の銭」では、銭貨の大まかな分類や、銭の各部分の呼び名や、鋳造法などが説明されています。「江戸時代の古泉家と古泉書」では江戸時代の古銭収集家(その中には大名もいました)の成果とその出版物が紹介されています。趣味で古銭を収集・研究している人たちは、ある点では考古学者や歴史家よりもずっと深い知識を持っているわけで、そういう知識がもっと活かされればと感じます。
というのも、むかし、ある著名人の遺した明治から昭和までの大量の書簡を整理している人と話した時に、封筒の消印を見ても年号がないので、年号が書かれていない手紙では昭和と大正の区別が難しいことがあると聞いたことがあります。この問題は切手を見ればほとんどは問題解決するはずで、同じ図案の赤い三銭切手でも大正と昭和では、すかしの有無や印面の大きさや用紙に色つき繊維が混入されているかどうかなどでほぼ確実に大正と昭和を区別できると思ったからです。
銭貨がテーマなので、やはり省陌法や撰銭に関する論考もありました。「宋代貨幣システムの継ぎ目」という論考では、宋代の短陌慣行がとりあげられています。国家財政に使われる77文省陌は銭貨不足に対応して1.3倍のデノミ政策だったとする説や、都市の市場でつかわれた75・72・68・56文省陌などは77文省陌から各商品の税金をさしひいたものという説などが紹介されています。紹介している筆者自身は必ずしもこれらの説に満足していないようですが、私は説得的だと感じたので原著を読んでみたくなりました。
撰銭については「日本戦国時代の撰銭と撰銭令」という論考があります。撰銭が可能なのは銭文が読めるからだという指摘には全く同感です。ただ、その他の主張はどうも冴えない印象です。この論考で筆者は、「撰銭は超時空的に存在する。問題は、日本では戦国時代に入り撰銭令が頻発する点にある」と書いています。たしかに、戦国時代に荘園領主や寺院や戦国大名から出された撰銭令がいくつも紹介されてはいます。頻発していると筆者は言いたいのでしょうが、単に統一政権がなかったから、狭い範囲でしか通用しない撰銭令がばらばらに各所から出されていただけで、これを頻発と呼ぶべきかというと疑問です。また、撰銭令の目的について筆者は、「食糧需給ー価格抑制策としての位置づけ」があるとしています。戦争や飢饉などの食料価格高騰時には、支払うための銭の量が不足する銭荒となってしまうので、それを緩和するために撰銭令が出されることはあったのかも知れませんが、価格抑制策と呼んで良いのかどうかはやはり疑問です。さらに、筆者は「すべての撰銭令がこのような性格を持つということではない」とか「撰銭令の各事例間の性格の差異に自覚的な分析が必要であり、全ての撰銭令の性格を一元的に説明することには慎重たるべき」などと書いていて、読者としてははぐらかされた感じです。
古川隆久・鈴木淳・劉傑編
中央公論新社
2007年6月発行 本体4200円
砲兵科出身者として珍しく師団長にまで昇進した伊東中将は、それを最後に退役となりました。しかし、日中戦争の拡大に伴って新設された第百一師団の師団長として招集されました。本書には、1937年8月24日に招集の内命がもたらされてから、1938年9月末に負傷する前までの伊東中将の日誌が収められています。日誌そのものだけでは読んでも意味や意義が不明な点が多いと思われますが、本書の場合、日誌のその日の記載に添えて、三人の編者が詳細な注記をつけてくれているので、理解しやすくなっています。いくつか気付いた点を紹介します。
特設師団は、常設師団よりもかなり装備の質が劣り、兵も40歳ちかい人までが含まれていました。また、第百一師団は東京府とその周辺の県から兵が招集されていたので東京兵団とも呼ばれましたが、都会出身の兵士が多いことからも弱いと考えられていました。しかし、この弱力師団は編成後、内地で訓練を行うこともなく、日中戦争初期の激戦地である上海の呉淞クリーク戦に投入されました。以上のような悪条件から当然苦戦となり、この日誌にも神仏の加護を願う記述が何度もでてきます。師団長が神仏にすがるのはまずいような気もしますが、それだけ苦しかったのでしょう。
この戦いでは、死傷者、特に連隊長をはじめとして将校にも死傷者が多く、
この緒戦の苦戦によって、第百一師団は上海派遣軍から戦力としては信頼できない師団とみなされてしまいます。装備も兵の質も訓練も劣る師団を動員したわけですから弱くて当たり前で、弱いことの責任はなにも師団長が負うべきものでもないと感じます。しかし、師団長である伊東中将はこの評判を覆すことを望んでいました。ただ、弱いと思われたことで上海戦後は後方警備にあてられる期間も長く、かえって兵士にとっては幸いでした。また、師団長自身も、弱いという汚名を注ぐために無理をするという人ではなく、自身のメンツよりも兵士の死傷を少なくすることに気を配っていたことが日誌の記述から分かります。
上海の警備に当たっている時期には、いろいろな人の訪問があることに驚ろかされます。特に、内地から慰問という名目で来る人が多いのですが、芸能人による慰問だけではありません。貴族院議員や地方議員、会社の重役、僧侶などなどが酒類やお金を携えて、多数訪れています。慰問する人にとっては、上海という日本からの交通の便が良い安全な後方地帯に、慰問を兼ねた観光旅行に来ている感じなのでしょう。
また、皇族に関する記述も目立ちます。皇族は軍人として職務で上海を訪れる・通過するのですが、上海を警備する師団の長にとっては、空港や港に出迎えに行ったり会食したりするのも仕事のうちのようです。
1938年夏には武漢三鎮攻略戦に第百一師団も参加します。この時にもやはり苦戦する場面があります。本書によると、苦境を打開するために毒ガスを使用した場面が2回ありました。毒ガスの使用に関しては特に感想は付されていませんが、条約で使用の禁じられている平気だという認識はあまりなかったようです。
山内晋次著
山川出版社日本史リブレット75
2009年8月発行 本体800円
新安沖の沈没船からは28トンもの銅銭が発見されたのだとか。中世の日本が大量の銅銭を輸入するかわりに何を輸出していたのか、とても興味あるところです。教科書的には、金、水銀、扇、刀剣、硫黄などが挙げられ、ていますが、本書では特に硫黄を重要視しています。火薬の発明とともに硫黄の需要が増えましたが、宋の領域内では硫黄の産出がなかったので、十世紀末以降に日本からの輸出量が増えたのだそうです。特に、1084年には日本から300トンもの硫黄を輸入する計画が建てられて、実際に買い付けのための商船が宋から博多に派遣されたことが日本側に遺された史料からも確認できるのだそうです。本書によると、船のバラストとしても使われるほど多量に輸出されていた硫黄の主産地は俊寛の流された鬼界島(薩摩硫黄島)でした。
以上、とても勉強になりました。でも、いくつか疑問も残ります。例えば、金が主たる輸出品ではないという本書の主張。これまでは、日宋貿易の輸出品として金が重要視されていたのだそうです。しかし、著者によるとこの頃の日本の産金量はせいぜい年間数百キログラムと推定されるそうです。新安沖沈没船クラスの商船でも安定航行のためには数十トンのバラストが必要で、日本の年間産金量の数百キログラム分の金を一隻に積み込んだとしても、とてもバラストとしては足りない、なので金は主な輸出品ではなかったろうと著者は主張しています。でも、この議論はかなり変ですよね。支払いのために数百キログラムの金の積載で充分なら、金を積むほかにバラストとしては石ころでも積めば済むだはずです。金が主たる輸出品でない理由として、輸出できる金の量がバラストとして使用するには重さが不足しているからというのでは説得力がありません。
本書を読んでいて知りたくなったこと
東大闘争の発端となった医学部闘争について。「医学部卒業生が高度成長前と異なり開業医になるのが困難になった」と書かれています。1968の頃で開業が困難になったなどということはないはずで、その後も21世紀に至るまで開業医はどんどん増えました。実際に開業が困難になりつつあるのは、医療界で「1970年パラダイム」が崩壊しつつある現在のことだと思うのです。また、名大小児科の教授選で東大出身者が敗れたことをもって、医学部教授に東大医学部卒業生がなりにくくなったとするような記述もあります。たしかに旧帝大の教授にはその大学の出身者がつくようになったのでしょうが、1970年代に新設医大がつぎつぎとできたおかげで、その教授になれた人はかえって増えたはずです(新設医大の教授では不満だったのかも知れませんが)。もちろん、この開業医・医学部教授に関しては、当時の東大医学部生の認識を著者が記述しているというだけで、著者のささいな事実誤認とは言えないでしょうが。
日本の学生叛乱と西側先進国の学生叛乱とを比較しても共通点が少ないという著者の主張でした。叛乱の同時性を説明するのに、著者は大学生数の急増を挙げていますが、これと背景にベトナム反戦運動があったことだけでいいのでしょうか。それより、西側先進国で大学生世代の人口の一時的な増加をもたらしたベビーブーマーの叛乱であったからこそ、同時性と大学生数の増加とを伴っていたとした方が納得できる気がします。
1968の感想
小熊英二著 新曜社
2009年7月発行
本体 上巻6800円 下巻6800円
1968というタイトルですが、60年安保前後のセクトの分立から1972年のあさま山荘事件ころまでが描かれています。上下巻ともに1000ページ以上もある分厚い本で、本屋さんで初めて見かけた時には買うのをためらってしまったくらいです。でも実際に読み始めてみると、厚さのわりには読みやすく感じました。本書は雑誌や新聞、日記、回想、記録集などからの引用文を柱に構成されていて、それが読みやすさの一因かと感じました。発言や会話体の引用は感情移入を誘う作用もあり、例えば佐世保エンタープライズ寄港阻止闘争で機動隊に暴行されて負傷し、放水でぬれねずみにされながらもデモを続ける三派全学連の学生に対して、共感した一般市民が食事やカンパを提供するくだりは、涙なしでは読めませんでした。また、ふつうの専門書に比較して表面が粗で少し薄めの用紙がつかってあるので、この厚さの本でも寝転がって読むことがそれほど苦でない重さなのも本書の特色。そして、面白かったので、おすすめです。
上巻では、1950年代の日本共産党の状況から60年安保での全学連の分裂から始まり、東大闘争までをざっと以下のような流れで描かれています。
60年安保以降、学生運動の沈滞と新左翼がより小さなセクトに分裂してゆく傾向がみられました。しかし、1967年の羽田事件での学生一名の死亡は多くの学生に衝撃を与え、1968年1月の佐世保エンタープライズ寄港阻止闘争などは市民からの共感をも得ました。また1960年代後半には、学費値上げ反対や学園民主化など各大学固有の問題が闘われ、一般の学生の広範に参加をみるとともに、慶大・中大での闘争は勝利をおさめました。
各大学の自治会は民青やセクトが握っていて、支配下の学生自治会の自治会費などがセクトの資金源だったそうです。しかし当初は、各セクトが学園闘争を軽視していたこと、複数のセクトが割拠して各学部の自治会を握っている大学があったこと、また民青は実力をもっての闘争には反対の方針を持っていたたこと、さらに日大のように学生の公認組織自体が御用団体だった大学もあり、自治会ではなくノンセクトの学生による全学共闘会議が闘争の中心となるケースが出現しました。
全共闘中心タイプの中で、大学の民主化を求めて闘われた日大闘争は、対大学当局的には成功を勝ち取りましたが、佐藤首相の政治介入でご破算にされてしまい、その後は迷走することとなります。また、医学部のインターン制度問題から発した東大闘争も、全共闘を中心として多数の院生も参加した全学的なものに広がり、大学側に全共闘側当初の要求項目のほとんどを受け入れさせるまでに至りました。しかし、全共闘側は処分撤回や制度問題では満足せず、自己否定・大学解体を掲げて政治的には拙劣な戦術で闘争を続けましたが、やがては多くの学生の支持を失い、各セクトの思惑もあって占拠の続けられた安田講堂も落城することとなりました。
日大・東大闘争が勝利とはいえない終焉を迎えたにもかかわらず、1969年には全共闘を名乗ってバリケード封鎖を行うタイプの大学紛争が、生きている実感を持てない日本各地の多くの大学の学生の間で大流行しました。しかしこれらの多くも目立った成果を上げることはなく、また大学外での闘争も政府・警察に押さえ込まれてノンセクトの学生は運動から離れてゆき、セクト間の内ゲバが激化して死者が出るまでになりました。
下巻は、高校の闘争、べ平連(ことえりもATOK2007もは”べへいれん”を一発では変換してくれませんでした)、そして連合赤軍、ウーマン・リブを取り上げ、最後に結論が述べられています。べ平連までは気持ちよく読めたのですが、連合赤軍の章に目を通すのはやはり気が重い。本書の対象としている時期、私は幼稚園から小学生でした(本書の著者もほとんど私と同年輩ですね)。安田講堂の攻防はTVで観た記憶があるような気もしますがはっきりしません。しかし、3年後のあさま山荘事件の強行突入については学校を休んで(かぜで休んだのか、TVを観たいから仮病で病欠したのか記憶が定かではありませんが)、TVで観ました。大きな鉄球が浅間山荘を破壊してゆく様子にはびっくりしました。でも、それ以上に驚いたのは、彼らの元の仲間が「総括」されてたくさん殺されていたことが明らかにされてからです。総括という言葉は流行語にもなりましたし、このリンチ殺人から当時の大学生や大人たちが、小学生以上にショックを受けたことは間違いないでしょう。本書ではリンチ殺人に至った事情が詳しく触れられていて、読むのがとてもつらい感じでした。
下巻の最終章では「『あの時代』の叛乱とは何だったのか」が論じられています。
また1968の成果として、
1968 の感想の続き
岡部ださく著 大日本絵画
2009年6月発行
前回出版された蛇の目の花園から5年ぶりの第4巻です。駄っ作機というだけあって、全然有名でない、聞いたこともないような飛行機が扱われているのですが、独特のタッチの手書きのイラストとひねった紹介の文章で読ませてしまう著者のセンスに相変わらず感心してしまいます。
駄っ作機といっても、構想に問題があったもの、設計に問題があったもの、構想・設計はまともでも完成が遅すぎたものなど、駄作になった理由はいろいろ。ただ、どれも戦間期からジェット機の出現後しばらくまでのものがほとんどです。エンジンの出力に余裕ができて、空中給油が実用化される頃以前の飛行機が駄作になりやすかったのかなあなどと考えていたら、本書の最後には連載100回(もともと雑誌に連載されていたものをまとめた本なんですね)ということで、「ダメ飛行機の諸相」という著者なりの駄作機についての考察と分類(珍・怪・愚・凡)が載せられていました。
中塚明著 高文研
2009年8月発行
以前にも書いたことがありますが、本をもらうのって非常にありがた迷惑です。贈る方は善意でしてくれているのでしょうが、自著でもないかぎり本は贈るべきではないと思うのです。で、この本も贈られたものです。ふつうはお断りするのですが、断りにくいある事情があったのと、またふつうだったら決して手にしないであろうこの種の本にどんなことが書いてあるのかチェックすることができるかと思って、受けとることにしました。
一読してみて、とんでも本の一種だなと感じました。なにがとんでもかと言うと、まずはタイトルがとんでもです。司馬遼太郎という有名作家にかこつけて売り上げを伸ばそうとする下心ありあり。奥付にある紹介を見ると、本書の著者は日本近代史専攻の学者です。学者が他の学者の論文や言動に対して「その『朝鮮観』と『明治栄光論』を問う」ことは当たり前のことでしょうが、小説家の書いた小説や紀行文や新聞談話などを対象にいちゃもんつけるってのは変です。
しかも本書で著者は、重箱の隅をつつくように難癖を付けている印象。例えば46ページには朝日新聞に載った司馬の談話の一部、「李朝五百年というのは、儒教文明の密度がじつに高かった。しかし、一方で貨幣経済(商品経済)をおさえ、ゼロといってよかった。高度の知的文明を持った国で、貨幣を持たなかったという国は世界史に類がないのではないでしょうか。」をとりあげて、李朝期の朝鮮でも常平通宝が鋳造されていると批判しています。でも、これって修辞の問題のような。開国を強要される以前の前近代における日本と朝鮮の貨幣経済の浸透の程度の違いは歴然としているわけで、小説家が一般の人を相手にこういう表現を使ってもおかしくないでしょう。しかも、そもそも語ったとおりに掲載されるとは限らない、新聞記者が大きく改編することが当たり前の新聞談話を対象にして批判するのはフェアじゃないです。
また、坂の上の雲が描く、朝鮮無能力論、帝国主義時代の宿命論、明治は輝いていた、日露戦争=祖国防衛戦争などなどの見方や、日露戦争後に日本陸軍は変質したという司馬の考え方などを著者は批判しています。明治は輝いていた論は別にして、歴史学的な考え方としては多くの点で著者の主張の方が正しいという点では、私にも異論はありません。しかし、朝鮮無能力論、帝国主義時代の宿命論、日露戦争=祖国防衛戦争論などは司馬さんの創作ではなく、明治の日本の施政者が常に被植民地化の可能性を念頭においていた点など、当時において当たり前だった考え方です。小説家が小説を書く際に、背景となる時代に主流だった考え方を紹介し、それにのっとって話をすすめていくのは当然のことです。ことに、読者がその種の考え方を喜ぶのですから、プロの作家としては、それに応えるのが正しい作法であり、歴史家があれこれ口出しすべきことでもないでしょう。
また、明治は輝いていた論について、著者は日露戦争以後日本陸軍は変質したなどの司馬さんの主張に対して、反証を提出して批判しています。でも、同じ明治憲法体制が続いている明治と昭和の政府のやり口に似た点があったとしても、明治から昭和の敗戦まで何の変化もなかったとは言えないはず。著者の論法で行くと、敗戦前の政治史の研究なんてものは意味がなくなってしまいますね。それどころか、著者は敗戦前後の違いを強調していますが、同じ論法を使って、敗戦前後に違いはないと主張することだって可能になってしまいます。著者は歴史家にふさわしくない批判をしているとしか思えません。
すでに司馬さんは遠い昔に亡くなっているし、いったい著者は何を目的に司馬さんの小説に文句を付けるのでしょうか。情報リテラシーの低い一般的な日本人読者が司馬さんの小説を読んで、それをあたかもまっとうな歴史書であるかのごとくに思いこんでしまうことが心配だということでしょうか。もしそうだとしても、本書ではその種の誤解を解消するのは全くもって無理だと思います。司馬さんの小説を面白いと感じて読む人が、本書のようなとんでもなタイトルと、難癖付けるような内容の批判、ページと本文の文字の大きさと行間とのバランスがとれていない美しくないデザインの本を共感をもって読んでくれるとは思えないからです。ほんとにその種の誤解をただしたいのであれば、こんなとんでも本ではなく、司馬遼太郎の坂の上の雲よりもっともっと面白い、しかも著者の伝えたい正しい明治・朝鮮像を描いたエンターテインメントを創作するしかないだろうと思います。
池内敏著 講談社選書メチエ447
2009年8月発行 本体1500円
沖永良部島に代官として赴任していた薩摩藩士が帰任のために乗った船が遭難して、朝鮮半島西岸の忠清道庇仁県に漂着する事件が1819年にありました。この事件で特徴的なのは漂着民の中に武士が三名含まれていることで、ふつうの漂着事件では漁船や商船の乗組員ばかりで武士が乗っていることはありません。また、この事件に関しては、朝鮮側の記録、還送にあたった対馬藩の記録とあわせて、武士のうちの一人の安田喜藤太義方さんが絵入りの詳細な朝鮮漂流日記という記録を残していました。本書はそれによっています。以下、興味深く思われた点をいくつか。
漂流してようやく陸地に流れ着いたわけですが、小舟で近寄ってくる人たちが白服を来ているのを見て朝鮮半島だということが分かり、船内では歓声が上がったそうです。本書には「漂流朝鮮人たちは漂着地が日本だと分かると無事に本国に帰国できることを確信した」という記載もあり、航海を仕事とする人たちにとっては、漂流民の還送制度は常識的になっていたようです。また、ある対馬藩の役人は「朝鮮と御和交を結んでから今に至るまで御誠信の験が顕著に見えるのは、漂流民を丁寧に取り扱い。速やかに送り返してきたからであって、こうしたことを百年つつがなく繰り返してきたことによっているのだ」と認識していたそうで、明治以前には善隣友好関係があった証ですね。
日記の作者の安田さんは、壬辰戦争の際に朝鮮半島から薩摩に連れてこられた陶工たちが朝鮮の習俗を守って暮らしている姿を見たことがあるので、白い服を着ている人たちの姿から即座に朝鮮人と分かったのだそうです。また、漂着した船には沖永良部島の出身者も乗り組んでいました。彼らは「琉人」と呼ばれていますが、朝鮮側による事情聴取に際しては、名前や髪型を日本風に変えて対応されています。
安田さんは漂着した忠清道庇仁県や、また倭館まで送られる途中の土地の地方官吏たちと漢文でコミュニケーションをはかり、詩文の交換をしたりしています。口絵にはこの日記の絵が載せられていますが、安田さんは絵がかなり上手で、また漢詩を作ったり他人の漢詩を評価する能力を持っている人でもあり、出会った地方官吏たちと共通の文化的教養を持つもの同士の交流をしています。おそらく安田さんは江戸時代の武士の平均以上の教養を持っていた人なのでしょう。また、江戸時代の日朝関係は「お互いを目下に見る関係」とも書かれていますが、こういった人と人の交流の場がなかったこともその一因なのでしょう(通信使と日本人とのやりとりは国を背負った者同士の関係になってしまうので、安田さんのした交流とは違う感じ)。
日本人が朝鮮半島に漂着した事件は、1618年から1872年に至る約250年間に92件1235人。同じ時期における朝鮮人の日本漂着が971件9770人と、日本人の漂着は朝鮮人のそれに比較して、件数で十分の一、人数で八分の一。また日本人の漂流の時期は五月から八月の夏期に多いと本書に記載されています。経済の発展度からいって沿岸を航海する日本の漁船や商船が朝鮮よりもずっと少ないとは考えがたいところ。きっと冬の北西季節風の方が船の漂流事件を起こしやすいので、朝鮮人が日本に漂着する件数が多くなっているのではと思うのですが、どうでしょうか。
森浩一著 ちくま新書791
2009年7月発行 本体820円
著者が80年間に見聞き読んだ別々の分野の多くのものごとが、著者の頭の中で結びつけられて紹介されている感じ。粟・禾、野、鹿、猪、くじらなどのテーマで書かれていますが、例えば福岡の志賀島が鹿の島じゃないかとか、鹿の扮装をして服従する儀礼があったのでは、などなど。国際情勢の悪化から天武天皇が信濃に遷都する計画を持ち、天武の死後に妻の持統天皇がその計画に沿って三河に行幸したことが書かれていましたが、これって初めて知りました。
本書の中には著者が腎不全で遠出できないと書かれていますが、人工透析を受けていらっしゃるのでしょうか。私のような素人にも読める興味深い本をたくさん書いてくれている著者なので、お元気でいて欲しいものです。
若槻禮次郎著 講談社学術文庫619
1983年10月発行 本体1450円
戦前期の政治家・経済人などには養子に入った人が多い印象がありますが、彼もその一人でした。また、若い頃は苦学したそうです。大蔵省に入って手腕をみとめられ、次官を退官後に桂太郎の縁で立憲同志会の立ち上げに加わり、その後は政党政治家として歩みます。彼は男爵だったので貴族院議員ではありましたが。彼は加藤高明死去後に憲政会総裁・首相となりますが金のできない総裁だったそうです。そして、その後は重臣として遇されました。慶応生まれの若槻さんですが、これらのことがとても平易で読みやすい文章で綴られています。
明治・大正・昭和政界秘史などという下品なタイトルが付けられて文庫で復刻されましたが、秘史と言うよりも元の古風庵回顧録で出した方が本書にふさわしい感じの内容です。また、企画されたのが第二次大戦の敗戦後で、原著の発行は1950年でした。彼がすでに80歳台になってからのことですから、記憶の定かでない点もあるようです。また、読者としてはとても気になることでも、彼が特に触れる必要のないと感じたか、または触れたくなかったことは、当たり前ですが記載されていません。私がその点で残念に感じたのは以下のようなこと。
第一次若槻内閣の与党憲政会は少数与党でした。憲政会内では衆議院を解散して総選挙を行い、それにより多数を確保しようとする動きがあったのに、若槻首相は予算成立のために、昭和天皇即位の初年ということを理由として、政友会・政友本党の野党2党首に協力を依頼しました。そして、予算成立の後には「政府においても深甚なる考慮をなすべし」と約束したのです。ここまでは本書にも書かれています。ただ、「深甚なる考慮」が総辞職と野党に受け取られ、それなのに総辞職しなかった若槻首相が嘘つき禮次郎と呼ばれるようになったことや党内からの批判など、またそれらに対する釈明が全くないのは残念です。
第一次若槻内閣は台湾銀行救済の緊急勅令を枢密院で否決されたことにより総辞職しました。ロンドン条約批准の時のように枢密院と対決することはできなかったものなのでしょうか。少数与党だから無理だったのか、だとしたら解散総選挙を選択しなかった彼の判断ミスとも言えます。本書では、この時の枢密院での伊東巳代治の発言を「老顧問官」と一見名を伏せるようにして紹介し、非難しています。著者は「じっと腹の虫を抑えて黙っていた」とありますが、よほど悔しかったのでしょう。
第二次若槻内閣では満州事変が起きます。政府の不拡大方針にも関わらず、朝鮮軍は奉勅命令なしで越境しちゃうし、満州軍もちっとも戦闘を停止しませんでした。本書では、民政党一党の内閣だから軍が命令を聞かないのではと考えて、一時は政友会と連合内閣を組むことも考えたと書かれています。まもなく彼はこの考えを捨てますが、この方針で進もうとする安達内相を止めることができず、閣内不一致から総辞職しました。総辞職して内相だけすげ替えることはむりだったのでしょうね。
また、浜口内閣から第二次若槻内閣にかけては不景気の時代でしたが、その主な原因としては民政党内閣の実施した金解禁があげられます。昭和のこの時期の不況と農村の荒廃が、軍部の台頭、第二次大戦につながった面があると思うだけに、民政党のトップだった著者が金解禁をどう感じていたかに関する記載がないのはとても残念です。
T・ガートン・アッシュ著 みすず書房
2009年7月発行
税込み 上巻5880円 下巻5670円
西ドイツ(BDR)のOstpolitikに関する本です。日本語では東方外交と呼ぶことの方が多いと思いますが、本書では東方政策と訳されています。また、東方政策はドイツ社会民主党(SPD)のブラント・シュミット首相時代の外交を指すものですが、本書ではベルリンの壁の構築から崩壊までを対象として、キリスト教民主同盟(CDU)のアデナウアーの時代から、コール首相時代のドイツ統一までが扱われています。
第二次大戦敗戦後に間接統治の行われた日本とは違い、ドイツでは軍政がしかれました。このため、西ドイツは地方自治の段階から始めて、国家主権の回復を目指すことが必要でした。この西ドイツの対外的自立に向けたプロセスにおいて画期となったのが、1950年代前半に西欧諸国との間に結ばれた条約(西方条約)で、これにより主権の回復が実現しました。また、1955年にはソ連との国交も回復しましたが、その後「ソ連以外で東独(DDR)を承認した国家とは国交を断絶する」というハルシュタイン原則が打ち出され、またポーランド西側国境(オーデル・ナイセ線)の承認も拒否していたので、東側との関係の進展は望めませんでした。したがって、主権は回復されても、分断されたヨーロッパのもとでのドイツ・ベルリンの分断状態は続きました。
1969年のブラント政権誕生後、 デタントの流れに棹さしてこの分断状況を克服する・究極的には統一を目指すためにとられたのが東方政策です。この頃は私も物心ついていたので、ワルシャワのゲットー記念碑を訪れ跪いて献花したブラントの姿のかすかな記憶があります。ブラント政権はハルシュタイン原則を放棄し、1970年のソ連とのモスクワ条約・ポーランドとのワルシャワ条約、1972年の両独基本条約を結び、東方外交を展開してゆきます。オーデル・ナイセ線の承認とそれによる旧プロイセン領などの放棄は当初CDUの反対を受けましたが、ブラントは「とうの昔に賭けに負けて失われたものを除き、この条約によって失われるものは何ひとつない」と指摘し、CDUも後になってこれを容認することとなりました。
ただ「ドイツの分割を心から遺憾に思うヨーロッパの政府はひとつもなかったといっても過言ではなかった」という状況下で統一に向けた政策を実行するために、西ドイツはドイツの分断を克服しないかぎり欧州分断も克服できないという論理を打ち出しました。また、東ヨーロッパでは1953年のベルリン暴動、1956年のハンガリー事件など、下からの改革の要求が圧殺されてきた歴史があったので、SPDは東方政策で「安定化を通じた自由化」戦略をとります。つまり、東欧の政府がより安定化して危機を自覚しなくなってゆけば、自然と自国民の自由・人権を尊重するようになるだろうというねらいです。さらに、東欧の政府がソ連の指示のもとにあることから、西ドイツはまずソ連との間で話を付け、ソ連から東欧の政府に西ドイツの要望を認めるよう指示してもらうような手法を多用しました。
「アメリカ人はムチの力を、ドイツ人はニンジンの力を、フランス人はことばの力を信じている」と言った人がいるそうですが、西ドイツの東方外交での最大の武器は経済力でした。ソ連を含めた東欧諸国の西側での最大の貿易相手国は西ドイツであり、 貿易を通じた変化が追及されました。また、1970年代からソ連・東欧諸国の経済成長は鈍化しましたが、 西ドイツから政府保障付きの借款が供与されるなど資金面でも東欧諸国は依存してゆきました。本来であれば西ドイツから導入した資金を経済成長目的で使用すべきところでしたが、政治改革を行う代わりに国民の不満を抑えるための消費物資の輸入にあてるなどしたため、1980年代末には東欧の債務危機につながりました。
「安定化を通じた自由化」戦略をとったため、ポーランドの連帯などの下からの民主化を支援する点では西ドイツは西側の国の中でも遅れをとりました。しかし、1989年にハンガリーが国内にいた東独国民をオーストリア国境から西側へ亡命させる決断をした背景には、債務危機に対する西ドイツからの金融支援の約束があったからだそうです。そして、この事件以降、ベルリンの壁崩壊からドイツ統一までスムーズに進んだことも、当時のソ連が経済的苦境にあり、ゴルバチョフが西ドイツからの支援を期待していたことが背景にありました。東側の安定化を目指した西ドイツの政策でしたが、最終的には東側の体制転換に役だったと言えそうです。
あと、本書を読んでいて著者の書きっぷりが面白いと感じた点をいくつか。分割されたヨーロッパというのは、過去にも例があったというのです。例えば「ウエストファリア」型の分断、「ウィーン」型の分断、「ベルサイユ」型の分断など。ただ、冷戦の時期が特異だったのは人の交流が非常に制限されていたことだと。
西側と東側が資本主義と社会主義に分かれていたことに関しては、アウグスブルグの和議を持ち出して、「領主の信仰が領民の信仰を決定する」のだと。たしかにそう言われれば、似ているような。
ブラントはベルリン封鎖時にベルリン市長でした。その経験からブラントは交渉で不利な立場に立たされているという痛切な自覚を持っていて、「ベルリンで生まれた新東方政策の本質は、テロリスト国家から人質を釈放するための交渉だったといってもあながち過剰な誇張ではない」と著者は評しています。さらに、東方政策全体についてもストックホルム症候群とまで呼んでいます。まあ、ドイツ統一という目標は東西の隣人たちの同意を得ることによってのみ達成されると言うことを西ドイツ政府は自覚していたので、自然とそれを反映した政策がとられたということなのでしょう。竹島や北方領土は日本の固有の領土と言いながら、対韓・対ソ・対露関係でそれを可能とするような現実的な政策をとらない、却って教科書や靖国参拝問題など反感を買うようなことばかりをしているない日本政府とは対照的です。
東欧への資金援助が、東改革の代用品としての消費財の輸入に用いられた点では、東欧の中でも東ドイツが一番です。東ドイツが政治犯や「共和国逃亡罪」を侵した人を西ドイツに出国させることの代価として西ドイツマルクを受け取る、「自由の買い取り」という仕組みがありました。反体制派の輸出によってハードカレンシーが得られるこんな仕組みは他の東欧諸国には望むべくもなかったと著者は書いています。こういった人身売買やその他の制度から得た西ドイツマルクをつかって東ドイツでも消費財の輸入が行われ、ホーネッカー議長が社会主義国で行列を作らずにバターやソーセージを買えるのは自国だけだと自慢したのだそうです。彼自身は対外債務についての関心も持っていなかったそうで、そんな油断が東ドイツの命とりになったのですね。
ざっと、こんな感じで東方政策に関して学ぶ点が多く面白い本で、また翻訳も読みやすいと感じました。上下巻あわせた本文が500ページ以上、本文より小さな文字で詳細に記された注が170ページ以上にも及ぶ本書ですが、欠点は上下巻あわせて税込み11550円と値段が高い点でしょうか。どうも、みすずの本は高い気がします。
千葉功著 勁草書房
2008年4月発行 本体5700円
ロシア革命後に無賠償・無併合を訴えたレーニンと、第一次大戦講和にあたって平和のための十四ヵ条を提案したウィルソンに端を発する「新外交」に対比される概念が「旧外交」です。旧外交の特徴として、君主による外交の独占、秘密外交、二国間同盟・協商の積み重ねによる安全保障、パワーポリティクス外交があげられます。旧外交とは言っても、第一次大戦前の日本にとって、この旧外交は決して旧なものではありませんでした。ウイーン体制後に成熟を迎えるヨーロッパの旧外交(古典外交)とは異なり、19世紀半ばに西欧主体の国際社会に編入された日本は、全く無の状態から旧外交を学び習熟する、つまり旧外交を形成していかなければなりませんでした。具体的には、 同盟・協商関係を全く持たなかった状態から、日英同盟、日露戦争後の日露協商、日仏協商と積み重ねていき、ようやく第一次大戦末期にいたって日本は旧外交に習熟することができたわけです。本書はその過程を描いてます。ただ、その第一次大戦と国際連盟の発足によって、結局これらの同盟・協商は意味を持たないものとなってしまいました。
また、著者は「旧外交の形成」の過程で外務省の一体化と外交の一元化が実現したと評価しています、
本書については学ぶ点ばかりで、内容を評する能力はありませんが、感じたことをいくつか。たった8年しか続かなかった憲政の常道を政党内閣制の確立と呼んだりしますから、昭和に入っての陸軍の外交への介入は別として、第一次大戦末期には外交は外務省が処理するという政策決定の型ができたと評価することもいちおう可能なのでしょうね。
日露戦争前には清国の領土保全と満州からの撤兵をロシアに要求し日英同盟を結んだのに、日露戦争後には南満でロシアに替わる地位を占めてしまったことが、その後の日本の悲劇につながったと思います。歴史にたら・ればはないのですが、日露戦後に韓国の確保だけで満足し、南満は鉄道の経営だけにとどめるという選択がなぜできなかったのか。某仮想戦記小説ではありませんが、いっそ満州での陸戦ではロシアに大敗した方が良かったのではとも感じてしまいます。陸軍が外交に容喙できる理由は、やはり多数の犠牲を払って満州での戦闘に勝ったことなのですよね。
第二次大戦後の介入的ではあるが市場を開放してくれたアメリカとは違って、新外交を提唱してはいても第一次大戦後のアメリカは、本書で取りあげられている移民問題や、国際連盟に加入しなかったことなどなど、自己中心的な印象です。日本が相当行儀良くしても、第一次大戦後の外交は難しかったはずだし、日本国内の不満がその後の陸軍の外交への介入につながるのも、ある点ではやむを得なかったのかもと感じます。
アブラハム・ラビノビッチ著 並木書房
2008年12月発行 本体4800円
日本では1973年のヨムキプール戦争を第四次中東戦争と呼ぶことが多く、またこの戦争そのものよりも、それに付随して起こされた石油戦略の発動の方が大きな影響を及ぼしました。そのため、私にはこの戦争の戦闘経過についての記憶は残っていませんが、石油危機によるトイレットペーパー不足などの騒ぎは覚えています。ただ、本書を読むとこのヨムキプール戦争の経過はとても興味深いものです。
大筋は以下の通りです。1967年の六日間戦争で大敗を喫したエジプトとシリアは、失地回復を狙ってソ連との結びつきを強め武器を入手しました。特に、歩兵用対戦車ミサイル(RPGやサガー)と地対空ミサイル(SA6)は、後に緒戦で威力を発揮することになります。一方、イスラエルは六日間戦争の戦訓から、戦車を重視するドクトリンをとるとともに、アラブの軍事力に対して兵数は多くとも能力・士気が決定的に劣ると評価していました。また、自らの情報機関の能力にも自信を持っていて、アラブ側に開戦の兆しが見えてから予備役を動員しても充分に間に合うと考えていたため、対シリアの北部戦線(ゴラン高原)、対エジプトの南部戦線(スエズ運河)とも、少数の部隊しか配備していませんでした。しかし、軍事的に劣るアラブ側が攻撃して来るはずがないという思い込みによって判断を誤った情報機関・軍・政府によって、ユダヤ教の最も重要な休日であるヨムキプール(贖罪の日)に奇襲攻撃されてしまいます。当初、イスラエル側は敵のいかなる領土進出も拒否する方針で臨んでいたため、どのような進出も阻止する必要から手持ち戦力を薄くばらまくこととなり、シナイ半島でもゴラン高原でも戦力の集中という機甲の原則が無視され、各個撃破につながりました。しかも、アラブ側の地対空ミサイルにより航空機による対地攻撃の効果的な実施が困難となり、エジプトの歩兵の対戦車ミサイルによって、歩兵を随伴せずに行動したイスラエルの戦車が多数撃破され、ゴラン高原の南半とシナイ半島の東岸を占領されてしまいました。ピンチに陥ったここから、イスラエルの反撃がまずゴラン高原で始まります。
自他ともに優勢と判断されていた側の国が油断によって緒戦に敗退し、その後に地力を発揮して挽回するという展開をとったのがヨムキプール戦争です。この劇的な戦闘経過に加えて本書の著者の筆力はかなりのもの。筋立ても、面白さも、トム・クランシーの小説レッドストームライジングに匹敵するくらいですので、ぜひ一読をお勧めしたい戦史です。また、巻末の参照文献リストを眺めても日本語に訳されているものは一つもないような分野なので、そういう意味でも貴重な本だと思います。翻訳・刊行された方には感謝。
本書は冷戦の実情をかいま見せてくれる点でも興味深く読めました。地中海に面する基地をアルバニアで失ったソ連は、シリア・エジプトとの関係を深めて武器を供与しました。しかし、六日間戦争でシリア・エジプトが大敗した結果、ソ連製兵器の信頼性にも疑問をもたれかねない状況となり、ソ連のアラブの軍の能力に対する評価は非常に低いものでした。ロシアはヨーロッパかどうか問題になりますが、こういう際には白人としてアジア・アフリカ人を劣等視している傾向もあるのかと感じます。このため、失地内服をもくろんだエジプトがイスラエルとの再戦を計画した際にはソ連から止めるように勧告されたほどで、これを不服としたサダト大統領はソ連の軍事顧問団を一時帰国させたこともありました。東側の影響下にある国とは言え、決してソ連の意に添った行動ばかりをとるわけではなかったわけです。
また、東側の影響下の国がソ連から離れる行動をとった例もこのエジプトです。ソ連から武器類を輸入しながらこの戦争を戦ったエジプトですが、停戦交渉の過程で敵であるイスラエルを支援するアメリカに接近する路線をとり、最終的には1978年のキャンプ・デービッド合意につながります。戦闘では緒戦を除くと劣勢に立たされていったエジプトですが、外交的にはスエズ運河再開・シナイ半島占領地の返還などの目標を達成することに成功したわけです。冷戦というと、キューバ危機とか東ヨーロッパの状況、また昔々やったバランス・オブ・パワーなんていうPCゲームのことが思い出されたりして、東西がくっきりと分かれて対立しているとうイメージがあったのですが、デタントの進んできているこの頃にはこういうエジプトみたいな動きが可能だったわけですね。
田中貴子著 朝日選書817
2007年3月発行 本体1400円
教科書といえば歴史の分野ばかりが問題なのかと思っていましたが、そうではないようです。
また、第一部では教科書によく採用されている5つの文章を読みなおすという企画がされています。例えば、中宮定子の「香炉峰の雪はいかならむ」という問いに清少納言が御簾を上げたことで有名な枕草子の「雪のいと高う降りたるを」の段。定子をかこむサロンの雰囲気を称揚するために書かれた枕草子なので、自慢話を書いたわけではないと今では解釈されているのだそうです。でも教科書には、清少納言を高慢ちきな女性としてとらえるような設問が載せられています。というのも、女性はその能力をあからさまに発揮すべきではなく控えめにすべきという道徳的な意味が込められているからなのだとか。また、白氏文集のもとの詩からこれは定子が朝寝坊した日のことなのではとか、いつもなら開けてあるはずの格子が閉じられていた理由なども検討されています。
ほかの例でもそうですが、読み込むと細かな点までもが文学的にはいろいろと検討の対象になりうるということが分かってびっくりしました。説話や戦記物語なんかは文庫本で読んだことがありますが、こういう例をみせられると、読んでいながらその文章に込められた意味を多々見過ごしていたのだろうと感じさせられます。
太田朋子著 講談社ブルーバックスB1637
2009年5月発行 税込み840円
分子進化の中立説が淘汰説との論争の下にあった頃、著者は以下の3点を疑問に感じたそうです。
私自身もむかしむかし木村資生さんの分子進化の中立説(1986年、紀伊國屋書店)を読んで一番に疑問に感じたのは、②の分子時計が世代の長さにあまり関係なく、年あたりほぼ一定となるのはなぜかという点です。これに対して、著者は本書で、
本書はブルーバックスとしては本当に久しぶりに購入した一冊です。中学から高校生の頃にはブルーバックをよく読んだもので、何となく分かりやすい啓蒙書という印象を持っていました。ただ、本書の場合には、ほぼ中立説の分かりやすく詳しい説明がなされているというよりは、ほぼ中立説から導かれる要点を詳しい説明ははしょってプレゼンテーションしてくれているという感じです。編集者の人が脚注や巻末の用語集をたくさんつけてくれているのですが、中立説に対する基礎知識のない人がこの本を読んでどこまで理解できるのかというと疑問が残ります。興味がある人は木村さんの分子進化の中立説を読んだ方が詳細な説明があって、かえって分かりやすいのではないでしょうか。あちらにも、ほぼ中立説に関する記載はありますし。
では本書が読んでみてつまんない本だったかというと、全然そんなことはありません。遺伝子発現調節や形態進化などなどの最近の知見とほぼ中立説との関連についての著者によるプレゼンテーションが面白く感じられました。
伊藤之雄/李盛煥編著 ミネルヴァ書房
2009年6月発行 本体5000円
伊藤博文が統監として赴任した当初は韓国を保護国として統治し近代化するつもりだったが、韓国ナショナリズムの興隆によって断念し、山県・桂らの併合論に反対しなくなったと最近の日本では考えられるようになってきているのに対し、韓国では併合への道を強圧的に推し進めた人物としてとらえられることが今でも多いのだそうです。本書は日韓の12人の著者による論考からなっていますが、日本の著者は伊藤博文を当初からの併合論者とは考えていないのに対し、韓国の著者は日本側の見解にそって考えている人と、当初から強圧的併合論者だったとする人に分かれていました。伊藤は内閣総理大臣を4回も経験していて、その人が64歳になってから栄職である枢密院議長を辞してわざわざ韓国へ統監として赴いたのは、単純に併合を目的としていたというよりも、併合論者が多い中、保護国として韓国の近代化をめざすという難題に対処できるのは自分しかいないという感覚だったのだろう、という意味のことが第一章には書かれています。この見解に私も同感です。
被植民地化の危機意識から多くの藩に分かれていた日本を明治維新で一つにまとめ、しかも富国強兵を目標として被支配者にまで国民という意識を浸透させ、日清・日露戦争では兵士として勇敢に戦わせることができたのは、ナショナリズムのおかげだったと思います。ナショナリズムで日本を一つとすることに成功した伊藤博文が、韓国民が反日でひとつにまとまる可能性を重視せずに統監として赴いたことは不思議なことです。本書では韓国の司法改革や条約改正に関する論考のほかに、伊藤の思想、韓国の進歩派や儒者に対する対応に関する論考も載せられていますが、どうして伊藤が韓国を保護国として運営できると思っていたのか、彼のナショナリズム観についての分析は不十分と感じました。
あと、いくつか興味深かったこと。安重根による暗殺に対する韓国民の反応についての第10・11章ですが、この事件を必ずしも全員が歓迎したわけではないのですね。植民地化などの前途への憂慮を示す意見や、追悼会や謝罪使といった話があったことには驚きました。また、第12章には、追悼のためにソウルに春畝山博文寺が建立されたことが書かれていました。銅像だと、像を攻撃する行動が象徴的に行われるかもしれないので、仏寺の建立になったのだそうです。このお寺はようやく昭和になってから建設され、敗戦まで観光名所として日本からの修学旅行生が訪れたり、内鮮融和のための行事が開催される会場となり、日本の敗戦後には放火されて消失したそうです。このお寺のことは全く知らなかったので、勉強になりました。
また、本書のあとがきには編者の伊藤さんによる
永井和著 京都大学学術出版会
2003年7月発行 税込み4620円
主に、①大正天皇の発病から宮中某重大事件を経て摂政就任まで、②久邇宮朝融王婚約不履行事件、③ただ一人の元老となった西園寺と首相奏薦、④田中内閣と満州某重大事件による辞職、の4つのエピソードについての論文が収録されています。どれも下世話な意味からも興味深いテーマばかりです。例えば、闘う皇族(角川選書)という面白い本を以前に読んだことがありますが、その資料のひとつが著者の②を扱った論文です。
本書の収載論文はどれも専門書らしからぬ読みやすい文章で、一気に読んでしまいました。ただ、もとは専門誌に載せられたものなので注がかなり多いし、他の学者との論争もあったりしたそうで、著者自身「細かいことに目くじらを立てる奴だと受け取る向きもあるかもしれない」と述べています。でも、京都大学学術出版会には選書のシリーズもあるので、それで出版したらもっと一般の読者もたくさん得られたのではと、感じたくらいです。
第4章から第7章は、田中内閣と満州某重大事件に関連した論考です。昭和天皇の言動により田中義一首相が辞職したことは有名ですが、昭和天皇が問題としたのは、満州某重大事件の首謀者が厳罰に処せられなかったこと自体ではなく、田中首相が一度は厳しい処分を行うと上奏しながら、閣僚や陸軍の反対から行政処分で済ませようとしたからなのだそうです。それまでにも田中首相には何度か天皇の不興をかうエピソードがあり、それもあいまってこの食言が天皇の怒りにつながったと分析されています。
また、摂政時代の裕仁皇太子は上奏に対して素直に裁可していましたが、天皇に即位した後は、ご下問を頻繁に(主に)内大臣に対してするようになったのだそうです。昭和天皇の考え方自体が、政友会の田中首相よりも、民政党よりであったことも、その一因だったのでしょう。昭和天皇は帝王教育のおかげか「立憲君主」として自制的に行動していたと私は感じます。もっと激しい、独裁したがる人が天皇になっていたらどうなっていたのでしょう。元老西園寺は、補弼者である首相はもっと頻繁に参内してコミュニケーションをとるべきで、明治時代には天皇と激論・喧嘩を交わしてでも思うところを了解してもらっていたと述べていたそうです。ただ、昭和になってからこんなことをしたら、議会で反対党に追及するネタを与えるだけになりそう。国民に対して天皇の神格化をすすめたことで、支配にあたる人々も自縄自縛に陥ってしまったのが明治憲法体制の大きな欠陥だと思います。
巻末には「第7章『輔弼」をめぐる論争」として、家永三郎さんと著者との往復書簡による論争が載せられています。昭和天皇の戦争責任を考えるにあたって、昭和天皇が1975年に行った会見で「私は立憲国の君主として憲法に忠実に従ったゆえに開戦を回避できなかった」と弁解したことに対して家永は、統帥権の独立が立憲制の枠を越えていて、大元帥としての天皇は立憲君主ではあり得ないと批判しています。
村井良太著 有斐閣
2005年1月発行 本体6000円
米騒動を受けた寺内内閣の退陣後、元老の協議によって原敬が首相に選定されました。原内閣は政治的安定と実績をもたらし、政友会が統治能力をもつ政党であることを元老に印象づけました。このため原の暗殺後、同じ政友会の高橋是清が首相に選定されました。原内閣は最初の本格的な政党内閣とされますが、原自身は貴衆両院の最大勢力である研究会・政友会が交互に政権を担当する構想を持っていました。これは、憲政党党首の加藤高明が対華21箇条要求の責任者であり、元老も原も憲政会の外交政策・政権担当能力に不安を持っていたからなのだそうです。
高橋内閣の成立後に山県有朋は死去し、また残る松方・西園寺の二元老も高齢となり、実質的な影響力は減退していきます。しかし、この時点では一般的にも元老にも憲政の常道は当然視されていませんでした。なので、高橋内閣が閣内不統一で退陣した後、ワシントン会議の取り決めを実行するために海軍から加藤友三郎が元老から首相に推され、憲政会党首の加藤高明は加藤友三郎が辞退した時のための第二候補に過ぎませんでした。
また、加藤首相の死去後の山本権兵衛、虎ノ門事件による山本権兵衛退陣後の清浦奎吾の選定にあたっても、元老には政友会は統率がとれていないと判断され、憲政会は上記の理由で候補に挙がらず、中間内閣の擁立となりました。しかし、
清浦に対する評価は一般的に低く、例えばWikipediaの清浦奎吾の項目には
松方の死去によりただ一人の元老となった西園寺は、清浦内閣の辞職を受けて総選挙で第一党となった憲政会の加藤高明を首相とします。加藤高明内閣は普選法の成立などに政治手腕をみせ、また幣原外相の外交が西園寺の眼鏡にかない、政友会と並んで統治能力のある政党としての評価を得ます。加藤高明の死去後の若槻礼次郎と、枢密院の台湾銀行救済緊急勅令の否決による若槻内閣総辞職後の野党田中義一の首相奏薦によって、政党内閣制の慣行が成立したと見ることが出来ます。
憲法に基づかない地位である元老による首相奏薦に対する批判がありました。また西園寺は、彼以降に新たな元老の任命されることにも、枢密院による首相奏薦にも、首相選定のための機関の新設にも同意しませんでした。元老に相談しての内大臣による奏薦が行われるようになりましたが、元老の絶滅が目前に控え、政治の外に位置すべき内大臣による奏薦がスムーズに運ぶためには、憲政の常道をルールとした政党内閣制が望ましかったわけです。さらに、明治憲法では天皇にすべての権力が集中しているのに関わらず天皇不答責とされていましたから、分立する権力を統合する仕掛けとしても政党内閣制がんぞましかったわけです。
まとめると、第一次大戦後の世界の風潮に棹さす大正デモクラシーの空気と、条件が整えば英国流の議院内閣制が望ましいと考えていた最後の元老西園寺の意向と、元老制以外の仕組みによって権力分立という明治憲法の欠陥を補完する必要性などを条件に、政友会・憲政会という二つの政党が統治能力テストに合格したことから、政党内閣制がルールとなったというあたりが、ざっと本書の主張だと読みました。元老と政党内閣制の関係の説明が非常に説得的で目の付け所がシャープだと思います。単に、政党と新聞がデモクラシー・立憲政治を主張し、世間がそれを是認しただけで政党内閣制がルール化したわけではないという訳ですね。
本書を読みながら、伊藤博文が首相の決定方法をどう考えていたのか気になりました。伊藤をはじめとした明治憲法の制定チームは、かなり綿密にいろいろと検討したはずなので、この辺りをどう考えていたのか知りたい気がします。また、制定時ではなくとも明治末期には元老による首相奏薦が将来難しくなりそうなことは目に見えていたでしょうから、どうするつもりだったのか。さらに実際の日本の歴史では、大正天皇は能力的に(もしかすると押し込められた??)、また昭和天皇は自覚的に、天皇として政治力を発揮しようとはしませんでしたが、もし独裁的な天皇が出現したとしたらどうするつもりだったのか(日本流に主君押し込めで対処するつもりだった??)なども気になってしまいます。
ブライアン・カプラン著 日経BP社
2009年6月発行 税込み2520円
民主主義がうまく機能していないことの理由として、投票者の望むことを反映していないからではないかとされてきました。その原因として従来は、自分の一票が選挙の結果を変える確率がゼロに近いことから有権者が充分な検討を省いて「合理的無知」の状態で投票しているとする考え方がありました。しかし、本書で著者は、この合理的無知の考え方の代わりに、自分の信念を満たすように非合理的な投票行動を有権者がとることが民主主義の失敗の原因であると主張しています。つまり、「民主主義は投票者が望むことを反映する、という理由で失敗する」のです。
現代の政策論争の中心が経済に関するものなので、この有権者の非合理性をもたらす思いこみの例として、反市場バイアス(市場メカニズムがもたらす経済的便益を過小評価する傾向、規制を望む)、反外国バイアス(比較優位の法則を理解できていないので自由貿易に反対する傾向)、雇用創出バイアス(労働節約的な方向に反対する)、悲観的バイアス(未来は現在より悪くなる)を著者は挙げています。経済学者はこれらの思いこみを誤ったものと考えますが、それにも関わらず人々がこういったバイアスを持ち続けるのは
こういったバイアスをもった多数の有権者がになう民主主義による政治が、時代とともに世の中をどんどんと悪化させずに済んでいるのは、有権者よりは経済のことを分かっている政治家が有権者の怒りを買わないような方法で有権者の望んだものとは違う政策をとったりなどしているからだとのことです。世間では市場原理主義の評判が良くないけれど、経済学者はちっとも市場原理主義者なんかではないし、それよりも実際にはデモクラシー原理主義がはびこっていることの方が問題だと著者は主張するのです。
アメリカで行われた調査の結果では、ふつうの人が上記のバイアスを強く持っているのに対して、教育程度の高い人ほど、これらの点について経済学者の態度により近い考え方を持つ傾向がありました。なので、デモクラシーをよりよく機能させるための方法として著者は、参政権をある種の試験に合格した人のみに与える、経済リテラシーの高い人には複数の投票を可能にする、(もともと経済リテラシーの高い人の投票率の方が高いので)投票率を上げるような取り組みを減らす、または教育カリキュラムを経済リテラシーを重視したものに変更するといった提案をしています。
ざっとこんな感じの本なのですが、読んでいてとても不快でした。本書の文章は日本語としてこなれているとは言えず、もとの英文を参照してみたいと感じる箇所が少なくなかったり、また脱字が散見されたりなどがその一端です。ただ、それよりも私にとっては本書の主張自体が不快に感じられました。私もバイアスに侵されたふつうの人間だからでしょう。また、参政権を改革しようとする反普通選挙の主張についても、どうどうと著書に記した勇気に対して敬意を表しますが、デモクラシー原理主義に侵されているせいか読んでいてやはり気分のよいものではありませんでした。
著者はふつうの人が経済に関する偏った思いこみを持っていると主張しています。例えば、比較優位の法則から自由貿易が望ましいのに、ふつうの人は反外国バイアスをもっていてけしからんというわけです。でも、これはこれで意味のあることなのではないでしょうか。ふつうの人は何もアダムスミス以来の比較優位の法則を否定しようというのではないはずです。関税の引き下げなど貿易障壁が撤廃されるに際して職を失う人が出ることは必定で、しかも失職後直ちに以前と同様の条件で新たな職に就けるわけでもないことなど、ふつうの人はこういった点を懸念しているのではないでしょうか。多くの人がバイアスを持ち続けているというのであれば、それがなぜかを考えてそのバイアスを減らす対策(経済学を教え込むという対策ではないですよ)をとることの方が必要に思えます。
でも、バイアスの考え方について、全く同意できないわけではありません。本書にはtoxicologyも例としてあげられていましたが、日本でのBSEや遺伝子組換え作物などなどに対するふつうの人やマスコミや政府の過剰反応を思い起こすと、経済学者である著者がふつうの人の経済問題に関するバイアスをあげつらいたくなる気持ちも理解できなくはない気がします。
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2009年12月31日木曜日
春の祭典
モードリス・エクスタインズ著 みすず書房
2009年12月発行 本体8800円
スペインの没落以降、パクス・ブリタニカを脅かす可能性のある国はフランスでしたが、20世紀に入ってからはドイツ帝国がフランスにとってかわります。また20世紀には、アバンギャルド、モダニズムという文化・社会的な叛逆・解放・革新の風潮が出現したわけですが、本書では新興のドイツを社会・経済・軍事的なアバンギャルド、モダニズムの旗手と見立て、20世紀前半に二度もの大戦を経験することに至ったヨーロッパの社会を雰囲気まで表現しようとした作品なのかなと感じました。第一次大戦とモダン・エイジの誕生というサブタイトルがついていますが、そういうことですよね。ふつうの政治史・経済史とは全く違ったアプローチで、興味深く読めました。
いまでは第一次世界大戦 World War I と呼ばれますが、本書を読むと基本的にヨーロッパの内戦だったということがはっきりする感じです。日本と言う単語は日露戦争に言及したところにしかなかったし、アジア・アフリカ諸国についても参戦したセネガル兵のこと触れられていません。まあ、アメリカについては、リンドバーグやロスト・ジェネレーションの現象なども含めて、それなりに触れられていますが。
開戦前の日々、ベルリンなどドイツの各都市で開戦を望むデモに多数の市民が参加していて、ドイツが総動員・開戦を決断するにあたっては、この世論が大きな影響を与えたというのが著者の見解です。また、ドイツ社会民主党が反戦をつらぬくことができなかったのも、戦争への態度を決定するための社会民主党代表者会議に出席する人たちが、ドイツ全国からベルリンへ向かう列車の旅の途中で、戦争を望むデモに多くの群衆が参加している姿を目にしたからなのだとか。
本書はモダニズムの画期的なランドアークとなったバレエ作品からタイトルを借用しているが、それは本書の中心モチーフである<動き>を暗示してもいる。自由を求めて懸命に努力した結果、われわれが手にしたのは究極の破壊力であったという遠心的で逆説に満ちた二十世紀を見事に象徴するのは、荒々しく、ニヒリスティックなアイロニーに彩られた死の踊りだ。「はじめに」にはこんな風に書かれていますが、このタイトルはほんとに本書の内容にふさわしい。
で、私はストラビスキーの音楽の方の春の祭典も好きなのですが、LPの頃からあったブーレーズとクリーブランド管弦楽団の旧盤が一番です。
2009年12月25日金曜日
傲慢な援助
ウィリアム・イースターリー著 東洋経済新報社
2009年9月発行 本体3400円
「傲慢な援助」とはおおげさな印象ですが、原著のタイトルはThe White Man’s Burden(白人の責務)で、キップリングの詩の題名からとられたものだそうで、そういう意味では傲慢という言葉が入っているのは日本語のタイトルとしてふさわしいかもです。本書の著者は世界銀行で実務に携わった経験のある開発経済の専門家です。もちろん著者も、貧困をなくすためには経済成長が必要だという立場です。しかし、過去50年間に先進国が2.3兆ドルもの経済援助をしてきたのに、なぜ発展途上国の経済成長が実現しなかったのか、つまり援助が失敗してきたのはなぜかという問題意識で本書は書かれています。
援助する側が「我々白人が貧困など途上国が抱える問題を解決してやるぞ」という意識で、経済成長を達成するというような大きな目標をめざしたユートピア的なプランを建てて資金援助を行う(それを行う人をプランナーと本書では呼ぶ)というビッグプッシュはうまく行かないのだというのが著者の主張です。外部から押しつけられた市場・民主主義などは満足に機能せず、かえって経済成長を阻害してしまいます。また、ビッグプッシュに必要な多額の資金を集めるためには、目標が着実に実行可能で成果が見込めるのかどうかよりも、資金の出し手にアピールするような壮大な目標を掲げることが求められます。特に、計画の成果を身を以て検証することのできる位置にいる発展途上国の一般の人たちの声が援助する側に届きにくいこともあり、これまでは援助の成果が正しく評価されてこなかったので、何が達成されたかよりもどれだけ多くの資金が投入されたかだけが重視される傾向にありました。ただ、著者によると、経済成長の達成という観点からだけしても、経済援助が有益だったのかどうかには疑問があるそうで、今後は援助の成果を正しく評価することが必要だとされています。
本書にはさまざまな小さな援助の成功例が載せられていますが、著者が重視しているのは、人はインセンティブに反応するということです。資金の提供者の側で目標を建てるのではなく、実際に発展途上国で実践されている活動(その活動を行う人を本書ではサーチャーと呼ぶ)を援助することが求められています。そうでないと、「援助は人びとのインセンティブを歪め、自分自身の問題を解決するのに、ついつい、どうすればいいか他人のほうを見てしまう」ということになりかねません。
同じ著者の「エコノミスト 南の貧困と闘う」という本が2003年にやはり東洋経済新報社から発行されています。前著では経済援助の不成功の理由として、発展途上国側の悪い政府・腐敗した官僚制などの問題を指摘していることが印象的でしたが、それに加えて本書では援助する側のプランナーの問題点も指摘して、発展途上国のサーチャーのインセンティブを重視することを主張しているのだと感じました。
本書の第10章では「自分の国の経済成長は自前の発想で」として東アジアの国とインド・トルコ・ボツワナなどの例を紹介しています。この中で特に日本の戦後の経済発展について、「アメリカが占領下の日本でトップダウン式に改革を命令したから日本が高度成長を実現したのではなく、日本国内に、あるいは日本人の中に、高度成長を可能とする様々な要因があったということなのだ」と著者は評価しています。この点についてはとても同感です。そして、経済史を学ぶにつれ感じることですが、著者の指摘する戦後の高度成長だけではなく、日本が開国後に後発ながら資本主義国として植民地を持ち、アメリカと3年半も戦争を継続できるまでに成長したのは、もともと江戸時代の日本にその条件が備わっていたからとしか私には思えません。つまり、経済成長が実現するかどうかはその国に条件が備わっているかどうかが重要で、経済援助は条件が備わっている場合にしか効果を発揮できないということだと思うのです。だから直接に経済成長を目的とする援助は無駄だから止めにして、生活の改善に役立つようなサーチャーの活動を援助しようという著者の意見には賛成です。ただ、本書の第8章で指摘されているように、ヨーロッパによって植民地されなかった日本や東アジアの国と、ヨーロッパによって植民地化された地域とを対比すると、植民地統治期の分割統治などなどのゆがんだ制度が独立後の経済成長を疎外している面があることは確かで、だからより一層、白人の責務を感じてしまう人がヨーロッパには多いのでしょうが。
前作と本書を並べてみると、同じ著者の同じようなテーマの2冊の本が同じ出版社から出版されたのに、前著は四六判で本書はA5判と大きさが不揃いにしてあるのはなぜなんでしょう??
2009年9月発行 本体3400円
「傲慢な援助」とはおおげさな印象ですが、原著のタイトルはThe White Man’s Burden(白人の責務)で、キップリングの詩の題名からとられたものだそうで、そういう意味では傲慢という言葉が入っているのは日本語のタイトルとしてふさわしいかもです。本書の著者は世界銀行で実務に携わった経験のある開発経済の専門家です。もちろん著者も、貧困をなくすためには経済成長が必要だという立場です。しかし、過去50年間に先進国が2.3兆ドルもの経済援助をしてきたのに、なぜ発展途上国の経済成長が実現しなかったのか、つまり援助が失敗してきたのはなぜかという問題意識で本書は書かれています。
援助する側が「我々白人が貧困など途上国が抱える問題を解決してやるぞ」という意識で、経済成長を達成するというような大きな目標をめざしたユートピア的なプランを建てて資金援助を行う(それを行う人をプランナーと本書では呼ぶ)というビッグプッシュはうまく行かないのだというのが著者の主張です。外部から押しつけられた市場・民主主義などは満足に機能せず、かえって経済成長を阻害してしまいます。また、ビッグプッシュに必要な多額の資金を集めるためには、目標が着実に実行可能で成果が見込めるのかどうかよりも、資金の出し手にアピールするような壮大な目標を掲げることが求められます。特に、計画の成果を身を以て検証することのできる位置にいる発展途上国の一般の人たちの声が援助する側に届きにくいこともあり、これまでは援助の成果が正しく評価されてこなかったので、何が達成されたかよりもどれだけ多くの資金が投入されたかだけが重視される傾向にありました。ただ、著者によると、経済成長の達成という観点からだけしても、経済援助が有益だったのかどうかには疑問があるそうで、今後は援助の成果を正しく評価することが必要だとされています。
本書にはさまざまな小さな援助の成功例が載せられていますが、著者が重視しているのは、人はインセンティブに反応するということです。資金の提供者の側で目標を建てるのではなく、実際に発展途上国で実践されている活動(その活動を行う人を本書ではサーチャーと呼ぶ)を援助することが求められています。そうでないと、「援助は人びとのインセンティブを歪め、自分自身の問題を解決するのに、ついつい、どうすればいいか他人のほうを見てしまう」ということになりかねません。
同じ著者の「エコノミスト 南の貧困と闘う」という本が2003年にやはり東洋経済新報社から発行されています。前著では経済援助の不成功の理由として、発展途上国側の悪い政府・腐敗した官僚制などの問題を指摘していることが印象的でしたが、それに加えて本書では援助する側のプランナーの問題点も指摘して、発展途上国のサーチャーのインセンティブを重視することを主張しているのだと感じました。
本書の第10章では「自分の国の経済成長は自前の発想で」として東アジアの国とインド・トルコ・ボツワナなどの例を紹介しています。この中で特に日本の戦後の経済発展について、「アメリカが占領下の日本でトップダウン式に改革を命令したから日本が高度成長を実現したのではなく、日本国内に、あるいは日本人の中に、高度成長を可能とする様々な要因があったということなのだ」と著者は評価しています。この点についてはとても同感です。そして、経済史を学ぶにつれ感じることですが、著者の指摘する戦後の高度成長だけではなく、日本が開国後に後発ながら資本主義国として植民地を持ち、アメリカと3年半も戦争を継続できるまでに成長したのは、もともと江戸時代の日本にその条件が備わっていたからとしか私には思えません。つまり、経済成長が実現するかどうかはその国に条件が備わっているかどうかが重要で、経済援助は条件が備わっている場合にしか効果を発揮できないということだと思うのです。だから直接に経済成長を目的とする援助は無駄だから止めにして、生活の改善に役立つようなサーチャーの活動を援助しようという著者の意見には賛成です。ただ、本書の第8章で指摘されているように、ヨーロッパによって植民地されなかった日本や東アジアの国と、ヨーロッパによって植民地化された地域とを対比すると、植民地統治期の分割統治などなどのゆがんだ制度が独立後の経済成長を疎外している面があることは確かで、だからより一層、白人の責務を感じてしまう人がヨーロッパには多いのでしょうが。
前作と本書を並べてみると、同じ著者の同じようなテーマの2冊の本が同じ出版社から出版されたのに、前著は四六判で本書はA5判と大きさが不揃いにしてあるのはなぜなんでしょう??
2009年12月13日日曜日
文革
董国強編著 築地書館
2009年12月発行 本体2800円
南京大学14人の証言というサブタイトルがついているように、文化大革命の時期に南京大学の教官や学生だったりした人たちで、その後に大学教授や研究者となった14名へのインタビューをまとめた本です。14名の中には文革期にすでに教官や教室の管理者として活動していた人たちもいて、その人たちは主に迫害の対象となったつらい経験を中心に語っています。また、それよりも若い大学生や中学生だった人たちの多くは批判する側で、紅衛兵(ATOK2007には紅衛兵が登録されてなかった)として北京で毛沢東と会う経験をした人も含まれています。編著者は日本人ではなく南京大学歴史学科の副教授で、オーラルヒストリーを実践したものです。文革に関する企画は今でも中国国内ではすんなりと許可されるわけではないそうで、中国より先に、日本で出版されることになったそうです。文化大革命自体が特異なできごとですから、それを体験したそれぞれの人の体験談もとても非日常的なもので、とても面白く読めました。まあ、歴史学者なら面白がるだけでなく、こういったことがらを素材として扱うのでしょうが。
世代が上の方の人たちは、百花斉放百家争鳴とそれに続く反右派闘争などを経験していたので、慎重だったようです。文革が始まった時にソ連の大粛清と同じではないかと感じたと述べている人もいました。
文革自体は毛沢東が劉少奇からの政権奪還を目指して発動したものと言われていますが、中国のいろいろなところで一般市民が「反革命」を打倒すると称してふだんの不満をはらす活動をしたためにあんな風に暴走してしまった面があります。この頃の中国では、職場や所属組織といった「単位」が、戸籍・住宅・医療・就職・進学・結婚などまで生活全般をまとめて面倒を見る体制でした(ちょうど、一昔前の日本の大会社が社宅や病院や保養所など持っていたのに似ている)。「単位」の共産党組織の覚えが良くないと生活に差し支える面が多く、コネをもている人はいいけれど、そうでない人や不利な扱いを受けたと感じてもそれを解消する手段がありませんでした。こんな不満・恨みが小さな地域・ローカルな組織での「文革」の原動力だったとか。
もちろん学生たちのように、純粋にフルシチョフのソ連のような修正主義を許すなと活動した人たちもいました。ただ、自分たちの活動が革命的なのか、反動なのかを上部が決定するような状況に、操られている感覚をもつようになった人も多く、特に林彪が失脚してからはみんなが冷めた見方をするようになったそうです。
毛沢東による経験交流の奨励によりお金がなくとも中国国内を旅行して見聞をひろめることができ、学生たちには良い思い出として残っているそうです。しかし農村への下放はつらい体験で、社会主義の新農村が花開いているはずなのに、実際の生活水準の低さを実感して驚いている人もいました。当初は勇んで下放に出かけた人でも、何とかつてを頼って学生として南京にもどることができたからこそ、学者としてこのインタビューを受けることができるようになったようです。
文革の誤りがあっても、それでもマルクス主義を信じて疑っていませんと述べてる人が14人中ひとりだけいますした。その他のひとはどうなのかな。今では中国共産党の共産主義というのは、多数党・政権交代を前提とする政治体制を拒否するためだけに使われてるような感じですからやむを得ないかもですが。
文革が中国の人たちにとって大きな災難だったのは、本書を読んでみても間違いないことです。毛沢東や四人組や、また毛沢東をトップに据え続けざるを得なかった中国共産党に原因があるのもたしかです。でも、20世紀前半にあんな形で日本が中国に干渉しなければ、中国共産党が政権を握ることがなかったかもしれず、ひいては文革なんて起きなかったかも知れないと思うと、日本人にも無縁なできごとではないですよね。
2009年12月10日木曜日
漢奸裁判史
益井康一著 みすず書房
2009年10月発行 本体4500円
本書は、もともと1972年に発行されたものに劉傑さんの解説を新たに付して新版として発売されたものです。本書の巻末にも今井武夫さんの「支那事変の回想」に関する記載がありますが、今年3月に日中和平工作というタイトルで再刊されたその本を読んだことがあったので、汪兆銘政権の舞台裏がみえる感じで本書を読むことができました。
劉傑さんの解説によると対日協力者としての漢奸については中国でも1980年代までタブー視され、あまり研究がなかったそうです。その点で、本書は漢奸裁判に関するかなり早い時期でのまとめです。また、著者は本書の中で裁判の一次史料は国共内戦の影響で残されていないのではと述べていて、毎日新聞の記者だった著者は敗戦後に日本に帰国してから、漢奸裁判関係の外電や中国の新聞などを収集して本書を書いたのだそうです。
汪兆銘が日本の敗戦前に日本で病死したことは知っていたのですが、多発性骨髄腫だったことは本書で知りました。対麻痺と膀胱直腸障害があったそうですから、脊椎の痛みもかなりひどかったことでしょう。症状から死が避けられないことも自覚していたはずで、遺書を残す気になっても不思議はありません。実際、汪兆銘は死後20年たったら公開するようにとした遺書を残していて、文字からもおそらくホンモノと思われるものなのだそうで、それが載せられています。すでに日本の敗戦が見透せる時期に書かれたものですから、それを織り込んで、自分の行動の正当性、汪兆銘政権が決して傀儡政権ではないことを訴えています。日米開戦前には日中戦争が中国に有利に展開すると決まっていたわけではないのですから、蒋介石と袂を分かった彼の行動も理解できる気がします。私も日本人なので、日本側の王兆銘観になびいてしまっているのは否定できませんが。
汪兆銘亡き後の主席陳公博、駐日大使や外交部長だった褚民誼、そして汪兆銘夫人の陳璧君などの大物は、裁判でも過ちはみとめ、それでいて自分の行動の正当性も正々堂々と主張していて、感心させられます。法廷での傍聴人や当時の中国の新聞の論調もこれらの人に対しては同情的な点があったそうです。まあ上海など、もとは汪兆銘政権支配下にあった地域で発行された新聞だからかも知れませんが。陳公博・褚民誼など大物の多くは死刑(絞首刑ではなく、銃殺)になりましたが、陳璧君は終身禁固刑になりました。国共内戦下、共産党の支配下に入った蘇州の刑務所で服役していた他の漢奸たちが釈放されても、陳璧君は釈放されず、共産党側からの転向の誘いも断って1959年に獄死したそうです。
漢奸と認定されるのは、国民党員で裏切ったと見なされた人だけが対象ではないのでした。例えば、科挙の進士合格から経歴をスタートさせた王揖唐という人は、安福派軍閥で段祺瑞の片腕として活躍し、安福派の失脚後は日本に亡命しました。華北の日本の傀儡政権の中には、こういった軍閥に関係した北方の旧政客たちがいました。私の目から見ると、この人たちは元々国民党とは対立していた人たちですから、国民党と対立する華北の傀儡政権に参加しても当然で、漢奸として裁かれるのは筋違いのような気もします。また、あの川島芳子も漢奸として裁かれていますが、清朝の皇族出身で、しかも9歳の時から日本で日本人の養女として育てられた彼女が漢奸とされたことにも、強い違和感を感じます。川島芳子に関しては、当時の中国の中にも同様に感じた人が多くいたそうです。
華北傀儡政権・汪兆銘政権の高官や財界人だけでなく文化人も裁かれています。魯迅の弟として有名なのは周作人は懲役刑の判決を受けました。看板になるような文化人たちは強く対日協力を迫られたのでしょうし、逃げ隠れするには高齢・有名過ぎる人たちですから、やむを得なかったのでしょう。日本人に対する 怨に報くゆるに徳をもってせよという蒋介石の言葉を思うと、文化人たちに対する有罪判決は酷な感じがします。ただ、京劇の女形の名優、梅蘭芳はひげを蓄えて潜み、対日協力をせずに過ごしたそうで、このエピソードには感心しました。
本書を読んで、フランスの対独協力者や、ドイツの占領下にあった地域の同様の人たちのことについても学んでみたい気になりました。また、日本にはこういう問題はこれまでなかったのですが、戦前戦中の捕虜になった人への態度など考えると、もし日本で漢奸が問題にされるような事態が発生した際には、もっときびしい非難が一般のひとたちからあびせかけられるのでしょうね。
2009年12月6日日曜日
オセアニア学
吉岡政徳監修 京都大学学術出版会
2009年10月発行 本体7000円
中身は、人類の移動と居住戦略、環境と開発、体と病い、植民地化と近代化、文化とアイデンティティという5つの分野に関する40ほどの章に分かれています。日本オセアニア学会創立30周年の記念出版ということから多数の方が執筆しているので、一つ一つの章はあるテーマを短くまとめて紹介する感じになっています。オセアニア学というのは、個々の島のflora・faunaや、珊瑚礁・火山島の特徴、海流とか気候とかそういった自然科学的なことは対象ではないようで、主にオセアニアに住んでいる人間を対象にした学問なのですね。買って読んでから気付いたので、個人的には期待はずれ感が否めません。
考古学や言語学的な成果から、順にどの島から人が移住していったのかが紹介されていて、人類の移動と居住戦略というテーマが一番面白く感じました。オセアニアへの第一の人類の移動は、海面の低下した5万年前頃にサフル大陸(オーストラリアとニューギニアが陸続き)へ、そこからソロモン諸島までは一万年前くらいまでに拡散していたのだそうです。海面の低下していた頃に人の住んでいた遺跡の多くはもしかすると現在は海面下にあり発掘不能で、じつはその時期に海から離れたところに住んでいた人たちのことしか考古学では明らかにできない点は、問題にならないのかということが何となく疑問に感じました。
体と病いというテーマではマラリア対策に関する章が興味深く読めました。子供の成長の地域差や、糖尿病の多いことは、やはりそうなのかという程度の印象。また、この地域の人口に関する章もありましたが、現状について触れられているだけなのが残念。島という環境なのでヨーロッパ人との接触以前にも人口の調節が行われていたと思うのですが、どんな具合だったのでしょう。またヨーロッパ人からもたらされた感染症などの健康被害によって人口が激減した時期があったように書かれていますが、その程度やその後の人口増加(回復)の様子や、人口の変化が社会に与えた影響など、読んでいてとても知りたくなりました。でも、こういったことは史料が無くて分からないのかも知れません。
先住民運動というテーマでニュージーランドにおけるマオリ語のテレビ局や幼稚園などの事例が取りあげられていました。ただ、先住民だから一般的に考えて生活が苦しいのかなという程度の認識しかない私にとっては、実際にニュージーランドの都市や非都市に住むマオリの人たちが、それぞれどんな仕事をして何を食べてどんな家に住んで何を着ているかなどなど、実際にどんな暮らしをしているのかも提示してもらえないと、いまひとつ理解が深まらなかった印象です。
あと、この本に関しては造本に大いに問題ありです。570ページもあって、しかも用紙が薄くないのにタイトバックで製本されているので、開きにくくて読みにくくて仕方がない。ざっと我が家の本棚を眺めてみて、この厚さの本でタイトバックなんて、ほかには一冊もありません。絵本なんかなら薄いからタイトバックにするのも分かるのですが、この本をタイトバックにした編集者は何を考えていたのでしょう。よほど無能な編集者なのか、またはホローバックにしない何か特別な意図があったのか、謎です。
2009年11月28日土曜日
「満州」の成立
安富歩・深尾葉子編 名古屋大学出版会
2009年11月発行 本体7400円
「森林の消尽と近代空間の形成」というサブタイトルがついていますが、清朝の故地である満州は封禁政策により保護され、20世紀初め頃にもトラやヒョウの棲息する森林が広く残されていました。政策転換と、枕木や初期には蒸気機関車の燃料として大量の薪を使用した東清鉄道の建設によって森林は広く伐採され、赤い夕陽が地平線に沈む満州の風景が形作られました。比重が重いために水運では運びにくい広葉樹材が鉄道で輸送され、西側のモンゴルから豊富に供給される馬と組み合わされて、満州特有の1トンも輸送できるような大きな馬車が製造されるようになりました。中国本土では徒歩が主な移動手段だったのでスキナーの提唱するような定期市のネットワークが発達していました。しかし満州では、冬期に地面が凍って馬車による比較的長距離の大量輸送が可能となるので定期市は発達せず、生産地→県の中心地(県城・駅)→大都市→輸出港へと商品が輸送されることから、県城または駅が農村経済の中心となる県城経済という現象がみられようになりました。もともと満州では大豆が商品作物として栽培されていて、華中の綿花、華南のサトウキビ栽培の肥料向けに移出されていました。鉄道の建設後は大豆は国際的な商品作物となり、中国本土の貿易収支が赤字だったのに対して、満州は貿易収支が黒字の状況でした。地域経済が分散的・ネットワーク的な中国本土と、県城を中心としたツリー構造の満州という対照的な様相は政治にも影響して、満州では省→県城→農村という支配の形が無理なく機能します。貿易黒字とツリー状の支配体制を利用して、満州は中国のフロンティアから経済的な先進地帯に変化し、張作霖政権は第二次奉直戦争に勝利するなど軍閥として成長することができました。また張政権は輸入代替工業化や満鉄包囲線の建設などを進め、危機感を抱いた関東軍は満州事変を起こします。満州事変後の満州国では治安維持にある程度成功したのに、日中戦争期の華北の占領地では点と線の確保しかできなかったのは、県城を中心としたツリー構造の満州と、分散的・ネットワーク的な華北という違いが反映していると著者は示唆しています。
ざっとこんな風なことが書かれていると理解しましたが、中国東北部の気候や自然背景から経済・政治まで、無理なくつなげて説明する構想力にはとても感心します。この著者のグランドプラン自体の是非の判断は専門家におまかせするとしても、少なくとも素人の目からは素晴らしいとしか思えません。また、夜間に撮影された衛星写真をつかって、満州と華北の都市・農村配置の違いを示すようなアイデアや、著者の説を補強する材料としてタルバガンという齧歯類の毛皮獣猟とペストの関連、山東省と満州との私帖(非官製紙幣)の発行主体の性格の違い、満州と中国本土の廟会(寺社の縁日+市)の違い、などの記述も興味深く読めました。今年読んだ中でも一番面白かった本になりそうな感じです。
2009年11月21日土曜日
イタヤカエデはなぜ自ら幹を枯らすのか
渡辺一夫著 築地書館
2009年10月発行 本体2000円
日本に生育する木のうち36種類の生態・成長や繁殖の様式などの特徴を紹介している本です。「イタヤカエデはなぜ自ら幹を枯らすのか」というタイトルがついていますが、イタヤカエデは25番目に出てくるだけで、特にイタヤカエデについて注目すべき記載があるというわけではありません。さおだけ屋はなぜ潰れないのか?という新書がヒットして以来、似たようなタイトルの本が多く見られるようになりましたが、本書もきっとその一つでしょう。目を惹くためとは言え、はしたないという印象を与えるタイトルです。
36種の木の中には高山に行かなければ見られないものもありますが、東京で街路樹や公園などで身近に見られる木も取りあげられています。また紹介されている特徴も面白く読めました。
例えば、森林の下生えに笹が生えている所って、どうやって樹木の更新が行われるのか疑問だったのですが、笹が枯れた時に稚樹が育つと説明されていました。そういえば、笹は実を結ぶと枯れるんでしたね。
ドングリを付ける木もいくつかとりあげられています。ドングリは乾燥に弱く、土の中での生存期間も一年程度と短く、ネズミなんかに食べられやすくもあってコストの割に欠点が多い種子なのだそうです。固い殻があっても乾燥には弱いとは知りませんでしたが、デンプンの存在の仕方が穀物や豆類とは違うのでしょうか。また、それならどうしてああいう大きなデンプンのたくさん詰まった種子を作るのかが不思議に感じます。ただ、ドングリを作る木が絶滅していない点からは必ずしも、種子としてドングリをつくる戦略が失敗というわけではないようです。
本書は樹形や葉や幹や花や実をたくさんの写真で紹介しています。ただ、カバーを除くとそれらすべてがモノクロ写真なのです。もう数百円高くても良いから、カラー印刷で出して欲しい気がする本でした。
2009年11月20日金曜日
伊藤博文
伊藤之雄著 講談社
2009年11月発行 本体2800円
本書は伊藤博文の伝記ですが、読んでいると偉人伝という言葉が浮かんできます。明治維新に参加し、30歳代で参議になり、木戸・大久保亡き後の明治政府の第一人者となり、憲法を制定し定着させた人ですから、もちろん偉人であることに間違いはないわけです。ただ、彼の意の通りに進まなかったことを病気・疲労・高齢・他人を疑わない性格などのせいにして書かれている点がなんとなく、ほほえましく思われ、偉人伝だなと感じてしまったのです。でも、伊藤博文の一生を手軽に読めるという意味で、良い本だと思います。
伊藤の最大の功績の一つは明治憲法ですが、憲法施行後に憲法を停止しなければならないような事態に陥ることがないよなものに仕上げる必要があったという指摘は、今まで考えたことがなかったので、新鮮でした。オスマントルコが施行後2年で憲法を停止しそのままになってしまったことは知っていましたが、伊藤たちが前車の轍をふまないようにしたというのは、条約改正を目標として欧米先進国からの目を意識していた時代だから当然ですね。そう考えると、あの時期にはある程度君権の強い憲法にならざるを得なかったのも理解できます。
ただ、憲法のできばえについては、かならずしも不磨の大典とは伊藤が考えていなかったろうという本書の指摘に賛成です。明治天皇、そして昭和天皇も名君で、憲法の求める機関説的な君主を演じてくれたから良かったのですが、仮に後醍醐天皇や後鳥羽上皇みたいな天皇が即位したらかなり危ないことになってしまいそう。また日本が危なくなる事態ではなくとも、大正天皇のように執務が困難になる病気に天皇がかかってしまうと、国家権力の正当性が失われてしまう構造の憲法です。さらに、日露戦争の頃には議会・内閣・軍など権力の分立構造が明らかになってきていて、元勲の第一人者たる伊藤でさえ思うとおりにはできないことが多々生じています。きっと、なんとかしたいとおもっていたことでしょう。
韓国では伊藤に対する評価はとても低く、日韓併合の主導者と考えられています。しかし、著者が他の本でも史料をもとに主張しているように、山県や陸軍などとは違って、伊藤自身は「韓国の富強の実を認むる時」まで保護国として統治するが、植民地にする意図を当初は持っていなかったという説に賛成です。64歳という高齢で韓国統監に就任したのも、韓国に植民地化以外の道を歩ませるという抱負があったからというのはその通りでしょう。ただ、第三次・第四次伊藤内閣がそれぞれ約半年と短命だったように、元勲の第一人者とはいえども日本の政治を意のままに操ることができなくなっていたことも、韓国の政治に携わる理由になったのではないでしょうか。
600ページを超える本書ですが、本体2800円でおさまっているのは有り難いこと。それにしても、講談社発行のハードカバーの本は生まれて初めて買ったような気がします。
2009年11月13日金曜日
江戸と大坂
斉藤修著 NTT出版
2002年3月発行 本体2500円
17世紀には江戸でも大阪でも年季奉公をする人が多数いました。大阪ではその後も商家で住み込み奉公人の伝統が続いたのに対し、江戸では住み込み奉公人は減少して、かわりに「江戸中の白壁は皆旦那」という意識を持った雑業者の増加がみられるようになりました。大阪の商家で住みこみ奉公の制度が続いたのは、即戦力となる人材を外部の労働市場で調達できる条件がなかったので、若年で採用して実地訓練と幅広い経験の積み重ねによる熟練形成が望まれたからです。近代日本にみられた労働市場の二重構造と似たものが江戸時代にも、内部労働市場を持つ大商家と都市雑業層というかたちで存在していたということが本書には述べられています。
そして、住み込み奉公が終了して自分で一家を構える許可の出る年齢が30歳代後半だったことから人口抑制の効果があったこと、それに対して都市雑業層の増加はこの層が都市に定住して家庭をもったことから人口を増加させる影響があったことが論じられています。初期の江戸は性比のバランスがとれず、出生率の多くない都市でしたが、雑業層の定住によって19世紀には男女比がほぼ一対一になり、江戸で生まれた者が住民のうちの多数を占めるようになったということです。
大阪の商家で見られた労働市場の内部化はホワイトカラーのみを対象とするものでした。明治以降には近代産業の内部でブルーカラーまでが対象となったことを考えると、江戸時代に見られる労働市場の二重構造は、直接には近代の二重構造とはつながらないのだそうです。また、本書ではヨーロッパの都市との対比なども述べられていて、勉強になりました。都市雑業層の存在した江戸を第三世界の大都市のようだったのでは、という指摘も面白い。
さて、ひとつ疑問に思うことがあります。十代前半で丁稚として採用されるのですから、最初の数年は住み込みで働かせるのも分かりますが、二十歳代以降は結婚を許可して、通いで働かせてもいいような気がします。なのに、どうして 三十歳代半ばでやっと別宅、つまり通い勤務が許される段階まで、大阪の商家では奉公人をずっと住みこませていたのでしょうか。成功すれば高収入の管理職になれるとはいっても、能力の不足から途中で暇を出される人の方がずっと多かったはずです。それなのに、結婚もできない身分で働き続けなければならない商家の奉公人が割のあわない職業として忌避されるようなことはなかったんでしょうか。
2009年11月12日木曜日
MRIの騒音とSteve Reich
調子の悪いところがあって、今日は頭部MRIを撮ってきました。検査は30分ほど続いたのですが、予想より短く感じました。その原因は音。
MRIの検査を受けたことがある人ならおわかりだと思うのですが、MRIは検査中ずっと、工事現場のドリルのような騒音が続きます。単調な断続音なのですが、検査の進行にともなって音の高さが変化してゆくので、聞きながらなんとなくMusic for 18 musiciansに似てるなと感じてしまったのです。この曲はSteve Reichの代表作ですが、彼の作品の中でも一番好きな曲です。
MRIは検査に時間がかかるし大きな音がするしで、痛くはないけれど楽な検査ではありません。でも、あの断続音にマッチするようなメロディーも一緒に流せば、騒音が転じてバックグラウンドミュージックになるような気がします。MRIの製造会社もいくつかあって性能や価格で競争していますが、新たなセールスポイントになるんじゃないでしょうか。
15年ほど前にもMRIを撮ったことがあります。その時は勤務先の病院にMRIの機械が設置され、試運転の実験台になったのでした。大きな騒音には気付いていましたが、今回のようなミニマルミュージックを連想することはありませんでした。というのも、検査中に眠ってしまったからです。ふつうだと、あれだけの騒音の中で眠るなんてことは考えにくいことですが、当時は診療所ではなく、病院の勤務医でしたから、慢性の睡眠不足と疲労があってつい眠ってしまったのだと思います。
いま、診療報酬の改定の検討がなされていますが、病院の勤務医の労働条件は当時よりずっと厳しくなっています。その厳しさがいくらかでも緩和されるよう、また厳しさに見合った待遇がなされるような診療報酬が実現することを望みます。
MRIの検査を受けたことがある人ならおわかりだと思うのですが、MRIは検査中ずっと、工事現場のドリルのような騒音が続きます。単調な断続音なのですが、検査の進行にともなって音の高さが変化してゆくので、聞きながらなんとなくMusic for 18 musiciansに似てるなと感じてしまったのです。この曲はSteve Reichの代表作ですが、彼の作品の中でも一番好きな曲です。
MRIは検査に時間がかかるし大きな音がするしで、痛くはないけれど楽な検査ではありません。でも、あの断続音にマッチするようなメロディーも一緒に流せば、騒音が転じてバックグラウンドミュージックになるような気がします。MRIの製造会社もいくつかあって性能や価格で競争していますが、新たなセールスポイントになるんじゃないでしょうか。
15年ほど前にもMRIを撮ったことがあります。その時は勤務先の病院にMRIの機械が設置され、試運転の実験台になったのでした。大きな騒音には気付いていましたが、今回のようなミニマルミュージックを連想することはありませんでした。というのも、検査中に眠ってしまったからです。ふつうだと、あれだけの騒音の中で眠るなんてことは考えにくいことですが、当時は診療所ではなく、病院の勤務医でしたから、慢性の睡眠不足と疲労があってつい眠ってしまったのだと思います。
いま、診療報酬の改定の検討がなされていますが、病院の勤務医の労働条件は当時よりずっと厳しくなっています。その厳しさがいくらかでも緩和されるよう、また厳しさに見合った待遇がなされるような診療報酬が実現することを望みます。
2009年11月8日日曜日
歴史人口学研究
速水融著 藤原書店
2009年10月発行 本体8800円
新しい近世日本像というサブタイトルがついていますが、著者をはじめとした歴史人口学の成果が、私の近世日本に対する認識を大きく変えてくれたことは
たしかです。本書には、主に著者の雑誌に発表した論文が収められていて、読んだことがないものばかりでした。
著者お得意の勤勉革命に関するものはありませんでしたが、江戸時代初期の人口が1800万人ではなく1000万人程度だったこと、江戸時代中期以降の西日本での人口増加と東日本や大都市近郊での人口減少が相殺されて日本全国の人口は停滞していたように見えること、単身者が多かったり婚姻年齢が高かったりして都市の人口は自然減を呈していたこと、などを示す論文が収められていました。
第11章は幕末のカラフトの人口構造という論文です。狩猟や漁労のみに携わっていたカラフト先住民の人口構造の一端が紹介されていることも面白いのですが、1853年という時期に幕府がカラフト先住民の人口調査を行ったこと自体知らなかったので、とても驚きました。
終章では、家族・人口構成パターンから、日本全体を東北日本・中央日本・西南日本(東シナ海沿岸部)の3つに分けることができることが示されています。
世帯内の生産年齢人口比率は、決定的に重要な経済指標と考える。それは、上記三つの地域で状況はそれぞれ異なるが、特に東北日本では、危険水準に落ち込まないように保つメカニズムが働いていた。波動に際しては「オヤカタ」(本家)が一党の面倒を見るべく救済に乗り出し、「オヤカタ」・「コカタ」(分家)の関係が危険を回避する機能を演じていた。東北日本のオヤカタ・コカタについてはなんとなく当たり前のような気がしていましたが、世帯内の生産年齢人口の変動に対して中央日本では土地の売買や質入れで対処していたというのは、重要な指摘です。こう考えると、この地域での地主小作家系に関する認識が替わるし、またもしかすると中世のこの地域でのものがもどる慣行と関連していないかなど妄想してしまいます。
中央日本では、その激しい波動は、いくつかのレベルで緩和されていた。家族レベルでは、同族団で、血縁の家族が支え合う組織が最も根深く発達していた。村レベルでは「講」と呼ばれる組織で、ある場合には宗教的な寄り合い(宮座)として、別の場合には民間金融の寄り合い(頼母子講)として機能している。注目されるのは中央日本では経済的発達の浸透が最も著しく、各世帯が、個別的に危機になれば所持する土地を売り、所得の増えた時期にはそれを買い戻すこと行動に出ていることである。この地域で近世史料調査をすると、驚くほど多い土地売買証文、質入証文を見出す。これは、農民たちが、危機を回避すべくとった行動記録なのである。
また、ふつうに日本を大きく地域に分ける時には、東日本と西日本に分けて論じますが、著者のいう東北日本が東日本に、中央日本が西日本にあたるでしょう。その他に、西南日本の存在を主張するのは著者の特徴ですが、からゆきさんのような実例もあるので、その存在はたしかでしょう。これに関しては、宮本常一さんが日本文化の形成の中で述べていた海部や家船を持つ人たちのことが想い出されます。また、台湾から南に船出してフィリピン・マレー半島・インドネシア・マダガスカル・オセアニアに広がったオーストロネシア語族の人たちですが、一部は黒潮にのって北の日本に行き着き、西南日本の源流になったというようなことはなかったのかしらと妄想してしまいます。
2009年11月3日火曜日
天文法華一揆
今谷明著 洋泉社MC新書039
2009年9月発行 本体1900円
この本はもともと1989年に平凡社から出版されて、長らく品切れになっていたものだそうです。今谷さんの著者は面白いと感じるものが多いのですが、 天文法華一揆をテーマにした本書もそうでした。読んでいてまるでドキュメンタリーのように感じましたが、あとがきを読むと著者自身も事件史として、非専門家向けにドキュメンタリータッチに叙述した旨を述べています。
天文法華一揆は、むかし教科書で天文法華の乱として学んだ記憶がありますが、どんなものだったのか理解してはいませんでした。本書によると、堺公方体制内部の対立の際に、細川晴元が本願寺に援軍を依頼したところ、 本願寺の動員力は当時の守護や国人が動員できる兵数よりずっと多く、数万の軍勢が集まって、堺にいた三好元長は攻め滅ぼされてしまった。これを知った近国の一向宗門徒は、奈良や京の周辺で一揆を起こした。これを鎮圧するには武士の力だけでは不十分で、幕府は法華宗の信者が多数いた京の町衆の動員力に期待することとした。これは成功して、各地の一揆は鎮圧され、山科の本願寺も焼き討ちされてしまった。大阪の本願寺も攻められ、一向宗側の希望で講和が結ばれた。細川晴元も将軍足利義晴も京にはいない時期だったので、法華一揆が京内の治安維持に任じるとともに、功のあった法華一揆は京の市民の一揆で上級商人層が中心だったので、地子免除を認めさせ、周辺農村の半済や京七口の関所の関銭の廃止を求めた。また、宗教的な対立からか、法華一揆による京周辺の農村の焼き討ちなども行われた。これら一連の法華一揆側の動きは、幕府や法華宗以外の宗教性力などの反発を招いた。そんな時期に、法華宗の一門徒が叡山の華王房という僧を宗教問答でやりこめられてしまうという事件が起こった。これに反発した山門側は近江の六角氏とともに京に攻め込み、京の町は広く焼かれ、法華宗は敗北した、というもののようです。
天文法華の乱は山門が京の法華宗寺院を焼き討ちした事件ですが、そうなるまでのいきさつが説明されていて、すっきりしました。でも読んでいて疑問も無いわけではありません。数万という動員力の一向宗との対決で本山の山科本願寺を焼き討ちするくらいの力を持っていた法華一揆側は、なぜ山門に攻められるとあっさり負けてしまったんでしょう。幕府や他の宗教勢力から孤立していっただけではなく、上級商人以外の京の市民の中でも孤立しつつあったからなんでしょうか。
この洋泉社MC新書のMCはModern Classicsという意味だそうです。私が昔読んだことのある本では「東日本と西日本」もこのMC新書として並べられていました。こういう入手しにくかった本が復刊されるのはいいことだと思います。
2009年10月30日金曜日
清代中国の物価と経済変動
岸本美緒著 研文出版
1997年1月発行 本体9500円
清には皇帝に各地の米価を報告する制度があったそうです。一般的には前近代の物価の経時的なデータを収集することは困難ですから、この制度の存在は物価史の研究にとても役立ちそうに思えます。しかし著者によると、データの信頼性に問題があるのだそうです。激しく物価が上下する時にはそのまま報告すると上司から叱責されるおそれがあるので、加工していたのだとか。おそらく不作による米価高騰が騒動を引き起こしそうな時でしょうか。また、各地で通用していた貨幣の違いから換算が難しく、比較しにくい点もあるそうです。
ただ、そういったデータも各地からのものが集まると、物価に長期的な変動があったことが明らかです。物価の記録に加えて、その時代の経済が活気を帯びていたのか沈滞していたのかは同時代の人の記録を読めば分かりますから、中国にも長期的な波動が存在したことは明らかです。ここから、銀の動きを媒介に、ヨーロッパや日本との関連を想像するのはお楽しみですが、本書でも第五章清代前期の国際貿易と経済変動で説得的な議論がなされています。
著者は中国経済の全体規模に対する貿易額の割合を1.5%前後と大雑把に見積もっています。1700年のイギリスの総商品貿易額が国民純収入に対する比率は26%にも及ぶそうで、それに比較すると清朝経済の貿易に対する依存度は低かったのですが、清初の海禁が国内経済に不況をもたらすという影響を与えたことを考慮すると、清代経済にとっての貿易の意味はかなり重いとせざるを得ないとしています。こういった事実は、ヨーロッパ経済に対する新大陸貿易を考える際にも、参考になると思うのです。新大陸貿易の比率が低かったことを理由に、ヨーロッパの経済発展に新大陸の存在が必須ではなかったかのような議論は、この清の事例を考えると成り立たないですよね。
前近代の中国の人が古典や先人の文章・意見を引用している際には、必ずしも文字通りに理解すべきではなく、レトリックとして自分の主張の補強に使っていることがあるのだそうです。例えば、土地の所有に関して、ある論者の文章の中には「土地王有論」と「民田は民自有の田」という一見相反するような主張がともに使われています。前者は土地所有者の恣意を抑える論として使われ、後者は国家の不当な干渉を排除するために使われています。文字通りに読んでしまうべきではないとのこと、そういった事情を知らなかったので勉強になりました。
2009年10月28日水曜日
MacBookの汚れやすいところ
アルミ削りだしのMacBookを使い始めて半年以上が経ちましたが、2007年型MacBook Proと比較して、いちばん便利に感じるのはふたをあける時です。2007年型MacBook Proはラッチ式なので手前のボタンを押さないとふたが開かないのですが、そのボタンが小さいので押しにくさを感じることがしばしばです。でも、マグネットラッチ式のこのMacBookでは本体の手前側のくぼみのとこに指をかけてふたを持ち上げればすっと開きストレスがありません。
ただ、この方式にも一つだけ欠点があります。あける際にこの部分に手指の脂がついて汚れやすいのです。この枠の部分はディスプレイと違って黒く、しかもつや消しの選べないMacBookでは、汚れがとても目立ちます。仕方ないので眼鏡拭き用のトレシーでお掃除します。本当はディスプレイの枠に指が直接には触れにくいようなデザインが望まれますし、Appleでもきっと検討したと思うのですが、ディスプレイ周囲のおしゃれな黒枠を実現するために採用しなかったのかなと想像しています。
ただ、この方式にも一つだけ欠点があります。あける際にこの部分に手指の脂がついて汚れやすいのです。この枠の部分はディスプレイと違って黒く、しかもつや消しの選べないMacBookでは、汚れがとても目立ちます。仕方ないので眼鏡拭き用のトレシーでお掃除します。本当はディスプレイの枠に指が直接には触れにくいようなデザインが望まれますし、Appleでもきっと検討したと思うのですが、ディスプレイ周囲のおしゃれな黒枠を実現するために採用しなかったのかなと想像しています。
2009年10月27日火曜日
インフルエンザワクチン
先週の月曜日にテレビのニュースなどで、医療従事者に対する新型インフルエンザのワクチンの接種が始まったと報道されていました。一週間遅れの昨日、私が仕事をしている診療所にも、はじめて6人分(1mlバイアル3本)が入荷しました。ぼつぼつ、新型と思われるA型インフルエンザの患者さんが受診してきているので、今日、私を含めた医療従事者6人にこのワクチンを接種しました。針を刺される痛みよりもワクチンの薬液の痛みの方が強い点は、毎年のワクチンと同様です。
黒枠つきのパンデミックワクチンという表示が、ふつうのインフルエンザワクチンと違う点でしょうか。また、新型インフルエンザはメキシコで感染が広がり始めましたが、このワクチンの株はアメリカで採集されたもののようで、A/カリフォルニア/7/2009株と表示されています。今冬以降しばらくはこのタイプのインフルエンザが流行株になると思われます。昨冬まで流行していたタイプがソ連型・香港型と呼ばれていたように、新型インフルエンザはきっとメキシコ型と呼ばれるとばかり思っていたのですが、もしかするとカリフォルニア型と呼ばれることになるのでしょうか。
11月以降は、医療従事者以外の優先接種対象者に対するワクチン接種が始まります。本当ならもう予約を取り始めたいところですが、いまのところ日付を含めた予約の受付は待ってもらっています。このワクチンは、0.5mlシリンジ(成人1人用)、1.0mlバイアル(成人2人用)、10mlバイアル(成人20人用)で提供されるそうです。うちとしては、希望した全量が0.5mlシリンジか1.0mlバイアルで提供されのならば問題はないのですが、もし10mlバイアルが何本か含まれることになったら大問題。一日にまとめて20人分の予約をいれないと、貴重なワクチンの薬液が無駄になってしまいますが、一日に20人のワクチン接種をするとなると、一般の外来診療との兼ね合いもあって、日をしぼる必要があるので難しいところ。薬品の卸の人に尋ねても、どの包装がどのくらいの数量、いつごろに届けてもらえるのかはっきりしないそうなので、悩んでいるところです。
もう一つ悩ましいのは、季節型インフルエンザのワクチンです。こちらも入手難で、昨年に比較して七割程度しか納品されませんでした。10月15日から市から補助のある高齢者の予防接種が始まっているので、希望者が順調に来院し接種しています。ただ、今シーズンに流行するA型インフルエンザはほとんど全例が新型になるのではと予想されるので、季節型インフルエンザワクチンのうちA香港型とAソ連型の抗原は接種する意味がないのでは感じてしまうのです。もちろん、B型の抗原も入っていますから、その意味では接種する価値はあるのでしょうが。
黒枠つきのパンデミックワクチンという表示が、ふつうのインフルエンザワクチンと違う点でしょうか。また、新型インフルエンザはメキシコで感染が広がり始めましたが、このワクチンの株はアメリカで採集されたもののようで、A/カリフォルニア/7/2009株と表示されています。今冬以降しばらくはこのタイプのインフルエンザが流行株になると思われます。昨冬まで流行していたタイプがソ連型・香港型と呼ばれていたように、新型インフルエンザはきっとメキシコ型と呼ばれるとばかり思っていたのですが、もしかするとカリフォルニア型と呼ばれることになるのでしょうか。
11月以降は、医療従事者以外の優先接種対象者に対するワクチン接種が始まります。本当ならもう予約を取り始めたいところですが、いまのところ日付を含めた予約の受付は待ってもらっています。このワクチンは、0.5mlシリンジ(成人1人用)、1.0mlバイアル(成人2人用)、10mlバイアル(成人20人用)で提供されるそうです。うちとしては、希望した全量が0.5mlシリンジか1.0mlバイアルで提供されのならば問題はないのですが、もし10mlバイアルが何本か含まれることになったら大問題。一日にまとめて20人分の予約をいれないと、貴重なワクチンの薬液が無駄になってしまいますが、一日に20人のワクチン接種をするとなると、一般の外来診療との兼ね合いもあって、日をしぼる必要があるので難しいところ。薬品の卸の人に尋ねても、どの包装がどのくらいの数量、いつごろに届けてもらえるのかはっきりしないそうなので、悩んでいるところです。
もう一つ悩ましいのは、季節型インフルエンザのワクチンです。こちらも入手難で、昨年に比較して七割程度しか納品されませんでした。10月15日から市から補助のある高齢者の予防接種が始まっているので、希望者が順調に来院し接種しています。ただ、今シーズンに流行するA型インフルエンザはほとんど全例が新型になるのではと予想されるので、季節型インフルエンザワクチンのうちA香港型とAソ連型の抗原は接種する意味がないのでは感じてしまうのです。もちろん、B型の抗原も入っていますから、その意味では接種する価値はあるのでしょうが。
2009年10月18日日曜日
大根おろしを食べながら
このところ、大根とキャベツとレタスがかなり安くなっています。大根とキャベツは100円未満くらい、レタスは2~3個で100円未満のものも見受けます。さすがにあまり安いレタスは切り口が茶色く変色しているものですが、大根やキャベツは夏の高かった頃のものより立派。特にキャベツは高い頃のはすかすかで軽い印象でしたが、今買うとずっしり重いのです。今年の夏は雨が多くて気温もあまり高くならなかったので、高値のころのものは充分に成長しきってないのを早めに収穫して売っていたのでしょうね。
大根やキャベツの値段ですが、一本一個百円台前半くらいまでだと気になりません。でも、二百円を超えるとなんとなく高く感じてしまいます。一本200円として、運送費やパッケージ台や流通業者のマージンなどを考えるとどのくらいが生産者の収入になるのでしょうか?気になってググってみると、例えばこのサイトには、生産者の手取りが最終価格の22.3%となっていました。200円の大根一本で45円の利益だと、十万本(一家で一年に十万本つくれる??)つくっても年収450万にしかならない。日本で作られている野菜がワンコインで買えるというのは問題ありかも。国内生産が持続できるようにするには、政府による農家の所得保障なり、多少値段が高くても農家の手取りがその分増えるフェアトレードのような仕組みがあってもいいかなと感じます。
大根やキャベツの値段ですが、一本一個百円台前半くらいまでだと気になりません。でも、二百円を超えるとなんとなく高く感じてしまいます。一本200円として、運送費やパッケージ台や流通業者のマージンなどを考えるとどのくらいが生産者の収入になるのでしょうか?気になってググってみると、例えばこのサイトには、生産者の手取りが最終価格の22.3%となっていました。200円の大根一本で45円の利益だと、十万本(一家で一年に十万本つくれる??)つくっても年収450万にしかならない。日本で作られている野菜がワンコインで買えるというのは問題ありかも。国内生産が持続できるようにするには、政府による農家の所得保障なり、多少値段が高くても農家の手取りがその分増えるフェアトレードのような仕組みがあってもいいかなと感じます。
2009年10月11日日曜日
核兵器とノーベル賞
日中韓三カ国の首脳会談が開催され、北朝鮮のことも話し合われたと今朝の新聞にのっていました。それを読みながら、以下のようなことを妄想してしまいました。
北朝鮮は核兵器とミサイルの開発をさらに推進します。これまで2回の核実験よりも大規模な核実験を行い、そして人工衛星の打ち上げにも成功した段階で、充実した核兵器とその運搬手段の開発に成功したと発表します。そうすると、世界中から今まで以上のブーイングが集まるでしょう。その後、現在の金正日さんが死去して、金ジョンウンさんがリーダーになります。新しいリーダーは、これまでに製造した核兵器を経済援助と交換で中国にすべて引き渡し、核施設にIAEAの査察や海外のマスコミの取材を受け入れます。そして、「口先だけでちっとも実行に移さないアメリカのオバマ大統領とは違い、わが国は世界の平和を愛する諸国民とともに核廃絶を実現するために、率先実行したのだ」と声明するのです。もし、こんな風なことが起きれば、北朝鮮のリーダーがノーベル平和賞を受賞することになってもおかしくないような。
佐藤栄作さんの受賞もあれでしたが、ノーベル平和賞はノーベル政治賞とでも名前を変更した方がいいような気がします。
北朝鮮は核兵器とミサイルの開発をさらに推進します。これまで2回の核実験よりも大規模な核実験を行い、そして人工衛星の打ち上げにも成功した段階で、充実した核兵器とその運搬手段の開発に成功したと発表します。そうすると、世界中から今まで以上のブーイングが集まるでしょう。その後、現在の金正日さんが死去して、金ジョンウンさんがリーダーになります。新しいリーダーは、これまでに製造した核兵器を経済援助と交換で中国にすべて引き渡し、核施設にIAEAの査察や海外のマスコミの取材を受け入れます。そして、「口先だけでちっとも実行に移さないアメリカのオバマ大統領とは違い、わが国は世界の平和を愛する諸国民とともに核廃絶を実現するために、率先実行したのだ」と声明するのです。もし、こんな風なことが起きれば、北朝鮮のリーダーがノーベル平和賞を受賞することになってもおかしくないような。
佐藤栄作さんの受賞もあれでしたが、ノーベル平和賞はノーベル政治賞とでも名前を変更した方がいいような気がします。
2009年10月5日月曜日
オンデマンド版の本のできばえ
昨日のエントリーの海軍砲戦史談はオンデマンド本でした。オンデマンド本の仕組みって、元の本をスキャナで取り込んだデジタルデータを保存しておいて、注文があったらそのデータを元にプリンタで印刷して製本して届けるという感じでしょうか。
実際にどんな体裁の本が届くのかなと興味がありましたが、印刷の質はかなり高く、オンデマンド版と表示されていなければ、ふつうに印刷された本と区別がつかないという印象です。例えば、この「雷」という文字のかすれや「真珠湾奇襲」の濃さなどは、おそらく元の本でかすれたりインクが濃かったのが、しっかり再現されているのかなと思います。
また、2−3カ所ですが、元の活字とは違う、現代のデジタルの文字で補ったかと思われる部分が見受けられました。例えば、この部分では「実験を」の行までは元のページのスキャンで、「月にわたって」の行より下はデジタルフォントのような印象です。きっと、元の本の一部のページが汚れていたりして、スキャンしても印刷に適さないのを補正したのかと想像します。
この本のページを指で触ってみると、文字の印刷された部分の紙に凹凸があるのがはっきりと分かります。文字が主体の最近の本はみんなオフセット印刷で、紙に凹凸がありません。活字や凸版で印刷されていた昔の本には、こういった凹凸があったと思います。オンデマンド印刷のプリンタは凸版的な印刷をしてるのでしょうね。
実際にどんな体裁の本が届くのかなと興味がありましたが、印刷の質はかなり高く、オンデマンド版と表示されていなければ、ふつうに印刷された本と区別がつかないという印象です。例えば、この「雷」という文字のかすれや「真珠湾奇襲」の濃さなどは、おそらく元の本でかすれたりインクが濃かったのが、しっかり再現されているのかなと思います。
また、2−3カ所ですが、元の活字とは違う、現代のデジタルの文字で補ったかと思われる部分が見受けられました。例えば、この部分では「実験を」の行までは元のページのスキャンで、「月にわたって」の行より下はデジタルフォントのような印象です。きっと、元の本の一部のページが汚れていたりして、スキャンしても印刷に適さないのを補正したのかと想像します。
この本のページを指で触ってみると、文字の印刷された部分の紙に凹凸があるのがはっきりと分かります。文字が主体の最近の本はみんなオフセット印刷で、紙に凹凸がありません。活字や凸版で印刷されていた昔の本には、こういった凹凸があったと思います。オンデマンド印刷のプリンタは凸版的な印刷をしてるのでしょうね。
2009年10月4日日曜日
海軍砲戦史談
黛治夫著 原書房
2009年8月オンデマンド版発行
本体3500円
著者は、海軍砲術学校の教官や戦艦大和の初代砲術長などを勤めた人で、ネルソンの時代の砲戦術、南北戦争での装甲艦モニターとメリマック、薩英戦争と馬関戦争、日清戦争、日露戦争、方位盤の発明、ユトランド沖海戦の戦訓
、戦艦の射撃法の変遷、砲塔のダメージコントロールの比較などが述べられています。
本書はもともと1972年が初版の古い本で、復刊ドットコムの投票で復刊されることになりました。30年以上も前の古い本が復刊されたのは、本書が名著にあたるからでしょう。読んでみて、戦艦の射撃法の変遷に関する記述はあまりほかでは目にしたことが無く、これが復刊の望まれた一つの理由でしょう。ただ、専門の砲術以外の点でも、ユニークと感じる見解やエピソードの紹介がいくつもありました。
山本五十六を海軍次官から連合艦隊司令長官に転出させた、海軍大臣米内光政大将の人事行政がある。しかしこれは、「日米戦争に必ず勝つ。そのための最適任者は、山本五十六中将である」という信念によったものではない。「東京にいると右翼のため、暗殺されてしまうから、しばらく海上に逃げろ。安全になったら、海軍大臣の後釜として中央に帰れ」と言って、山本五十六中将を、連合艦隊司令長官に転出させたと伝えられている。わたし的には太平洋戦争敗因第1号はなんといっても開戦した以外には考えられませんが、砲術畑の著者にとっては、こういう風に見えるのですね。本書を読んでいると、著者が海軍で現役にあった当時に研究熱心だったことがよく伝わってくるので、堂々とした艦隊決戦が起こらなかったことは残念に違いありません。でも、最終的にはアメリカ海軍に決定的に敗れた日本海軍について、歴史的にみて最も高く評価できる点は、空母中心の機動部隊を発明した点なのではないかと私は思います。今でも世界の海洋を支配しているのは空母打撃群なのですから、イギリス海軍がドレッドノートを生み出したのに匹敵する独創性です。
国交緊張の際、臨戦時の連合艦隊司令長官に、片寄った兵術思想を持ち、航空軍政の経験に富むためか、当時実質的な戦力であった戦艦の砲力、軽快部隊の魚雷力を軽視する革新的用兵思想の持ち主を、連合艦隊司令長官に選任した人事は、批判されずに今日まで至ったが、太平洋戦争敗因第1号はこれなのである。
1934年(昭和9年)はジュットランド海戦のあった1916年(大正5年)から18年になる。それなのに金剛型巡洋戦艦4隻の装甲防御はクイン・メリーと殆んど同じである。しかも対手の砲弾は30サンチや、28サンチとちがい40サンチや36サンチで、徹甲性が実に大きくなったのである。ジュットランド海戦でイギリスの3隻の巡洋戦艦が短時間で撃沈された戦訓から、著者は金剛型巡洋戦艦の防御力の改善や、ダメージコントロールの重要性を主張しました。しかし、「技術的感心が貧弱、低級ということが一つ、派手な攻撃的なことが好きで地味な防御がきらい」な海軍軍人が多数で、また艦政本部も自分たちの仕事を批判されているようで面白くはなく、著者の主張は書生論として受け入れられなかったそうです。このエピソードには、海軍もお役所というか官僚の集まりに過ぎない点が表れていて面白いのと、著者のロンドン条約を引き合いに出した、その考え方がとても興味を惹きます。著者自身もきっとロンドン条約に賛成ではなかったでしょうが、新聞などがこの著者の考え方を利用して、国防の危機・統帥権干犯を訴えて浜口内閣のロンドン条約締結を批判する政友会や右翼に対して、反論するようなことができなかったものかと妄想してしまいます。
軍令部の軍備を担当している参謀は、ロンドン会議では20サンチ砲巡洋艦の7割か6割で、あんなに熱心だったのに、主力艦がアメリカの6割でありながら、巡洋戦艦4隻の薄弱な防御を改良しようとはしないのは、どうしたことなのであろうか。
2009年9月26日土曜日
近代日本の国家構想
坂野潤治著 岩波現代文庫 学術228
2009年8月発行 本体1200円
1871ー1936というサブタイトルがありますが、通史ではありません。第一章では、明治維新の革命目的でもあったナショナリズム・工業化・民主化という三つの立国の原理をキーに明治十四年の政変までが分析されています。これら三つを同時に追及することは明治初年代の日本の能力を超えていたので、どれを重視するかで、政治勢力が三つのグループに分類されます。このうちナショナリズムを重視する「新攘夷派」は、征韓論を唱え、台湾出兵を実現しますが、西南戦争に敗れて姿を消します。「上からの工業化派」も、西南戦争後のインフレーションと貿易収支の悪化から、官営企業の払い下げを余儀なくされるなどして挫折します。そして、「上からの民主化派」も国会開設運動の高まりを背景にしながら、明治十四年の政変で国会開設が十年後に先延ばしされて、挫折することになりました。全然うまく要約できてませんが、読んでみるとなかなか鮮やかな分析と感じました。
第二章では、イギリス流の議会政治を目指して論陣を張った福沢諭吉や徳富蘇峰(この頃はウルトラナショナリストではなかった)を軸に、保守・革新との三極構造で明治十四年の政変以降の政治史を描いています。
第三章では、穂積八束、美濃部達吉、吉野作造、北一輝などの明治憲法の解釈が論じられています。内閣制については、明治憲法の制定に携わった人の中でも、例えば伊藤博文、井上毅のように、内閣が連帯して輔弼の任に当たるのか、各国務大臣がそれぞれの職掌について単独で天皇を輔弼するのか、見解が一致していなかったそうです。美濃部達吉は、明治憲法を内閣中心的に解釈することを主張しました。彼が兵力量の決定に内閣が関与すべきとしたのも、政党内閣を擁護したのも、内閣が国政の中心にあるべきとの考えからだったそうで、政党内閣の基礎となる議会については必ずしも重視してはおらず、普通選挙にも必ずしも賛成ではなかった(一人一人の能力が異なるのに、参政の権利だけ平等に与えられるのはおかしいという考え方)とのことです。たしかに、敗戦後の日本国憲法審議の際のことを考えると納得。
井上毅や穂積など、内閣中心的な考えを拒否する天皇大権論者の存在は不思議に思えます。国務の各省や陸海軍や枢密院といった分立する機関をコントロールすることができるのが天皇だけという制度には無理があると思うのです。天皇も生身の人間ですから、幼少だったり、病気になったり、認知症になったりした時どうするつもりだったのでしょう。摂政をたてることができるから問題ないと思っていたのでしょうか。それに、もし超専制的な天皇が即位したりしたら、危ないとは思わなかったのでしょうか。押し込めちゃえばいいと思っていたんでしょうかね。
第四章では、政友会を保守的に、民政党をイギリスの自由党のごとくに、それと労働組合・無産政党の右派をからめて、護憲三派内閣の成立から二・二六事件までが扱われています。著者自身、政友会=悪玉、民政党=善玉として誇張して書いたとしていますが、この解釈自体は私も好きです。なので、田中内閣の辞職後の民政党内閣が金解禁政策を看板としてしまったことを、著者同様、残念に感じます。また、五・一五事件でただちに政党内閣復活の目が無くなったわけではなく、民政党・社会大衆党の支持があった岡田内閣期は政党内閣期と延長としても考えることができるという考え方にも頷かされました。
この本は、元々1996年に出版されたそうです。2009年8月に文庫として出版されるに際して、政権交代を伴う二大政党制という福沢諭吉の夢が叶うだろうとと著者はあとがきで書いています。私も、戦前の政治史の本を読む際には現在のことを気にして読んでいます。自由民主党が政友会で、民主党は民政党にあたるのかなぁとか。
2009年9月24日木曜日
ルポ戦後縦断
梶山季之著 岩波現代文庫 文芸124
2007年9月発行 本体1000円
「トップ屋は見た」というサブタイトルがついています。トップ屋なんていう言葉は聞いたことはあっても、使ったことがありません。Macの辞書で調べてみると、フリーランスライターってなっていますが、もっとおどろおどろしい印象の言葉のような感じがします。今上天皇が皇太子だった頃の皇太子妃のスクープ、王子製紙スト、赤線廃止、産業スパイ、財閥解体などなど、ほとんどみんな私の生まれる前の話題で、文藝春秋・中央公論・週刊文春などに掲載された記事から選んでありました。雑誌に載っていた文章だから読みやすいし、ささっと短時間で読めました。
この中では、ブラジルの勝ち組・負け組の騒動にユダヤ人や日本人が勝ち組から金銭をだまし取る詐欺が絡んでいたっていう話が、全くの初耳で、驚きです。でも、これってホントにあったことなのか、著者の創作なのか、どっちなんでしょってくらい怪しい印象のお話し。日本に来ている日系ブラジル人の人たちなら知っているんでしょうか。
2009年9月23日水曜日
宋銭の世界
伊原弘編 勉誠出版
2009年8月発行 本体4500円
以前「『清明上河図』を読む」という本を読んだことがあります。これは本書の編者がアジア遊学という雑誌の特集を本にしたものでした。本書もやはりアジア遊学の特集を本にしたものだそうで、銀や紙幣や算数教育などなども対象とした13本の論考が載せられています。
「国際通貨としての宋銭」という論考は、宋の社会では銭貨が不足していたという通説に対して疑問を呈しています。なぜなら、宋銭の大量に鋳造された北宋の時代に物価は次第に上昇していて、銭貨が不足しているなら物価が低下するはずなのにとのことです。もちろん、ある地域やある時期には不足していることもあったでしょうが、一般的には銭貨は過剰だったのだろうと。また、北宋銭が大量に東・東南アジアへ輸出されたことについても、銭貨は素材価格よりも高い額面を持っているので、銅銭を輸出して海外からモノを輸入することが有利だったからと説明してあり、納得してしまいます。
論考のうちの2本は古銭の収集家(古泉家という優雅な呼び方があるそうです)が書いています。「北宋銭と周辺諸国の銭」では、銭貨の大まかな分類や、銭の各部分の呼び名や、鋳造法などが説明されています。「江戸時代の古泉家と古泉書」では江戸時代の古銭収集家(その中には大名もいました)の成果とその出版物が紹介されています。趣味で古銭を収集・研究している人たちは、ある点では考古学者や歴史家よりもずっと深い知識を持っているわけで、そういう知識がもっと活かされればと感じます。
というのも、むかし、ある著名人の遺した明治から昭和までの大量の書簡を整理している人と話した時に、封筒の消印を見ても年号がないので、年号が書かれていない手紙では昭和と大正の区別が難しいことがあると聞いたことがあります。この問題は切手を見ればほとんどは問題解決するはずで、同じ図案の赤い三銭切手でも大正と昭和では、すかしの有無や印面の大きさや用紙に色つき繊維が混入されているかどうかなどでほぼ確実に大正と昭和を区別できると思ったからです。
銭貨がテーマなので、やはり省陌法や撰銭に関する論考もありました。「宋代貨幣システムの継ぎ目」という論考では、宋代の短陌慣行がとりあげられています。国家財政に使われる77文省陌は銭貨不足に対応して1.3倍のデノミ政策だったとする説や、都市の市場でつかわれた75・72・68・56文省陌などは77文省陌から各商品の税金をさしひいたものという説などが紹介されています。紹介している筆者自身は必ずしもこれらの説に満足していないようですが、私は説得的だと感じたので原著を読んでみたくなりました。
撰銭については「日本戦国時代の撰銭と撰銭令」という論考があります。撰銭が可能なのは銭文が読めるからだという指摘には全く同感です。ただ、その他の主張はどうも冴えない印象です。この論考で筆者は、「撰銭は超時空的に存在する。問題は、日本では戦国時代に入り撰銭令が頻発する点にある」と書いています。たしかに、戦国時代に荘園領主や寺院や戦国大名から出された撰銭令がいくつも紹介されてはいます。頻発していると筆者は言いたいのでしょうが、単に統一政権がなかったから、狭い範囲でしか通用しない撰銭令がばらばらに各所から出されていただけで、これを頻発と呼ぶべきかというと疑問です。また、撰銭令の目的について筆者は、「食糧需給ー価格抑制策としての位置づけ」があるとしています。戦争や飢饉などの食料価格高騰時には、支払うための銭の量が不足する銭荒となってしまうので、それを緩和するために撰銭令が出されることはあったのかも知れませんが、価格抑制策と呼んで良いのかどうかはやはり疑問です。さらに、筆者は「すべての撰銭令がこのような性格を持つということではない」とか「撰銭令の各事例間の性格の差異に自覚的な分析が必要であり、全ての撰銭令の性格を一元的に説明することには慎重たるべき」などと書いていて、読者としてははぐらかされた感じです。
2009年9月22日火曜日
第百一師団長日誌
古川隆久・鈴木淳・劉傑編
中央公論新社
2007年6月発行 本体4200円
砲兵科出身者として珍しく師団長にまで昇進した伊東中将は、それを最後に退役となりました。しかし、日中戦争の拡大に伴って新設された第百一師団の師団長として招集されました。本書には、1937年8月24日に招集の内命がもたらされてから、1938年9月末に負傷する前までの伊東中将の日誌が収められています。日誌そのものだけでは読んでも意味や意義が不明な点が多いと思われますが、本書の場合、日誌のその日の記載に添えて、三人の編者が詳細な注記をつけてくれているので、理解しやすくなっています。いくつか気付いた点を紹介します。
特設師団は、常設師団よりもかなり装備の質が劣り、兵も40歳ちかい人までが含まれていました。また、第百一師団は東京府とその周辺の県から兵が招集されていたので東京兵団とも呼ばれましたが、都会出身の兵士が多いことからも弱いと考えられていました。しかし、この弱力師団は編成後、内地で訓練を行うこともなく、日中戦争初期の激戦地である上海の呉淞クリーク戦に投入されました。以上のような悪条件から当然苦戦となり、この日誌にも神仏の加護を願う記述が何度もでてきます。師団長が神仏にすがるのはまずいような気もしますが、それだけ苦しかったのでしょう。
この戦いでは、死傷者、特に連隊長をはじめとして将校にも死傷者が多く、
幹部の死傷多きは、近接戦闘に於て、自ら先頭に立つに依る。然らざれば、兵之に従はざればなり。という事情があったからだそうです。現役兵とは違って、家庭や仕事や社会的地位のある予備役・後備役兵は、お国のためだからとはいっても自分が死ぬわけにはいかない、と感じていたわけですね。
この緒戦の苦戦によって、第百一師団は上海派遣軍から戦力としては信頼できない師団とみなされてしまいます。装備も兵の質も訓練も劣る師団を動員したわけですから弱くて当たり前で、弱いことの責任はなにも師団長が負うべきものでもないと感じます。しかし、師団長である伊東中将はこの評判を覆すことを望んでいました。ただ、弱いと思われたことで上海戦後は後方警備にあてられる期間も長く、かえって兵士にとっては幸いでした。また、師団長自身も、弱いという汚名を注ぐために無理をするという人ではなく、自身のメンツよりも兵士の死傷を少なくすることに気を配っていたことが日誌の記述から分かります。
わが部隊は、大部分が招集者で家族持ちである。なかには四十歳にちかい兵隊もある。だから、ひとりでも兵の損害は少なくしたい。いたずらに隊長が功名に走って部下を犠牲にするようなことはもっともつつしみこれは、師団長自身ではなく、第百一師団のもとにある第百四十九聯隊の連隊長が出征の式で述べた言葉だそうですが、日中戦争はじめの頃には、おおっぴらにこういう風に言える雰囲気があったわけですね。
上海の警備に当たっている時期には、いろいろな人の訪問があることに驚ろかされます。特に、内地から慰問という名目で来る人が多いのですが、芸能人による慰問だけではありません。貴族院議員や地方議員、会社の重役、僧侶などなどが酒類やお金を携えて、多数訪れています。慰問する人にとっては、上海という日本からの交通の便が良い安全な後方地帯に、慰問を兼ねた観光旅行に来ている感じなのでしょう。
また、皇族に関する記述も目立ちます。皇族は軍人として職務で上海を訪れる・通過するのですが、上海を警備する師団の長にとっては、空港や港に出迎えに行ったり会食したりするのも仕事のうちのようです。
1938年夏には武漢三鎮攻略戦に第百一師団も参加します。この時にもやはり苦戦する場面があります。本書によると、苦境を打開するために毒ガスを使用した場面が2回ありました。毒ガスの使用に関しては特に感想は付されていませんが、条約で使用の禁じられている平気だという認識はあまりなかったようです。
2009年9月19日土曜日
日宋貿易と「硫黄の道」
山内晋次著
山川出版社日本史リブレット75
2009年8月発行 本体800円
新安沖の沈没船からは28トンもの銅銭が発見されたのだとか。中世の日本が大量の銅銭を輸入するかわりに何を輸出していたのか、とても興味あるところです。教科書的には、金、水銀、扇、刀剣、硫黄などが挙げられ、ていますが、本書では特に硫黄を重要視しています。火薬の発明とともに硫黄の需要が増えましたが、宋の領域内では硫黄の産出がなかったので、十世紀末以降に日本からの輸出量が増えたのだそうです。特に、1084年には日本から300トンもの硫黄を輸入する計画が建てられて、実際に買い付けのための商船が宋から博多に派遣されたことが日本側に遺された史料からも確認できるのだそうです。本書によると、船のバラストとしても使われるほど多量に輸出されていた硫黄の主産地は俊寛の流された鬼界島(薩摩硫黄島)でした。
以上、とても勉強になりました。でも、いくつか疑問も残ります。例えば、金が主たる輸出品ではないという本書の主張。これまでは、日宋貿易の輸出品として金が重要視されていたのだそうです。しかし、著者によるとこの頃の日本の産金量はせいぜい年間数百キログラムと推定されるそうです。新安沖沈没船クラスの商船でも安定航行のためには数十トンのバラストが必要で、日本の年間産金量の数百キログラム分の金を一隻に積み込んだとしても、とてもバラストとしては足りない、なので金は主な輸出品ではなかったろうと著者は主張しています。でも、この議論はかなり変ですよね。支払いのために数百キログラムの金の積載で充分なら、金を積むほかにバラストとしては石ころでも積めば済むだはずです。金が主たる輸出品でない理由として、輸出できる金の量がバラストとして使用するには重さが不足しているからというのでは説得力がありません。
本書を読んでいて知りたくなったこと
- 日本の中国からの銅銭輸入量はどれくらいだったのか。年ごと、時期ごと、中世を通しての総輸入量はどのくらいと推定されているんでしょう。また、金や硫黄の輸出量はどれくらいだったのか。
- 中世各時期の金銅比価は日本と中国で各々どれくらいだったのか。江戸時代初期は金一両(慶長小判で金4.76匁 =17.85g)と銭四貫文(一文3.75gx4x960=14.4kg)からすると800:1くらいかな。これとはかなりずれていたのでしょうか。
- 硫黄島で輸出商人は硫黄の生産者から何を代価(米が主?)としてどのくらいのレートで硫黄を買い付けたのか。硫黄の生産値価格。
- 大量の硫黄を売ることにより、硫黄島は経済的に潤っていたのか。ゴムで繁栄したアマゾンのマナウスみたいな感じが少しでもあったのかどうか。
- 中国では主に銅銭と交換したのでしょうが、銅銭と硫黄の交換レートはどれくらいだったのか。硫黄の中国での価格。
2009年9月18日金曜日
1968 の感想の続き
本書の主題は『あの時代』の叛乱を日本現代史の中に位置づけなおし、その意味と教訓を探ることにある。『あの時代』の当事者の方々のなかに本書の描写に違和感をもたれる方がいたとしても、ささいな事実誤認(と当人が思うもの)など小さな次元で反発や批判をするより、本書の主題をふまえた議論をしてくださることを期待する。と著者は書いています。政治家を対象とした政治史とは違って本書の主題の対象となる「当事者」はきわめて多数であり、その中で確固とした目的とそれを達成するための手段とを意識して行動していた人は少なく、「あの時代」の流れの中で自分がどんな位置にいて何をしているのかがはっきり分かっていなかった当事者の方が多かったものと思われます。なので、本書の史実認識に多少の誤謬があったとしても、歴史叙述の大筋自体は「あの時代」を経験していない者が「あの時代」を知るために充分に役立つものだと感じます。また、私は各セクトの内実を知らないので、元・現セクト関係者が本書の記述を読んでどう感じるのかは分かりません。ただ、学生時代に民青の諸君(個人として面識のある人は良い人ばかりなのですが)にあんまり良い印象を持たなかった私にとって読みながらうなづいてしまう記述が多いところからは、(元民青同盟員や活動家でも後に日本共産党とは縁の切れた人はともあれ)おそらく元民青同盟員や活動家で現在も日本共産党に関係している人は本書の記述を面白く思わないだろうとは感じました。
その意味で筆者は、『連合赤軍事件の原因は何だったのかとか、無理に総括しようとしても、ろくな結論なんか出てきませんよ。何も出てこない』という青砥幹夫氏が2003年に述べた意見に賛成である。感傷的に過大な意味づけをしてこの事件を語る習慣は、日本の社会運動に『あつものに懲りてなますを吹く』ともいうべき疑心暗鬼をもたらし、社会運動発展の障害になってきた。しかし時代は、そこから抜け出す時期に来ているのである。昨日のエントリーで書いたように連合赤軍事件はショックでした。ただ、連合赤軍事件からリアルタイムで衝撃を受けたのはせいぜい私と同世代までのはずで、私よりも若い現在30歳台以下の人たちがこの事件にどういった感想をもっているのかと言う点はぜひ知りたいところです。新左翼運動が、検討にも価しないものになったのは確かだと思うのですが、本当に連合赤軍事件が日本の社会運動発展の直接的な障害になっているとまで言えるのかどうかはよく分かりません。1968の頃の人たちから私と同世代くらいまでが羮に懲りて社会・政治運動を避けたために不毛の時代が続いて、それより若い世代が社会・政治運動に興味を持っても、パイオニアとして以外には活動しにくくなってしまったということになるのでしょうか。
東大闘争の発端となった医学部闘争について。「医学部卒業生が高度成長前と異なり開業医になるのが困難になった」と書かれています。1968の頃で開業が困難になったなどということはないはずで、その後も21世紀に至るまで開業医はどんどん増えました。実際に開業が困難になりつつあるのは、医療界で「1970年パラダイム」が崩壊しつつある現在のことだと思うのです。また、名大小児科の教授選で東大出身者が敗れたことをもって、医学部教授に東大医学部卒業生がなりにくくなったとするような記述もあります。たしかに旧帝大の教授にはその大学の出身者がつくようになったのでしょうが、1970年代に新設医大がつぎつぎとできたおかげで、その教授になれた人はかえって増えたはずです(新設医大の教授では不満だったのかも知れませんが)。もちろん、この開業医・医学部教授に関しては、当時の東大医学部生の認識を著者が記述しているというだけで、著者のささいな事実誤認とは言えないでしょうが。
高度成長下で漠然と抱いていた「現代的不幸」を、表現できる言葉が日本では流通していなかった。そうした彼らが選んだ言葉が、マルクス主義だったといえる。そうなれば、「疎外」論を中心とした人間的な側面がマルクスのなかで好まれたのは当然だった。なぜ1968の頃の学生たちがマルクス主義の言葉で語っていたのか、とても不思議でした。彼らがマルクス主義による変革の実現を信じていたようには思えなかったので。でも、ほかに語る言葉を持たなかったということなら、納得できるような。むかし廣松渉さんの講義を聴いたことがありますが、疎外論・物象化論などが扱われていても興味を持てなかったことだけを覚えています。ただ、背景としてこういう初期マルクスの受容があったから、彼の研究が注目に価したものになっていたということが、今頃になって分かりました。
日本の学生叛乱と西側先進国の学生叛乱とを比較しても共通点が少ないという著者の主張でした。叛乱の同時性を説明するのに、著者は大学生数の急増を挙げていますが、これと背景にベトナム反戦運動があったことだけでいいのでしょうか。それより、西側先進国で大学生世代の人口の一時的な増加をもたらしたベビーブーマーの叛乱であったからこそ、同時性と大学生数の増加とを伴っていたとした方が納得できる気がします。
1968の感想
2009年9月17日木曜日
1968
小熊英二著 新曜社
2009年7月発行
本体 上巻6800円 下巻6800円
1968というタイトルですが、60年安保前後のセクトの分立から1972年のあさま山荘事件ころまでが描かれています。上下巻ともに1000ページ以上もある分厚い本で、本屋さんで初めて見かけた時には買うのをためらってしまったくらいです。でも実際に読み始めてみると、厚さのわりには読みやすく感じました。本書は雑誌や新聞、日記、回想、記録集などからの引用文を柱に構成されていて、それが読みやすさの一因かと感じました。発言や会話体の引用は感情移入を誘う作用もあり、例えば佐世保エンタープライズ寄港阻止闘争で機動隊に暴行されて負傷し、放水でぬれねずみにされながらもデモを続ける三派全学連の学生に対して、共感した一般市民が食事やカンパを提供するくだりは、涙なしでは読めませんでした。また、ふつうの専門書に比較して表面が粗で少し薄めの用紙がつかってあるので、この厚さの本でも寝転がって読むことがそれほど苦でない重さなのも本書の特色。そして、面白かったので、おすすめです。
上巻では、1950年代の日本共産党の状況から60年安保での全学連の分裂から始まり、東大闘争までをざっと以下のような流れで描かれています。
60年安保以降、学生運動の沈滞と新左翼がより小さなセクトに分裂してゆく傾向がみられました。しかし、1967年の羽田事件での学生一名の死亡は多くの学生に衝撃を与え、1968年1月の佐世保エンタープライズ寄港阻止闘争などは市民からの共感をも得ました。また1960年代後半には、学費値上げ反対や学園民主化など各大学固有の問題が闘われ、一般の学生の広範に参加をみるとともに、慶大・中大での闘争は勝利をおさめました。
各大学の自治会は民青やセクトが握っていて、支配下の学生自治会の自治会費などがセクトの資金源だったそうです。しかし当初は、各セクトが学園闘争を軽視していたこと、複数のセクトが割拠して各学部の自治会を握っている大学があったこと、また民青は実力をもっての闘争には反対の方針を持っていたたこと、さらに日大のように学生の公認組織自体が御用団体だった大学もあり、自治会ではなくノンセクトの学生による全学共闘会議が闘争の中心となるケースが出現しました。
全共闘中心タイプの中で、大学の民主化を求めて闘われた日大闘争は、対大学当局的には成功を勝ち取りましたが、佐藤首相の政治介入でご破算にされてしまい、その後は迷走することとなります。また、医学部のインターン制度問題から発した東大闘争も、全共闘を中心として多数の院生も参加した全学的なものに広がり、大学側に全共闘側当初の要求項目のほとんどを受け入れさせるまでに至りました。しかし、全共闘側は処分撤回や制度問題では満足せず、自己否定・大学解体を掲げて政治的には拙劣な戦術で闘争を続けましたが、やがては多くの学生の支持を失い、各セクトの思惑もあって占拠の続けられた安田講堂も落城することとなりました。
日大・東大闘争が勝利とはいえない終焉を迎えたにもかかわらず、1969年には全共闘を名乗ってバリケード封鎖を行うタイプの大学紛争が、生きている実感を持てない日本各地の多くの大学の学生の間で大流行しました。しかしこれらの多くも目立った成果を上げることはなく、また大学外での闘争も政府・警察に押さえ込まれてノンセクトの学生は運動から離れてゆき、セクト間の内ゲバが激化して死者が出るまでになりました。
下巻は、高校の闘争、べ平連(ことえりもATOK2007もは”べへいれん”を一発では変換してくれませんでした)、そして連合赤軍、ウーマン・リブを取り上げ、最後に結論が述べられています。べ平連までは気持ちよく読めたのですが、連合赤軍の章に目を通すのはやはり気が重い。本書の対象としている時期、私は幼稚園から小学生でした(本書の著者もほとんど私と同年輩ですね)。安田講堂の攻防はTVで観た記憶があるような気もしますがはっきりしません。しかし、3年後のあさま山荘事件の強行突入については学校を休んで(かぜで休んだのか、TVを観たいから仮病で病欠したのか記憶が定かではありませんが)、TVで観ました。大きな鉄球が浅間山荘を破壊してゆく様子にはびっくりしました。でも、それ以上に驚いたのは、彼らの元の仲間が「総括」されてたくさん殺されていたことが明らかにされてからです。総括という言葉は流行語にもなりましたし、このリンチ殺人から当時の大学生や大人たちが、小学生以上にショックを受けたことは間違いないでしょう。本書ではリンチ殺人に至った事情が詳しく触れられていて、読むのがとてもつらい感じでした。
下巻の最終章では「『あの時代』の叛乱とは何だったのか」が論じられています。
一言でいうなら、あの叛乱は、高度経済成長にたいする集団摩擦反応であったといえる
好況期ではあったけれど、一種の閉塞感が非常にあったからだと思いますね。つまりこれから俺たちどうなんの? 何になれるのか? 社会はどうなるんだ? といった閉塞感がかなり強くあった貧しい時代の日本で民主教育を受けて成長したベビーブーマーたちが大学生になった頃、高度成長による日本社会は激変していて、アイデンティティ・クライシスから自分探しのために叛乱を起こした。この彼らの心の問題を表現する言葉が当時は一般的に存在しなかったので、疎外論などマルクス主義のことばをつかって表現することになり、その結果この叛乱が政治的な運動であるかのように誤解されてしまった。また、彼らのもつ現代的な不幸は、戦争・飢餓・貧困といった古典的不幸とは違っていたので、親の世代にはなぜ学生たちが不満を持ち叛乱に走るのかが理解できなかった。ただ、学生たちは、日本社会はしっかりしているので自分たちの叛乱で動揺することはないことを自覚していて、学生の4年間が終わると卒業・就職していった。また、1968年にはアメリカ・フランス・西ドイツ・など他の西側先進国でも学生の叛乱がみられました。背景には大学生数の急増と地位の低下、ベトナム反戦運動が共通してありましたが、日本の叛乱とその他の国とでは違っているというのが著者の主張です。
また1968の成果として、
近代化し管理社会化した経済大国日本と、そこで豊かな経済的果実を享受する「日本人」(マジョリティ)が貧しいアジアとマイノリティを差別し搾取し、管理社会からはみ出した人びと(不登校児や障害者など)を抑圧しているという「1970年パラダイム」ができあがったことも著者の主張のひとつです。1968という本を21世紀の今書いたのは、1990年代以降の日本の経済停滞が「1970年パラダイム」を無効にしてしまったという問題意識があるからなのでしょう。
1968 の感想の続き
2009年9月13日日曜日
世界の駄っ作機4
岡部ださく著 大日本絵画
2009年6月発行
前回出版された蛇の目の花園から5年ぶりの第4巻です。駄っ作機というだけあって、全然有名でない、聞いたこともないような飛行機が扱われているのですが、独特のタッチの手書きのイラストとひねった紹介の文章で読ませてしまう著者のセンスに相変わらず感心してしまいます。
駄っ作機といっても、構想に問題があったもの、設計に問題があったもの、構想・設計はまともでも完成が遅すぎたものなど、駄作になった理由はいろいろ。ただ、どれも戦間期からジェット機の出現後しばらくまでのものがほとんどです。エンジンの出力に余裕ができて、空中給油が実用化される頃以前の飛行機が駄作になりやすかったのかなあなどと考えていたら、本書の最後には連載100回(もともと雑誌に連載されていたものをまとめた本なんですね)ということで、「ダメ飛行機の諸相」という著者なりの駄作機についての考察と分類(珍・怪・愚・凡)が載せられていました。
2009年9月4日金曜日
司馬遼太郎の歴史観
中塚明著 高文研
2009年8月発行
以前にも書いたことがありますが、本をもらうのって非常にありがた迷惑です。贈る方は善意でしてくれているのでしょうが、自著でもないかぎり本は贈るべきではないと思うのです。で、この本も贈られたものです。ふつうはお断りするのですが、断りにくいある事情があったのと、またふつうだったら決して手にしないであろうこの種の本にどんなことが書いてあるのかチェックすることができるかと思って、受けとることにしました。
一読してみて、とんでも本の一種だなと感じました。なにがとんでもかと言うと、まずはタイトルがとんでもです。司馬遼太郎という有名作家にかこつけて売り上げを伸ばそうとする下心ありあり。奥付にある紹介を見ると、本書の著者は日本近代史専攻の学者です。学者が他の学者の論文や言動に対して「その『朝鮮観』と『明治栄光論』を問う」ことは当たり前のことでしょうが、小説家の書いた小説や紀行文や新聞談話などを対象にいちゃもんつけるってのは変です。
しかも本書で著者は、重箱の隅をつつくように難癖を付けている印象。例えば46ページには朝日新聞に載った司馬の談話の一部、「李朝五百年というのは、儒教文明の密度がじつに高かった。しかし、一方で貨幣経済(商品経済)をおさえ、ゼロといってよかった。高度の知的文明を持った国で、貨幣を持たなかったという国は世界史に類がないのではないでしょうか。」をとりあげて、李朝期の朝鮮でも常平通宝が鋳造されていると批判しています。でも、これって修辞の問題のような。開国を強要される以前の前近代における日本と朝鮮の貨幣経済の浸透の程度の違いは歴然としているわけで、小説家が一般の人を相手にこういう表現を使ってもおかしくないでしょう。しかも、そもそも語ったとおりに掲載されるとは限らない、新聞記者が大きく改編することが当たり前の新聞談話を対象にして批判するのはフェアじゃないです。
また、坂の上の雲が描く、朝鮮無能力論、帝国主義時代の宿命論、明治は輝いていた、日露戦争=祖国防衛戦争などなどの見方や、日露戦争後に日本陸軍は変質したという司馬の考え方などを著者は批判しています。明治は輝いていた論は別にして、歴史学的な考え方としては多くの点で著者の主張の方が正しいという点では、私にも異論はありません。しかし、朝鮮無能力論、帝国主義時代の宿命論、日露戦争=祖国防衛戦争論などは司馬さんの創作ではなく、明治の日本の施政者が常に被植民地化の可能性を念頭においていた点など、当時において当たり前だった考え方です。小説家が小説を書く際に、背景となる時代に主流だった考え方を紹介し、それにのっとって話をすすめていくのは当然のことです。ことに、読者がその種の考え方を喜ぶのですから、プロの作家としては、それに応えるのが正しい作法であり、歴史家があれこれ口出しすべきことでもないでしょう。
また、明治は輝いていた論について、著者は日露戦争以後日本陸軍は変質したなどの司馬さんの主張に対して、反証を提出して批判しています。でも、同じ明治憲法体制が続いている明治と昭和の政府のやり口に似た点があったとしても、明治から昭和の敗戦まで何の変化もなかったとは言えないはず。著者の論法で行くと、敗戦前の政治史の研究なんてものは意味がなくなってしまいますね。それどころか、著者は敗戦前後の違いを強調していますが、同じ論法を使って、敗戦前後に違いはないと主張することだって可能になってしまいます。著者は歴史家にふさわしくない批判をしているとしか思えません。
すでに司馬さんは遠い昔に亡くなっているし、いったい著者は何を目的に司馬さんの小説に文句を付けるのでしょうか。情報リテラシーの低い一般的な日本人読者が司馬さんの小説を読んで、それをあたかもまっとうな歴史書であるかのごとくに思いこんでしまうことが心配だということでしょうか。もしそうだとしても、本書ではその種の誤解を解消するのは全くもって無理だと思います。司馬さんの小説を面白いと感じて読む人が、本書のようなとんでもなタイトルと、難癖付けるような内容の批判、ページと本文の文字の大きさと行間とのバランスがとれていない美しくないデザインの本を共感をもって読んでくれるとは思えないからです。ほんとにその種の誤解をただしたいのであれば、こんなとんでも本ではなく、司馬遼太郎の坂の上の雲よりもっともっと面白い、しかも著者の伝えたい正しい明治・朝鮮像を描いたエンターテインメントを創作するしかないだろうと思います。
2009年9月3日木曜日
薩摩藩士朝鮮漂流日記
池内敏著 講談社選書メチエ447
2009年8月発行 本体1500円
沖永良部島に代官として赴任していた薩摩藩士が帰任のために乗った船が遭難して、朝鮮半島西岸の忠清道庇仁県に漂着する事件が1819年にありました。この事件で特徴的なのは漂着民の中に武士が三名含まれていることで、ふつうの漂着事件では漁船や商船の乗組員ばかりで武士が乗っていることはありません。また、この事件に関しては、朝鮮側の記録、還送にあたった対馬藩の記録とあわせて、武士のうちの一人の安田喜藤太義方さんが絵入りの詳細な朝鮮漂流日記という記録を残していました。本書はそれによっています。以下、興味深く思われた点をいくつか。
漂流してようやく陸地に流れ着いたわけですが、小舟で近寄ってくる人たちが白服を来ているのを見て朝鮮半島だということが分かり、船内では歓声が上がったそうです。本書には「漂流朝鮮人たちは漂着地が日本だと分かると無事に本国に帰国できることを確信した」という記載もあり、航海を仕事とする人たちにとっては、漂流民の還送制度は常識的になっていたようです。また、ある対馬藩の役人は「朝鮮と御和交を結んでから今に至るまで御誠信の験が顕著に見えるのは、漂流民を丁寧に取り扱い。速やかに送り返してきたからであって、こうしたことを百年つつがなく繰り返してきたことによっているのだ」と認識していたそうで、明治以前には善隣友好関係があった証ですね。
日記の作者の安田さんは、壬辰戦争の際に朝鮮半島から薩摩に連れてこられた陶工たちが朝鮮の習俗を守って暮らしている姿を見たことがあるので、白い服を着ている人たちの姿から即座に朝鮮人と分かったのだそうです。また、漂着した船には沖永良部島の出身者も乗り組んでいました。彼らは「琉人」と呼ばれていますが、朝鮮側による事情聴取に際しては、名前や髪型を日本風に変えて対応されています。
安田さんは漂着した忠清道庇仁県や、また倭館まで送られる途中の土地の地方官吏たちと漢文でコミュニケーションをはかり、詩文の交換をしたりしています。口絵にはこの日記の絵が載せられていますが、安田さんは絵がかなり上手で、また漢詩を作ったり他人の漢詩を評価する能力を持っている人でもあり、出会った地方官吏たちと共通の文化的教養を持つもの同士の交流をしています。おそらく安田さんは江戸時代の武士の平均以上の教養を持っていた人なのでしょう。また、江戸時代の日朝関係は「お互いを目下に見る関係」とも書かれていますが、こういった人と人の交流の場がなかったこともその一因なのでしょう(通信使と日本人とのやりとりは国を背負った者同士の関係になってしまうので、安田さんのした交流とは違う感じ)。
日本人が朝鮮半島に漂着した事件は、1618年から1872年に至る約250年間に92件1235人。同じ時期における朝鮮人の日本漂着が971件9770人と、日本人の漂着は朝鮮人のそれに比較して、件数で十分の一、人数で八分の一。また日本人の漂流の時期は五月から八月の夏期に多いと本書に記載されています。経済の発展度からいって沿岸を航海する日本の漁船や商船が朝鮮よりもずっと少ないとは考えがたいところ。きっと冬の北西季節風の方が船の漂流事件を起こしやすいので、朝鮮人が日本に漂着する件数が多くなっているのではと思うのですが、どうでしょうか。
2009年8月30日日曜日
最高裁裁判官の国民審査
今日は衆議院議員の選挙と一緒に、最高裁の裁判官国民審査がありました。この制度って何も書かない人は信任したことになるのが現状ですが、何も書かないと棄権・○は信任・×は不信任とすればもっと白熱するだろうとも思うのですが、まあ無理でしょうね。
で、今日はぜんぶで9名の名前がリストにありました。最高裁の裁判官定数が15名ですから、かなり多い感じ。みんな過去4年間に任命された人のようです。これも、政権交代が当たり前になると、アメリカの最高裁判事のようにリベラル派・保守派といった政治的傾向が問題にされる時代が日本にもくるのでしょうか?今のところ、日本の2つの大政党である自由民主党と民主党は、政治的な姿勢の違いが全然はっきりしませんから、すぐにはそうはならないと思われます。
日本の、特に自由民主党に所属する政治家は、政治的心情などお構いなしで、とにかく政権党にいたいというだけの人が多かったのだと思います。だから、総理大臣になっても一年もしないうちに平気で辞めちゃうし、しかもそれを恥じる気持ちもなく今回もまた立候補できるわけですよね。でも、政党というのは本来なら政治的な思想・心情を同じくする人同士が集まるものだと思うのです。ですから、政治家には、与党であれ野党であれ、自分の考えるところを実現するために政党に所属して欲しいし、できれば主な先進国の政党のように、機会の均等を重視するか分配の公平さを重視するかという観点で、別々の政党に分かれてもらった方がすっきりしていいのですが。
で、今日はぜんぶで9名の名前がリストにありました。最高裁の裁判官定数が15名ですから、かなり多い感じ。みんな過去4年間に任命された人のようです。これも、政権交代が当たり前になると、アメリカの最高裁判事のようにリベラル派・保守派といった政治的傾向が問題にされる時代が日本にもくるのでしょうか?今のところ、日本の2つの大政党である自由民主党と民主党は、政治的な姿勢の違いが全然はっきりしませんから、すぐにはそうはならないと思われます。
日本の、特に自由民主党に所属する政治家は、政治的心情などお構いなしで、とにかく政権党にいたいというだけの人が多かったのだと思います。だから、総理大臣になっても一年もしないうちに平気で辞めちゃうし、しかもそれを恥じる気持ちもなく今回もまた立候補できるわけですよね。でも、政党というのは本来なら政治的な思想・心情を同じくする人同士が集まるものだと思うのです。ですから、政治家には、与党であれ野党であれ、自分の考えるところを実現するために政党に所属して欲しいし、できれば主な先進国の政党のように、機会の均等を重視するか分配の公平さを重視するかという観点で、別々の政党に分かれてもらった方がすっきりしていいのですが。
日本の深層文化
森浩一著 ちくま新書791
2009年7月発行 本体820円
著者が80年間に見聞き読んだ別々の分野の多くのものごとが、著者の頭の中で結びつけられて紹介されている感じ。粟・禾、野、鹿、猪、くじらなどのテーマで書かれていますが、例えば福岡の志賀島が鹿の島じゃないかとか、鹿の扮装をして服従する儀礼があったのでは、などなど。国際情勢の悪化から天武天皇が信濃に遷都する計画を持ち、天武の死後に妻の持統天皇がその計画に沿って三河に行幸したことが書かれていましたが、これって初めて知りました。
本書の中には著者が腎不全で遠出できないと書かれていますが、人工透析を受けていらっしゃるのでしょうか。私のような素人にも読める興味深い本をたくさん書いてくれている著者なので、お元気でいて欲しいものです。
明治・大正・昭和政界秘史
若槻禮次郎著 講談社学術文庫619
1983年10月発行 本体1450円
戦前期の政治家・経済人などには養子に入った人が多い印象がありますが、彼もその一人でした。また、若い頃は苦学したそうです。大蔵省に入って手腕をみとめられ、次官を退官後に桂太郎の縁で立憲同志会の立ち上げに加わり、その後は政党政治家として歩みます。彼は男爵だったので貴族院議員ではありましたが。彼は加藤高明死去後に憲政会総裁・首相となりますが金のできない総裁だったそうです。そして、その後は重臣として遇されました。慶応生まれの若槻さんですが、これらのことがとても平易で読みやすい文章で綴られています。
明治・大正・昭和政界秘史などという下品なタイトルが付けられて文庫で復刻されましたが、秘史と言うよりも元の古風庵回顧録で出した方が本書にふさわしい感じの内容です。また、企画されたのが第二次大戦の敗戦後で、原著の発行は1950年でした。彼がすでに80歳台になってからのことですから、記憶の定かでない点もあるようです。また、読者としてはとても気になることでも、彼が特に触れる必要のないと感じたか、または触れたくなかったことは、当たり前ですが記載されていません。私がその点で残念に感じたのは以下のようなこと。
第一次若槻内閣の与党憲政会は少数与党でした。憲政会内では衆議院を解散して総選挙を行い、それにより多数を確保しようとする動きがあったのに、若槻首相は予算成立のために、昭和天皇即位の初年ということを理由として、政友会・政友本党の野党2党首に協力を依頼しました。そして、予算成立の後には「政府においても深甚なる考慮をなすべし」と約束したのです。ここまでは本書にも書かれています。ただ、「深甚なる考慮」が総辞職と野党に受け取られ、それなのに総辞職しなかった若槻首相が嘘つき禮次郎と呼ばれるようになったことや党内からの批判など、またそれらに対する釈明が全くないのは残念です。
第一次若槻内閣は台湾銀行救済の緊急勅令を枢密院で否決されたことにより総辞職しました。ロンドン条約批准の時のように枢密院と対決することはできなかったものなのでしょうか。少数与党だから無理だったのか、だとしたら解散総選挙を選択しなかった彼の判断ミスとも言えます。本書では、この時の枢密院での伊東巳代治の発言を「老顧問官」と一見名を伏せるようにして紹介し、非難しています。著者は「じっと腹の虫を抑えて黙っていた」とありますが、よほど悔しかったのでしょう。
第二次若槻内閣では満州事変が起きます。政府の不拡大方針にも関わらず、朝鮮軍は奉勅命令なしで越境しちゃうし、満州軍もちっとも戦闘を停止しませんでした。本書では、民政党一党の内閣だから軍が命令を聞かないのではと考えて、一時は政友会と連合内閣を組むことも考えたと書かれています。まもなく彼はこの考えを捨てますが、この方針で進もうとする安達内相を止めることができず、閣内不一致から総辞職しました。総辞職して内相だけすげ替えることはむりだったのでしょうね。
また、浜口内閣から第二次若槻内閣にかけては不景気の時代でしたが、その主な原因としては民政党内閣の実施した金解禁があげられます。昭和のこの時期の不況と農村の荒廃が、軍部の台頭、第二次大戦につながった面があると思うだけに、民政党のトップだった著者が金解禁をどう感じていたかに関する記載がないのはとても残念です。
2009年8月29日土曜日
ヨーロッパに架ける橋
T・ガートン・アッシュ著 みすず書房
2009年7月発行
税込み 上巻5880円 下巻5670円
西ドイツ(BDR)のOstpolitikに関する本です。日本語では東方外交と呼ぶことの方が多いと思いますが、本書では東方政策と訳されています。また、東方政策はドイツ社会民主党(SPD)のブラント・シュミット首相時代の外交を指すものですが、本書ではベルリンの壁の構築から崩壊までを対象として、キリスト教民主同盟(CDU)のアデナウアーの時代から、コール首相時代のドイツ統一までが扱われています。
第二次大戦敗戦後に間接統治の行われた日本とは違い、ドイツでは軍政がしかれました。このため、西ドイツは地方自治の段階から始めて、国家主権の回復を目指すことが必要でした。この西ドイツの対外的自立に向けたプロセスにおいて画期となったのが、1950年代前半に西欧諸国との間に結ばれた条約(西方条約)で、これにより主権の回復が実現しました。また、1955年にはソ連との国交も回復しましたが、その後「ソ連以外で東独(DDR)を承認した国家とは国交を断絶する」というハルシュタイン原則が打ち出され、またポーランド西側国境(オーデル・ナイセ線)の承認も拒否していたので、東側との関係の進展は望めませんでした。したがって、主権は回復されても、分断されたヨーロッパのもとでのドイツ・ベルリンの分断状態は続きました。
1969年のブラント政権誕生後、 デタントの流れに棹さしてこの分断状況を克服する・究極的には統一を目指すためにとられたのが東方政策です。この頃は私も物心ついていたので、ワルシャワのゲットー記念碑を訪れ跪いて献花したブラントの姿のかすかな記憶があります。ブラント政権はハルシュタイン原則を放棄し、1970年のソ連とのモスクワ条約・ポーランドとのワルシャワ条約、1972年の両独基本条約を結び、東方外交を展開してゆきます。オーデル・ナイセ線の承認とそれによる旧プロイセン領などの放棄は当初CDUの反対を受けましたが、ブラントは「とうの昔に賭けに負けて失われたものを除き、この条約によって失われるものは何ひとつない」と指摘し、CDUも後になってこれを容認することとなりました。
ただ「ドイツの分割を心から遺憾に思うヨーロッパの政府はひとつもなかったといっても過言ではなかった」という状況下で統一に向けた政策を実行するために、西ドイツはドイツの分断を克服しないかぎり欧州分断も克服できないという論理を打ち出しました。また、東ヨーロッパでは1953年のベルリン暴動、1956年のハンガリー事件など、下からの改革の要求が圧殺されてきた歴史があったので、SPDは東方政策で「安定化を通じた自由化」戦略をとります。つまり、東欧の政府がより安定化して危機を自覚しなくなってゆけば、自然と自国民の自由・人権を尊重するようになるだろうというねらいです。さらに、東欧の政府がソ連の指示のもとにあることから、西ドイツはまずソ連との間で話を付け、ソ連から東欧の政府に西ドイツの要望を認めるよう指示してもらうような手法を多用しました。
「アメリカ人はムチの力を、ドイツ人はニンジンの力を、フランス人はことばの力を信じている」と言った人がいるそうですが、西ドイツの東方外交での最大の武器は経済力でした。ソ連を含めた東欧諸国の西側での最大の貿易相手国は西ドイツであり、 貿易を通じた変化が追及されました。また、1970年代からソ連・東欧諸国の経済成長は鈍化しましたが、 西ドイツから政府保障付きの借款が供与されるなど資金面でも東欧諸国は依存してゆきました。本来であれば西ドイツから導入した資金を経済成長目的で使用すべきところでしたが、政治改革を行う代わりに国民の不満を抑えるための消費物資の輸入にあてるなどしたため、1980年代末には東欧の債務危機につながりました。
「安定化を通じた自由化」戦略をとったため、ポーランドの連帯などの下からの民主化を支援する点では西ドイツは西側の国の中でも遅れをとりました。しかし、1989年にハンガリーが国内にいた東独国民をオーストリア国境から西側へ亡命させる決断をした背景には、債務危機に対する西ドイツからの金融支援の約束があったからだそうです。そして、この事件以降、ベルリンの壁崩壊からドイツ統一までスムーズに進んだことも、当時のソ連が経済的苦境にあり、ゴルバチョフが西ドイツからの支援を期待していたことが背景にありました。東側の安定化を目指した西ドイツの政策でしたが、最終的には東側の体制転換に役だったと言えそうです。
あと、本書を読んでいて著者の書きっぷりが面白いと感じた点をいくつか。分割されたヨーロッパというのは、過去にも例があったというのです。例えば「ウエストファリア」型の分断、「ウィーン」型の分断、「ベルサイユ」型の分断など。ただ、冷戦の時期が特異だったのは人の交流が非常に制限されていたことだと。
西側と東側が資本主義と社会主義に分かれていたことに関しては、アウグスブルグの和議を持ち出して、「領主の信仰が領民の信仰を決定する」のだと。たしかにそう言われれば、似ているような。
ブラントはベルリン封鎖時にベルリン市長でした。その経験からブラントは交渉で不利な立場に立たされているという痛切な自覚を持っていて、「ベルリンで生まれた新東方政策の本質は、テロリスト国家から人質を釈放するための交渉だったといってもあながち過剰な誇張ではない」と著者は評しています。さらに、東方政策全体についてもストックホルム症候群とまで呼んでいます。まあ、ドイツ統一という目標は東西の隣人たちの同意を得ることによってのみ達成されると言うことを西ドイツ政府は自覚していたので、自然とそれを反映した政策がとられたということなのでしょう。竹島や北方領土は日本の固有の領土と言いながら、対韓・対ソ・対露関係でそれを可能とするような現実的な政策をとらない、却って教科書や靖国参拝問題など反感を買うようなことばかりをしているない日本政府とは対照的です。
東欧への資金援助が、東改革の代用品としての消費財の輸入に用いられた点では、東欧の中でも東ドイツが一番です。東ドイツが政治犯や「共和国逃亡罪」を侵した人を西ドイツに出国させることの代価として西ドイツマルクを受け取る、「自由の買い取り」という仕組みがありました。反体制派の輸出によってハードカレンシーが得られるこんな仕組みは他の東欧諸国には望むべくもなかったと著者は書いています。こういった人身売買やその他の制度から得た西ドイツマルクをつかって東ドイツでも消費財の輸入が行われ、ホーネッカー議長が社会主義国で行列を作らずにバターやソーセージを買えるのは自国だけだと自慢したのだそうです。彼自身は対外債務についての関心も持っていなかったそうで、そんな油断が東ドイツの命とりになったのですね。
ざっと、こんな感じで東方政策に関して学ぶ点が多く面白い本で、また翻訳も読みやすいと感じました。上下巻あわせた本文が500ページ以上、本文より小さな文字で詳細に記された注が170ページ以上にも及ぶ本書ですが、欠点は上下巻あわせて税込み11550円と値段が高い点でしょうか。どうも、みすずの本は高い気がします。
2009年8月22日土曜日
旧外交の形成
千葉功著 勁草書房
2008年4月発行 本体5700円
ロシア革命後に無賠償・無併合を訴えたレーニンと、第一次大戦講和にあたって平和のための十四ヵ条を提案したウィルソンに端を発する「新外交」に対比される概念が「旧外交」です。旧外交の特徴として、君主による外交の独占、秘密外交、二国間同盟・協商の積み重ねによる安全保障、パワーポリティクス外交があげられます。旧外交とは言っても、第一次大戦前の日本にとって、この旧外交は決して旧なものではありませんでした。ウイーン体制後に成熟を迎えるヨーロッパの旧外交(古典外交)とは異なり、19世紀半ばに西欧主体の国際社会に編入された日本は、全く無の状態から旧外交を学び習熟する、つまり旧外交を形成していかなければなりませんでした。具体的には、 同盟・協商関係を全く持たなかった状態から、日英同盟、日露戦争後の日露協商、日仏協商と積み重ねていき、ようやく第一次大戦末期にいたって日本は旧外交に習熟することができたわけです。本書はその過程を描いてます。ただ、その第一次大戦と国際連盟の発足によって、結局これらの同盟・協商は意味を持たないものとなってしまいました。
また、著者は「旧外交の形成」の過程で外務省の一体化と外交の一元化が実現したと評価しています、
「大戦末期から大戦後にかけて、外務省は枢密院を除く他機関(帝国議会・元老・陸軍)からの外交政策への介入を一応排除することに成功した。また、外務省の内部では大戦末期には外交官試験制度が外務省の頂点まで行き渡ったこともあって、外務省高等官ー外交官ー領事官の一体感が醸成されていた。この二つの事態が重層的かつ密接不可分に進展した結果、外交は外務省が処理するという政策決定の型が、第一次大戦末期に完成した。」
本書については学ぶ点ばかりで、内容を評する能力はありませんが、感じたことをいくつか。たった8年しか続かなかった憲政の常道を政党内閣制の確立と呼んだりしますから、昭和に入っての陸軍の外交への介入は別として、第一次大戦末期には外交は外務省が処理するという政策決定の型ができたと評価することもいちおう可能なのでしょうね。
日露戦争前には清国の領土保全と満州からの撤兵をロシアに要求し日英同盟を結んだのに、日露戦争後には南満でロシアに替わる地位を占めてしまったことが、その後の日本の悲劇につながったと思います。歴史にたら・ればはないのですが、日露戦後に韓国の確保だけで満足し、南満は鉄道の経営だけにとどめるという選択がなぜできなかったのか。某仮想戦記小説ではありませんが、いっそ満州での陸戦ではロシアに大敗した方が良かったのではとも感じてしまいます。陸軍が外交に容喙できる理由は、やはり多数の犠牲を払って満州での戦闘に勝ったことなのですよね。
第二次大戦後の介入的ではあるが市場を開放してくれたアメリカとは違って、新外交を提唱してはいても第一次大戦後のアメリカは、本書で取りあげられている移民問題や、国際連盟に加入しなかったことなどなど、自己中心的な印象です。日本が相当行儀良くしても、第一次大戦後の外交は難しかったはずだし、日本国内の不満がその後の陸軍の外交への介入につながるのも、ある点ではやむを得なかったのかもと感じます。
2009年8月18日火曜日
今日公示の衆院選に政権交代を期待
昨日、投票所入場整理券というのがポストに届いていました。公示は今日だということですが、ポスター掲示板と同じく、入場整理券も事前に準備しておくものなのですね。
で、来る衆議院選挙。マスコミは政権選択選挙と報道しています。マスコミの誘導に乗る訳では全然ありませんが、私も今回の衆議院選挙では政権交代に期待しています。現在日本社会の閉塞感は政治の貧困に負うところが少なくなく、その貧困の一因は本格的な政権交代が半世紀以上にわたって行われなかったことにあると私は考えます。1990年代の細川政権・羽田政権があったではないかとおっしゃる方もいるかもしれませんが、あの時の衆議院第一党は自由民主党であり、本格的な政権交代だったとは言えないと思います。なので、今回こそは、衆議院第一党の交代による政権交代をぜひ期待しているのです。
もちろん、政権交代が実現したからと言って、問題の多くがすぐに解決するだろうなどとは思いません。政権交代が常識化している他の議会制民主主義国でも、政治に関する問題は多々ある訳ですから。ただ、日本でも政権交代が自然に行われるようになれば、万年与党と官僚の間の癒着など、ある種の問題は改善していくはずです。
ただ、「責任力」などという見慣れない言葉を持ち出して、安倍・福田両首相の政権投げ出しの無責任さを知る国民に対して、どの面下げて訴えるつもりなのかという印象の自由民主党と比較してみても、民主党の政策の方がずっとましなものかどうかについて疑問がない訳ではありません。例えば医療に関して民主党のマニフェストを見てみると、
ただ、考えてみると今回の選挙に政権交代を切実に希望しなければならないこと自体がとても不幸なことではあります。なにしろ西松建設事件がなければ、あの小沢一郎氏を首相にすることを望まなければいけなかったかもしれないくらいなのですから。で、この半世紀も本格的な政権交代がなく、旧植民地である韓国や台湾にも先を越されてしまったという日本の現在の不幸が何に由来しているかというと、1960年代(70年代ではもう手遅れ)に政権交代の条件が満たされなかったこと、例えば江田ビジョンの抹殺にあるのではと私は考えています。なので、1960年代、左バネによって直接・間接に政権交代の芽を摘み取り、自由民主党政権半世紀存続の基礎を築いた社会党・共産党の末裔の人たちには今回の政権交代の邪魔をしてほしくはないと感じます。また、第二次大戦後の日本の政治史の研究を志す若手の研究者がこれからぞくぞく出現すると思いますが、左バネの人たちが生きているうちに彼らのオーラルヒストリーも交えてこのテーマについての面白い作品を書いてくれることを期待します。
で、来る衆議院選挙。マスコミは政権選択選挙と報道しています。マスコミの誘導に乗る訳では全然ありませんが、私も今回の衆議院選挙では政権交代に期待しています。現在日本社会の閉塞感は政治の貧困に負うところが少なくなく、その貧困の一因は本格的な政権交代が半世紀以上にわたって行われなかったことにあると私は考えます。1990年代の細川政権・羽田政権があったではないかとおっしゃる方もいるかもしれませんが、あの時の衆議院第一党は自由民主党であり、本格的な政権交代だったとは言えないと思います。なので、今回こそは、衆議院第一党の交代による政権交代をぜひ期待しているのです。
もちろん、政権交代が実現したからと言って、問題の多くがすぐに解決するだろうなどとは思いません。政権交代が常識化している他の議会制民主主義国でも、政治に関する問題は多々ある訳ですから。ただ、日本でも政権交代が自然に行われるようになれば、万年与党と官僚の間の癒着など、ある種の問題は改善していくはずです。
ただ、「責任力」などという見慣れない言葉を持ち出して、安倍・福田両首相の政権投げ出しの無責任さを知る国民に対して、どの面下げて訴えるつもりなのかという印象の自由民主党と比較してみても、民主党の政策の方がずっとましなものかどうかについて疑問がない訳ではありません。例えば医療に関して民主党のマニフェストを見てみると、
医療崩壊を食い止め、国民に質の高い医療サービスを提供するといった政策が掲げられています。医療崩壊と呼ばれるような事態の解決に向けては医師の養成数を増やす対策があげられていますが、これだけでは全く不十分です。産科・小児科をはじめとした救急医療の荒廃は、病院勤務医の労働条件の過酷さ(当直を挟んで二日連続の勤務が当たり前・処理すべき書類の増加など)と理不尽な医療訴訟(刑事・民事)が主因です。病院の医療にもっともっとお金をかけて、病院勤務医の数を増やし労働条件を真っ当なものとすることがまず必要です。また、医療訴訟については民事裁判を政府がどうこうすることは困難でしょうが、大野病院事件・杏林大割り箸事件などのような不当な刑事訴訟をなくすことが望まれます。大学医学部の定員を増やすだけでは、医師が病院勤務を敬遠する傾向を変えることはできるはずがないし、いま私立大歯学部でみられているような入学者の定員割れが、やがては私立大医学部でもみられるようになるだけなのではないかと思います。民主党にも医師の議員が何人もいるはずなのに、「救急、産科、小児、外科等の医療提供体制を再建するため、地域医療計画を抜本的に見直し、支援を行う」とあるだけで、踏み込んだ具体策が書かれていないことには全く失望です。私は医療以外の分野に関しては充分には分かりませんが、おそらく問題点がない訳ではないでしょう。ただ、こういった懸念があるのは確かですが、それでも日本が政権交代がふつうに行われる国になることの方を重視して、民主党による政権奪取を望みます。
【政策目的】
○医療従事者等を増員し、質を高めることで、国民に質の高い医療サービスを安定的に提供する。
○特に救急、産科、小児、外科等の医療提供体制を再建し、国民の不安を軽減 する。
【具体策】
○自公政権が続けてきた社会保障費2200 億円の削減方針は撤回する。医師・看護師・その他の医療従事者の増員に努める医療機関の診療報酬(入院)を増額する。
○OECD平均の人口当たり医師数を目指し、医師養成数を1.5倍にする。
○国立大学付属病院などを再建するため、病院運営交付金を従来水準へ回復する。
○救急、産科、小児、外科等の医療提供体制を再建するため、地域医療計画を抜本的に見直し、支援を行う。
○妊婦、患者、医療者がともに安心して出産、治療に臨めるように、無過失補償制度を全分野に広げ、公的制度として設立する。
ただ、考えてみると今回の選挙に政権交代を切実に希望しなければならないこと自体がとても不幸なことではあります。なにしろ西松建設事件がなければ、あの小沢一郎氏を首相にすることを望まなければいけなかったかもしれないくらいなのですから。で、この半世紀も本格的な政権交代がなく、旧植民地である韓国や台湾にも先を越されてしまったという日本の現在の不幸が何に由来しているかというと、1960年代(70年代ではもう手遅れ)に政権交代の条件が満たされなかったこと、例えば江田ビジョンの抹殺にあるのではと私は考えています。なので、1960年代、左バネによって直接・間接に政権交代の芽を摘み取り、自由民主党政権半世紀存続の基礎を築いた社会党・共産党の末裔の人たちには今回の政権交代の邪魔をしてほしくはないと感じます。また、第二次大戦後の日本の政治史の研究を志す若手の研究者がこれからぞくぞく出現すると思いますが、左バネの人たちが生きているうちに彼らのオーラルヒストリーも交えてこのテーマについての面白い作品を書いてくれることを期待します。
2009年8月12日水曜日
ヨムキプール戦争全史
アブラハム・ラビノビッチ著 並木書房
2008年12月発行 本体4800円
日本では1973年のヨムキプール戦争を第四次中東戦争と呼ぶことが多く、またこの戦争そのものよりも、それに付随して起こされた石油戦略の発動の方が大きな影響を及ぼしました。そのため、私にはこの戦争の戦闘経過についての記憶は残っていませんが、石油危機によるトイレットペーパー不足などの騒ぎは覚えています。ただ、本書を読むとこのヨムキプール戦争の経過はとても興味深いものです。
大筋は以下の通りです。1967年の六日間戦争で大敗を喫したエジプトとシリアは、失地回復を狙ってソ連との結びつきを強め武器を入手しました。特に、歩兵用対戦車ミサイル(RPGやサガー)と地対空ミサイル(SA6)は、後に緒戦で威力を発揮することになります。一方、イスラエルは六日間戦争の戦訓から、戦車を重視するドクトリンをとるとともに、アラブの軍事力に対して兵数は多くとも能力・士気が決定的に劣ると評価していました。また、自らの情報機関の能力にも自信を持っていて、アラブ側に開戦の兆しが見えてから予備役を動員しても充分に間に合うと考えていたため、対シリアの北部戦線(ゴラン高原)、対エジプトの南部戦線(スエズ運河)とも、少数の部隊しか配備していませんでした。しかし、軍事的に劣るアラブ側が攻撃して来るはずがないという思い込みによって判断を誤った情報機関・軍・政府によって、ユダヤ教の最も重要な休日であるヨムキプール(贖罪の日)に奇襲攻撃されてしまいます。当初、イスラエル側は敵のいかなる領土進出も拒否する方針で臨んでいたため、どのような進出も阻止する必要から手持ち戦力を薄くばらまくこととなり、シナイ半島でもゴラン高原でも戦力の集中という機甲の原則が無視され、各個撃破につながりました。しかも、アラブ側の地対空ミサイルにより航空機による対地攻撃の効果的な実施が困難となり、エジプトの歩兵の対戦車ミサイルによって、歩兵を随伴せずに行動したイスラエルの戦車が多数撃破され、ゴラン高原の南半とシナイ半島の東岸を占領されてしまいました。ピンチに陥ったここから、イスラエルの反撃がまずゴラン高原で始まります。
シリア軍は、少しもひるまず大胆に作戦計画を推進したが、次第にその欠点を露呈するようになった。訓練、戦術、指揮のいずれにも問題があった。群をなして押し寄せても、イスラエルの戦車に次々と仕留められていくのである。イスラエルの戦車は射撃速度が速く、遠距離から撃って、しかも命中率が高かった。イスラエルの政治および軍首脳の判断ミスで、第一線部隊はアラブの奇襲攻撃にさらされた。第一線の将兵はプロ中のプロで、戦術、射撃にすぐれ、冷静に行動した。その資質が、政治および軍首脳の誤りを補償していたのであるが、もちろん十分に補償できるものではなかった。また、シナイ半島でもスエズ東岸を占拠していたエジプト軍の間隙をついてスエズ西岸への渡河に成功します。そして、スエズ東岸のエジプト第3軍を包囲する形をつくり、国連安保理での停戦決議の受け入れとなりました。
自他ともに優勢と判断されていた側の国が油断によって緒戦に敗退し、その後に地力を発揮して挽回するという展開をとったのがヨムキプール戦争です。この劇的な戦闘経過に加えて本書の著者の筆力はかなりのもの。筋立ても、面白さも、トム・クランシーの小説レッドストームライジングに匹敵するくらいですので、ぜひ一読をお勧めしたい戦史です。また、巻末の参照文献リストを眺めても日本語に訳されているものは一つもないような分野なので、そういう意味でも貴重な本だと思います。翻訳・刊行された方には感謝。
本書は冷戦の実情をかいま見せてくれる点でも興味深く読めました。地中海に面する基地をアルバニアで失ったソ連は、シリア・エジプトとの関係を深めて武器を供与しました。しかし、六日間戦争でシリア・エジプトが大敗した結果、ソ連製兵器の信頼性にも疑問をもたれかねない状況となり、ソ連のアラブの軍の能力に対する評価は非常に低いものでした。ロシアはヨーロッパかどうか問題になりますが、こういう際には白人としてアジア・アフリカ人を劣等視している傾向もあるのかと感じます。このため、失地内服をもくろんだエジプトがイスラエルとの再戦を計画した際にはソ連から止めるように勧告されたほどで、これを不服としたサダト大統領はソ連の軍事顧問団を一時帰国させたこともありました。東側の影響下にある国とは言え、決してソ連の意に添った行動ばかりをとるわけではなかったわけです。
また、東側の影響下の国がソ連から離れる行動をとった例もこのエジプトです。ソ連から武器類を輸入しながらこの戦争を戦ったエジプトですが、停戦交渉の過程で敵であるイスラエルを支援するアメリカに接近する路線をとり、最終的には1978年のキャンプ・デービッド合意につながります。戦闘では緒戦を除くと劣勢に立たされていったエジプトですが、外交的にはスエズ運河再開・シナイ半島占領地の返還などの目標を達成することに成功したわけです。冷戦というと、キューバ危機とか東ヨーロッパの状況、また昔々やったバランス・オブ・パワーなんていうPCゲームのことが思い出されたりして、東西がくっきりと分かれて対立しているとうイメージがあったのですが、デタントの進んできているこの頃にはこういうエジプトみたいな動きが可能だったわけですね。
2009年8月10日月曜日
TidBITSの記事の中のSumoという単語
TidBITS日本語版の最新号に、「Google CEO の取締役辞任、競争加熱を示唆する」という記事がありました。AppleとGoogleとMSという三者が異なるアプローチで競争しているという内容でした。そして、まとめには
英語版のもとの文章を見てみると、この部分は
TidBITS日本語版にはメールで配信されてた頃からお世話になってます。日本語版翻訳チームの方々、ありがとうございます。
これら三社はそれぞれ違うため、ただ一社が勝者となることは決してないであろう。このため、この三社の競争はより風変わりなものとなり、勝ち負けのチャンスのない相撲のように、3人の力士が土俵上でぶつかりあっている感じなのだ。だから、将来について何らかの予想をするなど不可能なことであり、だからこそ、この先どうなるのか見守っていくことは大変興味深いことだろう。と書かれていました。これを読みながら、「勝ち負けのチャンスのない相撲のように、3人の力士が土俵上でぶつかりあっている」という表現が目をひきます。
英語版のもとの文章を見てみると、この部分は
a bit like sumo wrestlers bumping each other around in the ring with no chance of winning or losingとなっていて、確かに相撲レスラーと書かれていました。この記事は特に日本との関連があるわけではないのですが、そういう記事の表現にもふつうに使われるほど、Sumoという単語は一般的なのですね。巨大企業同士の闘いを表現するのに、ふつうのwrestlerではなくsumo wrestlerという単語を使ったのは、より太った大男を連想させて適切ということなのでしょうか。
TidBITS日本語版にはメールで配信されてた頃からお世話になってます。日本語版翻訳チームの方々、ありがとうございます。
2009年8月9日日曜日
iPhoneの擦り傷とひび
通勤の途中にiPhoneを持っている人をみかけることが増えてきました。iPhone所有者の特徴としては、ふつうのケータイを持っている人よりも平均年齢が高い印象で、ほかのケータイと2台所有の人も見かけることと、女性が少ない感じはします。
で、これまでみかけた人はみんな、iPhoneをケースに入れていました。裸で持ってる人を西武国分寺線の中で見かけたのですが、裏が銀色だったのでiPod touchのようです。やはり、ケースに入れるのがふつうなんでしょうか。私の場合は裸で尻ポケットに突っ込んでいます。
裸の状態で一ヶ月半もつかっていると、裏面のアップルのマークにはこんな感じの擦り傷が。
また、液晶画面を囲んでいる銀の縁にも少し傷がついてきています。
購入した頃から、白の方のプラスチックにはひび割れが見られるという噂がありました。新品の頃にはよく観察しても全然ひびなんてなかったのですが、最近はこんな感じにひびが見られるようになりました。通勤途中はiPodとしても使っているので、このイアフォンジャックは一日に一回以上は抜き差ししています。それで、ひびが入ったのでしょうね。
擦り傷やひびはこれからも増えていくとは思うのですが、自分のiPhoneの個性と思って、このまま裸で使い続けるつもりです。ただ、ストラップだけはつけたいかな。
で、これまでみかけた人はみんな、iPhoneをケースに入れていました。裸で持ってる人を西武国分寺線の中で見かけたのですが、裏が銀色だったのでiPod touchのようです。やはり、ケースに入れるのがふつうなんでしょうか。私の場合は裸で尻ポケットに突っ込んでいます。
裸の状態で一ヶ月半もつかっていると、裏面のアップルのマークにはこんな感じの擦り傷が。
また、液晶画面を囲んでいる銀の縁にも少し傷がついてきています。
購入した頃から、白の方のプラスチックにはひび割れが見られるという噂がありました。新品の頃にはよく観察しても全然ひびなんてなかったのですが、最近はこんな感じにひびが見られるようになりました。通勤途中はiPodとしても使っているので、このイアフォンジャックは一日に一回以上は抜き差ししています。それで、ひびが入ったのでしょうね。
擦り傷やひびはこれからも増えていくとは思うのですが、自分のiPhoneの個性と思って、このまま裸で使い続けるつもりです。ただ、ストラップだけはつけたいかな。
2009年8月8日土曜日
検定絶対不合格教科書 古文
田中貴子著 朝日選書817
2007年3月発行 本体1400円
教科書といえば歴史の分野ばかりが問題なのかと思っていましたが、そうではないようです。
- 本来なら易しい明治期の文章から教えはじめればいいのに、古文で教えられる文法が平安時代のものなので、収録されている作品が平安〜鎌倉期のものに偏っている
- 性的な意味を含んだ文章の掲載が忌避されている
- 現代国語と同様に、登場人物の気持ちを問う設問によって、道徳教育的な誘導がされている
- 後世に書かれた想像による人物画が挿入されていることが多く、作者のイメージが変に固定されやすい
また、第一部では教科書によく採用されている5つの文章を読みなおすという企画がされています。例えば、中宮定子の「香炉峰の雪はいかならむ」という問いに清少納言が御簾を上げたことで有名な枕草子の「雪のいと高う降りたるを」の段。定子をかこむサロンの雰囲気を称揚するために書かれた枕草子なので、自慢話を書いたわけではないと今では解釈されているのだそうです。でも教科書には、清少納言を高慢ちきな女性としてとらえるような設問が載せられています。というのも、女性はその能力をあからさまに発揮すべきではなく控えめにすべきという道徳的な意味が込められているからなのだとか。また、白氏文集のもとの詩からこれは定子が朝寝坊した日のことなのではとか、いつもなら開けてあるはずの格子が閉じられていた理由なども検討されています。
ほかの例でもそうですが、読み込むと細かな点までもが文学的にはいろいろと検討の対象になりうるということが分かってびっくりしました。説話や戦記物語なんかは文庫本で読んだことがありますが、こういう例をみせられると、読んでいながらその文章に込められた意味を多々見過ごしていたのだろうと感じさせられます。
2009年8月7日金曜日
分子進化のほぼ中立説
太田朋子著 講談社ブルーバックスB1637
2009年5月発行 税込み840円
分子進化の中立説が淘汰説との論争の下にあった頃、著者は以下の3点を疑問に感じたそうです。
- ①淘汰を受ける突然変異から中立突然変異への移行は、いったいどうなっているのか
- ②分子時計が世代の長さにあまり関係なく、年あたりほぼ一定となるのはなぜか
- ③集団内多型の度合いが各種生物で狭い範囲に収まってしまい、中立説の予測とはくい違うのはなぜか
私自身もむかしむかし木村資生さんの分子進化の中立説(1986年、紀伊國屋書店)を読んで一番に疑問に感じたのは、②の分子時計が世代の長さにあまり関係なく、年あたりほぼ一定となるのはなぜかという点です。これに対して、著者は本書で、
一般に世代の長い動物はからだが大きく集団サイズが小さいが、世代の短いものは逆である。一方、集団サイズが小さければドリフトの効果が大きくなり、ほぼ中立突然変異の割合が増える。したがって、世代効果による年あたりの突然変異率の減少と集団サイズによるほぼ中立突然変異の増加とが打ち消しあって、年あたりの一定性に近づくと簡潔に説明というか、言い切っています。勢いにおされて、納得してしまうところです。木村さん自身も分子進化の中立説の中で同じような説明をしていますが、学術書だから慎重というかもっとずっと歯切れがわるかったのでした。
本書はブルーバックスとしては本当に久しぶりに購入した一冊です。中学から高校生の頃にはブルーバックをよく読んだもので、何となく分かりやすい啓蒙書という印象を持っていました。ただ、本書の場合には、ほぼ中立説の分かりやすく詳しい説明がなされているというよりは、ほぼ中立説から導かれる要点を詳しい説明ははしょってプレゼンテーションしてくれているという感じです。編集者の人が脚注や巻末の用語集をたくさんつけてくれているのですが、中立説に対する基礎知識のない人がこの本を読んでどこまで理解できるのかというと疑問が残ります。興味がある人は木村さんの分子進化の中立説を読んだ方が詳細な説明があって、かえって分かりやすいのではないでしょうか。あちらにも、ほぼ中立説に関する記載はありますし。
では本書が読んでみてつまんない本だったかというと、全然そんなことはありません。遺伝子発現調節や形態進化などなどの最近の知見とほぼ中立説との関連についての著者によるプレゼンテーションが面白く感じられました。
2009年8月2日日曜日
伊藤博文と韓国統治
伊藤之雄/李盛煥編著 ミネルヴァ書房
2009年6月発行 本体5000円
伊藤博文が統監として赴任した当初は韓国を保護国として統治し近代化するつもりだったが、韓国ナショナリズムの興隆によって断念し、山県・桂らの併合論に反対しなくなったと最近の日本では考えられるようになってきているのに対し、韓国では併合への道を強圧的に推し進めた人物としてとらえられることが今でも多いのだそうです。本書は日韓の12人の著者による論考からなっていますが、日本の著者は伊藤博文を当初からの併合論者とは考えていないのに対し、韓国の著者は日本側の見解にそって考えている人と、当初から強圧的併合論者だったとする人に分かれていました。伊藤は内閣総理大臣を4回も経験していて、その人が64歳になってから栄職である枢密院議長を辞してわざわざ韓国へ統監として赴いたのは、単純に併合を目的としていたというよりも、併合論者が多い中、保護国として韓国の近代化をめざすという難題に対処できるのは自分しかいないという感覚だったのだろう、という意味のことが第一章には書かれています。この見解に私も同感です。
被植民地化の危機意識から多くの藩に分かれていた日本を明治維新で一つにまとめ、しかも富国強兵を目標として被支配者にまで国民という意識を浸透させ、日清・日露戦争では兵士として勇敢に戦わせることができたのは、ナショナリズムのおかげだったと思います。ナショナリズムで日本を一つとすることに成功した伊藤博文が、韓国民が反日でひとつにまとまる可能性を重視せずに統監として赴いたことは不思議なことです。本書では韓国の司法改革や条約改正に関する論考のほかに、伊藤の思想、韓国の進歩派や儒者に対する対応に関する論考も載せられていますが、どうして伊藤が韓国を保護国として運営できると思っていたのか、彼のナショナリズム観についての分析は不十分と感じました。
あと、いくつか興味深かったこと。安重根による暗殺に対する韓国民の反応についての第10・11章ですが、この事件を必ずしも全員が歓迎したわけではないのですね。植民地化などの前途への憂慮を示す意見や、追悼会や謝罪使といった話があったことには驚きました。また、第12章には、追悼のためにソウルに春畝山博文寺が建立されたことが書かれていました。銅像だと、像を攻撃する行動が象徴的に行われるかもしれないので、仏寺の建立になったのだそうです。このお寺はようやく昭和になってから建設され、敗戦まで観光名所として日本からの修学旅行生が訪れたり、内鮮融和のための行事が開催される会場となり、日本の敗戦後には放火されて消失したそうです。このお寺のことは全く知らなかったので、勉強になりました。
また、本書のあとがきには編者の伊藤さんによる
なお、韓国側の誤解を避けるために記しておくが、伊藤之雄の先祖は、幕末において、幕府あるいは徳川勢力を支えるため、伊藤博文が属した長州藩と闘った桑名藩士である。伊藤博文およびその子孫との血縁・親戚関係はまったくない。という記載があります。日韓関係の微妙さを示す象徴的な文章だと感じざるを得ませんでした。
2009年7月27日月曜日
大正天皇の病気
昨日のエントリーの「青年君主昭和天皇と元老西園寺」の第一章を読みながら、大正天皇の病気のことが気になりました。どこが気になったかというと、「大正天皇(1879~1926)は幼児の時に罹った髄膜炎(脳膜炎)の後遺症で脳を病むようになった」というところです。これは本当?
大正天皇については原武史著の大正天皇(朝日選書663)も読んだことがあります。こちらの本でも「天皇の外見的な症状は『末梢器官の故障』が原因なのではなく、すべて幼少期の脳病に端を発する『御脳力の衰退』によることが明らかにされている」としています。しかも原のこの本は、自由な雰囲気の大隈重信や原敬といった政党政治家とは違う、山県有朋を代表とする堅苦しい官僚・軍人に囲まれてストレスを受けた大正天皇の脳が変調を来して発病し、やがて主君押し込めのようなやり方で摂政を設置されてしまった、というストーリーに読めてしまうのです。
そもそも、乳児期の髄膜炎が原因で後の発病につながったというストーリーの大本はどこかというと、宮内省の天皇陛下御容態書にゆきつくようです。 前記二書に完全な形では掲載されていないのでぐぐってみました。原文は見つからず、某巨大掲示板にあったのがひっかかったので、以下に示します。
原さんの本によると、子供時代の大正天皇は思ったことは何でも口にしてしまう性格でしたが、乗馬が得意で漢詩を作ることが好きだったそうです。また、即位前は元気に全国を巡啓していたそうで、乳児期の髄膜炎の治癒後にきちんと成長していたものと思われます。馬に乗っている最中に他人の介助を受けていた訳ではなく、実際に馬に乗っている写真も残されています。また、漢詩の方もかなり多くが残されているので、ただ箔付けのために代作されたという訳ではなさそうです。私は乗馬も漢詩作りもどちらもできません。おそらく、今の日本人のほとんどがそうでしょう。つまり、成人後の大正天皇の運動機能・知的能力は、現在のふつうの日本人に勝るとも劣らない程度だったと言えるでしょう。
普通の大人が30歳代後半から言語障害・運動障害を発症し、その後の十年以上にわたって症状が進行していくような疾患に罹患したとして、それが乳児期の髄膜炎と関連しているとはとても思えません。ふつうに考えれば、脊髄小脳変性症などの神経変性疾患か、ゆっくり進行する脳腫瘍などが鑑別疾患に挙がるものと私は考えます。これらの疾患は歩行ができなくなるなど運動機能の低下を来します。また進行性の構音障害も伴いますから大正天皇の言葉はとても聞き取りにくくなったろうと思われます。ふだん身近に接してお世話している人たちや皇后には大正天皇の言わんとするところがよく理解できても、たまに拝謁するだけの重臣・政治家たちにはお言葉が理解できない(つまり大正天皇の知的機能に問題ありと考えてしまう)ということがあったかもしれません。そう考えると、摂政設置後や大正天皇の死後の貞明皇后の態度・行動も理解しやすい気がします。
それなのになぜ、子供の頃の疾患と関連づけられたのか。大正天皇を診察したのは三浦謹之助や呉秀三といった日本の神経内科の(呉は精神科医としても)大先達です。この頃の日本の医学のレベルがその程度だったのか、または大人になってから新たに発症した疾患とするとまずいような何らかの事情(遺伝性の疾患を示唆するように思われやすいのかも)があったのか、その辺は不明ですが。
大正天皇については原武史著の大正天皇(朝日選書663)も読んだことがあります。こちらの本でも「天皇の外見的な症状は『末梢器官の故障』が原因なのではなく、すべて幼少期の脳病に端を発する『御脳力の衰退』によることが明らかにされている」としています。しかも原のこの本は、自由な雰囲気の大隈重信や原敬といった政党政治家とは違う、山県有朋を代表とする堅苦しい官僚・軍人に囲まれてストレスを受けた大正天皇の脳が変調を来して発病し、やがて主君押し込めのようなやり方で摂政を設置されてしまった、というストーリーに読めてしまうのです。
そもそも、乳児期の髄膜炎が原因で後の発病につながったというストーリーの大本はどこかというと、宮内省の天皇陛下御容態書にゆきつくようです。 前記二書に完全な形では掲載されていないのでぐぐってみました。原文は見つからず、某巨大掲示板にあったのがひっかかったので、以下に示します。
天皇陛下には御降誕後三週目を出でざるに脳膜炎様の御疾患に罹らせられ、御幼年時代に重症の百日咳、腸チフス、胸膜炎の御大患を御経過あらせられ、そのために、御心身の発達に於て、幾分遅れさせらるる所ありしが、内外の政務に日夜、大御心を悩ませられ給いしため、近年に至り、目下の御身体の御模様においては御変りあらせられざるも、御脳力漸次御衰えさせられ、殊に御発語の御障害あらせらるるため、御意志の御表現甚だ御困難に拝し奉るは、まことに恐懼に堪えざる所なり宮内庁書陵部で大正天皇実録が公開されているそうです。その一部がネットでも報道されていますが、それを見ると、大正天皇は1914年頃から軽度の言語障害があり、即位の大礼の行われた1915年11月には階段の昇降に介助を必要とすることがあり、1918年夏には姿勢が右に傾くようになり、1918年11月の陸軍特別大演習には左足の動作がおかしく乗馬できなくなったそうです。そして、1919年には言語不明瞭、姿勢の異常がはっきりして、勅語を読み上げることができないために12月の帝国議会開院式を欠席しました。1920年4月に公務制限が行われますが、その後も症状が進行したために、1921年11月に摂政設置となりました。
原さんの本によると、子供時代の大正天皇は思ったことは何でも口にしてしまう性格でしたが、乗馬が得意で漢詩を作ることが好きだったそうです。また、即位前は元気に全国を巡啓していたそうで、乳児期の髄膜炎の治癒後にきちんと成長していたものと思われます。馬に乗っている最中に他人の介助を受けていた訳ではなく、実際に馬に乗っている写真も残されています。また、漢詩の方もかなり多くが残されているので、ただ箔付けのために代作されたという訳ではなさそうです。私は乗馬も漢詩作りもどちらもできません。おそらく、今の日本人のほとんどがそうでしょう。つまり、成人後の大正天皇の運動機能・知的能力は、現在のふつうの日本人に勝るとも劣らない程度だったと言えるでしょう。
普通の大人が30歳代後半から言語障害・運動障害を発症し、その後の十年以上にわたって症状が進行していくような疾患に罹患したとして、それが乳児期の髄膜炎と関連しているとはとても思えません。ふつうに考えれば、脊髄小脳変性症などの神経変性疾患か、ゆっくり進行する脳腫瘍などが鑑別疾患に挙がるものと私は考えます。これらの疾患は歩行ができなくなるなど運動機能の低下を来します。また進行性の構音障害も伴いますから大正天皇の言葉はとても聞き取りにくくなったろうと思われます。ふだん身近に接してお世話している人たちや皇后には大正天皇の言わんとするところがよく理解できても、たまに拝謁するだけの重臣・政治家たちにはお言葉が理解できない(つまり大正天皇の知的機能に問題ありと考えてしまう)ということがあったかもしれません。そう考えると、摂政設置後や大正天皇の死後の貞明皇后の態度・行動も理解しやすい気がします。
それなのになぜ、子供の頃の疾患と関連づけられたのか。大正天皇を診察したのは三浦謹之助や呉秀三といった日本の神経内科の(呉は精神科医としても)大先達です。この頃の日本の医学のレベルがその程度だったのか、または大人になってから新たに発症した疾患とするとまずいような何らかの事情(遺伝性の疾患を示唆するように思われやすいのかも)があったのか、その辺は不明ですが。
2009年7月26日日曜日
青年君主昭和天皇と元老西園寺
永井和著 京都大学学術出版会
2003年7月発行 税込み4620円
主に、①大正天皇の発病から宮中某重大事件を経て摂政就任まで、②久邇宮朝融王婚約不履行事件、③ただ一人の元老となった西園寺と首相奏薦、④田中内閣と満州某重大事件による辞職、の4つのエピソードについての論文が収録されています。どれも下世話な意味からも興味深いテーマばかりです。例えば、闘う皇族(角川選書)という面白い本を以前に読んだことがありますが、その資料のひとつが著者の②を扱った論文です。
本書の収載論文はどれも専門書らしからぬ読みやすい文章で、一気に読んでしまいました。ただ、もとは専門誌に載せられたものなので注がかなり多いし、他の学者との論争もあったりしたそうで、著者自身「細かいことに目くじらを立てる奴だと受け取る向きもあるかもしれない」と述べています。でも、京都大学学術出版会には選書のシリーズもあるので、それで出版したらもっと一般の読者もたくさん得られたのではと、感じたくらいです。
第4章から第7章は、田中内閣と満州某重大事件に関連した論考です。昭和天皇の言動により田中義一首相が辞職したことは有名ですが、昭和天皇が問題としたのは、満州某重大事件の首謀者が厳罰に処せられなかったこと自体ではなく、田中首相が一度は厳しい処分を行うと上奏しながら、閣僚や陸軍の反対から行政処分で済ませようとしたからなのだそうです。それまでにも田中首相には何度か天皇の不興をかうエピソードがあり、それもあいまってこの食言が天皇の怒りにつながったと分析されています。
また、摂政時代の裕仁皇太子は上奏に対して素直に裁可していましたが、天皇に即位した後は、ご下問を頻繁に(主に)内大臣に対してするようになったのだそうです。昭和天皇の考え方自体が、政友会の田中首相よりも、民政党よりであったことも、その一因だったのでしょう。昭和天皇は帝王教育のおかげか「立憲君主」として自制的に行動していたと私は感じます。もっと激しい、独裁したがる人が天皇になっていたらどうなっていたのでしょう。元老西園寺は、補弼者である首相はもっと頻繁に参内してコミュニケーションをとるべきで、明治時代には天皇と激論・喧嘩を交わしてでも思うところを了解してもらっていたと述べていたそうです。ただ、昭和になってからこんなことをしたら、議会で反対党に追及するネタを与えるだけになりそう。国民に対して天皇の神格化をすすめたことで、支配にあたる人々も自縄自縛に陥ってしまったのが明治憲法体制の大きな欠陥だと思います。
巻末には「第7章『輔弼」をめぐる論争」として、家永三郎さんと著者との往復書簡による論争が載せられています。昭和天皇の戦争責任を考えるにあたって、昭和天皇が1975年に行った会見で「私は立憲国の君主として憲法に忠実に従ったゆえに開戦を回避できなかった」と弁解したことに対して家永は、統帥権の独立が立憲制の枠を越えていて、大元帥としての天皇は立憲君主ではあり得ないと批判しています。
統帥権については国務大臣の輔弼が及ばず、天皇は補弼者をもたぬ専制君主であるほかはなく、参謀総長・軍令部総長のような「其ノ責ニ任」ずることのない補佐機関の上奏に対する允裁の責任はすべて軍の最高司令官すなわち大元帥である天皇自ら負わねばならないのであると。それに対して著者は、憲法の中で輔弼機関としては挙げられていない、両総長や元老も輔弼の機能を担っていたと主張しました。 この論争では、その他にもいくつか論点があるのですが、二人の主張の違いが何に由来するかということについては、著者をはじめとした明治憲法下の政治史の研究者が、「明治憲法によって直接規定されている制度は、明治憲法下の政治システムなり統治体制の中核をなすものであるとしても、其の全体をおおうものでは決してない、という認識が一つの共通認識として成立して」いるのに対して、家永さんは法史学的アプローチをとっていて、「明治憲法の正しい解釈が何であるかを解明する」ことに主眼を置いていることが原因と、二人の間で合意されています。単に歴史の本を読むことが好きな私としては、研究法として著者のアプローチにしか思いが至りませんでしたが、家永さんのような考え方もあるのだという点が勉強になりました。
2009年7月24日金曜日
政党内閣制の成立 1918〜27年
村井良太著 有斐閣
2005年1月発行 本体6000円
米騒動を受けた寺内内閣の退陣後、元老の協議によって原敬が首相に選定されました。原内閣は政治的安定と実績をもたらし、政友会が統治能力をもつ政党であることを元老に印象づけました。このため原の暗殺後、同じ政友会の高橋是清が首相に選定されました。原内閣は最初の本格的な政党内閣とされますが、原自身は貴衆両院の最大勢力である研究会・政友会が交互に政権を担当する構想を持っていました。これは、憲政党党首の加藤高明が対華21箇条要求の責任者であり、元老も原も憲政会の外交政策・政権担当能力に不安を持っていたからなのだそうです。
高橋内閣の成立後に山県有朋は死去し、また残る松方・西園寺の二元老も高齢となり、実質的な影響力は減退していきます。しかし、この時点では一般的にも元老にも憲政の常道は当然視されていませんでした。なので、高橋内閣が閣内不統一で退陣した後、ワシントン会議の取り決めを実行するために海軍から加藤友三郎が元老から首相に推され、憲政会党首の加藤高明は加藤友三郎が辞退した時のための第二候補に過ぎませんでした。
また、加藤首相の死去後の山本権兵衛、虎ノ門事件による山本権兵衛退陣後の清浦奎吾の選定にあたっても、元老には政友会は統率がとれていないと判断され、憲政会は上記の理由で候補に挙がらず、中間内閣の擁立となりました。しかし、
元老が事態の収拾に責任を負い、元老の判断と力量によって政治的安定と政策的合理性を追求するという、これまでの選定システム自体の機能不全は明らかであり、清浦が貴族院の研究会を基盤とする内閣を組織すると、非政党内閣であることと貴族院が衆議院と対決する状況に対する政党の反発とから第二次護憲運動が起こりました。
清浦に対する評価は一般的に低く、例えばWikipediaの清浦奎吾の項目には
選挙の結果、護憲三派は合計で281名が当選、一方で与党の政友本党は改選前議席から33減の116議席となった。清浦はこの結果を内閣不信任と受けとめ、「憲政の常道にしたがって」内閣総辞職した。5ヵ月間の短命内閣であった(もっとも、清浦を推挙した西園寺から見れば、清浦内閣は選挙管理内閣でしかなかったのであるから、その役目は果たしたと言えるだろう)。とあるように、かなり反動的な人という評価がなされている思います。しかし本書を読むと、清浦自身は選挙管理内閣のつもりであり、第15回総選挙の実施を期に政党内閣を受け入れて退陣する意向だったのに、却って西園寺の方が慰留につとめたのだそうです。この頃には山県直系で枢密院議長をつとめた清浦のような人でも、政党内閣制を当然のものとして受け入れていたわけですね。
松方の死去によりただ一人の元老となった西園寺は、清浦内閣の辞職を受けて総選挙で第一党となった憲政会の加藤高明を首相とします。加藤高明内閣は普選法の成立などに政治手腕をみせ、また幣原外相の外交が西園寺の眼鏡にかない、政友会と並んで統治能力のある政党としての評価を得ます。加藤高明の死去後の若槻礼次郎と、枢密院の台湾銀行救済緊急勅令の否決による若槻内閣総辞職後の野党田中義一の首相奏薦によって、政党内閣制の慣行が成立したと見ることが出来ます。
憲法に基づかない地位である元老による首相奏薦に対する批判がありました。また西園寺は、彼以降に新たな元老の任命されることにも、枢密院による首相奏薦にも、首相選定のための機関の新設にも同意しませんでした。元老に相談しての内大臣による奏薦が行われるようになりましたが、元老の絶滅が目前に控え、政治の外に位置すべき内大臣による奏薦がスムーズに運ぶためには、憲政の常道をルールとした政党内閣制が望ましかったわけです。さらに、明治憲法では天皇にすべての権力が集中しているのに関わらず天皇不答責とされていましたから、分立する権力を統合する仕掛けとしても政党内閣制がんぞましかったわけです。
まとめると、第一次大戦後の世界の風潮に棹さす大正デモクラシーの空気と、条件が整えば英国流の議院内閣制が望ましいと考えていた最後の元老西園寺の意向と、元老制以外の仕組みによって権力分立という明治憲法の欠陥を補完する必要性などを条件に、政友会・憲政会という二つの政党が統治能力テストに合格したことから、政党内閣制がルールとなったというあたりが、ざっと本書の主張だと読みました。元老と政党内閣制の関係の説明が非常に説得的で目の付け所がシャープだと思います。単に、政党と新聞がデモクラシー・立憲政治を主張し、世間がそれを是認しただけで政党内閣制がルール化したわけではないという訳ですね。
本書を読みながら、伊藤博文が首相の決定方法をどう考えていたのか気になりました。伊藤をはじめとした明治憲法の制定チームは、かなり綿密にいろいろと検討したはずなので、この辺りをどう考えていたのか知りたい気がします。また、制定時ではなくとも明治末期には元老による首相奏薦が将来難しくなりそうなことは目に見えていたでしょうから、どうするつもりだったのか。さらに実際の日本の歴史では、大正天皇は能力的に(もしかすると押し込められた??)、また昭和天皇は自覚的に、天皇として政治力を発揮しようとはしませんでしたが、もし独裁的な天皇が出現したとしたらどうするつもりだったのか(日本流に主君押し込めで対処するつもりだった??)なども気になってしまいます。
2009年7月22日水曜日
我が家の音楽専用機のiPodも安楽な眠りについている
Appleの2009年第3四半期の決算を受けたTechCrunchに 音楽専用機のiPodには安楽死が待っているという記事がありました。これには、全く同感です。
iPhoneを購入してから、iPod classicはケースの中に入れて押し入れの中に仕舞ったままです。初代のiPodの方は記念碑というかオブジェとして取り出して眺めることがあるかも知れませんが、うちのiPod classicがiPodとして使われる日は、もう二度と来ないのだろうと思います。おそらく、iPhoneユーザーの多くは、手持ちのiPodのうちの少なくとも一台は引退させているでしょう。
そう考えると、今後生き残る(touch以外の)iPodはshuffleだけになりそうな気がします。その頃にはもしかするとWalkmanが日本のDAPのシェアのトップに返り咲いているのかもしれません。もちろん、やせ細ってしまった日本のDAPマーケットのシェアの過半数でしょうが。
iPhoneを購入してから、iPod classicはケースの中に入れて押し入れの中に仕舞ったままです。初代のiPodの方は記念碑というかオブジェとして取り出して眺めることがあるかも知れませんが、うちのiPod classicがiPodとして使われる日は、もう二度と来ないのだろうと思います。おそらく、iPhoneユーザーの多くは、手持ちのiPodのうちの少なくとも一台は引退させているでしょう。
そう考えると、今後生き残る(touch以外の)iPodはshuffleだけになりそうな気がします。その頃にはもしかするとWalkmanが日本のDAPのシェアのトップに返り咲いているのかもしれません。もちろん、やせ細ってしまった日本のDAPマーケットのシェアの過半数でしょうが。
2009年7月20日月曜日
選挙の経済学
ブライアン・カプラン著 日経BP社
2009年6月発行 税込み2520円
民主主義がうまく機能していないことの理由として、投票者の望むことを反映していないからではないかとされてきました。その原因として従来は、自分の一票が選挙の結果を変える確率がゼロに近いことから有権者が充分な検討を省いて「合理的無知」の状態で投票しているとする考え方がありました。しかし、本書で著者は、この合理的無知の考え方の代わりに、自分の信念を満たすように非合理的な投票行動を有権者がとることが民主主義の失敗の原因であると主張しています。つまり、「民主主義は投票者が望むことを反映する、という理由で失敗する」のです。
現代の政策論争の中心が経済に関するものなので、この有権者の非合理性をもたらす思いこみの例として、反市場バイアス(市場メカニズムがもたらす経済的便益を過小評価する傾向、規制を望む)、反外国バイアス(比較優位の法則を理解できていないので自由貿易に反対する傾向)、雇用創出バイアス(労働節約的な方向に反対する)、悲観的バイアス(未来は現在より悪くなる)を著者は挙げています。経済学者はこれらの思いこみを誤ったものと考えますが、それにも関わらず人々がこういったバイアスを持ち続けるのは
定石通りに、「他の人たちが自分に賛成しないのは、おそらく彼らが自分よりも多くのことを知っているからだろう」と真剣に考える人はほとんどいない。批判者にとって、経済学者の特徴的な考え方に対する最もまっとうな説明は、これらのいわゆる専門家が偏った意見を持っているということである。
こういったバイアスをもった多数の有権者がになう民主主義による政治が、時代とともに世の中をどんどんと悪化させずに済んでいるのは、有権者よりは経済のことを分かっている政治家が有権者の怒りを買わないような方法で有権者の望んだものとは違う政策をとったりなどしているからだとのことです。世間では市場原理主義の評判が良くないけれど、経済学者はちっとも市場原理主義者なんかではないし、それよりも実際にはデモクラシー原理主義がはびこっていることの方が問題だと著者は主張するのです。
アメリカで行われた調査の結果では、ふつうの人が上記のバイアスを強く持っているのに対して、教育程度の高い人ほど、これらの点について経済学者の態度により近い考え方を持つ傾向がありました。なので、デモクラシーをよりよく機能させるための方法として著者は、参政権をある種の試験に合格した人のみに与える、経済リテラシーの高い人には複数の投票を可能にする、(もともと経済リテラシーの高い人の投票率の方が高いので)投票率を上げるような取り組みを減らす、または教育カリキュラムを経済リテラシーを重視したものに変更するといった提案をしています。
ざっとこんな感じの本なのですが、読んでいてとても不快でした。本書の文章は日本語としてこなれているとは言えず、もとの英文を参照してみたいと感じる箇所が少なくなかったり、また脱字が散見されたりなどがその一端です。ただ、それよりも私にとっては本書の主張自体が不快に感じられました。私もバイアスに侵されたふつうの人間だからでしょう。また、参政権を改革しようとする反普通選挙の主張についても、どうどうと著書に記した勇気に対して敬意を表しますが、デモクラシー原理主義に侵されているせいか読んでいてやはり気分のよいものではありませんでした。
著者はふつうの人が経済に関する偏った思いこみを持っていると主張しています。例えば、比較優位の法則から自由貿易が望ましいのに、ふつうの人は反外国バイアスをもっていてけしからんというわけです。でも、これはこれで意味のあることなのではないでしょうか。ふつうの人は何もアダムスミス以来の比較優位の法則を否定しようというのではないはずです。関税の引き下げなど貿易障壁が撤廃されるに際して職を失う人が出ることは必定で、しかも失職後直ちに以前と同様の条件で新たな職に就けるわけでもないことなど、ふつうの人はこういった点を懸念しているのではないでしょうか。多くの人がバイアスを持ち続けているというのであれば、それがなぜかを考えてそのバイアスを減らす対策(経済学を教え込むという対策ではないですよ)をとることの方が必要に思えます。
でも、バイアスの考え方について、全く同意できないわけではありません。本書にはtoxicologyも例としてあげられていましたが、日本でのBSEや遺伝子組換え作物などなどに対するふつうの人やマスコミや政府の過剰反応を思い起こすと、経済学者である著者がふつうの人の経済問題に関するバイアスをあげつらいたくなる気持ちも理解できなくはない気がします。
2009年7月18日土曜日
「海洋の生命史」の感想の続き
昨日のエントリーの「海洋の生命史」ですが、いちばん面白く感じたのはウナギを扱っていた第19章ウナギ属魚類の集団構造と種分化、第20章ウナギの系統と大回遊の謎、の二つの章です。
本書343ページの図2には、こんな風にウナギ属の世界的な分布が示されています。ウナギには熱帯性と温帯性のものがありますが、1939年にウナギの系統関係について研究したEgeさんによると、温帯性の3種である大西洋の両岸のヨーロッパウナギ、アメリカウナギと太平洋のウナギ(日本ウナギ)の形態はは似ているのだそうです。確かにヨーロッパウナギは安売りされている冷凍蒲焼きなどでお馴染みですから、ニホンウナギと似ているのは確かです。ただ、太平洋と大西洋のウナギに交流があるかというと、熱帯生まれで暖流にのって分布するわけですから、北極海を越えるような行き来は無理です。
そこで、提唱されているのがテーティス海仮説だそうです。これは本書349ページの図5ですが、約2億年前から新生代第三期まで存在していた赤道域に広がるテーティス海を示しています。このテーティス海を通じて分布が広がったとすると、大西洋と太平洋の温帯ウナギが似ていることも理解できますね。思いついたヒトはえらい。
ニホンウナギの産卵場所はマリアナのスルガ海山だそうです。で、なぜこの場所なのでしょうか。周囲の深い海から海面下40メートル程までそびえているそうなので、海山であることが産卵場所として必須なのかも。ただ、2億年前から現在までにはプレートテクトニクスによって海山はかなりの距離動いてしまっているでしょうから、いつごろから現在のスルガ海山が選ばれたのか、将来もスルガ海山の位置で産卵が続けられるのかどうか、気になります。
ウナギの養殖はシラスウナギから半年から2年くらいかけて出荷するそうです。蒲焼きに充分な大きさのウナギは性的にも成熟しているのでしょうか?もし半年から2年では性的成熟には短いということなら、もう少し長い期間養殖するか、またはホルモンをつかって成熟を早めることができたりはしないのでしょうか。もし性的に成熟したウナギを多数そろえることができれば、日本近海から放流するなり、または船や飛行機でスルガ海山近くに運搬して放流することができます。それによりこれまで以上の数の産卵数が得られれば、シラスウナギの不足の問題も解決して、心おきなく蒲焼きを堪能できるのではと妄想してしまいます。
本書343ページの図2には、こんな風にウナギ属の世界的な分布が示されています。ウナギには熱帯性と温帯性のものがありますが、1939年にウナギの系統関係について研究したEgeさんによると、温帯性の3種である大西洋の両岸のヨーロッパウナギ、アメリカウナギと太平洋のウナギ(日本ウナギ)の形態はは似ているのだそうです。確かにヨーロッパウナギは安売りされている冷凍蒲焼きなどでお馴染みですから、ニホンウナギと似ているのは確かです。ただ、太平洋と大西洋のウナギに交流があるかというと、熱帯生まれで暖流にのって分布するわけですから、北極海を越えるような行き来は無理です。
そこで、提唱されているのがテーティス海仮説だそうです。これは本書349ページの図5ですが、約2億年前から新生代第三期まで存在していた赤道域に広がるテーティス海を示しています。このテーティス海を通じて分布が広がったとすると、大西洋と太平洋の温帯ウナギが似ていることも理解できますね。思いついたヒトはえらい。
ニホンウナギの産卵場所はマリアナのスルガ海山だそうです。で、なぜこの場所なのでしょうか。周囲の深い海から海面下40メートル程までそびえているそうなので、海山であることが産卵場所として必須なのかも。ただ、2億年前から現在までにはプレートテクトニクスによって海山はかなりの距離動いてしまっているでしょうから、いつごろから現在のスルガ海山が選ばれたのか、将来もスルガ海山の位置で産卵が続けられるのかどうか、気になります。
ウナギの養殖はシラスウナギから半年から2年くらいかけて出荷するそうです。蒲焼きに充分な大きさのウナギは性的にも成熟しているのでしょうか?もし半年から2年では性的成熟には短いということなら、もう少し長い期間養殖するか、またはホルモンをつかって成熟を早めることができたりはしないのでしょうか。もし性的に成熟したウナギを多数そろえることができれば、日本近海から放流するなり、または船や飛行機でスルガ海山近くに運搬して放流することができます。それによりこれまで以上の数の産卵数が得られれば、シラスウナギの不足の問題も解決して、心おきなく蒲焼きを堪能できるのではと妄想してしまいます。
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